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月読の奏  作者: 南爪縮也
第一章 第二幕 疼飢(うずき)の修羅
23/109

#22 啓蟄の朝の息吹き(前)

 朝焼けの空は少し曇りがちであったが、時折(のぞ)かせる太陽の光は強く大地を照らし始めた。ただ昨晩降った雨によって出来た水溜りは、もう春だというのに薄氷が張り、気温の低さを視覚的に感じさせていた。

「去年の今頃はもう桜が咲いていたのに……」

 街を行き交う人々はそんな愚痴を(こぼ)しながら、遅い春の訪れを小さく(なげ)く。そしてまだしばらく手放せそうにない厚手のコートに身を包みながら、長く延びた影を引き連れていた。

 相変わらず荒みきった何とも言えぬ異様な雰囲気に覆われたスラムの街も、同様に凍てついた空気に包まれている。古い高層ビルが乱立し、迷路の様に入り組むスラムの道路に朝の日差しはまだ届かず、底冷えする道を行き来する人の姿は片手の指ほどの数もなかった。

 未来に目的を見出せないスラムに住む腐った住人達は、寒さの中で身を寄せ合いながら、ひっそりと息を潜めるだけだ。それゆえ閑散(かんさん)とした朝の静寂が余計に大気を冷たく感じさせる。それはまるで永遠に春の訪れることの無い、遥か北方にある氷の国に紛れ込んだと錯覚してしまうほどであった。

 そんなスラムの道路に、真っ白い息を吐きながら足早に進む一人の老人の姿があった。小柄で白髪のその老人は、リュックを背負った背を少し丸めつつも、見た目よりもずいぶん若いのであろうかと思わせる、しっかりとした足取りで歩みを進めている。そしてその老人は、今にも倒壊しそうなビルの前で足を止めた。

「ふぅ。久しぶりの我が家にようやく着いたか」

 老人はそう小さく(つぶや)くと、ビルの外観を(なつ)かしそうに眺めた。そして水溜りに張った氷をワザと踏み割ると、意を決したかの様にそのビルの中へと入って行った。


 慣れた足取りでビルの4階へと上がった老人は、息切れする照明が灯す薄暗い通路を進む。それから少しして老人は、全面錆だらけのドアの前で足を止めた。

 やさしくノブを握りゆっくりとドアを引く。全面錆だらけのドアは、見た目に反して軽い力で開かれた。そして周囲の様子を伺いながら部屋の中に入った老人は、入口に貼り付けてあった写真に視線を向けるも、それに気を止めずに部屋の奥へと進んで行った。

 小さな実験室らしきその部屋の中は(ひど)く荒らされた形跡があり、足の踏み場がないほどに実験機材や研究資料らしき物が散乱している。そんな状況を目にした老人は少し不安な表情を浮かべたが、足元に気を付けながら更に部屋の奥へと進んだ。

 老人は突き当たりにある窓のない閉ざされた空間の部屋に入る。すると背にしていたリュックから懐中電灯を取り出し、その明かりを頼りに部屋の内部を見回した。

 その部屋は他の部屋と同様に、(ひど)く荒らされた状態だった。そしてそんな目も当てられない状況を目にした老人は、さらに表情を強張らせて言った。

「ひどいモンじゃのう、じゃが――」

 老人はそう一人(つぶや)きながらも、懐中電灯の明かりが照らす先に何かを見つける。壁に飾られていたのであろうか。そこには一つの【絵画】が床に転がっていた。

 しかしその絵画は無残にもナイフで切り裂かれており、額縁(がくぶち)にいたってはバラバラに破壊された状態だった。ゴミさながらに投げ捨てられた姿である。とても価値のある絵だとは考えられない。

 それでも老人はどうにかその絵を修復しようと試みる。いや、修復というよりは、どんな絵が描かれていたのか確認しようとしたのだ。ナイフで切り裂かれた部分を慎重に手で(つな)ぎ合わせていく。そして少し時間は要したものの、老人はなんとか絵画の修復に成功した。

 修復した絵画を前にして老人は目を細める。そこに描かれていたのは【古代の都市】を描いた空想画であった。

 描かれた都市の中央には、特徴的に巨大な塔が(そび)え立っている。そしてその搭は同じく左上に描かれた太陽からの光を受け、三角形の影を細長く延ばしていた。

 決して高価な物には見えない絵画であったが、よく見れば細部にまで丁寧に描かれている。そして不思議な事に、その絵からは心惹かれる何かが感じられた。そんな傷ついた絵画を老人はさらに注意深く観察する。

 まず絵画の裏面に目を向けた老人は、そこに書かれた一つの文章を見つける。すると老人は囁く様な小声でその文章を(つぶや)いた。

「この絵のタイトルかのう。『午後二時に浮かぶ宇宙からの伝言』か。チッ、ふざけた題名じゃわい」

 続いて老人は絵画を表側に向け直す。そしてそこに描かれた燦々(さんさん)と輝く太陽の部分に軽く手を触れた。すると老人は思わず叫びたくなる衝動に駆られる。それでも老人は高ぶる気持ちを必死に押さえ込み、落ち着こうと深呼吸をした。

 室内に散乱した研究機材を払いのけ、手にした絵画を壁に立掛ける。そして老人は懐中電灯に付いている(つま)みを目一杯に回した。すると懐中電灯からは、強烈な青白い光がレーザー光線の様に一直線に照射された。

 老人はそんな懐中電灯を直接絵画の太陽部分に押し付ける。絵画と懐中電灯の境目より薄らと光がこぼれるも、閉塞した部屋の中は再び暗闇に包まれた。

 そのままの状態で三分ほどが経過する。するとほんの僅かであるが、室内に焦げ臭い香りが漂いはじめた。

 老人は懐中電灯の明かりを消す。そして目を凝らし、強い光を押し当てた太陽の部分を凝視した。するとそこには不思議なことに、薄っすらであるがオレンジ色に光る【文字列】が確認出来た。

 老人は浮かび上がったその文字列を記憶するように小声で(ささや)く。ただ老人はその後、少しだけ焦燥感を露わにしながら次の行動に移った。

 老人はリュックに手を掛けると、今度は液体の入った小さな容器を取り出した。老人は自分の口を袖で塞ぎながら容器のフタを開けると、文字の浮かんだ絵画に容器の中の液体を躊躇(ちゅうちょ)せずにかける。液体は強い塩酸であり、絵画は異臭を放ちながらドロドロに溶け出していった。そして程なくすると、絵画は太陽の部分を含む、全体の三割ほどを消滅させた。

「太陽に蓄光の原理で暗号を隠すなんぞ、ベタな仕掛けをするモンじゃて」

 老人は声にならないほどに小さく言葉を発し、少しばかり安堵の表情を浮かべる。だがその時、老人は突然背後に何者かの気配を感じてゾッとした。

 不意な状況に身動きが取れない老人は、口の中に溢れ出る唾を飲み込もうとする。しかしそれとほぼ同時に、老人は背後から発せられた低い男の声を聴いた。


「両手を頭の後ろに回してから、ゆっくり立ち上がれ」

 男の声には明らかに殺気が込められている。ただ威圧感はそれほど感じられず、男は落ち着いた口調で老人に向かい続けた。

「そのまま後向きに部屋から出て来い」

 男の殺気を背に受けつつ、老人は言われるがまま指示に従う。この状況で抵抗するのは得策じゃない。老人はそう考えたのだ。それでも老人は目だけで周囲を注意深く観察し、様子を探っていた。

(いつからその場にいたのじゃ。素人でないのは確かな様じゃが)

 まったく気付くことなく、何者かに背後を取られた不覚を老人は少しだけ悔やむ。しかしここは相手の出方を待つ方が賢明だろう。そう判断した老人は、素直に男の指示に従った。ただそんな老人の耳に、今度は数人の足音が聞こえて来る。

(すぐ後ろに立つ男を含めて全部で4人。その全てが男か……ん?)

 老人は部屋への侵入者の数を、気配と足音だけで察した。そして老人は思う。場馴れした身のこなしからして、こいつらが腕利きの集団なのは間違いないと。でもどういう事なのだろうか。4人の内の1人だけは、他の3人と明らかに様子が異なっているぞ。

 どう考えても一人は素人(しろうと)だ。特殊な訓練を積んだ者達に同行しているせいで、少し気が大きくなっているのだろうか。ただ勢いに身を任せ部屋に侵入するまでは良かった。しかし目の前の状況に戸惑い、急速に緊張していく感覚が老人に伝わる。だが意外にもそんな素人の男が口を開く。男は少し癖のある口調で老人に対し強く言い放った。

「お、お前、ここで何をしている! ただの空き巣じゃないだろ!」

 男が言い放つのと並行し、残りの3人が老人に向けて銃を構えた。老人は銃口を向けられた背中で本物の殺気を感じ取る。状況次第でこいつらは躊躇(ちゅうちょ)なく発砲するはずだ。直感としてそう思った老人であったが、それでも男の声を聴いた事で何かを察したのだろう。老人は少し相手をからかう様に、薄笑いを浮かべて答えた。

「ワシはただ道に迷っただけのジジイじゃよ。そう粋がるでないわい。それよりおぬしらこそ何モンじゃ? 金が目的ならワシは持っとらんぞ。ワシが持っとるのは飴玉が2つとキャラメルが1つだけじゃ。ポケットにしまってあるゆえ、欲しかったら取っても良いぞ」

「はっ、嘘つくならもっと真面(まとも)な嘘つけよジイさん。道に迷ってこんな場所に来る奴がどこにいるってんだよ。あんたの行動は、この部屋の住人を知ってのモンだと分かっているんだぞ!」

 危機感の欠片もない老人の態度に、男は怒りを覚え語尾を強めた。だがなぜか、男は言葉に表せない気持ち悪さを感じる。どこか見覚えのある老人の後ろ姿を前にして、男は無意識に震えそうになる拳を強く握り締めた。ただ男の背中に流れ出した冷たい汗は止まらない。男は自分の勘が間違いであって欲しいと願うが、しかしその汗は彼の切実な願いを無情にも洗い流してしまった。

 いつの間にか攻守が逆転した現場の雰囲気は、奇妙な緊張感に支配されている。ただそんな状況の中で老人は、背を向けたまま相も変わらず危機感のない口調で全ての男達に向かい言った。

「いきなり物騒な物を向けるにしても、動きが上品過ぎるのう。それゆえ、おぬしらがスラムのゴロツキどもと違うのは明白じゃ。じゃがそれをあえて承知した上で言わせてくれぬか。汽車の時間に間に合わなくなりそうなんでな、そろそろ帰らせてくれんかのう」

「バ、バカなこと言う。この期に及んで、まさか本気で無事に帰れると思っているのか!」

 男は反射的に強気で返す。しかし老人の声をしっかりと聴いた男は、自分の直感が正しいものであると確信してしまう。そして優位な立場にいるにもかかわらず、男は戸惑う素振りを見せた。それでも銃を構えた3人の取り巻き達にそんな気持ちが悟られぬよう、男は精一杯に強がりながら老人に対して命令を下した。

「腕はそのままにして、ゆっくりとこっちを向け!」

 老人は言われたままに振り返る。そしてそんな老人の顔を見た男は、身震いするのを必死で(こら)えようと我慢した。しかし体は言う事を聞かず、思わず発した声は震えていた。

「あ、あんた。生きていたのか――」

 男の顔からみるみると血の気が引いていく。男に一体何が起きたというのであろうか。ただそんな男とは対照的に老人は余裕をみせ始める。老人は男の青ざめた表情見て、どこか満更でもない気分を得たのだろう。ニッコリと微笑んだ老人は、親しみのある声を男に掛けた。

「久しぶりじゃな【エルステッド坊ちゃん】。傲慢な態度は相変わらずの様で安心したわい。それにしても、こんな所でおぬしに会うとは驚いたのう。温室育ちのおぬしには、ここはちと刺激が強すぎる場所だと思うんじゃが、それともワシの知らぬ間に(たくま)しくなったって事なんかな。しかしおぬしこそ、ここで何をしておる? もしかして宝探しかでもしておるのか?」

 老人は微笑みを崩すことなく続ける。だがその瞳の奥には、明らかに鋭い意志が込められていた。

「まぁ、若いおぬしらが宝探しに精を出したくなる気持ちは分からんでもない。じゃがそれにしても、人様の家をこんなにも散らかしおってまったく。親父殿はどんな教育をおぬしにしたんじゃろうのう」

「父は関係ないだろ! それにこの部屋をこんな状態にしたのはコルベットの奴らだ。俺は関係ない。それよりもあんた、一体ここで何を【探して】いたんだよ!」

 エルステッドは老人の発した言葉に声を荒げて怒鳴った。しかし彼の態度からは、明らかに狼狽する様が見受けられる。すると老人は駄々をこねる幼子を相手にするかの様に、少しだけ困った表情を浮かべた。それでも歳のなす余裕なのだろうか。そんな状況をも楽しむかの様に老人は続けた。

「そう大きな声を出すな。ちゃんと聞こえとる。じゃがワシは小心者ゆえ、銃など向けられておったら、ただでさえ小さいアソコが更に縮み上がって、今にも漏れ出してしまいそうじゃ」

「誤魔化すな、ちゃんと答えろよ!」

 エルステッドは震える声で老人に対し更に大きな怒鳴り声を上げた。まるで目の前に現れた亡霊を払いのけるかの様に。

 だがそこで改めて初めに老人の背後に現れた男が口を開く。男は取り乱し始めたエルステッドの姿に業を煮やしたのだろう。男は嫌味を含んだ言葉でエルステッドに静止を促した。


「何をデカい声で叫んでいるんだエルステッド。お前はこのジジィが誰なのか知っているみたいだが、(おび)える必要なんてどこにもないだろ。現状俺達に不利なものは何一つないんだからな」

 男はエルステッドに対してそう言いながら老人に向かい歩み寄った。そんな銃を構えて歩む男に隙は見られない。言動を含む一挙一動から、その道のプロであるのに間違いはないだろう。

 男は直視した老人の表情から目を離さない。すると逆に老人は男から不意に目を逸らした。少し浅黒い肌をした老人のその仕草はどこか不自然であり、そのため男は自分の考えに間違いが無いと確信する。男は老人から目を離すことなく、無表情のままエルステッドに告げた。

「このジジィを見た時、風貌があの【博士】に似ているから、もしやと思ったがやはり完全な別人の様だな。まぁ、ここは幽霊が出ても不思議じゃない場所だけど、あいにく俺は心霊現象に興味は無い。こいつが何者かは知らんが、生きた人間であるのは確かだ。そしてこの場にいるという事は、我らと目的が同じなのは明白だ。とっとと締め上げちまおうぜ。こんな老いぼれ、軽く痛めつければ簡単にゲロするだろ」

 男は表情を崩さずに老人に向けた銃を構え直した。人を人とも思わぬ冷徹な言動を発するこの男は、いつでも躊躇(ちゅうちょ)せず引き金を引くことが出来るのだろう。老人はそんな自らに銃を向ける男を見据えると、何かを納得するように(うなず)いた。

「ほう、その筋の玄人と見受けられるゆえ、おぬし達がコルベットの者達なのかと思ったが違うのか。しかし、なら何者なんじゃ、おぬしら? エルステッドの子分にしては、少々もったいない程の器じゃし、かと言って金で動く奴らとも思えん。――となれば、思い付くのは一つだけじゃな」

 そう言った老人はニッコリと微笑を浮かべる。ただそれに続けて老人は、鋭く男の目を直視しながら短く吐き出した。

「【アカデメイア】の犬ども、か」

「ダンっ!」

 狭い室内に銃声が鳴り響く。無表情だった顔を少し引きつらせた男が、銃の引き金を絞ったのだ。ただ発射された弾は老人の耳脇をかすめて壁に着弾する。男は老人の口から出た思いもよらない言葉に、自らの意志とは無関係に体を反応させたのだった。

 だが銃を発射した男は僅かに驚いていた。それは老人が口にした言葉を聞いたからではなく、銃弾を老人から【外した】ことに対する驚きからだった。いくら反射的な行為だったとはいえ、間違いなく老人に向け発した銃弾を、この至近距離から外すなど理解し難い事だ。男はそう内心で思い、一驚していたのだ。それでもやはり男は玄人なのだろう。手元が狂っただけだと自分に言い聞かすよう理性に反発し、瞬時に冷静さを取り戻す。そして再び老人に向けて銃を構えた。ただそんな男に対し、動揺を一段と高めたエルステッドが詰め寄った。

「ゴッ、ゴホゴホッ! や、やめないか、まさか殺す気じゃないだろな」

 エルステッドは硝煙の臭いで咳き込みながらも、男の腕を掴み制止させようと叫んだ。しかしその腕は容易に払い退けられてしまう。すると腕を振りほどかれた弾みで、エルステッドは前のめりに転倒してしまった。

 エルステッドは床を舐める形で伏せている。見るからに情けない姿だ。そしてそんな彼に向けて男は呆れながら吐き捨てた。

「お前はいつも口だけだな、エルステッド。だからこんなジジィにも馬鹿にされるんだ。こいつは組織(おれたち)を知っているらしい。ならば生かしておく理由はないだろう」

 男は倒れているエルステッドを完全に見下している。いや、男は元々からエルステッドを嫌っていたのかも知れない。だが今はそんな腰抜けに構っている暇もないのだ。そう考えた男は、まるで仕切り直すかの様に老人に向けてもう一度銃の引き金を引いた。

「ダンっ!」

 弾は老人の足元に着弾し、小さな穴を穿(うが)った。男が放つ殺気は本物だ。その証拠にいつしか男からは、当初感じられなかった禍々(まがまが)しいまでの威圧感が発せられている。そしてそんな男の気迫にエルステッドはおろか、それまで余裕を見せていた老人までもが気圧された。

「ドサッ」

 男の発する尋常でない殺気と狂気に、老人は腰を抜かし倒れ込む。男の凄味に屈したのだ。だがそんな老人に対して男は手加減などしない。男は尻餅をつく老人の胸倉を掴み取ると、強引に上半身を引き起す。そして男は老人の目を顔が触れ合うほどの距離で凝視し怒鳴り声を上げた。

「貴様が探しているのは【フェルマーズ・リポート】のはずだ。何故だ! 何故探す! 誰に頼まれた! 貴様の知りえる情報を全て話せ! 今直ぐ話せば楽に殺す。拒否するなら俺が知り得る最も残酷なやり方でブチ殺す!」

 老人を直視する男の目は恐ろしいほどに血走っている。それはまるで獲物に喰らい付く野犬の様だ。そしてそんな男の狂気に臆した老人は、震えながら命乞いをした。

「ちょ、ちょっと調子に乗っただけじゃわい。た、頼むから命だけは、命だけは助けてくれぬか。ワ、ワシャまだ死にとうない」

 老人は男の本気度を心の底から感じ取ったのだろう。形振り構わず命乞いを口にした老人の(ひたい)からは、大量の汗が流れ出ている。そこには先ほどまでの余裕など、まったく感じられない。

 男はそんな老人の胸倉を掴んだまま、力任せに腕を振り抜いた。すると小柄な老体の体は部屋の隅にあったソファまで投げ飛ばされる。いかに老人が小柄だとはいえ、片腕だけで軽々とその体を投げ飛ばした男の腕力は相当なものだ。そしてその怪力を身を持って体感した老人は、くたびれたソファに身を沈め鎮座した。どう足掻いても太刀打ち出来ない。老人は率直にそう思ったのだろう。ただ男はそんな老人の怯えた姿から視線を逸らし、面倒臭そうに吐き捨てた。

「チッ、クソ以下だなジジィ。でけぇ口叩いたくせに、結局震えながら命乞いとは、恥ずかしくて見てられねぇぜ。おいエルステッド。似た者同士だ、お前が聞き出せ」

 老人の姿勢に呆れ果てたのだろう。男は投げやりな態度でエルステッドに指示を出す。だが男の怒りはまだ収まってはおらず、それを感じたエルステッドは素直に男の指示に従った。

 エルステッドは起き上がると、力無くソファに沈み込む老人のもとへと向う。高圧的な男の態度に腹立たしさを感じもしたが、指示に反発する勇気も無い。いや、ヘタに男の機嫌を損ねて痛い思いをするのは御免だ。彼はそう考えたのだ。ただソファの前まで来たエルステッドがそこで目にしたのは、あまりにも萎縮しきった老人の姿であった。


 もともと小柄な体がさらに小さなものに感じられる。もう老人からは、自分達をからかっていた時の余裕さはまったく感じらない。それどころか、逆に気後れする様子が垣間見えるほどだ。そしてその老人の姿に憐みを感じたエルステッドは、同情しながら告げたのだった。

「おい、大丈夫か? 無駄に反抗的な態度を取るからこうなるんだよ。あんたが素直に俺達の質問に答えれば、命までは取るつもりは無いんだ。だから全部話してくれよ、お願いだからさ」

 エルステッドは少し震えた自分の腕を懸命に隠しながら、老人をソファに正しく座らせる。男の威圧感に畏怖している弱さを、老人に悟らせたくなかったのだろう。しかしその(わず)かな震えは確実に老人の体へ伝わっていた。だがそんなエルステッドの腕から伝わる震えは、なぜか老人を少しだけホッとさせる気分にさせた。

「エルステッドよ、まさかおぬしが組織に関わっているとは思わなんだ。いくら科学者として王立協会での地位に不満があろうと、その裏側にまで足を踏み入れてはいかんじゃろうに。おぬしに何があったというんじゃ?」

 老人はエルステッドに向かい、少し切なそうに問い掛ける。その眼差しはまるで、息子を想う父親のように暖かいものであった。そしてエルステッドの方も、そんな老人の気持ちを察したのだろう。言葉に詰まり、返答出来ずにいた。

 エルステッドの気持ちの揺らぎが伝わって来る。決してこれは彼が望んだ行動ではないはずだ。そう考えた老人は、黙り込むエルステッドの表情を見ながら穏やかな口調で言った。

「ワシはな、親父殿の跡を継がず、科学者の道を進むと決めたおぬしの考えに賛同出来んかった。じゃがそれでもおぬしが初めて自分の口からやりたい事を明言してくれて、素直に嬉しくも思った。どこまで続くのかと疑いもしたが、おぬしはそんなワシの予想を裏切って努力しおったしの。自分の決めた将来に向けて努力するその後ろ姿を見る度に、ワシは感極まる想いで胸が熱くなったものじゃ。まぁ、おぬしが科学者になった後、蒸気機関の研究でなくロボット工学の分野に進むとは、思いもよらなかったがのう」

 昔を思い出しながら穏やかに語る老人の言葉には、何とも言えぬ温かみが感じられる。するとそれを聞いたエルステッドは、少し落ち着きを取り戻していた。共通の過去を思い返し、心を支配していた男からの畏怖が影を潜めたのだろう。エルステッドの表情に(すく)んだ色は見られない。そして彼は老人に向かって素直に話し出した。

「職人気質のあんたが俺をそんな風に見ててくれたなんて、ぜんぜん気付かなかったよ。でも鉄道部品製造会社の息子が、ロボット工学を専攻するのがそんなに可笑しい事か? ただ俺からすれば、蒸気機関は去り行く技術だったからね。どんなに画期的な発明を試みても、蒸気機関である以上限界がある。だってエネルギー効率の観点から見れば、蒸気機関は現状がピークなんだ。だったらあえて蒸気機関に頼るより、これからはまったく違った方法でエネルギーを生み出した方が、効率が良いに決まってるだろ。なにしろ蒸気機関の部品を製造するには、あんたの様な熟練作業者の技能に強く依存しなければならない。それはそれで凄い技術だけどさ、生産性は上がらないよ。だから俺は光子相対力学こうしそうたいりきがくの理論を駆使した、ロボット工学を極めることにしたんだ。ロボット工学はまだ発展途上の部分が多いけど、逆に考えればその伸び代は無限に広がっていると言えるからね。アルベルト国王が生み出した光子相対力学は完璧な理論なんだ。その理論を駆使して、近い将来必ず世界を劇変させるほどの発明をしてやる。王立協会に認めさせて、確固たる地位をものにしてやるさ」

 エルステッドは老人の目を直視しながら力強く言った。信じてくれと願う様に。そしてその言葉を老人はしっかりと受け止める。熱い想いの込められた、嘘の無い言葉だと信じたのだ。しかしそれでも老人は、どこか複雑な心境に胸が締め付けられていた。

「おぬしの目指す先は良く分かったし、それが成し遂げられれば素晴らしい未来がおぬしを祝福してくれるじゃろう。じゃがな、それと組織に加担する事とでは大きく違うと、ワシは思うのじゃが? まして(うしろ)の男が言う【フェルマーズ・リポート】。エルステッドよ、おぬしにはそれが何なのか分かっておるのか?」

 老人の言葉にエルステッドは再び口を閉じ黙り込む。そして彼はみるみると不安な顔色を浮かべていった。老人はそんなエルステッドの意気消沈する姿を見て思う。きっとエルステッドはフェルマーズ・リポートが何であるのか、その正体を知っているのだろうと。

 でもそれを知っていたからとて、どうしてエルステッドは組織の片棒を担いでいるのだろうか。そう考えた老人は酷く気を揉んだ。いや、それにも増して彼が組織の中でどのような立場にいるのか、どこまで事の内情を知っているのか。老人にはそれらが気掛かりで仕方なかった。

 老人は思い切ってその理由をエルステッドに聞き尋ねようと試みる。老人には彼をこのまま放っておくなんて出来ないのだ。だがその時、老人を投げ飛ばした男が痺れを切らせて(まく)し立てた。

「いい加減にしないか、今は昔話をする時間じゃねぇんだぞっ! ブツを探す目的を早く聞き出せっ!」

 男は二人に近寄りながら怒声を上げる。するとそんな男が放つ強烈な殺気に、エルステッドと老人は再び口を(つぐ)む。尋常じゃない威圧感に体が(すく)んでしまったのだ。

 男は平然と銃を構え直す。苛立ちが募りつつも、その動作には一切無駄がない。やはりこの男は只者ではないのだろう。ただ男は黙り込むエルステッドに対し、皮肉を込めた強い口調で命令した。

「早くしないかエルステッド! こんなクソジジィ一人満足に相手できないのか。愚図(ぐず)にもほどがあるぞっ!」

「黙れ! 頼むから少し黙っててくれっ!」

 エルステッドが悪態つく男を鋭く睨みながら怒鳴る。怯みきった状態であったはずなのに、彼はこれ以上無く強気で反発の声を上げた。上から目線の男に強い憤りを感じたエルステッドは、つい反射的に声を上げてしまったのだ。するとそんな彼に対して男は驚きの表情を浮かべる。想像し得なかったエルステッドの反論に、男は意表を突かれたのだ。ただ男はすぐに不適な笑みを浮かべると、次の瞬間に老人の顔面を蹴り上げた。

「ドガッ」

「な、何をするんだ!」

 エルステッドは蹴り飛ばされた老人に近寄り支える。そして彼は男を強く睨み付けた。あまりにも乱暴過ぎる男の行動に怒りを覚えたのだ。そして彼と同様に老人も男を鋭く睨みつける。出血を伴う切れた口元を手で覆う老人の表情は苦痛に満ちていたが、それでもその眼差しには力が込められていた。

「ペッ、チキン野郎どもが」

 男は唾を吐き捨てながらそう言うと、銃を構える他の二人の男達に(あき)れた表情を向けた。待ちに待ったせっかくの獲物だったのに、とんだ間抜け野郎で拍子抜けするぜ。男はそう落胆したのだ。さらにエルステッドの鈍臭(どんくさ)い態度にも呆れ果てたのだろう。組織の命令で仕方なく同行させているのに、こうも足を引っ張られては仕事にならないじゃないかと。

 男はキレる寸前まで来ていた。とっととジジィを殺して行きつけのバーにでも行きたい。本気でそう考えた男は銃口を老人に向けて引き金に指先を掛ける。だがそんな男に向かい突然表情を一変させた老人が、口元の血を手で拭いながら切り出したのだった。

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