#28 春暁の怪事件(前)
アダムズ城内にある高級官僚専用の応接室の壁には、特大の油絵が掲げられている。そしてそこに描かれているのは、玉座に腰掛ける若き日のアルベルト国王と、その国王に対して膝をつき敬意の礼をする初老の男性の姿だった。
ルーゼニア教総主教【ラザフォード】。それが油絵に描かれた初老の男性であり、彼はルーゼニア教の頂点に立つ司祭として、数十年に渡り教団の舵取りをして来た絶対的な人物である。
まだ王位を継承したばかりとはいえ、若き国王の前にそんな威厳高き総主教が膝間つく姿を描いた油絵。それは決して覆らない国王と総主教の立場を無言で物語っていた。
ルーゼニア教はアダムズ王国唯一の信仰宗教であり、多くの国民がその教えを心の支えとして日々敬っている。そして代々の国王はそんな教団に対し、格別な配慮を心掛けていた。いずれの国王達も国の平定にルーゼニア教が必要だと考えていたのだろう。ただそれは教団側の方も国の内政に口を出すと言ったマネをしなかったからに他ならないのだが。ともかく教団と国は長きに渡り、非常に良好な関係を続けていた。
それでも王家に生まれた者達は、教団と一定の距離を保つことを古くよりの習わしとし、時に国王の権力すら怯えさせるほどの影響力をもつ教団の力が王族に及ばないよう留意していた。
国王こそが絶対の頂点であり、その国王の力によって平和で安定した日々が営める。それこそがアダムズ王国不変の規律であり、宗教はその生活の中の一部に過ぎず、たとえ数千万の信者を率いる総主教であろうと、王を前に無礼は決して許されるものではなかった。
まさに絶対的な権力の象徴として王を描いた油絵。そんな油絵が見下ろす応接室は城の中でも格段に立派な一室である。そしてその応接室では、これからアダムズ王国を代表する有力者三名が大事な会議を行おうとしていた。
「朝早くから城内が騒がしいわね。聞くところによれば、切断された女性の腕が庭園で見つかったらしいじゃない。随分と物騒ね」
アダムズ王国の首相であり、王立協会の最高責任者でもある【キュリー】が嫌味を含ませ口火を切る。ただそれに対して軍を統括する総司令の【アイザック】は、事務的な口調で平素に答えた。
「城の警備隊が捜査を開始したところです。私も一報を聞いただけで、まだ何も分かっておりません」
ヤツとの戦闘によってアダムズ各地に被られた災害とも呼べる甚大な被害。その復旧復興計画を決める四日目の会議が今始まろうとしている。しかしこれまでの三日間では目に見えた結論は導き出せず、それどころか一向に話しはまとまっていなかった。そしてこれにはさすがのアイザックも疲れを隠せなかったのだろう。彼は濃い目のコーヒーに口をつけるも、大きく溜息を漏らしてしまった。
「随分とお疲れの様ですわね、アイザック殿。でもね、いかにヤツが狂暴とはいえ、その討伐の為なら何をしても許されるわけじゃありませんのよ。まったく困ったものだわ。エクレイデス研究所の散々たる状況、王国の英知を結集させた全てがあの場所にあったのよ。それに多くの有能な科学者が巻き込まれ命を落とした。その命こそ、王国の財産であり未来そのものなのよ。発明や研究はゼロからやり直せるけど、失った命はもう戻らなくてよ!」
アダムズ王国初の女性首相であるキュリーは、今回のヤツ討伐作戦における被害の重大さについて感情を表に嘆く。いつもはその毅然とした態度で冷静に物事を見極める彼女だったが、進展しない会議と具体的な対応策を示さない男達に、今回ばかりはヒステリックな一面を覗かせてしまった。ただそんな感傷的になる彼女に対し、苛立ちを覚えたアイザックは少し強く答える。彼もまた、進展しない会議に業を煮やしているのだ。
「現場で何が起きたかはよく分かっています! 今は起きてっしまった事の原因を掘り返すのではなく、これからどうするのか、何をしなければいけないのかを話すのが先決でしょう。その為に私達はこうして毎日顔を合わせているんですからね」
「だったら早く何か具体的な意見を聞きたいものだわ。こうしてる間にも官僚達は、寝ずに現場を飛び回って対応に追われているのよ。ただ願ってばかりじゃ進展なんて有りえないわ。そうでしょう、ボイル卿」
言い争いを始めた二人の横で、ソファに深く腰掛けたルーゼニア教総主教代行である【ボイル】は静かに目を閉じていた。建設的でない話には加わりたくない。高齢のラザフォードに代わり仕方なく今回の会談に同席した彼は内心でそう思った事だろう。だが同意を促すキュリーの圧力は凄まじく、ボイルは少し畏まる様にして自らの意見を述べるしかなかった。
「私どもルーゼニア教は、総本山である金鳳花五重塔の倒壊という大きな被害を被りました。でも軍の方々の懸命な対応のお蔭で人命は一人も失っておりません。それに私達ルーゼニア教は、願い祈るのが仕事です。協力は惜しみませんが、何をすれば良いかは、どうぞ御二方でお決め下さい」
「まぁ、あなたそれでも教団の代行者なの? まったくお話になりませんわね。国の内政に不干渉なのは理解していますが、今は緊急事態なんですよ。自ら出来る事、出来ない事を予め明確にしていただかなければ、こちらとしても指示や依頼が出せません。あなたにはそんな事もお分かりにならないのですか? やはりご高齢とはいえ、体調さえ宜しければ今からでも是非ラザフォード総主教にご出席頂き、ご意見を伺いたいところだわ」
煮え切らないボイルの態度はキュリーの感情を逆なでしてしまう。今の彼女に受け身の姿勢を取るのは完全な間違いでしかないのだ。ただボイルにしてみてもキュリーの問い掛けは良い迷惑でしかなかった。
教団の代表代行とはいえ、そもそも国の政に口を出すなど本末転倒なのである。それに例えそれが非常事態であろうとも、その一線を越える判断なんて自分に出来るわけないのだ。
平静を装ってはいるものの、ボイルは胸の内で苛立っていた。本心では総本山倒壊という教団始まって以来の大惨事に、落ち着いてなんかいられないのだ。するとそんな気持ちを察したのか、アイザック総司令は感情を露わにするキュリーに対し、釘を刺すよう進言した。
「キュリー首相。如才のなさとは、敵を作らずに自分を主張する事です。普段私達の間には多くの壁を立てているし、十分な橋を掛けていない。しかしこんな非常時だからこそ、お互いに感情を内に秘め、冷静に対処しようじゃありませんか」
「あら、私は初めからその様に思っておりましたわ。もちろん席を並べる努力もしていたつもり。でもそれを拒否していたのはあなたの方じゃなくて? それなのにその言い草。まるで私一人がワガママばかり言っているみたいじゃない!」
「そんな事は言ってません。ただ首相のこれまでの発言は、今回の事態における責任を私一人に押し付けようとしている風にしか聞こえてならないんですよ」
「誰にせよ、責任を取らねばいけないのは決まっているでしょう。ただそれがアイザック総司令、あなたにあるとは言ってません。私が今最も恐れているのは、再び同様の事態が起きないかという事。今回起きた事態の原因であるヤツの討伐について、始末したとの報告こそ受けてはいますが、軍の誰がどの様に倒したのか、その詳細がまったく聞かされていないのです。ましてヤツの死体もどうなったのか分からない。総司令、あなたにはそれらを私達に対して早急に報告する責務がある。分からないの一点張りじゃ先に進めないわ。復興計画には同様の事態における、堅実な対策も十分考慮しなくては意味が無いのよ。時間は止まってくれない。そういった意味で、あなたはアダムズ王国の未来と財産を蔑ろにしている。その責任は重大だわ」
「事態の詳細について説明する義務は当然把握しています。でも確証の定かでない情報を報告すれば、それ自体の信頼性に疑問が生じ余計な混乱を招き兼ねない。必ず義務は果たしますので、もう少しだけ時間を下さい。その結果、私に責任があると判断されれば、その時は潔く身を引きましょう。ただし、これだけは言っておきますよ。仮に私が責任を取り失脚したとして、その空いた席に座るのはあなたのご主人である【トウェイン将軍】ではありませんぞ。彼もまた、責任ある関係者の一人です。エクレイデス研究所を破壊した張本人でもあるのだから」
「主人の事などどうでも良いわ。むしろ今、主人の話をされると不愉快になる」
そう言ったキュリーは悔しそうに奥歯を噛み締めた。夫であるトウェイン将軍が当事者であるのは十分に承知しているし、アイザックにそう思われる事も重々承知していた。それでも実際にアイザックから発せられた言葉を耳にしたキュリーは、恥ずかしさで胸が詰り息苦しさを覚えた。決して夫を次期総司令にしたいのではない。ただそれをこの場で言ったところで、恥を上塗りするだけだというのは分かり切っている。耐え難い屈辱を味わうがごとく、キュリーは押し黙った。
するとそんな彼女を前にしたアイザックは、さすがに言い過ぎたと感じたのだろう。彼はバツが悪そうにしながら自らの気持ちを述べつつ陳謝した。
「天体の運動はいくらでも計算出来ますが、人の気持ちはというのは計算出来る代物ではありません。総司令とはいっても私自身まだまだ未熟であり、心無い言葉であなたを傷付けたのなら謝罪します。申し訳ない」
「――構いません。夫に責任の一端があるというのは私もよく存じていますから。今回の件で夫には心底呆れていますしね」
そう告げたキュリーは、すでに冷め切っている紅茶を一口飲み込む。思っていた以上に冷たい。そんな紅茶が喉の奥に流れ込むのを感じた彼女は、ふと苦笑いを漏らしていた。
この紅茶と同じ様に、とうの昔に夫婦関係は冷え切り破綻している。それでも人前では決して夫の陰口を叩く女ではないし、そうはなりたくないと心に誓っていた――つもりだった。しかしキュリーは不甲斐ない夫への失望を今までにないほど強く感じてしまう。そして彼女はその思いを堪えきれずに吐き出してしまった。
「私には上に立つ者の資質として常々思う事があります。それは自分の仕事の結果を最大限に利用し、かつ全体の人びとの幸福を忘れずに自分自身の利益をも保持する実際的な人間こそが、最も人の上に立つに相応しい者であるのだと。しかしまた利害を超越して、ひとつの計画を展開するのは極めて魅力的である為に、自分の物質的な利益に意を用いてはいられないような夢想家もまた、時に人の上に立つに相応しい者と言えるでしょう。ただ残念ながら我が夫は、そのどちらにも当てはまらない――。寂しいものですね」
キュリーの切な想いに沈黙の時間が流れる。一人の女性でありながらも、政治家として国民の先頭に立つ人生を選んだ彼女。その想いの強さにアイザックとボイルは胸を打たれたのだ。しかし彼らは押し黙る事しか出来ず、俯いたままの彼女をただ見つめていた。
「トゥルルル、トゥルルル」
沈黙をかき消す様にして応接室にある電話が鳴り響く。こんな時に煩わしい。感情の欠片もない電話のベルを耳にしたアイザックは再び溜息を漏らす。ただそれを放っておくわけにもいかず、彼は椅子に固着したかの様な重い腰を浮かせて受話器に手を伸ばした。
「何事か。今は大事な協議中なんだ。要件は後に――」
アイザックは言葉途中に、電話の向こうにいる者の話し言葉に耳を傾ける。すると彼の表情に僅かな変化が生じ、そこから緊迫した雰囲気が部屋中に伝わった。
一体何の連絡なのか。キュリーとボイルは固唾を飲んでアイザックからの説明を待った。ただそんな彼女らに対し、話を終え受話器を置いたアイザックは申し訳なさそうにして言った。
「緊急の用件が舞い込んでしまいました。済みませんが会議はここで一時中断とさせて下さい」
「えっ? ちょ、ちょっと総司令、何を寝ぼけた事をおっしゃっているんです。会議はまだ始まりもしていないのよ。それを取りやめるだなんて、到底受け入れられないわ。それにね、私達を差し置いて優先する相手なんて、この国にいまして?」
先程までと違い、政治家の顔に戻ったキュリーが強く詰め寄る。しかしそんな彼女の目を見つめ返したアイザックは、どこか物哀しそうにして告げたのだった。
「一人だけいるでしょう。あなた方よりも優先しなければいけないお方が、この国にはね」
アイザックはそう言葉を残すと、足早に油絵の見下ろす応接室を後にしようとする。ただ彼は扉の前で振り返ると、キュリーに向け一言だけ述べた。
「話し合いは何も進みませんでした。でもね、私はあなたの様な方が首相でいてくれて、本当に良かったと思えましたよ。私にとってはそれだけで、今日の会議は十分意味のあるものになったと思えます。今後の復興計画についてはまた明日、仕切り直しましょう。特にエクレイデス研究所については私の全身全霊を掛けて対処する所存です。なのでどうか、ご安心下さい」
「私は政治家であって科学者ではありません。ただそれでも科学の美しさを認める者の一人ではあります。そしてこの国の発展と平和は科学から生まれるもの。私が申した事は決してエゴなどではないのだと、それだけは覚えておいて下さいね、総司令」
キュリーは建前などではなく、自分が思う素直な気持ちをアイザックに告げた。するとそんな彼女の国を想う純粋な言葉に彼の胸は熱くなる。考え方は少し違えど、国の未来を想う気持ちは同じだ。アイザックはそう感じたのだろう。
応接室を後にしたアイザックの足取りは、鉛の様に重くてなかなか前に進まない。それでも彼の先に向けるその瞳には、何とも言えぬ強い決意が込められていた。
久しぶりにアダムズ城に顔を出したジュール。ただトランザムの待機所に足を運ぶも、彼以外の隊士達は未だ入院中であった為、彼は暇を持て余しながら城の中をぶらついていた。
だがそこで彼は少し戸惑う。城内を散策したは良いが、彼は何やらただ事でない雰囲気を感じ取ったのだ。忙しなく動き回る城の警備隊や首都直轄の警察部隊の姿があちらこちらに見受けられる。ちょっとこれは普通じゃないぞ。
物々しい空気の漂う中、城で何かが起きたのは確実だと察した彼は、どうせ暇なのだからと人気の集まっていそうな方へとあえて足を向けた。
しばらく歩いたジュールは、城の庭園を横断する橋に差し掛かる。そこは城壁に囲まれた中庭であったが、広大な苑池から構成される自然の景観美を追求した風景式庭園であり、城の中であるのを忘れるほど広く、また緑豊かで美しかった。そんな庭園を見下ろしながら橋を進むジュールは、水の止められた噴水の近くで何かを調べる馴染みの顔を見つけた。
橋を渡り切ったジュールは細長い歩道を小走りで進み庭園に降りる。そして彼は橋の上から姿を確認した【ガウス】のもとに近づき声を掛けた。
「ようガウス、久しぶりだな。こんな所で何してんだよ。探し物か?」
その声を聞いたガウスはギョッと目を丸くする。彼は大柄な体を小さく丸め、地面を這う様にして何かを調査していたのだ。突然声を掛けられた事に驚いくのも無理はない。ただ彼は声の正体がジュールであるのだと分かるとすぐに落ち着きを取り戻す。そしてガウスは服に着いた土を払いながら立ち上がって言った。
「ちょっとジュールさん、庭園は立ち入り禁止ですよ。まったく、何処から入って来たんですか?」
「立ち入り禁止? そこの橋を渡って入って来たけど、特に止められたりはしなかったぞ」
「マジかよ。警備の連中は何をしてんだ。でもまぁ、ジュールさんはトランザムだし、関係者かと思われたのかも知れないな」
「で、何があったんだよ」
困った表情を浮かべたガウスだったが、こじ付けで自分自身を納得させる。面倒は御免だけど、ジュールさんを無下には出来ない。彼はそう考えたのだろう。そしてガウスは近くに他の警備隊士がいないか確認すると、小声でジュールに囁いた。
「まだ公式に発表されてないんで、誰にも言わないで下さいよ。実は今朝早くこの庭園で、切断された女性の腕が発見されたんです。それも地面に突き刺さった状態で。まだ何が起きたのかは分からないけど、事件なのは間違いない。それで俺達城の警備隊は他に体の一部、または本体がないか調査してるところなんです」
「せ、切断された腕って、穏やかじゃないな」
「それはそうとジュールさん。トランザムが活動休止って本当ですか? 城内で噂になってますよ」
「まぁ、俺以外みんな入院中だしな。しょうがないだろ」
「そう言う事じゃなくって、トランザム自体が解散消滅するって話だぜ」
「何だそりゃ」
「噂じゃ今回ルヴェリエ各地で起きた事態を踏まえて、今後の対応はコルベットが一任し、総司令直轄のトランザムはお役御免で解散だって話さ」
「はぁ? そんなの初耳だぜ。それに今回の事態でヤツと戦ったのは俺達トランザムだ。確かにみんな病院送りにされちまったけど、それでも今後コルベットに全てを任せるなんて俺には納得出来ないぞ!」
そう吐き捨てたジュールは城の中に向かって駆け出そうとする。噂の出所はどうであれ、直接アイザック総司令に確かめれば済む事。そう思ったジュールは考えるより先に体が動いたのだ。だがそんな彼の腕をガウスは掴み引き留めた。
「!? 何だよガウス、放せよ」
「い、いや、何でもない。済みません、思わず掴んでしまって――」
ガウスは力強く掴んだジュールの腕をサッと離す。そして彼はきまり悪そうにジュールから視線を逸らした。するとそんなガウスの態度にジュールはどことなく不自然な違和感を覚え訝しむ。
今日のガウスはどこかいつもと違う気がする。でもこいつは人に隠し事が出来る性格じゃない。ろくに考えもせず行動に移ろうとした俺を引き留めてくれただけなんだ。不自然な違和感を打ち消す様にそう思い直したジュールは、軽く微笑みながらガウスに軽く礼を告げた。
「済まなかったなガウス。俺は直ぐ何も考えずに動いちまうからな。こんな時こそ冷静になれってことだろ」
「あ、あぁ。まぁそんなところです。一瞬だけどジュールさん凄い剣幕だったし、総司令のところに本気で殴り込みに行くみたいだったから」
そう答えたガウスはジュールと同じく微笑んで見せる。しかし何故だろうか。その表情はどこか硬いものに感じられる。直感だけど、やっぱり今日のガウスは変だ。そう思ったジュールはガウスに一歩近づいてから聞き尋ねた。
「なぁガウス、お前――」
「おいガウス、そこで何している! 捜査エリアを変更するからこっちに来い!」
ジュールが話し掛けたと同時に、少し離れた場所からガウスを呼ぶ声が聞こえた。振り向くと、そこには警備隊の隊長らしき者を含んだ数人の隊士がこっちを見ている。今回の事件を捜査する責任者なのだろうか。ただその声を聞いたガウスは少しだけ表情を晴れさせると、ジュールに向かって手短に言った。
「済みませんジュールさん。仕事中なんで、また今度」
「あ、あぁ。こっちこそ悪かったよ。城の警備っていうのも意外と大変なんだな。ほら、早くいけよ。隊長さんに怒られるぞ」
ガウスはジュールに軽く頭を下げると、その場から足早に駆けて行った。ただそんな彼の後ろ姿を見送るジュールは改めて思う。ガウスほど嘘や隠し事が下手な奴はいないんだと。
事件に関係する事なのか、それとも俺に関係する話しなのか、それは分からない。でも明らかにガウスは何かを隠している。ジュールはガウスのどことなく不自然な行動に、何か引っ掛かるものを感じてならなかった。だがそれが何なのか分からない。ジュールは少しの間その場に立ち尽くして思い悩む。ただその時、ジュールは不意に呼び止められた。
「なにをボ~っと突っ立ってんだ、ジュール」
ジュールは驚きながら振り返る。でもそこにいたのは古くからの付き合いである、科学部隊所属の【ヘルムホルツ】だった。相変わらずの無愛想な表情が鼻につく。でも彼の無骨な表情からはガウスのそれとは逆に、何とも言えぬ穏やかな雰囲気が伝わって来た。
「もう体は大丈夫なのか? 思ったよりも元気そうじゃないか」
表情だけを見た限りでは、とても心配しているとは思えない。ヘルムホルツはそんなそっけない面持ちをしていた。ただそれはヘルムホルツにとっては至って普通であり、それを知っているジュールも特に気にせず応え返した。
「あぁ。もう体はなんともないよ。心配させちまって悪かったな」
「ふん、相変わらずタフな奴め。何を食えばそんなに体が丈夫になるんだよ? それにしても久しぶりに城に来たその日に奇妙な事件が起きるなんて、お前も引きが強いな」
「そう言えば、お前こそこんな所で何してるんだよ? ここは立ち入り禁止のはずだぜ」
「けっ、どこかで聞いたセリフだな。まぁ、俺はあれだ。カプリス本部があるエクレイデス研究所が酷い状態になっちまったからな。今は仕事にならないからよ、暇つぶしに城をぶらついてたところさ。そんな事よりジュール、お前に話したい事があったんだ」
そう言ったヘルムホルツは軽く周囲を見渡し人気が無いのを確認する。そして彼はジュールの耳元で少し口早に話し始めた。
「このひと月あまり、俺はグラム博士の研究理論である【波導量子力学】について、個人的に調査してみたんだ」
「えっ、グラム博士の研究だって!」
思わず大きな声を漏らしたジュールの口をヘルムホルツが急ぎ塞ぐ。
「バカ、声がデカいぞ。事の次第じゃ刑務所に直行する話しなんだ。静かに頼むよ」
「わ、悪い。気を付けるよ。でも何でお前が博士の理論を調査するんだよ?」
ジュールは塞がれた口からヘルムホルツの手を退けながら尋ねる。ただしその眼差しは真剣なものだ。するとその表情を見て了解したのだろう。ヘルムホルツは話しの続きを始めた。
「以前にお前から渡された博士のノートがあるだろ。玉型兵器の小型化理論が記されたあれだ。俺があのノートを読んで、実際にその理論を基に玉型兵器を作製したのは知っているよな。あれはとんでもない理論だ。世界の常識を簡単にひっくり返せるくらいの画期的な科学理論なんだよ。それでよ、俺は科学者の端くれとして、そんな途轍もない理論に惚れちまったんだ。もっと深く波導量子力学を知りたい。理解したい。そう思ったから俺は、波導量子力学について片っ端から学術記録や論文をあさりまくったんだよ。今しがたも城の図書館に行って来たところさ」
「それで何か分かったのか?」
「それが何も分からない。いや、分からないという表現は正しくないな。不思議なんだけど、波導量子力学についての記述がどこにも記されていないんだよ。まるで意図的にこの国から波導量子力学そのものが排除されたかの様にね」
「それはだって、国王が――」
ジュールは息を飲み込む。彼は思わずその原因がアルベルト国王にあると言ってしまいそうになったのだ。でもヘルムホルツはそこまでの内情は知らないはず。もし下手に話してしまっては、彼を危険な目に遭わせてしまうかも知れない。思わず口から出そうになった言葉にジュールは酷く焦りを感じる。ただそんなジュールの気持ちに構うことなく、ヘルツホルムは自分の見解を続け出した。
「波導量子力学自体の情報は手に入らなかったけど、それでも俺はある手掛かりを掴んだんだよ。どうやらかつてグラム博士と一緒に波導量子力学を研究した人物が、東部の商業都市グリーヴスにいるらしいってね。名前は【シュレーディンガー】って言うパーシヴァル王国出身の企業家だ。エクレイデス研究所の復旧にはまだ少し時間が掛かるだろうから、これを機会に俺はその人に会いに行ってみるよ。なるべく近いうちにさ」
「大丈夫なのかヘルムホルツ。俺は科学の事はさっぱり分からないけど、博士の研究は凄く危険な感じがするぞ。あまり深く拘らないほうが良いんじゃないか?」
「珍しく弱気な事言うな、ジュール。でも心配するな。何があってもお前に迷惑は掛けないさ」
「俺の事なんかどうでもいい! それよりもお前の身が心配だ!」
ジュールは思わず声を張り上げる。グラム博士の件は闇が深い。それこそ素人がヘタに手を出せば、命を落とす危険性だってあるんだ。それもかなり高い確率で。だからこそジュールはヘルムホルツを気遣って声を上げたのだ。するとそんなジュールの配慮をヘルムホルツは真摯に受け止める。恐らく不自然に存在を消された波導量子力を調査する上で、彼の方も薄々と感じ取ったのだろう。この件は恐ろしく危険であると。ただそれでもヘルムホルツは曲げられない自分の信念をジュールに告げた。
「確かに博士の研究は、裏に通じる怪しい何かを感じるよ。お前が心配する気持ちも分かる。でもなジュール、波導量子力学は【ミクロの素粒子】を操作する技術なんだ。世の中の常識を根底から覆すほどの驚異的な科学理論なんだよ。そんな凄い理論を前にして、俺が簡単に引き下がると思うか? 命を天秤に懸るくらい易いモンさ。本当に夢の理論なんだぜ」
「簡単に言うなよ。本当に死ぬかも知れないんだぞ。――ん!?」
意気揚々としたヘルムホルツの考えを改めようとジュールは釘をさす。ただその時、彼らは何者かの気配を感じてギョッとなった。そして二人は気配を感じた方向に素早く振り返る。ただそこに居たのは大きな瞳を二人に向ける小柄な女性だった。
「お話中のところ申し訳ございません。この辺りで白い犬を見かけませんでしたか?」
女性はなんと【リーゼ姫】であった。しかし姫はとても困った表情を浮かべている。問い掛けの内容からして、迷子になった愛犬を探しているのだろう。ただジュールとヘルムホルツは互いに顔を向け合い、ホッと胸を撫で下ろした。
話に夢中になっていたとはいえ、他人に聞かれて良い話ではない。ううん、誰にも聞かれぬよう細心の注意を心掛けねばいけなかったのだ。でもつい話に夢中になり警戒を怠ってしまった。完全な不覚である。けれどその相手がリーゼ姫だっただけに、二人は救われた気がしたのだ。
科学者でない姫ならば、例え二人の会話を聞いていたとしても、その内容までは理解出来るはずがない。まして姿を晦ました愛犬を探す最中である。他人の立ち話の内容など耳に入っていないだろう。そう思ったジュールはすぐに心を落ち着かせると、リーゼ姫に向かい丁寧に言葉を返した。
「申し訳ございません、姫様。残念ながら姫様のご愛犬の姿はこの辺では見掛けていません」
「そうでございますか――」
リーゼ姫は落胆しながら小さく呟く。愛犬の捜索で疲れが溜まっているのだろうか。ただそんな姫を間近で見たジュールとヘルムホルツは今更ながら緊張し顔が赤くなった。困った表情を浮かべつつもその美しさは変わるものではなく、彼らは思わずリーゼ姫の可憐さに見惚れてしまったのだ。
参ったな。あの奥手なテスラが舞い上がっちまうのも頷けるぞ。ジュールは姫の麗しい姿を見てそう感じる。ただそれでも彼はハッと思い直し、姫に対して注意を促した。
「姫様。失礼ですがいくら愛犬探しとはいえ、姫お一人で行動するのは如何なものかと思いますよ。ちょっとした事件があったらしく、庭園は今立ち入り禁止になってますし、どんな危険が潜んでいるか分かりませんよ」
「あら、そうでございましたか。申し訳ございません。私はこの庭園が大好きで、いつも愛犬と一緒に散歩をしていました。ですのであの子もここにいるのではないかと思いまして――」
そう告げたリーゼ姫は薄らと目に涙を浮かべる。箱入りのお嬢様だけに、涙もろいのだろう。ただそんな彼女にジュールは困惑し言葉に詰まる。これじゃまるで、姫を咎めて泣かしているみたいじゃないか。もしこんな姫の姿を誰かに目撃されたらマズイ事になるぞ。
ジュールはどうにかして姫を慰めようと考える。しかし良い考えがまったく思い浮かばない。ヘルムホルツに助けを求める視線を送ってみるが、彼の方も戸惑っている様子でまったく役に立ちそうになかった。ただそんな尻込みするジュールに向かい、意外にもリーゼ姫の方が口を開く。そして彼女は青緑色の瞳でジュールの顔をじっと見つめながら聞き尋ねた。
「あの。以前どこかでお会いした事がございますよね?」
リーゼ姫はジュールから目を逸らさない。しかしジュールは問い掛けの意味が分からず、困窮しながら答えるしかなかった。
「え、お、俺にですか? 何かの思い違いじゃないでしょうか。直接姫様にお会いした事なんかありませんし、もちろん話しをするのも今回が初めてのはずです。……あ、でももしかしたら、先日城でトーマス王子とトウェイン将軍が揉めた時に見掛けたのかも知れませんね。俺もあの時あそこに居たので」
「いえ、そうではなくて。もっと昔の、まだ私達が小さかった頃」
古い記憶をたどる様にしながら姫は告げる。だがジュールには何の事かさっぱり分からず、姫を傷つけぬ様それとなく否定した。
「俺はルヴェリエのスラム街出身の一平卒です。子供の頃に姫様とお会いするなんて有り得ませんよ。きっと他人のそら似でしょう」
「そうでございますか。気を悪くしたなら申し訳ございません。ただあなた様からは、どこか懐かしい感じがしましたので」
そう言って姫はニッコリと微笑んだ。やはり笑顔を浮かべると一段とその表情は美しいものとなる。でもどこか腑に落ちない気持ちで胸がつかえているのだろう。姫の表情からはそんな感覚が伝わって来た。ただその時である。聞き覚えのある声で背後から姫が呼び掛けられた。
「おや、美しい庭園をさらに美しく彩る一輪の花があると思いきや、こんな所にリーゼ姫が居られるとは。一体どうされました?」
そう告げながら姿を現したのは【トーマス王子】だった。そして王子は数人の王族を引き連れながら近寄って来る。
ジュールとヘルムホルツはすぐさま膝をつき頭を下げた。よりに選ってトーマス王子が現れるとはついてない。それどころか、先程までの姫とのやり取りを変に誤解されたら厄介だぞ。王子と姫が一緒の現場はとろくなことがないんだし。
ジュールは内心で面倒な事にならないよう心から願う。ただそんな彼の煩わしい気持ちに気付くはずもなく、リーゼ姫は笑顔を崩さずに王子に向かい話し出した。
「こんにちはトーマス王子。また私の愛犬がいなくなってしまったので、行方をご存知ないか、この方達に尋ねていたところなんです」
「なんと、またあの愛犬が行方知れずになってしまいましたか。困ったものですね。しかし姫、この庭園は今朝方に奇怪な事件が起きたらしく、立ち入り禁止となっています。まぁ、私も物珍しさに事件現場を見に来ているので姫に物申せる立場ではありませんが、まだ危険が潜んでいるかも知れませんので、愛犬探しは他の者に任せてお部屋にお戻り下さい」
頭を下げたままのジュールは苦笑いを漏らす。興味本意で事件現場に、それも複数人でズカズカと足を踏み入れる王子の態度は十分に不謹慎なものだ。ただそれを王子はよく理解した上で、あえて現場に来たと言う。皮肉の一つも言って差し上げたい。
ジュールは不快な気持ちに苛まれる。それでも姫に部屋へ戻るよう指示した王子の判断は正しい。彼はそう折り合いをつけながら状況を見守った。
でもここでジュールは更に危惧する。王子の指示を渋々と了承する姫の姿が酷く寂しいものに感じられたのだ。これを何も知らない者が見たなら、まるで王子が姫を心無く責め立てている風に感じ取ってしまうだろう。
参ったな。早くこの場が収まってくれないかな。ジュールはヤキモキしながらこの時間が無事に過ぎ去るのを願う。しかしこんな時だからこそ、事態は悪い方へ動くのだろう。
数人の者達が急いで駆けて来る足音が近づいて来る。そしてそこに現れたのは、ジュールが最も来てほしくないと恐れていた存在だった。