#23 啓蟄の朝の息吹き(後)
老人は不敵に微笑んでいた。でもそれは決して諦めから来る投げやりな笑みなどではない。男を小馬鹿にした嘲笑だ。そしてさらに老人は、向けられた銃口に構うことなく男に対して言い放った。
「随分とせっかちな奴よのう。久ぶりの旧知の再会なんじゃ、少しぐらい昔を懐かしんでも良かろうに。まったく、組織の質も落ちたもんじゃわい。いくら裏組織の一員とはいえ、昔はもっと人間味のある奴らばかりじゃったのにのう」
老人は口元を緩めている。まるで遠い昔を思い出しているかの様に。だがその言葉を聞いた男も冷笑してい1た。そして男は老人に向かい、世間話でもする様に聞き尋ねた。
「ほう、どうやら貴様は随分と昔の組織を知っているみたいだな。面白い、ならば貴様の昔話に俺も混ぜてもらおう。ジジィの知っている組織の過去とやらが一体どんなものだったのか。興味があるから、ぜひ教えてくれ。俺は新参者なんでな、昔の事は何も知らないんだよ」
男はそう言うと、少しだけ態度を軟化させる。老人が切り出した話に興味を惹かれたのだろう。しかしその口ぶりとは裏腹に、男は老人に対して早く話せと威嚇するよう、改めて銃を構え直した。
男は直感として思う。その話し方からして、過去に老人が裏組織に関わっていたのは事実なのだろうと。そして自分の知らない組織の過去を聞いてみたいと、本気で思ったのだ。
ただそこで男はふと思い出す。つい先頃、至近距離から老人を撃ちそこなった事を。何の躊躇もなく人が殺せるはずの自分が、なぜろくに動きもしない標的を外したのか。たとえ無意識だったとしても、今まで決してそんな事は無かったじゃないか。
男はどこか腑に落ちない奇妙な感覚に苛まれていた。それでも男は人を殺める行為に慣れ過ぎ、傲慢になっていただけだと自分に言い聞かせ折り合いをつけようとする。でも老人が裏組織に関係していたとするならば、果たして自分の考えは当たっているのだろうか。
男の胸の奥に迷いが生じ始める。ただ男は鋭い視線を老人に向けた。迷いを振り払う様に、次は絶対に外さないと意識を高めて。
男の額から一滴の汗が流れ落ちる。それなりの場数を踏んで来たはずの男が目に見えないプレッシャーを感じているのは確かだ。その証拠に男の喉は急速に渇いていく。こんな老いぼれから威圧感を感じているのか。意味が分からないぜ。男は苛立ちをぐんぐん強めながら憤った。だがそんな男の気持ちを知ってか知らずか、老人はこの状況を楽しむよう微笑みながら、男の目を見つめ返して言った。
「昔の組織の話が聞きたいとは、おぬし変わっておるのう。王立協会の裏に潜む秘密結社の過去なんぞ知ったところで、おぬしには何のメリットも無いぞ。それでも知りたいと言うのなら、一つだけ教えてやるわい」
老人は男を凝視しながら告げる。そんな老人の眼差しはとても強く、萎縮し怖気づいていた先程までの面影はどこにも見当たらない。それどころかまるで自信に満ちているかの様だ。一体老人の中で何が変化したと言うのか。ただ老人は静まり返る室内で軽く咳き払いをすると、男に向かってこう言ったのだった。
「15年以上昔になるかのう。当時の組織では絶対厳守のある決まり事があった。それが何かというとじゃな、毎週木曜日の夜に――」
男は固唾を飲み込んで老人の話しに耳を傾ける。また老人の傍らに立つエルステッドの鼓動は、気持ちが悪くなるほどに早まっていた。
木曜日の夜に何をしていたのか。その場にいた全員の意識が老人に集中する。するとそんな彼らの表情を見回した老人は、自信たっぷりに言い切った。
「仲良くトランプをするのじゃ」
「ダンッ!」
男は老人が言い切ったと同時に銃を発射する。もう悪ふざけは御免だ。我慢ならねぇ。ドス黒い殺気の込められた銃弾は、老人の腹部に直撃した。
「グホァっ」
老人は表情を歪め悶え苦しむ。腹に銃弾をめり込ませたのだ。その激痛たるや尋常ではあるまい。裏組織の男に対して調子に乗ってしまった代償は、これ以上無いほど高くついてしまった。
老人はもがきながら床に這いつくばる。腹の肉をごっそりと抉られた感覚に悶絶しているのだ。そしてそんな老人の苦悶の形相を見てエルステッドは我に返る。彼はあまりの衝撃的な展開に、何が起きたのか理解出来ずにいた。それでも我に返ったエルステッドは瞬時に状況を把握し、凄味を利かせて男に詰め寄った。
「な、何て事をするんだ。お前は組織から俺の指示に従えって命令されてたんじゃないのか! それなのに勝手な事ばかりしやがって、まさか本当に撃つこと無いじゃないか! 死んでしまったら何も聞き出せないんだぞっ!」
エルステッドは怒りを露わにして声を荒げた。彼には男の勝手な行為が許せなかったのだ。しかし男はそんなエルステッドに構うことなく、老人に向け唾を吐き掛けた。
「ペッ。こんな腐れジジィの戯言に、少しばかりでも本気で耳を傾けた自分が恥ずかしいぜ。だがなぁ、エルステッド。そもそもお前がグズグズしてるから、こんな事になったんだ。だからお前に文句を言われる筋合いはねぇんだよ。それにな、俺は今頭にきてんだ。今度生意気な口を訊いてみろ、次はテメェの腹に鉛玉をブチ込むぞっ!」
男は本気で怒りながらエルステッドに罵声を浴びせる。どいつもこいつも口ばかりでムカつく奴らだ。実力も無いくせに、態度だけは人一倍デカい。こんなバカどもに付き合うのはもうウンザリだ。
男は銃を握る拳に力を入れる。こんな老いぼれ、打ち殺したところで問題あるまい。いや、気持ちに収まりをつけるには打ち殺す以外に方法はないのだ。そう思った男は老人に向けた銃の引き金を引こうとする。だがそこで男は、あまりにも情けない姿をした老人とエルステッドを目にして皮肉を口走った。
「それにしてもジジィ。この期に及んで俺に冗談言うなんて見直したぜ。どうやら死にたくて仕方ないらしいな。もともと老い先短い命だ、最後くらいカッコつけたかったのか! ドズッ」
男は蹲っている老人の脇腹に蹴りを入れる。なぶり殺しにするのも悪くない。男はそう思い口元を緩めた。
至近距離から銃弾を外した事で一度は迷いが生まれた。しかしそれは単なる偶然だったんだ。その証拠に今度の銃弾はしっかりと老人の腹に命中している。悶え苦しむ老人の姿に、男の胸中にあった腑に落ちない不自然な感覚は、完全に消え去っていた。腹部を抑えて背を丸めながら苦しむ老人の姿を見る事で、男の気分は急速に収まっていったのだ。そして男は、老人を冷たく見下しながら言った。
「なぁジジィ。それでもまだ死にたくないなら全てを話せ。直ぐに話せばここから一番近い病院の場所だけは教えてやるぞ。ハハッ」
嫌味を込めつつ男は笑う。改めて思い返せば、老人のあの粋がった顔はひどく滑稽なものだった。どうせ結果はこうなるだけなのだから、もっと調子に乗らせて楽しんでも良かったのかも知れない。男はそう考えると、笑いが止まらなくなっていた。
そんな男を前に、エルステッドはあまりの理不尽さに拳を強く握りしめる。今すぐ病院に駆け込んだとしても、老人の体力では助かる見込みは僅かだろう。いや、そもそも男が素直に病院に行かせてくれるはずがない。どう考えても老人に助かる道は無いのだ。目の前で消えてゆく命に何も出来ない。無力な自分に憤りを感じたエルステッドは指一本動かせずにいた。
「ふざけやがって」
エルステッドは笑う男を睨みつけながら呟く。不条理な男の態度が許せなかったのだ。しかし彼の反抗はそこまでだった。男の強烈な眼力で睨み返されたエルステッドは為す術無く押し黙る。きつく握りしめた彼の手は悔しさで震えるだけだった。
エルステッドは不甲斐ない自分に落胆する。どうして俺はいつも肝心な時にこうなってしまうのか。いつしか彼の目には悔し涙が溢れていた。――ただその時、彼は震える自分の拳に優しい温もりを感じた。
驚いたエルステッドは温もりを感じる手に視線を向ける。するとそこには震える彼の手を優しく覆う、シワだらけの老人の手が添えられていた。
「あ、あんたが悪いんだぞ。あんたが素直に言う事を聞いてくれないから、こうなっちまったんだよ……」
エルステッドは泣きべそを掻いて嘆いた。彼は責任の所在を老人に押し付ける事で、何も出来ない自分の不甲斐なさを誤魔化そうとしたのだ。ただそんなエルステッドの弱い心を正面から感じ取った老人は、彼の手をさらにきつく握りしめる。老人にはエルステッドの後悔に苦しむ気持ちが良く理解出来たのだろう。老人の手はとても優しくて温かいものであった。するとそんなシワだらけの手に一粒の涙が零れ落ちる。
「ごめんよ。俺にはあんたを助ける力が、無い――」
エルステッドは無念の思いを老人に伝えるとともに、無力な自分を悔やんだ。人一人救えない自分の無力さに彼は絶望したのだ。ただそんな彼に対し、老人は優しく、そして穏やかに語り掛ける。それはまるで、本当の息子に話す様であった。
「お前はいつもそうじゃな、エルステッド。自分の技量を考えずに行動をおこし、その結果自らの手に負えず投げ出して後悔する。そのくせ失敗の原因は他人に擦り付け、自らの過ちを認めようとはしない。じゃがな、失敗して何が悪いのじゃ。失敗する事が恰好悪いとでも思っておるのか? 問題はそんな事ではない。大切なのは何かに失敗したり、困難な問題に直面した時に、それまでの経緯や自らの犯した過ちを落ち着いて見つめ直す事なんじゃよ。そして次の成功に繋げる為のプロセスとして、対策や手法を自分なりに確立する。そういった経験を積み重ねて人は成長してゆくんじゃ。最初から全部出来る人間なんておりゃせんよ。むしろ失敗して人は学ぶのじゃ。それなのにお前はいつも逃げてばかりで、せっかくの成長の機会を自らドブに捨てておったのじゃぞ」
優しさの中に厳しさを感じさせる老人の言葉を、エルステッドはただ黙って聞いた。いつもの自分なら説教などクソ食らえだと、屁理屈をこねて反論しているだろう。しかしさすがに腹部を撃たれた老人に向かい、そんな反発が出来るはずもない。いや違う。父親がこの世を去ってから、面と向かって自分の為に心から叱ってくれる者などいなかった。だからエルステッドは心に直接語り掛けて来る老人の言葉に耳の痛さを感じつつも、どこか嬉しさに似た感情を覚えずにはいられなかったのだ。そしてそんな彼に老人は優しく語り続けた。
「おぬしがまだ幼かった頃、ワシのこの厳つい手を好きだと言ってくれたのを覚えておるか? 分厚い皮で覆われ、オイルの臭いが染みついた、傷だらけの汚いこの手をのう。実のところ、ワシは自分のこの手が嫌いでな。魅力的な職人の手だと、おぬし以外の者もたまには褒め称えてくれたりもしたが、やはりワシはこんなゴツくて傷だらけの手を好きになれんかった。じゃがなぁ、エルステッド。どういう訳か幼き日のおぬしがその小さな手でワシの手を握りしめると、心が安らぐというか、妙に安心してのう。危険だから工場に来るなと叱ってはいたが、心のどこかでワシはお前と手を繋ぐことを楽しみにしていたんじゃよ――」
老人は過去を振り返り、少し感慨深い表情を浮かべた。老人にとってエルステッドの父達と共に汗を流し働いた工場時代は、忘れられない思い出だったのだ。そしてその中に登場するエルステッドもまた、掛け替えの無い存在であった。
老人は両手をエルステッドの肩にそっと添える。彼に何かしらの想いを託すかの様に。ただ老人はその手に力を込めると、重傷の体にもかかわらず立ち上がろうとした。
「な、じっとしてろよ。そんな体で無茶するなよ!」
まだこんな力が残っているのか。エルステッドは老人の体力に肝を潰す。それでも彼は必死になって老人を制止させようとした。こんな無理をしたら死が早まるだけじゃないか。エルステッドはそう危惧したのだ。ただそんな彼の悲痛な顔を見た老人は、意外にも微笑んでみせる。そして老人は彼の制止を無視して立ち上がった。
「ほう、随分とタフなジジィだな」
男は立ち上がった老人を見て素直に驚く。腹部を撃たれた満身創痍の状態で立ち上がるなんて、たとえそれが若者であったとしても常識的には考えられない。しかし老人はその常識を覆して立ち上がった。その姿に男は胸の内で唸ったのだ。だがそんな男を老人はさらに一驚させる。なんと老人は微笑みの表情を崩す事なく、むしろ意気揚々としながら男に語り掛けたのだった。
「せっかちな性格だのう、おぬし。まだワシの話しは途中じゃて。そう慌てずに最後まで話しを聞いてくれぬかのう」
「何が言いたいんだジジィ。トランプはババ抜きだったとでも言いたいのか?」
男は鼻で笑いながら言い返す。いい加減な事ばかりほざくジジィだと、男は心底呆れたのだろう。ただその言葉に反して男は再び銃を構え直した。老人の顔面に狙いを定めて。
男は腑に落ちない感覚に苛まれていた。重傷を負いながらも力強く立ち上がった老人の姿に直感として何かを感じたのだ。だがもうこれ以上訳の分からない気分には付き合ってはいられない。男は冷酷な視線を老人に浴びせながら引き金に指を掛けた。ただそんな男に対して老人は微笑を絶やさない。それどころか老人は正面に据えられた銃口を見つめつつ、男にこう告げたのだった。
「ババ抜きではない。やっていたのは……そう、大貧民じゃよ」
「やめろーっ!」
「ダンッ!」
エルステッドが叫んだのと同時に男は銃を発射した。この期に及んで何てバカなことを言うんだ。エルステッドは老人の態度に耐え難い怒りを感じ奥歯を噛みしめる。だが彼はそれ以上に感じた恐さで目を強く瞑っていた。
エルステッドの目からは涙が零れ落ちていた。大嫌いだったはずなのに、消えて居なくなってほしいと心から願っていたはずなのに、どうしてこんなにも悲しみが込み上げてくるのだろうか。エルステッドは老人の温もりが残る自分の拳を強く握りしめる。そして極度の脱力感に包まれた彼はこう思った。
「何もかもが終わった――」
自分にとって老人の存在が、それほどまでに大きかったとは思えない。でも現実として打ちひしがれている自分がいる。それは自分にとって老人の存在が、とても大切だったと言えるのではないのか。エルステッドは涙ながらにそう思わずにはいられなかった。ただその時、彼の耳に不可思議な声が飛び込んで来る。それは出し抜けに怯える男の声であった。
「ど、どうなっている。何故だ、なぜ弾が外れた? この距離で外すなんて、どう考えても有りえないぞ」
その震えた声に引き寄せられるよう、エルステッドは目を開いて顔を上げる。するとそこには驚愕の表情を浮かべながら立ち尽くす男の姿があった。そしてそんな男が視線を向けている先にエルステッドも視線を移す。ただそこで彼は驚きを隠せない男同様に唖然とした。
なんと老人は生きていたのだ。というよりも、男が発射した銃弾は老人に当たっていなかった。一体どうなっているのか。銃弾は老人を避ける形で背後の壁に着弾している。この至近距離から老人を避けて壁に着弾させる方が、むしろ難しいと言えるほどだ。そしてその光景を部屋の隅で見ていた残りの二人の男達もまた、信じられないといった表情を浮かべていた。
「バカなっ! こんなバカな話しがあるかっ!」
男は堪らずに絶叫する。偶然とは考えられない状況に強い焦りを感じたのだ。ただ男はその焦燥感を強引に振り払おうと、老人の顔面に向け銃の全弾を発射する。そして連射された弾丸は、その全てが確実に老人の顔面に向かって飛んだ――――はずだった。
「!」
男達の目に信じ難い光景が飛び込む。なんと発射された弾丸は、まるで老人の顔面を避けるように軌道を変化させたのだ。そしてそれら全ての弾丸は、老人に命中する事なく背後の壁にめり込んだ。
常軌を逸した光景を前に、エルステッドはただ唖然とするばかりだった。男が狙いを外したわけでもなく、老人が弾を躱したのでもない。目にも止まらぬ速度で飛ぶ銃弾が、独りでに老人を避けたのだ。まるで銃弾に意志があるかの様に。だがその状況が受け入れられるはずもない男は、憤慨しながら声を荒げた。
「ジジィ、貴様一体何をしたっ!」
理解し難い現象により憤激に駆られた男は、怒気を宿した鋭い眼光を発して老人を睨み付ける。ふざけるな。こんな馬鹿げた状況が許されるはずがない。男は額に青筋を立てながら怒りを露わにした。だがそんな男に対し、老人は依然として微笑み続けている。それどころか老人は自らの額を指さすと、まるで子供を宥める様な口ぶりで言った。
「そんなに驚かなくても良かろうに。簡単な仕掛けじゃよ。ワシの頭には特殊な金属が埋め込まれておるんじゃ。じゃからアダムズ軍の最新式の銃で放たれた弾ならともかく、おぬしの様なチンピラが持っとる銃で発射された鉛玉は、ワシの顔には当たらんよ。それにな、驚くのはそれだけじゃないぞ」
そう言ってから老人は自分の服をまくり上げると、弾丸が撃ち込まれた腹部を露わにする。だがそこで男はまたしても愕然とした。
なんと老人の腹には銃弾の命中した跡がくっきりと残ってはいたものの、まるで虫さされの様に少しだけ赤く色づくのみであり、血の一滴どころか傷一つついていなかったのだ。
何なんだ、こいつは……。男は無意識に怯える。老人から底知れぬ恐怖を感じた男は、尋常でない程に背中を粟立てていた。
老人が露出させた腹部は、見た目こそ人のそれとなんら変わりない。しかしその【内側】には確実に何かが隠れている。それも極めて狂暴な何かが。
「こ、こんなバカな話があってたまるかよ」
驚愕の相貌を呈す他ない男は後ずさりを始める。そしてパニックに陥った男は、弾が尽きたはずの銃の引き金を老人に向け幾度も引いた。もう男には冷静に状況を見極めるだけの判断力はない。すると老人はそんな男に追い打ちを掛けるよう、一歩前に踏み出した。
「ち、近寄るなジジィ」
男は堪らずに引きつった声を漏らす。完全に竦み上がっている状態だ。ただそんな男とは対照的に、老人は薄笑いを浮かべながら告げた。
「ワシの【演技】は上手じゃったか? こう見えてワシはテレビドラマが好きでな。若いころから俳優のマネ事をするのが趣味じゃったんじゃよ。良い演技をするコツは、喜怒哀楽を少しオーバーに表現する事。どうじゃ、ワシの怯えた演技は最高だったじゃろ」
「ふ、ふざけんなよジジィ。そんなモンはどうだっていいんだよ。それより貴様の体はどうなってんだ」
「はぁ~、こいつは残念じゃ。ワシの演技じゃのうて、頑丈な体におぬしは目を丸くしていたんか。ショックじゃのう」
「馬鹿にするのもいい加減にしろ! 答えろ、何で腹に傷が無いんだ。何でツラに弾が当たらなかったんだ!」
男は懸命に声を張り上げる。老人を威嚇し、少しでも優位性を確保したかったのだ。しかしこの状態になってしまってはもう手遅れである。その証拠に男の足は、自分の意志とは無関係に後退していた。そしてそんな男に老人はさらに詰め寄る。
「そんなに知りたいなら教えてやるわい。ワシの体は【世界最悪の科学者】の手によって改造されとるんだよ。じゃから見ての通り、ワシに銃は効かぬ。本気でワシを殺したいなら、アダムズの国宝である十拳封神剣でも用意するんじゃな。それにしてもおぬしの傍若無人ぶり、笑いを堪えるのが大変じゃったぞ」
老人は楽しそうに微笑む。そして腕まくりをしながら、さらに男に近寄り言った。
「話が途中じゃったな。組織の者が昔、なぜトランプで大貧民をしたか、その理由を教えてやろう。それはな、最後に大貧民になった者を――」
「!?」
男は目を疑った。なんと男の前から一瞬にして老人の姿が消えたのだ。だが男は次の瞬間、顔色を蒼白に変えて振り返った。
「う、嘘だろ――」
男は愕然とするしかなかった。そこにはなんと、切り落とした二つの首を両手に掲げる老人が立っていたのだ。
まだ死んだ事に気付いていないのだろう。老人が持つ二つの男の生首は、しっかりと目を開いていた。そして首を失った胴体もまた、倒れることなく立ち尽くしていた。
まったく見えなかった老人の早業に男は腰を抜かす。下半身に力が入らず、尻餅をついてしまったのだ。それに極限にまで震え出した奥歯はまったく噛み合おうとしない。男にはもう、戦意は残されていなかった。
老人は手にした首を無造作に投げ捨てる。その姿はまるで、仕事を終えた死神の様だ。そして老人は竦み上がった男に向かい、話の最後を告げたのだった。
「大貧民になった敗者を、ゲームに参加した全員で殺すんじゃ。そう、毎週仲間の内の誰かを殺し、人間味を豊かにしていったんじゃよ。昔はのう」
「じょ、冗談は止せよジイさん。そんな事して、どうやって人間味を豊かにするってんだよ。気が狂ってるぜ――」
その言葉を最後に男は息絶えた。男は腰を抜かしたのではなく、腰から真っ二つに切断されていたのだ。そして振り返った拍子に上半身が滑り落ち、それを男は腰が抜けたものだと錯覚していたのだった。
男は自分の腰が両断されているなんて、夢にも思わなかっただろう。それほどまでに老人の攻撃は常軌を逸した凄業だったのだ。そしてそんな音も無く一瞬にして起きた惨状に、エルステッドは無自覚のうちに失禁していた。
震えが止まらないエルステッドは、ただ呆然と老人の姿を見つめている。彼の思考回路は完全に停止している状態だ。ただそれでもエルステッドは、老人の両腕が奇妙に変形しているのに気が付いた。
手首から肘にかけて、鋭利な刃が吐出している。血が滴っているため、その刃で男達を切り殺したのは間違いないだろう。しかし何なのだ、あの刃は。どこに隠し持っていたと言うのか。いや、違う。腕の変形具合からして、あの刃は腕に【内蔵】されたものなんだ。そうだ、あの刃は腕を構成する一部品なんだ。
徐々にではあるがエルステッドは判断力を取り戻していく。しかしそれでも分からない事ばかりであり、彼は酷く混乱していた。するとそんなエルステッドの脇を通り過ぎ、老人はくたびれたソファに腰掛ける。そして老人は捲った袖を元に戻しながら、彼に向かい小さく頭を下げた。
「済まんのう、エルステッドよ。お前の好いてくれたワシの手は、今やこの通り血に穢れておる。いや、腕だけではない。信じられぬと思うが、ワシの体の7割は機械で出来ておるんじゃよ。そう、ワシは【改造人間】なんじゃ」
少し言いにくそうにしながら老人はそう呟いた。そこにはエルステッドに対する心疚しい後ろめたさが感じられる。ただそれでも老人は、彼の目を見つめながら話しを続けた。
「皮肉なものよのう。おぬしが目指すロボット工学の極み。それがまさにワシの体の中で構築されとるんじゃよ。でもまさか、この様な形で表面化してしまうとは思わなかったぞ。おぬしが裏組織と繋がっているとは、考えもしなかったからのう。じゃが、これだけは言わせてくれ。ワシとて好きでこの様な体になったのではない。ワシはただ、生かされとるだけなんじゃよ」
老人はどことなく寂しそうに告げる。まるで辛い過去を思い出しているかの様に。そしてそんな老人の姿を見ながらエルステッドは考えた。
老人の過去に何があったのだろうか。どうしてそんな体になってしまったのか。老人の体を改造したのは誰なのか。彼は矢継ぎ早にそう考える。しかしそれを問うたところで、老人は答えないだろう。エルステッドはそうも思った。
黙り込むエルステッド。そしてそんな彼を見た老人は大きく溜息を漏らす。ただそこで老人は、背にしていたリュックを胸に抱くと、その中より小さな【銀色の玉】を取り出した。
「これが最後になるかも知れぬゆえ、やはりおぬしには謝らなければなるまい。エルステッドよ、おぬしの親父殿の事じゃが、親父殿があの日死んだのはワシのせいなのじゃ。お前の身に危険が及ぶゆえ、あの日に起きた【真実】は伝えられぬが、実はな、親父殿はワシの身代わりになって炎につつまれたんじゃよ」
「な、なんの話をしているんだよ、あんた――」
突然切り出された話にエルステッドは動揺を隠せない。だがそれ以上に遣り切れない表情で老人は言った。
「やはり長居は出来んか。直に人が駆け付けよう。この様な場所におぬし一人を置いて行かねばならんとは、最後まで女神は意地が悪いモンじゃ。済まんがワシは行くぞ。まだ、捕まるわけには行かんからのう」
身に迫る危険を感じ取ったのであろうか。老人はバツの悪そうな表情を浮かべる。それでも老人は銀色の玉を握りしめたまま、ソファに深く腰掛け直した。
「ちょ、ちょっと待ってよ。意味が全然分からないよ。死んだと思っていたのに突然俺の前に現れて、目の前をぐちゃぐちゃにしてさ。挙句の果てに謝りだして。一体何なんだよ。あんたは何がしたいんだよ。ちゃんと説明してくれよ【ガルヴァーニ】じいさん!」
エルステッドは老人の名を悲痛に叫んだ。彼にはそう叫ぶだけで精一杯だったのだ。ただそこに込められた想いは、とても複雑で深いものである。そしてそれを感じ取った老人は少し負い目を感じたものの、それでもエルステッドの叫びを無視して言った。
「この部屋には、いくつかの隠された仕掛けがあった。その仕掛けの最後の一つをおぬしに見せよう。おぬしはかつて、この部屋で暮していた科学者を心から尊敬していたはずじゃろ? ならばとくと見よ、【波導量子力学】の真髄をな!」
そう叫んだ老人は、手にしていた銀色の玉を渾身の力で握り潰す。すると激しい閃光が迸り部屋全体を包み込んだ。
エルステッドは堪らずに手の平で目を覆う。今度は何が起きたんだ。しかし彼がそう考える間もなく、すでに信じられない現象は発生していた。
またも一瞬の出来事だった。なんとソファに腰掛けていたはずの老人の姿が、完全に消え失せていたのだ。
俺は夢でも見ていたのか。エルステッドは本気でそう思う。いや、そう思わなければ自分の意識は崩壊し兼ねない。でもそれを願ったところで意味がないのは分かっている。
エルステッドは愕然と首を垂らす。そして彼は部屋に駆け付けて来た数人の者達に気付くことなく、ただ老人が座っていたソファを見つめていた。
ビルの正面入口に老人の姿があった。一瞬の間にどうやって移動したというのであろうか。ただその足元の水溜りに張られた薄い氷は、老人から放出される弱い熱で溶け出していた。
老人は背にしていたリュックの中より、ひどく色あせた一冊のノートを取り出す。そして老人は、記憶したばかりの絵画に浮かんだ文字列をそこに記した。
『r=12.90』
「ふぅ~」
老人は深くため息を吐き出す。ひとまず厄介な仕事にきりが着いたと胸を撫で下ろしたのだろう。ただ老人は血痕の様なシミが数か所こびり付くそのノートの1ページ目を開くと、そこに殴り書かれた文を一読した。
『私は光子相対力学の理論を覆す真に驚くべき証明に成功したが、余白が狭すぎる為ここに記すことは出来ない。ただし矛盾した各所に証明の糸口は残した。この定理を道案内とし、光子相対力学に行き着きながら、その道程に隠された深い意味を知りたくば、順を追い真理に迫れ』
老人は胸のポケットからタバコを取り出す。そして火をつけたタバコを深く一服すると、薄ら雲に覆われた空を見上げ一人呟いた。
「最終定理などと、形見にしては大そうな物を残しよってからに。甚だ、厄介なものじゃ。のう、グラムよ」
老人は白い息を吐きながら煩わしそうに言い放つ。でもなぜだろうか、その表情はどこか寂しそうなものであった。ただ老人はすぐに表情を引き締め直す。そして足早に進み始めた老人は、そのままスラムから姿を消した。
太陽の光がようやくスラムの地を照らし出したが、未だに空気は身を切り刻むほど冷たいものだ。そしてそんな中で息を潜めるスラムの住人達は、同じスラムの片隅で起きた惨劇に誰一人として気付いていなかった。いや、そうではない。この時はまだ、王国に暮らすほぼ全ての者が気付いていないのだ。すでに科学の進歩という試練に耐えうる問題は提起され、その探求劇の幕は切って落とされているという事に――。
陽の当たる大地はまだ身も凍るほど寒く冷たいが、土の中で縮こまっていた虫達は、人知れず動き始めていた。