#27 初虹の約束(四)
― ジュールへ ―
お前に手紙を書くのは初めてなんでな。書き出しをどうすれば良いのかも分からんし、そもそも何をどう書いて良いのか分からん。じゃから随分と悩んだよ。それでもやはりお前には伝えねばならん事があり、こうして筆を執った次第じゃ。
ただワシは科学の論文こそ数多く書き残したが、手紙など滅多に書かなかったからのう。それゆえ文章に至らぬ箇所が多くあるだろうが、それはどうか許してほしい。
さて本題じゃが、お前に【二つの事実】を書き残す。それらはお前にとって、俄かに信じられん事だろう。じゃが心して読んでほしい。この手紙に書き綴った内容は、全て【真実】なのじゃからな。じゃからジュールよ、他の者が何を言おうと、お前だけはこの内容を信じてくれ。ワシはそれだけを願ってやまない。
― 一つ目 ―
この手紙をお前が読む頃、ワシはもうこの世におらぬかも知れぬ。なぜならワシは、アダムズの国王であるアルベルト王の【暗殺】を企てていたからじゃ。それ故にワシは国王の手の者達から命を狙われているんじゃよ。
お前には信じられんじゃろう。しかしワシが国王を殺そうとしているのは本当じゃ。じゃが何故国王の命を狙う必要があるのか。それは国王が【人ならざる者】であるからに他ならない。
国王は国王に非ず。今の国王は、神話にて謳われる燦貴神が一柱【黒き獅子】にその身を支配されておるんじゃ。そして黒き獅子は国王の悲願である自然の真理の追究、すなわち自ら提唱する【光子相対力学】の絶対的確立を目的としているんじゃよ。
現状何も手を打たねば【無限の時間】を手にした国王は、必ずそれを成し遂げるじゃろう。それも強引に矛盾を捻じ曲げ、不都合な物理的事実を隠滅しながらな。それはこの世界にとって、非常に危険な事態じゃ。いや、確実に世界の破滅を招くじゃろう。そして何よりワシは、国王を装う【神を偽った化け物】が、我がもの顔で科学を愚弄しているのが許せないんじゃよ。
科学に限らず世の中には、まだまだ解明出来ない事象が数多く存在する。それどころか、今まで定説に考えられてきた理論や定理でさえ、何かしらの新しい発見や証明で覆るのも珍しくない。じゃからワシは思うのじゃよ。大切なのはそれら新しく見つけられたものを柔軟に受け入れ、過去の間違いを洗い直し未来に繋げる。そうする事で科学は進歩し、真理に近づいて行けるのだとな。そして現在における光子相対力学は、決して完璧な理論ではない。にも拘わらず国王は、無理やりその理論を完全で純然たるものにしようと奮起しておる。他を圧倒する非道な【軍事力】というに武器にその理論を変えてな。
この事実を知っている者はごく僅かじゃ。それでも今、行動を起こさなければ手遅れになってしまう。すでに国王は目的達成の為に動き出しておるからのう。じゃがどうやって【神】である国王を倒せば良いのか。
人知を超えた神の力の前では、人間など羽虫以下の存在でしかない。じゃがそんな無敵とも言える国王の驚異的な力にも【欠点】があるのだとワシは見つけた。皮肉にもそれは国王が提唱する光子相対力学の根底にあるものであり、人間の力で国王を倒す【唯一の方法】であるとワシは確信している。
その方法を知っているのは世界にワシ一人だけであり、今はまだ誰にもその方法を教えてはおらぬ。それはなぜか。この方法を実践するには、ただ科学の知識があれば良いというものではないからじゃ。この方法を実践する者の【資質】もまた、重要なのじゃよ。その為にワシは国王を倒す唯一のその方法を【最終定理】とし、アダムズの各地にそれを紐解く糸口として隠した。国王の手の者に発見されるのを防ぐ役目を兼ねつつ、最終定理を解き放つ真の資質ある者を見極める為にな。
ジュールよ。ここまで書き綴っておきながら言うのいもなんじゃが、ワシはお前にこの件には絡んでほしくないと思っておる。命が幾つあっても足りない過酷な仕事じゃからのう。それにもしこの件にお前が関わったとしたなら、お前は自分が背負った【宿命】に押し潰されてしまうかも知れない。そう、ワシには自分自身にもがき苦しむお前の姿が目に浮かぶんじゃよ。それでもな、ジュールよ。次に伝える内容を読み終えた時、お前自身がワシの意志を継ぐという決断を下すのであれば、ワシはそれを尊重しよう。決して本意ではないが、覚悟を決めてお前が決断したのであるならば、ワシはそれを精一杯応援する。
― 二つ目 ―
お前の出生、お前の体について伝える。
すでにお前は気付いているやも知れぬが、お前の体は普通の人間のそれとは少し違っている。それはなぜか。驚くだろうが、その原因はお前がただの人間ではなく、【神の力】をその身に宿して生まれて来た【選ばれし者】だからじゃ。
お前がまだ胎児として母親の腹の中におった時、その母親の身に【ある現象】が起きた。その為にお前は神の力を秘め、この世に生を受けたんじゃよ。
神話の中にて有名な言い伝えがある。それは【月読の勾玉】と呼ばれる神器と【同じ大きさの胎児】を腹に宿した妊婦が、満月の光を浴びて輝く神器の勾玉を見ると、その胎児に神の力が宿ると言うものじゃ。それは言い換えれば、胎児が神器に封印されし神の力を吸い取ってしまう事を意味する。じゃからのう、ジュールよ。俄かに信じ難いだろうが、お前はその言い伝え通り、神の力を持って生まれて来た者なのじゃ。
ワシがこの事実を知ったのは比較的最近の事じゃ。しかし振り返れば、お前は幼い頃にその片鱗を幾度も発揮しておる。そう、お前自身には自覚がなかっただろうが、お前は過去に人としての限度を遥かに超えた力を顕示しておるんじゃよ。
お前には常人の数倍、いや数十倍の身体能力が秘められておる。そしてその中でも特に優れているのが、身体の驚異的な【回復力】だ。
過去にお前は普通の人間であったなら到底生きていられない、間違いなく即死したであろう外傷をその身に受けている。にもかかわらずお前は、数日もしないうちに走り回れるほどにまで回復してしまった。現在の科学や医学では語れない、まさに【神の力】とでも言わなければ受け入れられない奇跡の力でな。お前はそんな計り知れない力をその身に秘めているんじゃよ。そしてこれは変える事の出来ない事実であり、お前自身が受け止めなければならない現実なんじゃ。
正直ワシはそんなお前を怖いと感じていた。正直に言えば、得体の知れぬ力を持ったお前を気味悪く感じていたんじゃよ。じゃからお前と距離を置きたい、逃げ去りたいと思ったのは一度や二度ではない。穢れを知らぬ子犬の様にワシを慕うお前を、疎ましく感じた時期もあったくらいじゃしな。
それでもワシはお前を見放せはしなかった。お前を置き去りにする事など考えられなかった。その理由は一つ。お前が何者であろうと、お前の身に何が隠されていようと、ワシにとってお前は唯一の【家族】であり、ワシにとってたった一人の【息子】だったからじゃ。
ジュールよ。お前の存在はワシにとって、決して失う事の出来ない大切な支えだった。気がつけばもう、お前無くしては生きて行けなくなっていたんじゃ。そう、お前の存在はそれ程までに、ワシの中で大きくなっていたんじゃよ。じゃから例えお前が人でなかったとしても、お前がワシの息子である以上、それが揺るぎない事実である以上、世界中の誰もがお前を否定したとしても、ワシだけはお前の味方であり、いつまでも信じ続けたい。そう心に誓ったんじゃ。だからこれだけは信じてほしい。ワシのお前への想いに嘘偽りはこれっぽっちも無い、という事をのう。
それでもお前はいずれ、自分自身の体に隠された力に気づき、苦悩するはずじゃ。耐え難い苦痛に悶え苦しみ、なぜ自分だけが人と違うのだと卑屈になるだろう。自分の背負った残酷な宿命を呪いながらな。
だがそんな時にこそ思い出してほしい。お前は決して化け物なんかじゃなく、正真正銘の【人】なんだって事を。お前の両親は紛れもなく【普通の人間】であった。そしてお前もまた、人間としてこの世に生を授かったのじゃ。それだけでいい。いや、それが全てなんじゃ。悩む必要なんかどこにも無い。そして普通の人として生き、人並みで良いから幸せになってほしい。それがワシの切なる願いであり、ワシが最後までお前の身に秘められた力の事を伝えられなかった理由なんじゃよ。
それでも秘めた力に悩み苦しむのであれば、それを呪うのではなく、覚悟を決め真実を受け入れてほしい。怖いだろうが一歩一歩前に進めば、真実は決してお前を裏切りはしないはずじゃからのう。神の力をその身に宿し生まれて来た事には、必ず明確な理由が存在するはずなんじゃからな。
仮説を立てる事は可能じゃが、ワシにはその本当の理由までは知り得ぬ。いや、そもそもその理由を理解出来るのはこの世界でたった一人しかおらぬ。そうじゃよ、ジュール。その理由にたどり着けるのは、お前自身だけなんじゃよ。
しかしその理由、そして真実を知り得る道のりは、想像を絶するほど難儀であろう。苦心の末に身を滅ぼすだけかも知れん。それでもお前が自分自身に背負った宿命に対峙する決心がついたならば、未来に望みを持って進むがいい。そしてその時はアダムズ東部の商業都市グリーヴスに住む【シュレーディンガー】という者を頼れ。その者がお前の進む未来を示してくれるはずじゃ。
今を生きるという事は、それだけでも簡単な事ではない。お前の様に稀有な運命を背負い生まれて来た者なら尚更じゃ。じゃがのう、ジュールよ。それでもワシは信じておるぞ。最終的にお前がどんな未来を選ぶかは分からぬが、お前なら決して心折れる事なく、最後まで目の前に続く茨の道を突き進めるとな。
それでも一つ気掛かりがあるとすれば、それは【月読の奏】じゃな。それはお前の中にある神の力を最大に解放する現象らしいんじゃが、この先お前が進む未来で、その伝説の月読の奏を感じる事があるかも知れぬ。もしかしたらそれは、お前を酷く苦しめる存在になるかも知れない。じゃがのう、ジュール。お前にとってそれは、きっと良き特質であるんじゃないのか。根拠はないが、ワシにはそんな気がしてならないよ。だからどうか、恐れないでほしい。
お前に伝えたかったのは以上の二つだ。ただし一つだけ、お前に謝罪しなければならん事がある。
お前はワシの事を本当に慕っていてくれた。苦しい日々の生活の中でも笑顔を絶やさず、ワシに元気を振り撒いてくれた。それがワシにとって、どれほど支えになったか。それはもう言うまでもあるまい。
そんなお前にワシは出来る限りの事をしたつもりだ。じゃが子が親を慕い、愛情を求めるのは至極当然のこと。それでもどこかワシは、お前に何かを施すことで根拠のない見返りを期待し、また孤児だったお前を育てる事で、偽善的な感情を満足感としていた。まさにワシは自分勝手にお前を利用し、無理やり生き甲斐にしていたんじゃよ。
ただの言い訳になってしまうが、自分一人で困難に打ち勝つ力を絞り出すのは非常に困難であり、ワシには到底出来ん事じゃ。そんな脆く弱い心を持つワシは、逃亡者という過酷な状況に身を置く中で、逆にいつも前向きで恐れを知らないお前を頼り、縋り、ひ弱な自分を誤魔化していたんじゃ。
でもお前はそんなワシの背中を心強く、温かく、優しく押してくれた。ワシはお前に何かを教え与えて来たつもりが、いつしかお前から教えてもらう事の方が、遥かに多いんじゃと気付いたんじゃ。それなのにワシは、そんなお前に最後まで感謝の言葉を伝えられんかった。それだけが今も心残りで悔やまれる。本当に済まなかった。
本来なら直接お前に伝えられればよかったのだが、ワシにはその勇気が無く、また残された時間も乏しい事から手紙という手段を使ってしまった。それがどれだけ恥ずかしい事なのか、ただ怖がって逃げているだけなんじゃないのか。そうと分かっていながらも、ワシにはこうする事しか出来んかった。本当に悔しくて仕方ない。最後になって自分の器の小ささに呆れ返る気持ちで一杯じゃ。誠に申し訳ない。
これで最後になるが、お前に対するワシの心からの想いと願いを伝える。
決して生まれて来た事を呪ったり恨んだりしないでくれ。もしお前が生まれてきたのを後悔したなら、それはお前がワシの息子であるのを否定する事になってしまう。ワシはお前と共に過ごせた人生を心から【幸せ】に思っておるからのう。だからお前も今まで生きて来た事に後悔などせず、むしろこれからの人生を大いに楽しんでほしい。
それからアメリアを一生大切にするのだ。彼女はお前の事を本当に愛している。その気持ちを蔑にするような事がないよう、精一杯お前も彼女を愛せ。ワシ以外でどんな時でもお前の味方でいてくれるのは、アメリアだけなんじゃからな。
時に心ない言葉で彼女を傷付けてしまう事もあるやも知れん。お前はワシと同じで女子の気持ちが分からんからのう。だがそんな時は直ぐに謝るのだ。大抵男の方が謝れば、万事丸く収まるもの。アメリアは外見こそ可愛らしいお嬢さんじゃが、その性格はお前と同じで頑固で負けん気の強いところがある。じゃがしかし、その内面はとても繊細で傷付きやすい子なんじゃ。じゃからのう、ジュール。お前は人より頑丈な体で生まれたのだから、その分彼女の痛みもお前が背負うくらいの覚悟を持って、アメリアを生涯守り続けて見せろ。そして二人、幸せになってくれ。
ワシは世界が仰天するほどの発明をいくつも手掛けておる。じゃがワシはそんなどの名誉ある発明よりも、お前という【息子】を得られ共に生活した人生に誇りを感じておる。
面と向かってなど恥ずかしくてとても言えぬが、ワシはお前を最後まで愛していた。そしてこんな不甲斐ないワシを実の【父親】として慕ってくれた事を、心の底から感謝しておるぞ。
ありがとうジュール。元気でな。
―― グラム ――
ジュールは手紙を強く握りしめる。そんな彼の頭の中では、博士と過ごした輝かしい日々が次々と思い出されていた。
博士との生活は決して安穏としたものではなかったはず。スラムという過酷な環境の中で育ち、また指名手配された博士との逃亡の日々は、辛い事ばかりだったはずなのだから。でも不思議と思い出されるのは楽しく心地良い記憶ばかりであり、何気ない博士と暮らした日々が、たまらなく愛おしく思え嬉しかった。そしてそんな温かく心和む思い出を胸に、ジュールは透き通った青い空に向かい呟いた。
「ズルいよ博士。博士だけこんな手紙を残して、一方的に想いを伝えるなんてさ。俺はどうやって博士に想いを返せばいいんだよ? 俺の方こそ、ちゃんとお礼が言いたかったのに。この気持ちはどうすれば博士に届くんですか? ねぇ【父さん】。俺もあなたに負けないくらい、あなたを愛していました。大好きでした。だから――」
ジュールは目を大きく開く。そして一呼吸してから天に向かって大声で叫んだ。
「俺、前に進むよ! いつまでもウジウジしてたって、俺らしくないだろ! だから博士、俺を見守っていてくれ。この先俺にどんな試練が待ち受けているか分からないけど、絶対に負けやしない。たとえその相手が【本物の神】だとしても。でも誤解しないでくれ。決して博士の仇討をする為に前に進むんじゃないよ。俺は俺自身がどういった理由で生まれて来たのか知りたいだけなんだ。そして俺の宿命がどういったものなのか、必ず見極めてやる。だから博士も一緒に見定めてほしい。それが俺の、父さんに対する恩返しだから」
――ポチャ。
ジュールの頬を伝って流れた涙が橋の上から落ち、小さな音を立てて川に包み込まれる。そして涙の落ちた川を見つめたジュールは、そのまま川下に視線を移した。
ゆっくりと流れる薄汚れた川の先には、ジュールとグラム博士が共に過ごしたスラムの街がある。だから彼は思い出したのだ。以前グラム博士から聞いた、自分が拾われた時の話を。
「確か博士はスラムの川に掛かる橋の下で、俺を【拾った】って言ってたな。もしかしたらそれは、この川が流れて行った先にある場所かも知れない。ならここは新しいスタートを切るにはちょうど良い場所だ。見ていてくれ博士。昔スラムを旅立った時は、博士が力強く手を引いてくれた。でも今は、これからは自分で進まなければならない。全て自分の意志で。だけど俺には出来るはずだよね。だって俺は博士の【息子】なんだからさ」
そう言ったジュールは涙を拭うと、力強く一歩踏み出した。迷いが全て消え去ったとは言えない。強がったところで待ち受ける運命に不安や怖さは隠せやしない。でももう後戻りは出来ないんだ。
ジュールはもう一度空に美しく描かれた虹を目にし、一人決意した。この先なにがあっても負けはしないと。――だがその時、確かにジュールは博士の声を聞いた。
「何をそう気張っておるのだ、お前は。前を進む決意をしたのは良いが、もっと肩の力を抜け。お前の悪い癖じゃ。一つ思い付くと、そればかりに拘り過ぎる。ほれ、後ろを見てみい。今のお前にとって、一番大切な存在が待っておるぞ」
「?」
ジュールは何の事だと首を傾げるも、言われるがままに振り向いた。ただそこで彼は少し驚く。なんと振り返ったジュールの目に飛び込んで来たのは、橋の袂で彼を見つめるアメリアの姿だったのだ。
ジュールは早足でアメリアに歩み寄る。どうして彼女がここにいるのか? あまりにもタイミング良過ぎるアメリアの登場に、彼は驚きを隠せなかったのだ。ただどうした事だろう。アメリアはひどく息を切らせ、肩を上下させている。するとその姿に何となく微笑ましさを感じたジュールは、口元を緩めて尋ねたのだった。
「どうしたんだよ、そんなに息が上がって。走って来たのか?」
「ハァハァハァ。――っとにバカね。川沿いを歩いてたら、今にも橋から飛び降りそうな姿が見えて、急いで来たんじゃない。ホントにバカ、なんか文句ある!」
「バカバカ言うなよ。自分でもよく自覚してるんだからさ」
ジュールはそう言うと、気恥ずかしそうに頭を掻きむしった。でもそれは、自分を心配して駆け付けて来てくれた彼女の気持ちが嬉しかったからに他ならない。だからジュールはアメリアの目を真っ直ぐに見つめると、その体を優しく抱きしめた。
「な、なにするのよ、こんな所で」
予想外なジュールの行為にアメリアは戸惑う。そして彼女は反射的に身を捩ってジュールから離れようとした。だがそんな彼女の体をジュールは離さない。
「ちょっとやめてよ、恥ずかしいじゃない。人が見てるよ」
アメリアは顔を赤くしながら抵抗する。しかしそんな彼女の耳元でジュールは小さく囁いた。
「ごめん。でも少しだけ、こうしててくれないか」
ジュールはそう謝りつつ、アメリアの体を抱きしめ続けた。まるで彼女の温もりを全身で感じるようにして。
きっと彼は彼女の優しさに縋ったのだろう。こうする事で、新しい未来に進んで行ける。都合が良いかも知れないが、ジュールはそう思いアメリアに身を委ねたのだ。ただアメリアの方もまた、そんなジュールの想いを受け止めていた。彼に優しく包まれる温もりを直に感じながら。そしてアメリアは、そっとジュールの胸を掴み頬を寄せた。
二人の柔和な温もりが絡み合って行く。やはり二人の想いは深い愛情で繋がっているのだろう。安心した落ち着きが二人を包み込んでいる。するとそんな温かい雰囲気の中で、ジュールは確かな声でアメリアに向かい告げたのだった。
「本当にごめん。俺は自分の事しか考えてなかったよ。博士の死が信じられなかったから、それを受け入れたくなかったから、アメリアの気持ちまで無視してしまったんだ。こんなにもアメリアが心配してくれてたのにさ。本当にバカだな、俺は。今頃になって分かったよ、アメリアをひどく傷つけてしまったって」
「そんなの仕方ないよ。大切な人が亡くなったんだから」
「ううん、違うんだ。そうじゃないんだよ。俺は博士の死に悲しむ事を隠れ蓑にして、心細く怯える自分の弱い心を偽っていたんだ。俺は博士の為だけに生きて来たんじゃないのか。そう考えちまったから、博士がいなくなった今、これから先どうすればいいか分からなくなっちまった。だから意味も無く苛立って、焦って、患いて、ただの臆病になってたんだよ。いつだって進むべき道は自分で決めなきゃダメなのに、そんな事は百も承知なはずなのに、それでも他人に押し付けようとしていた。理由なんてどうでもいい、俺はただ逃げたかったんだ。自分の足で進まなければいけない責任を理解しながらも、それを受け入れられずに、矛盾する自分の気持ちに卑屈になって、ただいじけていだけなんだよ」
ジュールはアメリアに自分の弱さを曝け出した。もう強がるのに疲れてしまった。いや、こんな弱い気持ちも自分なんだ。そう思ったからこそ、彼は正直に胸の内を露わにしたのだ。きっとアメリアなら、そんな弱々しい姿を見せても大丈夫だと信じれたから。
するとそんな彼の目からは涙が溢れ出した。恐らくそれまで誰にも打ち上げられずに溜め込んでいた想いを吐き出した事で、張り詰めていた感情が解けたのだろう。でもそれは決して悪いものではない。と言うよりも、むしろ涙が流れ出るほどに心が軽くなり、気分が晴れ渡っていく様に感じられる。
するとそんな彼の涙がアメリアの額に落ちた。彼女は顔を上げてジュールの表情を見つめる。真っ赤に染まった瞳。でもアメリアはそんな眼差しに、とても強い意志を感じずにはいられなかった。
そこに迷いや恐れなんて、これっぽっちも感じられない。だから彼女は安心してジュールを見つめ続けた。頼もしくて力強い眼差しが見れて、彼女は嬉しかったのだ。するとそんなアメリアにジュールは言う。少しだけ恥ずかしそうにしながらも、彼は堂々とした態度で告げたのだった。
「本当にゴメンな。心配ばかり掛けて。それに随分と泣き言を言っちまった。アメリアには恥ずかしいところを全部さらけ出しちまったよ。でももう大丈夫。俺は前に進むよ。バカな俺があれこれ考えたって、何も始まらないからね」
「良かった。その顔は無理してるようには見えないし、なんだか久しぶりにジュールの気持ちが伝わって来た気がしてホッとするよ」
アメリアはジュールを見つめながらニッコリと微笑んだ。ジュールの弱音を吐く姿なんて本当は見たくない。でもそれは私を信じて頼ってくれる姿でもあるんだ。アメリアはそう思ったからこそ、嬉しくて微笑んだのだった。
「最近のジュールの落ち込んだ姿は、本当に辛くて見てられなかった。それに今日は苛立ってぶつかって。すごく胸が痛んだし、腹が立ったし悔しかったよ。でもね、ジュールが初めて涙を流して、弱い本心をさらけ出して、そんなジュールを見て少し安心したところもあるんだ」
「安心?」
「うん。ジュールも【人間】なんだなぁって、そう思えたから。だから安心したんだよ。だっておかしいでしょ、ぜんぜん弱みを見せない人なんて。普通の人なら、誰だって落ち込んだり悲しくなったりするものなんだから。でもジュールは博士の事を心から悲しんで、苦しんで――。そして弱い姿を私だけに見せてくれた。今までずっと一緒にいたけど、やっとジュールの事が分かった気がして、何だか安心したんだよ」
アメリアは嬉しそうに微笑んだ。人は誰だって孤独を秘めるもの。だからこそ、そういった本心をジュールが自分だけに打ち明けてくれた事に、彼女は素直な愛おしさを感じずにはいられなかったのだ。
「ねぇジュール。私とジュールが初めて会った日の事、覚えてる? 博士がジュールを連れて、私の里に来たあの日を。私はね、あれからずっとジュールの事を見て来たんだよ。そしてこれからも見続けるつもり。だから私には辛い事があっても、我慢しないで打ち明けて。これから先、喜びも悲しみも、全部二人で分かち合って。だってジュールが博士の事を掛け替えのない人に想っていたのと同じくらい、私もジュールの事を大切に想ってるから。だから――」
アメリアは掴むジュールの胸を更にきつく握りしめる。そして彼女はジュールの瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「だからもし、あなたが誰かの為にしか生きられないっていうのなら、私の為に、私だけの為に生きてほしい。私もあなたの為に精一杯生きるから。だからお願い。死んでもいいなんて、絶対に言わないで」
アメリアの目から大粒の涙が溢れる。誰よりもジュールを愛しているからこそ、彼女は彼を想い願ったのだ。そしてそんなアメリアの気持ちをジュールは受け入れる。彼はしっかりと首を縦に振ると、笑顔を浮かべながら応えたのだった。
「ありがとう、アメリア。これから先、俺の進む未来、いや俺達の進む未来には、大きな壁とか難しい問題が立塞がるかも知れない。でもアメリアがいてくれれば、アメリアと一緒なら、どんな事でも乗り越えられるはずだよね。何があってもアメリアの事は俺が一生守る。だからいつまでも俺と一緒にいてほしい。いいよね」
「……うん」
小さく頷いたアメリアをジュールは力強く抱きしめる。そして二人は見つめ合い、引き合う唇を丁寧に重ねた。
アメリアの頬に溢れていた大粒の涙が零れる。でもその涙はとても温かく、優しい涙だった。そしてその涙をそっと指で拭ったジュールは、少し照れくさそうに告げたのだった。
「ホントにアメリアはよく泣くな。でも本当によく泣くのは、俺の方かもな。アメリアには随分と泣き顔も見せちまったしね。でもこれから先、アメリアをいっぱい泣かせて汚名返上するよ。嬉し涙だけどね」
「なに言ってんのよ、バカ。でも実はジュールって、泣き虫だったんだね」
「もう泣かないさ。今日が最後って約束したから」
「約束?」
首を傾げるアメリアに、ジュールは空を指さした。
「約束したんだよ、あの虹にね」
ジュールとアメリアが見上げた青い空。そこには二人を見守る様に、大きな虹が輝き続けていた。
まだ若い二人の人生に、この先何が待ち受けているのかは分からない。それでも二人は空に彩る美しい虹を眺め、言葉では言い表せない充実感に浸っていた。
その夜、二人は激しく愛し合った。ジュールはアメリアの白い体を強く抱き、決してその存在を手放さないと想いを込め愛撫し続ける。そしてアメリアもまた、彼の気持ちに応えようと全てを受け入れた。
互いの温もりが溶け合い一つになる感覚は、それまで幾度となく過ごした夜よりも大きく感じられた。それはまさに、二人の心が本当の意味で繋がれた瞬間だった。
生きている――。ジュールとアメリアは互いの中に自分の存在を飽きるほどに確かめ合う。そして二人で生きて行く事への意味を、触れ合う心の中に見出そうと必死に愛し続けた。
それからしばらくし全てが終わると、ジュールは胸に抱くアメリアを見つめながら余韻に浸っていた。
ジュールは嬉しかったのだ。アメリアがいてくれれば、彼女さえいてくれれば、自分は生まれて来た価値があると思えたから。自分には彼女が必要であり、彼女もまた自分を心から必要だと想ってくれている。だからジュールはアメリアの事を今まで以上に強く、そして愛おしいと想ったのだった。するとそんな彼の表情を一目したアメリアが、幸せそうに微笑みながら言う。
「あの時と同じ優しい目をしてるね。私を助けてくれて、私の名前を初めて呼んでくれた【あの時】の穏やかな瞳。私ね、あの時に願ったんだ。ずっとジュールと一緒に居いたいって」
「俺もあの時思ったよ。アメリアの事は俺がずっと守らなきゃってさ。でもアメリア、あの時のお前は気を失ってたんじゃないのか?」
「ふふ。それは内緒だよ」
そう呟いたアメリアは、まるでジュールの口を塞ぐかの様にして優しくキスをする。するとそんな重なり合った二人の体を、窓から差し込む月明かりが静かに包み込んだ。
こんな幸せが永遠に続いてほしい。二人は心からそう願いつつ抱きしめ合う。そしてジュールとアメリアはお互いの愛を確かめ合いながら、穏やかな眠りに落ちて行った。
翌朝、アダムズ城の庭園に奇妙な光景が姿を現す。
早朝に庭師が訪れたそこには、肘のあたりで切断された若い女性のものと思しき右腕が地に突き刺さっていた。
疎らに傷痕の残るその腕は、広げた手の平を天に向け、まるで星に縋ろうと足掻いている様にも見える。
だがジュールはまだ知らない。それが古き神話の目覚めを告げる警告であり、地中深くに閉ざす壊れた日々が、暗闇から光を求める確かな布告の現われなのだという事を――。