#26 初虹の約束(三)
黒髪の女は展望台で接触した時と同様に、冷めた目でジュールを見つめている。ただいつの間に取り出したのか、その手には鋭く光るナイフが握られていた。
薄暗い裏通路の中でナイフが不気味に光り輝く。女の殺気が溢れ出しているかの様だ。するとそんな女の凄味に対して動揺したジュールが声を上げた。
「ちょ、ちょっと待て! 人違いじゃないのか。俺はあんたにボコられる筋合いないぜ!」
「死ね」
誤解しているのか。そう思ったジュールは懸命に制止を促す。しかし女はただ一言、冷たく言い放つだけだった。そして女は瞬きするよりも早く、彼に向けナイフを突きつける。
「サッ」
ジュールは紙一重でナイフの攻撃を躱す。頬を僅かに掠りはしたが、彼は見事にナイフを避けきった。だがそんな彼の腹部に痛烈な一撃が捻じ込まれる。なんと女はジュールがナイフを躱したと判断すると、そのまま勢いを殺さずに膝蹴りを繰り出したのだ。
「ボゴッ」
鈍い音が鳴ると共に、ジュールの体がまたも吹き飛ぶ。見た目の線の細さとは異なり、女の繰り出す一撃は想像以上に重い。まるで金属バットを叩きつけられているかの様な衝撃だ。ダメージを受けたジュールは上手く立ち上がれず身悶えする。するとそんな彼に向かい、女は踏み込んでナイフを突き立てた。
息の根を止めてやる。そんな尋常でない殺気がひしひしと伝わって来る。ただそんな常軌を逸した殺気が、逆にジュールの軍人としての勘を働かせた。彼は自身に向け繰り出されたナイフを首を捻ってギリギリ躱す。だがしかし、彼は胸を蹴り上げられて吹き飛ばされた。
「ガンッ」
強烈な一撃にジュールは表情をしかめる。本当にこれは女性が繰り出す蹴りの威力なのか。だがそれを考えている暇は無い。ジュールは軋む体に鞭を打って起き上がろうとする。ただ女はジュールが立ち上がるよりも早く、再びナイフを突きつけた。
「チッ」
ナイフの一撃は即致命傷だ。それも女は正確にジュールの顔面を狙って来ている。だから彼はなんとしてもその一撃だけは回避した。でもその後に繰り出される蹴りが躱せない。そして彼は同じパターンの攻撃を為す術なく受け続けた。
(クソ、何だっつうんだこの女は! ただの通り魔にしちゃあスピードが半端なさ過ぎる。どうにかナイフは躱せてるけど、でも蹴りの衝撃だってこれ以上は堪えられない。どうする。真面に話なんて聞かなそうだけど、どうにかして動きを止めないと本気でヤバいぞ――痛ッ!)
ジュールの右目に激痛が走る。そして彼は右目を手で覆いながら後退りした。素早い女の動きにどう対抗するか考えなければいけないのに、激しい痛みでどうする事も出来ない。するとそんな彼に向かい女が一気に間合いを詰める。女はジュールが見せた隙を確実にものにしようと、一直線に駆け込みナイフを突き立てた。
「グサッ!」
真っ赤な鮮血がコンクリートの壁に飛び散る。そしてボタボタと滴り落ちる鮮血は、通路に溜まった埃を僅かに巻き上げた。しかしそんな埃の溜まる通路にガックリと膝をついたのは、意外にも黒髪の女の方だった。
「くっ。ば、馬鹿な」
女は苦痛に表情を歪ませる。一体女の身に何が起きたのか。ただ辛く苦しい表情を浮かべながらも、女は鋭くジュールを睨んでいた。
ジュールは痛む右目を右手で覆っている。だが彼は女が繰り出したナイフの一撃を受け止めていた。そう、彼は左の【手の平】でナイフを直接受け止めたのだ。
当然ながら女のナイフはジュールの手の平を貫通している。そしてそこから飛び散った血飛沫が周囲を赤く染めたのだ。もちろんジュールの左手には耐え難い激痛が走っている。根元までぐっさりとナイフが刺さっているのだから当然だ。しかし彼はそんな痛みに構う事なく、カウンターの膝蹴りを女の腹に叩き込んでいた。すると今度は女の方が後退る。この男は普通じゃない。女はジュールに対して異質な感覚を読み取ったのだ。
「これで少しは話が出来るかな」
ジュールは女に向かいそう言うと、歯を食いしばって左手に刺さったナイフを引き抜いた。猛烈な激痛が全身を駆け巡る。これはヤバい痛さだ。どう考えたって、すぐに病院に直行するべきだろう。でも何なんだ、この妙な感覚は。
ジュールは胸の奥から溢れ出す感覚に違和感を覚える。でもそれは決して悪い感覚じゃない。むしろ心地良いくらいだ。もしかして、俺はこの命のやり取りを楽しんでいるか――。
ジュールは微笑んでいた。彼は無意識に喜びを感じていたのだ。ギリギリで命を削り合う状況が、ジュールに異変をもたらしたのだろうか。ただそんな彼から放たれる凄味は、極度なまでに悍ましいものであった。
女の背中に戦慄が駆け抜ける。何だコイツは。まるで【化け物】じゃないか。ジュールから感じる禍々しい威圧感に女は怯む。だがしかし、女もまたそこで不敵な笑みを浮かべたのだった。
「フッ。お前、やはり【組織の者】だな。だったら【論文】の在り処を知っているだろう。教えなよ。そうすれば楽に殺してやるからさ」
「ハッ。いい加減にしてくれよ。こっちは人探しで忙しいんだ。邪魔だから退けよ」
「どうやら苦しみながら死にたいみたいだね。まぁいいや。どの道吐かせるつもりだったんだ。体に聞くだけさ」
女はそう呟くなり、ジュールに向かって猛然と駆け出す。そして最大限に加速した女は、槍の様な飛び蹴りを繰り出した。
目にも止まらぬスピードで女が迫る。恐らく女が放つこの蹴りの衝撃は、コンクリートを粉々にしてしまう程の威力があるだろう。身の毛が弥立つ恐怖感を覚えたジュールの全身が震える。だがしかし、彼は両腕をクロスして女の蹴りを真正面からガードした。
「ドスンッ」
大型の鉄ハンマーで思い切り殴られたかの様だ。軋んだ腕が悲鳴を上げているのが分かる。それでもジュールは一歩も退かず、女の強烈な蹴りを受け止めた。するとそんな彼の姿勢に女は驚きの表情を浮かべる。いや、女にとって、それは俄かに信じ難い出来事だったのだ。
女には絶対の自信があったのだろう。この蹴りを真面に受けて無事でいられた者はいない。その自負があったからこそ、女はジュールに向かって強気でいられたのだ。だがしかし、渾身の一撃は防がれた。それも蹴りを受け止めた男は一歩たりとも後退していない。
その状況に女は反射的に数歩飛びのきジュールとの間合いを広げた。こいつは只者じゃない。女は改めてそう感じ、その危険性を察したのだ。そしてそんな女の背中に更なる戦慄が走る。女はジュールの【右目】を見てゾッとしたのだ。
それは微かに、でも確実に青白く輝いていた。そしてジュールは感じる。体の底から湧き出す得体の知れない力の存在を。
ヤツと戦った時と同じく、激痛すら喜悦に感じる狂気の力。目の前の全てをメチャクチャにしてしまいたい。そんな欲望すら感じて止まない。禍々しくて忌々しい感覚がジュールの心と体を支配して行く。だがその時、彼は自分の足元に【橙色】の小型の玉が一つ転がるのに気付き目を細めた。
「これは!?」
「くたばれ化け物!」
「ビィギャァァーン!」
小さな炸裂音がしたのと同時に、ジュールの全身に強烈な電撃が走る。すると通路をか弱く照らしていた蛍光灯が粉々に破裂し、また周囲のコンクリートの壁が黒く焦げついた。
一気に暗がりを増した通路は焼け焦げた臭いで充満する。そしてショートしたパソコンはその存在意味を失っていた。
「ジリリリリ!」
少し離れた場所で赤色灯を光らせた火災報知機が耳障りなベルの音を響かせる。その中で女は煩わしそうな表情を浮かべつつも、決してジュールから目を逸らそうとはしなかった。
電撃が全身を貫いた衝撃で動けない。ジュールは麻痺した体に尋常でない苦痛を強いられる。それでも彼はその痛みを堪えて立ち続けていた。ただそんなジュールに向かい女は冷たく言い放つ。
「チッ、化け物め。とんでもないタフさだな。でもそれなりに効いているのも確かなはず。騒ぎが大きくなる前に片付けさせてもらうぞ!」
そう吐き捨てた女は腰を屈めて低い体勢を取る。そして何を思ったのか、自分の踝辺りを指で押し込んだ。
「ギュイィィーン」
女の足元から機械音が発生する。またそれと同時にジュールに向けて凄まじい殺気が放出された。女はジュールに止めを刺そうとしているのだ。
そんな身構えた女に対し、体が麻痺したジュールは指一本動かせない。意識を保っているのさえ危うい程だ。だが目の前に迫る危機に、身動きの取れないジュールは微笑んだ。
女の殺気は電撃を凌ぐほど尋常でないものに感じられる。そしてその殺気にジュールの背中は激しく粟立っていた。しかし彼はむしろその狂気をメチャクチャに破壊したい、そんな衝動に心を躍らせたのだ。
「っつおおぉぉぉ!」
右目に激痛が走り、ジュールは思わず唸り声を上げる。反射的に右手で目を押さえた彼は、それでも微笑を崩しはしなかった。そしてジュールは残った左手ですぐ近くの壁を伝う鋼鉄製の配管に手を掛ける。すると彼は力任せに壁に固定された配管を引き剥がした。
「ブシューッ!」
千切れた配管から白いガスが勢いよく噴き出す。だがそんな事には構いもせず、ジュールはその配管を女に向け思い切り振り抜いた。
「グオォォー」
長さ3メートル、直径15センチほどの鋼鉄製配管がムチの様にしなりながら女を襲う。とても人間業には思えない強引な攻撃だ。だがそんな強烈な一撃を、女は信じられないスピードで後方に飛んで躱す。そして女はそのまま背後の壁を蹴ると、その反動を利用してジュールに向かい弾丸の様に飛んだ。
「ドン!」
女がコンクリートの壁を蹴った衝撃音が波及する。いや、人間の常識を超えた速さで跳躍する女自身から発生した音なのだろうか。空中で体勢を変化させ右足を突出し、女は自分の体をロケットの様にしてジュールに迫る。だがジュールは微笑みの表情を壊す事なく、音速で迫る女を配管で殴りつけた。
「ゴガァァーーン!」
まるで迫撃砲でも撃ち込まれたかの様な、凄まじい轟音が鳴り響く。するとその爆音と一緒にジュールの体はコンクリートの壁を突き抜け、工事中だった改装店舗に投げ出された。
「ガハッ」
ジュールは全身に耐え難い激痛を感じ身悶える。女の攻撃は直撃しなかったはずなのに、何なんだこの衝撃は。ただそこでジュールは目を丸くした。なんと手にした鉄製の配管がバラバラに砕けていたのだ。
「キィィーーン!」
穴の開いた壁の向こうから甲高い機械音が響いて来る。まるでジェットエンジンに火が付いているかの様だ。まさかこれも女の仕業なのか。ジュールがそう思った瞬間、またしても右足を突き出した女が一直線に迫って来た。
「ガズンッ!」
ジュールは両腕をクロスして女のロケットの様な蹴りを受け止める。だが今度の一撃は、先程配管で殴りつけた一撃を遥かに凌ぐ威力だった。ジュールの体は為す術なく吹き飛ばされる。そして重なり合いながら吹き飛ぶ2つの影は、改装中の店舗をメチャクチャに破壊した。
勢いが止まらないまま工事区域を突き抜けたそれは、人混みで溢れる中央フロアまで飛ぶ。だがそこで猛烈な加速度は一瞬にしてその動きを止めた。
ジュールは両足を踏ん張って女の蹴りを受け止めていた。体がバラバラになってもおかしくない、文字通りロケット砲並みの一撃を彼は真正面から受け止めたのだ。
とても人間業とは思えない防御力の高さを発揮したジュール。しかし彼はそこでガックリと膝を着いた。相変わらずその表情は微笑み続けていたが、さすがに指一本動かせないほどの強烈なダメージをその身に浴びていたのだ。
ただそんなジュールに対し、女は憤りを露わにしていた。自身が有する最大の攻撃を二度も受けながら、まだ息のある目の前の対象に歯痒さを感じてならなかったのだ。それでも女は間髪入れずに攻撃態勢を整える。次で終わりだ。そう思って女はジュールを鋭く睨みつけた。――がその時、
「!」
女は驚く。なんとジュールの背後には、一人の幼い少女の姿があったのだ。
「お前、まさかその子を庇ったのか?」
信じられない。単なる偶然か。しかし女は感じ取っていた。蹴りを受け止めたジュールが強引に勢いを制止させた事を。乱暴な考え方だが、ダメージを緩和させるだけなら、そのまま吹き飛んでいた方が合理的なはずだ。それなにの目の前の男は無理やり自分の蹴りを受け止めた。
女は戸惑いを宿した視線をジュールに向けている。するとそんな女に対し、ジュールは苦笑いを浮かべながら言ったのだった。
「この子には借りがあってね。俺の不注意で一度痛い思いをさせているんだよ。だから意地でも守りたかったんだ。それより場所を変えないか? ケンカならいくらでも買うけど、さすがにこの人混みの中でやるのはお互いよろしくないだろ」
ジュールはそう言いながら苦々しく頭を掻きむしった。再び遭遇した少女を前にして、気恥ずかしさを感じているのだろう。ただそんなジュールの姿を見た女は押し黙る。戦闘の最中に少女を気遣う目の前の対象に、女は当惑せずにはいられなかったのだ。
こんなバカな話しがあるか。組織の者であるならば、少女の一人や二人を巻き添えにしたところでお構いなしだろう。なのにこの男は自分の体を盾にして少女を守った。こいつ、一体何者なんだ。
女はこれ以上殺し合いを続ける事に躊躇いを感じ始める。惑わされてはダメだ、こいつは敵なんだ。そう自らに言い聞かせながら気持ちを鼓舞するも、女の体はその指令に反応しなかった。――とその時、
「ズガガァァーーン!」
大きな爆発が発生する。そしてその爆発の衝撃は、ショッピングモールの施設全体を大きく振動させた。
「何だ!?」
ジュールは体勢を低くして揺れに備える。爆発が起きたのはショッピングモール内のどこかだろう。でもここからは少し離れた場所だ。でもそれにしたって、何が爆発したっていうんだよ。
立っていられないほどの振動が数秒間続く。そして大勢の人々で賑わう施設内の至る所から悲鳴が上がった。これだけ大規模な揺れなど、滅多に発生するものではない。それだけに人々は恐怖で震え上がったのだろう。
店舗に陳列していた様々な備品が床に落ち破損する。ガシャンガシャンとガラスの割れる様な音が施設全体から鳴り響く。ただその中でジュールと女は、他の一般客同様に腰を屈め、施設の揺れが収まるのをじっと待っていた。
揺れが止まる。実際には十数秒といった短い時間であった。しかしそこに居た人々にとっては、ひどく長い時間に感じられただろう。それほどまでに生きた心地がしない差し迫った状況だったのだ。
でもどうにか揺れは収まってくれた。かなり大きな揺れだったが、施設が倒壊するほどの事態にはなっていない。その事に人々は胸を撫で下ろす。だがジュールがいる飲食店街は、ガラスや食器の破片が至る所に散らばり、散々たる状況と化していた。
施設内は一転して、しんとした静寂に包まれている。人々は無事でいられた事にホッとしているのと、無駄に騒いではダメだと自制心を働かせているのだろう。そしてジュールと女もまた、同じように口を噤んでいた。ただそこでジュールは再び右目に激痛を感じ身悶える。それでも彼は必死で痛みに堪えながら、女に聞き尋ねたのだった。
「こ、これもあんたの仕業かい? テロリストには見えないけど、あのスピードと攻撃力は異常だ。とても普通の人間だとは思えない。あんた、一体何モンだよ」
「ハッ、冗談はよしなよ。こんなに人が集まる場所で騒ぎを起こしたって、何の得にもならないだろ。それよりお前こそ何者なんだ。化け物に違いはなさそうだけど、私が追っている【獲物】とは少し違うみたいだね――」
女は決してジュールに向けた殺気を弱めようとはしない。ただそれでも言葉の節々に戸惑いが見え隠れする。彼女は迷っているのだ。ジュールが標的とすべき存在ではないんじゃないのかと。それに彼女もまた、突然起きた地震の様な状況を把握しきれていない様子である。その証拠に彼女はジュールを警戒しつつも、頻りに周囲を気にする素振りを見せていた。まるで誰かを探しているかの様に――。でもその時だった。
「キャッ」
少女の悲鳴が響く。なんとイベントの為に通路脇に展示されていた等身大の女神像が、少女に向かって倒れ掛かって来たのだ。
「危ない!」
素早く振り返ったジュールは少女の体を抱きかかえる。そして彼はそのまま横っ飛びして女神像を避けた。
「グシャン!」
女神像が転倒した騒然たる音が鳴る。しかし女神像は転倒しただけでは事足りず、その勢いを保ったまま通路と吹き抜け部分とを遮る落下防止の手すりをなぎ倒した。
「ガジャン! ガラガラ」
女神像と手すり部分が激しくぶつかり損壊する喧々たる音が響き渡る。そして半壊した女神像はそのまま吹き抜けを落下し、20メートル下の三階ホールで砕け散った。
「キャーッ!」
三階にいた客達からの悲鳴が高鳴る。もしかして今の衝撃で怪我人が出たのかも知れない。ジュールはそんな不安を覚えたが、しかしそんな思いをかき消す様に、彼の胸に抱かれた少女が懸命に声を張り上げた。
「お兄ちゃん、上!」
「えっ」
少女に促されるがままジュールは天井を見上げる。するとそこにはグラグラと大きく揺れる大柄な証明設備があり、それを固定している天井部分がどんどんとひび割れて行く様子が見てとれた。
「ヤバいぞ!」
ジュールは直感としてそう思う。そして彼が次に瞬きした瞬間、照明を支えきれなくなった天井は、大きな瓦礫となって落下した。
「歯を喰いしばれ!」
ジュールは少女に言いながら懸命に体を横に転がせる。少女の体を強く抱きかかえたまま、彼は祈る想いで落下する照明からの直撃を避けようとした。だが無情にもそんな二人に向かい瓦礫が降り掛かる。
「ガシャーーン!」
大柄な照明は通路に叩きつけられると、猛烈な破壊音を響かせて粉々になる。まるで爆撃でも受けたかの様だ。ただそんな致命的な事態をジュールはギリギリのところで躱していた。
あれが直撃していたら大怪我じゃ済まなかったぞ。そう思ったジュールはホッと胸を撫で下ろす。ところがそんな彼の胸に抱かれていた少女の体が、女神像が転落した吹き抜けに向かって急激に動き出した。
粉々になった証明設備の残骸の一つが吹き抜けに落下して行く。そしてその残骸から伸びたワイヤーが、なんと少女の足に引っ掛かっていたのだ。
「キャァァー」
ジュールの胸から滑るようにして少女が抜け出す。そしてその小柄な体は一直線に吹き抜けに向かった。だがそれを黙って見送るはずもない。ジュールは即座に駆け出すと、少女の足に絡まるワイヤーに蹴りを叩き込んだ。
「バチン」
ワイヤーが少女の足から外れる。幸いにもそれ程きつく絡まってはいなかった様だ。だがしかし、吹き抜けに向かう勢いまでは殺せず、少女とジュールはそのまま空中に投げ出された。
「受け取れーっ!」
吹き抜けに投げ出された瞬間にジュールはそう叫ぶと、少女の体を強引に掴み取り、力任せにその体を投げ飛ばした。
驚異的な腕力だ。だが確実に少女の体は元いた四階通路に向かって飛ぶ。そしてそこには黒髪の女がいた。
「!」
女は目を丸くして驚く。それでも彼女は少女をがっちりと抱き止めた。これなら少女はほとんどケガをしていないだろう。でもあいつは……。黒髪の女がそう思った時、ジュールの体は女神像と同じく、20メートル下の三階ホールに頭から叩きつけられていた。
ショッピングモール内は完全に混乱状態と化している。突然の爆発音に地震の様な大きな振動。何が起きたのかまったく把握出来ない大勢の客達は、鳴り響く火災警報のベルに背中を押されるよう、一斉に出口に向かって逃げ出していた。ただその中で三階ロビーに転落したジュールは、大の字になりながら自分が落ちて来た五階部分を眺めていた。
「五重塔の時といい、こうも頻繁に高い所から落ちるなんて、運が悪いにも程があるな。でも何でだろう。今の俺はバトルスーツを着ていない。それなのにあの高さから落ちて無事だなんて、ちょっとおかしいぞ」
ジュールはそう呟きながら苦笑いを浮かべた。彼はタフ過ぎる自分の体を改めて不快に感じたのだ。でも本当に不快を感じているのはそこではない。耐え難い苦痛を幾度も味わっているのに、その苦痛にどこか心地良さを感じている自分がいる。その事に彼は気を揉んだのだ。
「完全にイカレてるぜ――」
もう、どうでもいい。ジュールはそんな気分だった。だって例えそれが悪夢の中であったとしても、自分は生まれるべき存在ではないと言われたんだ。それに現実では見ず知らずの女に突然襲われ、化け物扱いまでされた。
生きる価値ってなんなのだろうか。死ねば楽になれるんだろうか。でも自分の体は簡単に壊れてくれない。じゃぁ俺はどうすればいいんだよ。俺は何の為に生きているんだよ――。落胆したジュールは天井を見つめながら自問自答を繰り返す。常識を外れたタフさに、禍々しさの込み上がる心に、彼は酷く失望していたのだ。ただそんな彼の元に、血相を変えたアメリアが駆け付けて来る。
「ちょっと大丈夫なの! ねぇジュール、生きてるの!」
アメリアは必死の表情で呼び掛けた。見るからに痛々しい姿のジュールを見て、彼がとても無事であるとは思えなかったのだ。ただそんな彼女に対し、ジュールは怠そうに上半身を起こすと、少し鬱陶しそうに返答した。
「見て分かるだろ。生きてるよ、生きてる。そんな大きな声出さなくても聞こえてるよ」
「良かった。……でも何よ、その言い方。こっちは本気で心配したんだよ。それなのに、そんな言い方はないでしょ!」
アメリアがムキになって声を荒げる。彼女はジュールの事が心配で仕方なかったからこそ、投げやりな言い方をした彼に怒りを覚えたのだ。だがそんなアメリアにジュールは冷たく言い放つ。
「生きてるから生きてるって言っただけだろ。それにさ、たかだか20メートルくらいの高さから落ちただけだろ。大袈裟過ぎるんだよ。恥ずかしいからそんなに騒がないでくれ」
ジュールはそう言うと、やれやれと溜息を吐き出した。彼にしてみれば、アメリアの気遣いは過剰に思えたのだろう。しかしアメリアにしてみれば、それは卑屈な態度にしか感じられなかった。そして彼女はグッと拳を握りしめながら零れそうになる涙を堪える。ジュールに向けた憤りを必死で押さえつけているのだ。だがそんなアメリアに対し、ジュールは嘲る様に一言漏らしたのだった。
「よく泣くな、アメリアは。何をそんなに泣く必要があるんだよ」
ジュールにしてみれば、それは何気ない一言だったのだろう。しかしそれはアメリアの耐え忍ぶ気持ちを踏みにじった。心から心配していたのに、どうしてその気持ちが分かってくれないの。傷ついたジュールの姿を見て怖くて堪らなかったのに、どうしてあなたはそんなにも他人事の様に話せるの。本当に自分勝手過ぎるよ! そう感じたアメリアは、ついに怒りを露わにしてジュールに向かい叫んでしまった。
「バカじゃないの! 死ぬところだったのよ。たまたま運が良くて生きてられたのに、どうしてそんな事言うの。死んだ方がマシみたいな言い方しないで!」
「俺は誰からも必要とされてないんだ。博士がいなくなった今、俺には生きていく価値が見つけられないんだよ。何が本当で何が幻かも区別がつけられない。だからさ、いっそ死んじまった方が楽になれる。そう思ったって変じゃないだろ」
「パン!」
ジュールの頬が強く弾ける。アメリアが彼の頬をおもいきり平手打ちしたのだ。だがそれでも収まりの利かないアメリアは、涙を溢しながらジュールに叫んだ。
「いい加減にして! そんなに死にたいなら一人で何処かに行って、勝手に死ねばいいじゃない! バカは死んだってバカなんだから、好きにすればいいのよ! 人の気も知らないで、この分からず屋!」
アメリアはそう言うとジュールを鋭く睨み付ける。ただ彼女はサッと立ち上がると、そのまま何処かへと駆け出して行ってしまった。
「チッ、何なんだよ。痛ぇなぁ」
ジュールはアメリアに打たれた頬を摩すりながら呟く。叩かれる理由が分からない。俺が何か悪い事でもしたのか。その時の彼は報われない自分の不遇さを嘆く事しか出来なかった。そして去り行くアメリアの背中を目で追いつつも、ジュールはそれを呼び止めようとはしなかった。
「アメリアに俺の気持ちが分かるはずがない。ううん、誰にも理解出来っこないよ。こんな得体の知れない体になっちまって。どうして俺ばかりがこんな目に遭うんだよ。俺の何が悪いって言うんだよ――」
災難ばかりが降り注ぎ、かつ死が近づくほどの窮地に心が狂喜する。そんな理解不能な自分自身に、ジュールは極度の不快感を覚えていた。しかし彼にはその疎ましさを晴らす手段が見つけられない。
「俺はどうすればいいんだよ。頼むから教えてくれよ。ねぇ、博士……」
ジュールは堪らなく弱音を漏らす。もうダメだよ。限界だよ。気持ちがポッキリと折れてしまった彼は縮こまる事しか出来ず、絡めた自分の腕に爪を喰い込ませるだけだった。
ただそんな彼の右目はいつの間にか輝きを消していた。また同時にその奥に感じていた鈍痛も、嘘の様に鎮まっていた。さらに体の至る所で唸りを上げていた激痛も、みるみると軽減されていく。だがしかし、アメリアに叩かれた頬の痛みだけは、なぜだか治まる気配がしなかった。
雑然とするショッピングモールに多数の消防車や救急車が駆けつけて来る。また施設内部にはすでに地元警察部隊がなだれ込んでおり、事態の収拾に努め出していた。
パニックに陥った者達を警察隊士が誘導して行く。また怪我人に対する応急処置も、それぞれの場所で開始された。そして一時混迷を極めたショッピングモールであったが、その後に事態が悪化する事もなかった為、人々の心情はだいぶ落ち着きを取り戻している様子だった。
しかしその中でジュールは、施設内部の調査を始めた警察部隊の目を避ける様にしてショッピングモールを後にする。彼はゴタゴタに巻き込まれるのを嫌ったのだろう。いや、それ以上に彼は一人きりになりたかったのだ。
全身傷だらけであり、服に至ってはボロボロの状態である。これは黒髪の女との激闘の影響だが、見るからに普通じゃない。こんな姿じゃ目立つのは当然だし、もちろん警察にも目をつけられるだろう。でもそうなったら面倒だ。ジュールは周囲の目から隠れる様にして、森林公園の森の中へと踏み入った。
ただその時、彼はショッピングモールに向かって駆ける多くの人々とすれ違う。騒ぎを聞きつけた野次馬達が、興味本位で見に行こうとしているのだろう。迷惑な話だ。だがヘタに彼らの気に留まるのも望ましくない。ジュールは森の中を目立たぬ様にして、足早に歩みを進めた。
それから少ししてジュールは、あまり使われていなそうな小さな水飲み場を見つける。太い木に隠れる様な場所に設置された為、ほとんど使用する人がいないのだろう。でもなんでこんな変な場所に水飲み場を作ったのだろうか。
ジュールはそんな事を思いながらも、その水飲み場に辿り着く。そして彼は水道の蛇口を捻り水をガブ飲みした。激闘のせいなのだろう。喉がカラカラに渇いていたのだ。それに何だか体が熱い。そう感じた彼は、そのまま汚れた顔をバシャバシャと洗った。
「ふぅ」
冷たい水が心地良い。火照った顔を冷ますのに丁度良かったのだろうか。しかしこの程度の麗しさで壊れ掛けた心が修復されるはずもない。ジュールはモヤモヤした心情を引きずりながら、森の中を流れる小川に沿って黙々と歩き始めた。涙を浮かべながら駆けて行ったアメリアの事など、まったく気にも留めないで。
ジュールは焼け焦げて傷ついた上着を脇に抱えながら、川の流れを追う様にして進む。ただそこで彼はふと気が付いた。目の前に大きな川が流れている事に。
どれくらい歩いたのかは分からない。だが彼はいつの間にか森林公園を抜け出し、少し大きな川の前に来ていたのだった。
それは若干汚れが目立つ川であり、その表面は薄らと緑掛かっている。僅かな悪臭すら鼻につく程だ。幅50メートルはある一級河川なのに、どうしてこんなにも汚れているのだろうか。
大きな川は森林公園から流れて来た清らかな小川をその身に受け入れつつも、薄く緑掛かった川色を決して変えはしない。ただゆっくりと北から南へ流れているだけだ。そして気が付けばジュールは、そんな薄汚れた川に掛かる橋の上にいた。
温かい春の日差しが水面を反射し、ジュールの沈んだ表情を小さく照らし出している。いつの間にか空を覆っていた雲はその姿をバラバラに細分化し、湿った大地は湯気が出る程に暖められていた。
ジュールの気持ちとは対照的に、心地良い麗らかな春の日差しが全身に注がれる。その中で彼は流れゆく川を覗き込み、揺れながら反射する太陽の光を呆然と見つめていた。何かを考えているわけではない。水面に揺れて変化する太陽を、意味もなく見つめているだけだった。ただその時、橋の反対側を渡っていた幼子が、手をつなぎ歩く母親に向かい声を上げる。幼子は遠くの空を指さしながら、歓喜で声を震わせていた。
「見てママ! きれいだよ。お空に大きな輪っかがあるよ!」
「あら、本当。あれはね、虹っていうのよ。大きくて綺麗だね」
そんな話し声につられ、ジュールは幼子が指さす方向に視線を移す。するとそこにはハッキリとした七色を彩る、大きな虹が北東の空に掛かっていた。
「す、凄いな」
ジュールは久しぶりに見た虹の姿に息を飲んだ。見上げた空は疎らに雲が漂っていたが、それでも澄んだ青色で塗りつぶされている。そしてそこに懸かる壮大な虹は、まるでこの世のものとは思えないほど美しく感じられた。
空を見上げたのはいつ以来だろう。下ばかり向いていたジュールにとって、その空の青さと広さはとても新鮮に感じられた。そして空のキャンバスにくっきりと描かれた七色の虹から、ジュールは目が離せなくなっていた。――と、その時、ジュールの瞳に涙が溢れる。
あの時と同じ空。十年前に、グラム博士と共にスラムを離れたあの日の空。あの日も雨上がりの空からは大きな虹が姿を現し、旅立つジュールの門出を見守る様に輝いていた。そしてジュールは今でも鮮明な記憶に残るあの時の空と今日の空を重ね、博士と共に旅立った時の胸の高鳴りを思い出していた。
あの時は新しい世界に足を踏み出す事に何の恐れも感じず、これから起きるであろう何かに心を躍らせていた。まだ子供だったからなのか、それとも未来への憧れが強かったからなのか。ただ不安や恐れよりも期待や希望のほうが何十倍も大きく、早く早くと博士を急かしながらまだ見ぬ世界へと歩み出しのを覚えている。そんな昔の自分を思い出したジュールは、口元を緩めて自然に表情をほころばせた。
「ふぅ――」
少し落ち着きを取り戻したジュールは軽く深呼吸する。そして袖口で涙を拭った彼は、そこでアメリアから渡された博士の手紙の存在を思い出した。
ジュールは急いでポケットに手を差し込む。もしかして黒髪の女との激しい戦闘で落としてしまったかも知れない。ジュールはそう危惧し焦りを覚えたが、しかし手紙の入った封筒はズボンのポケットにしっかりと収まっていた。
「良かった」
ホッと胸を撫で下ろしたジュールは、そのまま封を開け手紙を取り出す。激しい戦闘の影響もあり、かなりクシャクシャに折れ曲がってはいるが、でも損傷はしていなそうだ。ただそこで彼は少し躊躇した。もし嫌な事が書いてあったならどうしよう。ジュールはそう考え戸惑ったのだ。
だが彼がそう思ったのは一瞬だった。手紙の内容に不安を抱きつつも、ジュールは折り曲げられた手紙を丁寧に広げる。するとそんな彼の手に何とも言えない優しさが伝わった。
懐かしくて心地良い。手紙から博士の優しさが間接的に伝わって来る。そんな柔和な感覚に包まれたジュールは無意識に気持ちを躍らせる。そして彼は高鳴る気持ちを抑えながら、博士からの手紙を読み始めた。