#25 初虹の約束(二)
温かいコーヒーとトーストを用意したアメリアがリビングに戻って来る。しかしジュールは未だ心ここにあらずといった状態であり、彼女に気を留めようとはしなかった。
彼はテレビから伝わるニュースが次の話題に移っている事にも気付いていない。顔はテレビの方を向いていたが、その瞳には何も映っていないのだろう。ただそんなジュールに向かい、アメリアはいつもと変わらない口調で話題を振った。
「またあったみたいね、スポーツ選手の失踪事件。今年に入ってこれで三人目よ。すごく気味悪い。何の痕跡もなく突然いなくなっちゃうんだって」
アメリアはテレビに映し出された若い女性の顔写真を見ながら言った。それはまだ十代の若手女性スイマーであり、将来を有望視されたホープであるらしい。しかし彼女は何らかの事件に巻き込まれ、行方知れずになっているという。ただアメリアはそんな失踪した女性スイマーを引き合いにしてジュールに問い掛けた。
「ねぇジュール。私が突然いなくなっちゃったら、ジュールは悲しむ?」
「えっ。あ、あぁ。気味悪いね」
アメリアの少し悪戯を含んだ質問に、上の空だったジュールは適当に答えた。するとアメリアは頬を膨らませ怒った表情をしてみせる。しかし無関心なジュールにはそれが分からず、用意されたコーヒーを一口だけ口に含むだけだった。
彼はグラム博士の死や自分の体について考え込んでいた。だがそれにも増して、右目の痛みが一向に引いてくれない。そんな苦痛を感じたジュールは無意識に右目を手で覆う。いっその事、このまま右目を引き抜いてしまいたい。そう感じるほど痛みは強さを増していた。
「どうしたの。右目、痛むの?」
アメリアは痛みに耐え兼ねているジュールを見て気遣う。そして彼女は右目を押さえる彼の手に自分の手を重ねようとした。だがその瞬間、ジュールは反射的にアメリアの手を払い退ける。そんなつもりは更々なかったのに、彼は思いのほか強くアメリアの手を叩いてしまった。
勢いよく弾かれたアメリアの手がコーヒーカップにぶつかる。するとその拍子でコーヒーカップは床に落ち割れてしまった。またテーブルの上はこぼれたコーヒーで一面黒く染まっていった。
無意識だったとはいえ、ジュールは自分が仕出かした行為に負い目を感じる。しかし彼はアメリアに対して何も言えなかった。謝らなければいけないと分かっているのに、その言葉が口から出でくれなかったのだ。ただそんな気まずい状況の中で、謝罪を口にしたのはアメリアの方だった。余計な波風を立てたくなかった彼女なりの配慮なのだろう。でもジュールを見つめたアメリアの瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「ゴメンね。私が変なことしようとしたから……」
アメリアは溢れてくる涙をジュールに見せぬよう、必死に堪えながら後片付けを始める。グラム博士の死に悲しむジュールの負担になってはいけない。彼女はそう思ったのだろう。ただそんな後片付けを始めたアメリアの姿をジュールは立ち尽くしながら見ていた。
自分を心配し、また悩んでいる自分の為にそっと身を寄せ気遣ってくれている。そんな彼女に俺はなんて事をしてしまったんだ。ジュールはそう自分自身を責めて悔やんだ。だがそれが分かっていながらも、彼の口から詫びの言葉は出なかった。
ジュールは言葉なく立ち尽くしている。すでにアメリアは後片付けを終えていたが、彼は視線を落としながら悲痛な表情を浮かべていた。俺は何をウジウジしているんだ。俺はいつからこんな意気地なしになっちまったんだ。このままではダメなんだと、必死になって気持ちを奮い立たせようと試みる。しかしここまで落ち込んだ彼の気持ちが簡単に回復するはずもなかった。
ジュールは不甲斐ない自分に憤りを感じてならない。ただその時、俯いた彼の顔をアメリアが下から覗き込む。まだその目は涙で少し腫れていたが、彼女は彼を睨みつけながら強い口調で問い掛けた。
「ねぇジュール。さっき自分がした事、悪かったって思ってる?」
アメリアはそう厳しく問うた。気が強い彼女の性格が現れたのだろうか。そしてそんな彼女に対し、ジュールは必死で頷いた。未だ声は出せなかったが、彼は本当に申し訳ないと思ったのだ。
ジュールは何度も何度も首を縦に振り、アメリアに自分の不甲斐なさを詫びる。いや、もしかしたら彼女の向こう意気の強い性格に畏怖しただけなのかも知れない。見た目の可愛らしさに反し、アメリアは本当に負けん気の強い性格なのだ。ただそんな彼の胸の内を知ってか知らずか、アメリアは小さく応えたのだった。
「そう」
小さく吐き出した彼女の声の後に沈黙が流れる。マズイ、怒らせてしまったか。ジュールは内心で動揺した。だがそんな彼に向かい、意外にもアメリアは微笑み掛ける。そして彼女は先程までとは真逆のニッコリとした笑顔で彼に指示した。
「なら、お詫びに買い物に付き合ってよ。せっかく仕事休んだんだし、一日中家にいてもつまんないでしょ。少しくらい体が痛むからって、軍人なんだから我慢してデートに付き合いなさい!」
アメリアはそう言って無理やりジュールをデートに誘う。鬱屈した気分を晴らすには外出するしかない。それに家の中にずっといたら、本当に息が詰まってしまいそうだ。彼女はそう考えたからこそ、口実を作ってジュールを誘ったのだ。
半ば強引に押し切られる形で外出するはめになったジュール。しかし彼自身も、決して悪い気はしていなかった。アメリアの心遣いが身に染みて嬉しく、今は何も考えずに彼女と時間を共有したい。彼は心からそう思ったのだ。だってそうすればきっと、この右目の痛みも治まるはずだし、気分もずっと楽になるはずなんだから。ジュールはそう心に強く言い聞かせながら、外出の準備を整え始めた。
プルタークタウン。それは首都ルヴェリエの南西に位置する場所にあり、【巨大な電波塔】が見下ろす一大商業区画の地域名称である。そしてその中心にある【プルタークモール】は国内最大級のショッピングモールであり、その大きさはとても一日では回り切れない広大なものであった。またそれ以外にも遊園地や水族館など、複数のテーマパークも併設されていて、首都において最も人が集約する場所と言っても過言ではなかった。
電波塔の御膝元ということもあり、プルタークタウンにはテレビ局やラジオ放送局等のメディア産業の施設やオフィスも数多く建て並んでいる。さらにプルタークタウンは【セントラル森林公園】と隣接していることもあり、環境の面でも居心地の良い人気のスポットとされていた。特に【プルタークタワー】と呼ばれる高さ千メートルの電波塔は壮大であり、王国全土に情報を発信する役割を担うと共に、観光名所としても大いに賑わっている。そしてその土台部分にあるのが30階建相当の商業施設であるプルタークモールであり、そこでは観光客のみならず、多くのルヴェリエ市民も買い物などを楽しんでいた。
一つ手前の駅で地下鉄を下りたジュールとアメリアは、森林公園を歩きながらプルタークモールを目指していた。面倒にも感じられたが、気分転換に良いからとアメリアがあえて少し歩こうと言い出したのだ。
昨日まで降っていた雨はすっかり上がっている。でもまだ空には雲が多く、正午に近い時間であったが太陽の光は遮られていた。冬が終わり春になったが、この天気ではまだ肌寒い。そんな冷たさが身に染みる中で、二人は道に出来た水溜りを避けながら歩みを進めた。時折道を塞ぐほどの大きな水溜りがあったが、「行っちゃえ!」とばかりにアメリアはジュールの手を引いてお構いなしに水の中を駆け抜ける。そして寒いから早く行こうと急かしながら、アメリアは目的地であるプルタークモールを指差して微笑んだ。
「靴の中まで濡れたらどうすんだよ」
「男なんだから細かい事は気にしないの!」
不満を口にするジュールに対し、アメリアは満面の笑顔で応える。そして彼女は彼の腕を強引に引っ張り続けた。
「やれやれ」
ジュールはしかめっ面を浮かべながら溜息を吐き出す。高揚したアメリアのテンションについて行けない。彼はそう思い疲れを感じたのだ。ただそれでもジュールはアメリアに従い足を進めた。彼は彼女の笑顔を見る度に、心がホッと癒される気がしていたのだった。
「今日一日、考え事なしでアメリアと楽しもう――」
彼の心を覆う暗雲はそう簡単に消えないだろう。でもだからこそ、彼は心からそう願った。アメリアと一緒に居られる時間だけが、今の自分には必要なのだと。ただその時彼の目に映った巨大な電波塔はどこか薄気味悪く、その中央から先を雲に突き刺した姿は、まるで天に歯向かう悪魔の矛先の様に見えていた。
プルタークモールにつくと、そこは多くの人で賑わっていた。平日ではあったものの、ルーゼニア教創設千年の記念祭をちょうど一年後に控え、モール内で盛大なイベントが開催されていたのだ。
そんなイベント会場に差し掛かった二人は、人の多さに息苦しさを感じる。人混みの苦手なジュールはおろか、さすがのアメリアもこの状態には舌を巻いた。でもここまで来て引き返すわけにも行かない。そう思ったアメリアは人を掻き分けグイグイと進む。そしてイベント会場から抜け出した二人は、やっと落ち着いて歩ける専門店街に辿りついた。
ジュールとアメリアはショウウィンドウを眺めながら、お互いの手を繋いで歩く。その姿はどこからどう見ても恋人同士だろう。でもいつ以来だろうか。久しぶりのデートにアメリアは上機嫌だった。
ジュールがトランザムに配属されてから半年あまり、二人はほとんど時間を共有出来ていなかった。それはジュールが休日も自主的なトレーニングに努めていたからであり、先輩隊士に遅れを取るまいと、過酷な訓練を続けていたからである。だから今日は本当に久しぶりのデートなのだ。
今にも鼻歌を歌い出しそうなほどアメリアは機嫌がいい。ジュールと二人で過ごすゆっくりとした時間が嬉しくて仕方ないのだろう。ただジュールの方はというと、未だトランザムの仲間達が入院している事を思い気が引けていた。傷ついた体に苦しむ先輩隊士達を差し置いて、自分は恋人と仲睦まじくデートをしている。そんな状況に遠慮の様な気持ちを感じたのだろう。でもそれ以上に彼は大切なものを感じていた。
アメリアの笑顔を見て彼はハッとしたのだ。せっかくの貴重な二人の時間を大切にしなければいけないのだと。そして嫌な思いをさせてしまったアメリアに、少しでも楽しさを味わってもらいたい。ジュールは心からそう思っていた。
特に何かを買おうという目的はない。流行ものの服など見ながら並んで歩くだけである。それでも二人は何とも言えない心地良さを感じながらデートを楽しんでいた。
「どうこれ、似合う?」
「シンプルなのは良いけど、ちょっと色が派手過ぎるよ」
明るい赤色を基調としたチェックのワンピースを手に取って尋ねるアメリアにジュールはそう答える。どちらかと言えば童顔であり、可愛らしい顔つきをしているアメリアならば、少しくらい色が派手であろうと似合ってしまうだろう。でも自分達はもう二十代も半ばなのだ。そろそろ子供っぽい服装は卒業した方がいい。彼はそう思って彼女に告げたのだった。
するとそんなジュールに向かいアメリアは不機嫌そうに頬を膨らませる。彼女にしてみれば、単純に似合うかどうかを聞きたかっただけなのだ。だからダメ出しされた事に不満を感じたのだろう。自分だってもう子供じゃない事くらい分かっている。でもカワイイ服を見ながら心を若返らせて何が悪いって言うのよ。アメリアはそう思いながらジュールをきつく睨み付けた。
そんな態度にジュールは含み笑いを漏らす。普段はしっかり者のアメリアが久しぶりに見せた子供っぽい姿に、彼は微笑ましさを覚えずにはいられなかったのだ。そしてそんな彼の微笑みにつられる様にして、アメリアもクスクスと笑った。彼女自身も、まだ大人になり切れていない自分の内面がおかしかったのだろう。
和やかな雰囲気が二人を包む。互いに笑顔を見せあうジュールとアメリアは、それからも楽しそうに色々な店を見て回った。ただやはりまだジュールの気持ちは収まりがついていないのだろう。時間の経過と共に口数が徐々に減っていく。そして気が付けば、無言でいる時間が大部分を占める様になっていた。
彼は解決し得ない悩みに没頭していた。ダメだダメだと分かっているのに、無意識のうちに考え込んでしまい、遣り切れない気持ちになっていたのだ。ただそんな気落ちしたジュールにアメリアは言う。彼女は彼の気分を少しでも紛らわせようと思い、プルタークタワーの中腹にある展望台に誘ったのだった。
「ねぇ、展望台に昇ってみようよ」
「混んでるんじゃないのか? 遠慮しとくよ。俺、人混み苦手だしさ」
ジュールはそう言ってアメリアの提案を断る。しかしアメリアは強引に彼の手を引っ張り展望台に向かった。彼女はこうと決めたら曲げない性格なのだ。そしてそんなアメリアの性格を誰よりもよく理解しているのだろう。ジュールは溜息を吐き出しながらも、仕方なく彼女に付き従った。
展望台に向かうエレベーターは、案の定多くの人で込み合っていた。それでもアメリアは「もう入場券買っちゃったから」と、渋るジュールを引き連れ順番待ちの列に並ぶ。どれだけ待つ事になるのだろうか。気の進まないジュールは怠い疲労感を覚えて仕方なかった。
ただ思いのほか待ち時間は少なく、エレベーターの順番が回ってくる。大型のエレベーターは一度にかなり多くの人を運搬出来るのだろう。二人は程なくして展望台に昇る事が出来た。
地上から五百メートルの展望台より見る光景は壮観である。だが空は生憎の花曇りであり、視界はどこかモヤっとしていた。それでも僅かな雲の切れ間より薄日が差し込み、その度にルヴェリエを一望することが出来ていた。
アメリアは北東に見えるアダムズ城を眺めている。普段なら壮大に見えるお城も、この場所から見れば小さくて可愛らしいものだな。彼女はそう思っているのかも知れない。ただそれから少しして、彼女は何気なくジュールに問い掛けた。
「ここに来たのは二度目だね。初めて来た時のこと、覚えてる?」
「当然だろ。アメリアがルヴェリエに来た初日だモンな。忘れるわけないよ。でももうあれから五年も経つのか。時間が経つのは早いな。そう言えば、里のおばさんは元気にしてんのかよ?」
「うん、相変わらず元気だよ。一人暮らしだけど、あそこは里全体が家族みたいなところだからね」
アメリアはそう言って微笑んで見せたが、それはどこか少し寂しそうな表情にも見えた。母を一人田舎町に残していることに、彼女は心苦しい思いがしたのだろう。するとそんな彼女の気持ちを察したのか、ジュールはバツが悪そうしながら、薄く伸びるタワーの影に視線を逸らせた。無頓着な話題を振ってしまったと、身の縮む思いがしてならなかったのだ。
ジュールはタワーの影を目で追って行く。曇り空のせいで影は薄かったが、それでも細長い影はずっと先まで伸びている。そしてその影は広大な森林公園を突き抜け、その更に先にある住宅街にまで伸びていた。
ただそこでジュールはふと視線を止めた。そこには何やら白く丸い物体が確認出来る。小指の爪程の大きさに見えるその物体が何なのか、彼にはまったく分からない。でも車の形も認識できない程の距離であるからして、そこそこの大きさの建造物であるのは間違いないはずだ。そう思ったジュールは、すぐ近くに備え付けられていた望遠鏡へと足を向ける。彼は白くて丸い物体がなんであるのか、気になって仕方なかったのだ。――がその時、
「トン」
ジュールはパンツスーツを着た黒髪の長い女性と軽く接触してしまう。彼はぶつかる寸前に体を反射的に捻って回避を試みたが、勢いを殺しきれず女性と接触し、そのはずみで転倒してしまった。ただ女性の方は体勢を崩すまでには至らず、彼はホッと胸を撫で下ろした。
「済みません。ちょっとよそ見をしていたので」
ジュールは周囲を確認せずにいた自分の不注意を素直に謝る。だがそれに対し女性は彼を一視するも、何事も無かったかの様に無言で立ち去って行ってしまった。
「大丈夫、ジュール。ちゃんと周り見てないからこうなるのよ。それにしても何なの、あの人の態度。謝ってるのに無視するなんて、失礼よね!」
アメリアがジュールを助け起こしながら吐き出す。彼女はスーツの女性の怠慢な態度に腹を立てているのだ。そしてジュールも同様に黒髪の女性の対応に首を傾げた。ただ何となく妙な違和感を覚えたジュールは、人込みに消えて行く黒髪の女性を目で追っていた。
「ちょっと、綺麗な人だったからって、いつまで見てんのよ。男っていうのは本当にスケベね」
「ちょ、な、なに言ってんだよ。別に何とも思ってないよ」
「そうやって必死に誤魔化そうとするところが、やましい証拠よ!」
怒った表情で捲し立てるアメリアにジュールは困惑する。ちょっと気になったから後姿を目で追っただけじゃないか。そこに疾しい感情なんてあるはずがない。でも言い訳したところでアメリアは納得するだろうか。ジュールは苦々しく表情を曇らせる。ただそんな彼の困った表情を見たアメリアは、思わず噴き出してしまったのだった。
「アハハ。バカね、ちょっとからかっただけでしょ。なに本気で困ってんのよ。それよりお腹空いてきちゃったから、そろそろお昼にしようよ」
冷やかされた事に今度はジュールが腹を立てる。しかし彼に向かい、アメリアは舌を出しながら小走りに駆け出した。悔しかったら掴まえてみろ。それはまるで、無邪気に遊ぶ子供の様だった。
「やれやれ、参ったな」
そう溜息混じりに呟きながらも、ジュールは足取りを軽やかに彼女を追い始める。まだ右目の奥に感じる痛みは強いままだ。それでもアメリアと言葉を交わし、彼女を追い駆ければ痛みは治まるんじゃないのか。彼はそう信じてアメリアを追った。
雲の切れ目から一際眩しい太陽の光が降り注ぐ。そしてその光はプルタークタワーの影を、よりくっきりとした形で浮かび上がらせた。
巨大な【日時計】とも言えるその塔の影は、この日最も短くなって正午を告げる。ただそんな特大の三角形の姿をした影は、何かを指し示す矢印の様に、その先端を鋭く尖らせていた。
巨大なショッピングモールは三階から七階までが吹き抜けの構造になっており、その内の四階と五階が飲食店のフロアになっていた。一部改装工事中の店舗もあるが、フードコートをはじめ、多種多様な飲食店がおよそ百軒も並んでいる。そんな中で二人は、どこで食事しようか迷っていた。
ちょうど昼時ということもあり、どの店もそれなりに混み合っている。人気店などは長い行列が出来ているほどだ。もちろん二人にはそんな行列に並ぶつもりはない。たださすがにこの時間帯では簡単に入れる店は無さそうだ。ジュールとアメリアは少し落胆しながら歩みを進めた。
しかし彼らが五階の通路を通り掛かった時、幸運が舞い降りる。軽食専門のカフェの前を通り過ぎる際、食事を終えた一組のカップルが満腹気に店から出て来たのだ。
もしかして席が空いているんじゃないのか。そう思った二人は条件反射的にその店の中に入る。するとその予想は見事に的中し、ジュールとアメリアは待ち時間なく客席に案内された。ただ案内された客席は店の最も窓際の席であり、ジュールは何故か店の前を行き交う数多くの人々の視線が気になって仕方なかった。
「気にし過ぎだよ。有名人でもあるまいし、誰も私達の事なんか見てないよ。ほら、お腹空いたから早く決めて注文しよ」
だいぶお腹が空いているのだろう。アメリアはお腹を摩りながらジュールに呟いた。確かにアメリアの言い分はその通りだ。傍から見れば、俺達は普通のカップルにしか見えない。そんな俺達をいちいち気にする奴なんて居るはずがないだろう。でも何だろう、この違和感は……。理由はまったく分からない。だがジュールは行き交う人々の視線が妙に気になっていた。
「誰かに見られている――」
それが自分に向けられているものなのか、そうでないのかは分からない。でも何処からか確実に見られている視線を感じる。でもいつから感じ始めたのか。
ただでさえ痛む右目が更にズキズキと鈍痛を増す。どこからか感じる気味の悪い感覚に助長されているかの様だ。ただそんな顔色の冴えないジュールに気づきつつも、アメリアは彼女なりの配慮として他愛のない話題を投げ掛けた。
「そう言えば、リーゼ姫って最近どうなさってるか知ってる? 体調はもうすっかり良くなったって、随分前にニュースで言ってたけど、その後どうなのか全然報道ないじゃない。ちょっと心配なんだよね」
「あ、あぁ。リーゼ姫なら元気そうだったよ。この間偶然見掛けたんだけどさ、なんか愛犬が居なくなったとかで城中を探し回ってたぜ。そう言えばテスラの奴、姫様のあまりの綺麗さに目を丸くしてたぞ」
「へぇ、あのテスラ君が。でも結構お似合いなんじゃない、姫様と」
「冗談よせよ。いくらテスラが総司令の息子だからって、相手は王族だぞ。それは無いよ。それにしても珍しいな、アメリアがリーゼ姫の話題なんかするなんて」
「姫様って私たちと同じ歳でしょ。何となく気になっちゃって。戦争に巻き込まれて色々と大変だったと思うけど、すごく良い人そうだから、せめてこれから先の人生は幸せになってほしいんだよね――」
アメリアは本心からリーゼ姫の幸せな未来を願って言った。育った環境はまるで別世界だが、それでも彼女は同性であり、かつ同じ歳の姫の幸せを心から願わずにはいられなかったのだ。
そんなアメリアに向かい、ジュールは当然の様に頷いて見せる。アメリアの想いは素直に共感出来るものだ。姫の幸せを願う事になんら否定はない。でもそこで彼は思い出してしまった。羅城門で羊顔のヤツであったハイゼンベルクが告げた『姫を頼む』という言葉を。それは遺言とも言うべき最後の言葉であり、それを思い出したジュールはひどく胸が締め付けられた。
果たして姫はこの先どうなるのか。自分にはいざと言う時、姫を守れるだけの力があるのだろうか。そもそも国王は姫をどうするつもりなのか。でもそれら全ての鍵を握っていたのは、結局のところグラム博士なのだ。しかし博士はもう、この世界には存在しない。
ジュールはまるで振り出しに戻されたかの様に悩み始める。いや、それまで以上に憂鬱な気持ちになってしまった。ただその時である。何かに決意した様な、そんな真剣な表情をしたアメリアがバックから一通の封筒を取出す。そして彼女はその封筒をジュールの前に差し出した。
「これは?」
ジュールは首を傾げながらアメリアに聞き尋ねる。すると彼女は何か言い辛そうに口を噤んだ。アメリアはとても険しい表情を浮かべている。それでも彼女は一呼吸すると、意を決してジュールに伝え始めた。
「グラム博士が亡くなったって教えてくれたけど、その理由は何も言ってくれないよね。でもジュールはその事で色々と悩んでるんでしょ? 私に言えない事は言わなくてもいいし、私も無理に聞くつもりもない。でもね、博士は私にとってもすごく大切な人だったんだよ。博士がいなければ、私とジュールは出会ってなかったんだし……。それにね、博士はジュールと同じくらい、私の事も大切にしてくれたから」
アメリアの目に薄らと涙が溢れる。彼女だって博士の死が悲しいのだ。でもそれを表に出してはいけない。彼女は落ち込むジュールの前で気丈を振る舞っていたのだろう。彼をさらに悲しませない様にと。
でもさすがに堪えられなくなったのか、アメリアの目から涙が零れた。しかし彼女はそれを隠す様に下を向く。ただその状態でアメリアは、まるで差出人の温もりを直接感じ取るかの様に、封筒の上に軽く手を乗せながら言った。
「これはね、グラム博士からの手紙よ。もちろんジュール宛に書かれたもの」
「は、博士が、俺に?」
「うん。ちょうど一ヶ月くらい前かな。仕事中だったんだけど、私のお店に博士が突然現れてね。『これをジュールに渡してほしい』って頼まれたの。ごめんね。もっと早く渡せば良かったのに、まさか博士が亡くなるなんて、私そんなの考えもしなかったから――。いつ渡そうかと思ってたんだけど、なかなかタイミングつかめなくて。大切な手紙なのに、遅くなって本当にごめんなさい――」
アメリアは悔やむ想いを必死に堪えようと肩を震わせた。そして封筒に添えられた彼女の手もまた、当然の様に震えていた。彼女は責任を感じているのだろう。この手紙には間違いなく、博士からジュールに向けた重要なメッセージが書かれているはずなのだ。もっと早く渡さなければいけない物だったのだ。でも自分が至らなかったばかりに、渡しそびれてしまった。
ごめんなさい。アメリアはもう一度だけ小さく呟く。ただジュールはそんな彼女の手に自分の手をそっと重ねると、自分の率直な思いを伝えた。
「顔を上げなよ、アメリア。俺は怒ってなんかないからさ。いや、むしろ手紙を届けてくれた事に感謝してるんだよ。だから手紙を渡すのが遅れたなんて、気にしないでくれ。それにさ、直接じゃなくて、博士がアメリアを通して手紙を俺に届けた事には、何か必ず理由があったはずだからね。博士はそういう人だから――」
ジュールはそう言うと、博士からの封筒を手にする。そしてジュールもまた、博士の温もりを感じ取る様に、手にした封筒を穏やかに見つめた。
封筒には『ジュールへ』とだけ、博士の直筆で書かれている。その文字を眺めたジュールは、何とも言えぬ懐かしさで心が和み顔がほころんだ。
「博士……」
ジュールは思わず笑みをこぼす。だがその時だった。封筒を開けようとしたその瞬間、彼の目に思いも寄らぬ人影が横切ったのだ。
それは数多くの人々が行き交う窓の外だった。なぜ彼がその瞬間に視線を窓の外に移したのかは分からない。それまでに幾度か感じていた、誰かに見られているような違和感はまったく無く、本当にただ何気なく窓の外に視線を向けただけだった。だがそこでジュールは一驚する。そこにはなんと【グラム博士】にそっくりな風貌をした、老人の歩き去る後ろ姿があったのだ。
「ガタンッ!」
ジュールが勢いよく席を立つ。彼の体は考えるよりも先に動いていた。するとそんな彼の唐突な行動にアメリアは目を丸くする。
「どうしたの、ジュール?」
「ゴメン。直ぐ戻るから」
「ちょ、ちょっと、何処行くのよ!」
アメリアの呼び止めを無視してジュールが駆け出す。そして彼は掴んでいた封筒を無造作にズボンのポケットに押し込むと、そのままカフェを飛び出して人混みに消えつつある老人の背中を追い駆けた。
カフェを出たジュールの視界に博士らしき老人の姿が映る。人混みに紛れつつも、まだなんとか目視出来る距離だ。これなら追いつけるぞ! そう思ったジュールは全力で駆け出そうとする。しかし混雑した通路は思った以上に身動きが取り辛く、老人との距離はなかなか縮まらなかった。
焦燥感に駆られたジュールは少し強引に人混みを掻き分け突き進む。だが博士らしき人影しか目に入っていなかった彼は、そこで幼い少女と接触し突き飛ばしてしまった。そして少女の体は比較的強く吹き飛び通路に転がった。
しまった。ジュールは倒れた少女に素早く駆け寄ると、その体を優しく抱き起こす。ただこの間にも博士らしき人影は、どんどんと先に進んでいた。ジュールはそんな老人が気になって仕方ない。でも彼はその感情をグッと抑え込みながら自分の過失を少女に謝った。
「ごめん、怪我はない? どこか痛いところある? ちょっと急いでたから、前をよく見てなかったんだ。本当にごめんね」
「うん、大丈夫。気にしないで。あたしも前見てなかったから。ゴメンね、お兄ちゃん」
少女はそう言ってペコリと頭を下げると、逃げる様にして駆け出して行ってしまった。見ず知らずの男性とぶつかってしまった事に、少女は気恥ずかしさを覚えたのだろう。でも本当に大丈夫か? ジュールは少し心配になった。しかし今はそれどころではない。そう思い直したジュールは直ぐに博士らしき人影が行き去る方向に視線を向ける。するとちょうどその瞬間、博士らしき人影は通路を曲がり、その姿を消してしまった。
「クソっ」
ジュールはグッと奥歯を噛みしめる。上手く行かない状況に彼は歯痒さを感じたのだ。でもまだ間に合うはず。ジュールは再び駆け出し、行き交う人々を縫う様にして老人の後を追った。
老人を見失った通路の分岐点に到着したのはその二十秒後。ただそこは改装工事中の区域になっており、それまでと少し雰囲気が異なっていた。
真っ直ぐに延びる通路には、それまでと同じく大勢の人々が行き交いしている。しかし老人が曲がった方向の通路は、これから新規にオープンする予定の店舗が複数並んでおり、そこでは内装工事を請け負う職人が多数働いていた。でもどうした事だろうか。老人が進んだであろう通路の先。そこは行き止まりになっていて、かつ人が通り抜けられそうな場所も見当たらない。
「済みません。ついさっき、この辺を小柄で白髪の老人が通りませんでしたか?」
ジュールは近くにいた作業中の工事関係者に尋ねる。しかしそこで作業していた者は、誰としてその存在を見掛けていなかった。
ジュールは首を傾げ思い悩む。――おかしいぞ。絶対にここを曲がったはずなのに、どうして誰も見ていないんだ。憤るジュールは複数の工事関係者に詰め寄るも、見間違いじゃないのかと逆に反論され言葉を失った。
「考え過ぎで、幻を見ていたのか。――痛ッ」
自信が持てず、少し弱気になったジュールの右目に激痛が走る。すると堪らずに右目を押さえた彼は、その場に腰を下ろしてしまった。何でこんな時に痛みが増すんだよ。ジュールは悔しさで表情を歪ませる。ただその時、彼は背後で扉の開く気配を感じ振り返った。
施設の裏手に行くための場所なのだろうか。そこには簡易的に設けられた小ぶりな扉があり、ちょうどそこから一人の工事関係者が身を屈めながら出で来たところだった。ジュールは一向に引かない激痛に耐え忍びながら、その扉に足を向ける。そして彼は関係者以外立ち入り禁止と表されたその扉に、躊躇なく侵入して行った。
そこは様々な配管や電線コードなどが張り巡らされた施設の裏側通路であり、一般客など訪れるはずのない場所であるのは明白だった。ただそこでジュールは発光する何かに気を取られる。薄暗い通路の片隅に並ぶ発光した物体。工事で使われている物なのだろうか。それは机の上に並んで置かれた数台のノート型パソコンであった。
液晶ディスプレイから光を放出している状態より、このパソコンが使用中であるのは間違いない。そしてそのパソコンが気になったジュールは、引き寄せられる様にそのディスプレイを覗き込んだ。
何かのプログラムらしき文字列が羅列されている。でもそれが何を制御しているものなのかは分からない。ただジュールはそれらのパソコンから伸びる配線が異様に長い事に気付くと、その配線の伸びる先を目で追った。
風変りなマンホールとでも言うべきか。配線の伸びる先の床に四角い穴がぽっかりと開いている。そしてパソコンから伸びた配線は、その四角い穴に垂れ下がっていた。
ジュールは緊張しながら配線の垂れ下がる四角い穴を覗き込む。人一人がなんとか通り抜けられる程の、決して大きいとは言えない穴。ただそこには梯子が掛けられており、それはすぐ下の四階部分を突き抜け、更にその下の階にまで掛けられている様子だった。
ジュールは四つん這いの体勢を取ると、恐る恐る四角い穴の中を覗き込む。薄暗くて肌寒い。それに耳が痛いほどしんと静まっている。そんな空間が不穏な雰囲気を感じさせるのだろう。ただ見たところ四階部分は五階同様に配管などが多数並ぶ裏通路になっているだけだった。当然の様に人影は見当たらない。でもそこで彼は気付く。何処からだろうか。誰かの話し声が聞こえるぞ。
「工事関係の人が話でもしているのか。でもこの話声は何処から聞こえて来るんだ? もしかして、もっと下の階からか――」
梯子は四階を突き抜け、その下の三階にまで伸びている。話し声が聞こえるのは、きっとその三階なのだろう。そう思ったジュールは目を凝らして梯子の伸びる先を見る。しかし薄暗い為まったく見えない。やはり直接下に降りて見ないとダメか。若干躊躇はするものの、彼は思い切って下の階に降りようと梯子に足を駆けた。
工事関係者に見つかったらドヤされるかも知れない。でもあの老人は絶対にこの場所にいるはずなんだ。ジュールは覚悟を決めて梯子を降りようとする。――がその時、彼は側頭部に猛烈な衝撃を受け吹き飛んだ。
「ガンッ!」
弾けるように飛んだジュールは背中をコンクリートの壁に激しく打ち付ける。上手く受け身が取れなかった為に息が出来ない。いや、それにも増して不意の一撃のダメージが足に来ていそうだ。でもじっとしている訳にもいかない。
軍人としての本能が働いたのか、ジュールは素早く立ち上がり身構える。彼は異質な危機感を覚えたのだ。この衝撃は何者かによる悪意に満ちた一撃であるのだと。するとそう思った彼の視界を黒い影が通り過ぎる。――何だ、でも恐ろしく早いぞ! そうジュールが感じた瞬間、再び彼の体は為す術なく吹き飛ばされた。
「ゲホッ」
真横に吹っ飛ばされたジュールの体が埃の溜まった通路を転がる。脇腹に向けられた一撃に対して反射的にガードしたつもりだが、しかし彼の受けた一撃はガードの上からでも十分なダメージを刻む威力を誇っていた。
肋骨が何本か折れたんじゃないかと感じるほど脇腹が痛い。だがそれでもジュールは通路に設置されていた配管に掴まり転がる体を静止させた。
二度に渡る不意打ちのせいで息が出来ない。それに側頭部に受けた最初の一撃のダメージが大きく響いている。軽い脳震盪を起こしているのだろう。視界は揺れ動き、下半身に伝わる力も半減していた。
「クソっ。フザけやがって」
ジュールはそう心の中で吐き捨てるのが精一杯だった。するとそんな彼の満身創痍な状態に気を良くしたのだろうか。一つの人影がゆっくりと姿を現す。ただその姿を見たジュールは、息苦しいながらも思わず声を漏らしたのだった。
「ハァハァ、あ、あんたは、あの時の……」
ジュールの前に姿を現した人影の正体。それは展望台で接触した、パンツスーツ姿の黒髪の長い女であった。