#20 凍解の事実(七)
― 5ヶ月後 ―
ハイゼンベルクとディラックは、アダムズ王国の東部にある商業都市【グリーヴス】に身を潜めていた。
グリーヴスには【シュレーディンガー】という名の資産家が暮らしており、彼らはその男を頼っていたのだ。
シュレーディンガーはボーア将軍と同じ年齢であり、かつてパーシヴァル王国にて企業家として成功した人物である。また彼は科学の分野でも非凡な才能を発揮した人物であった。
グラム博士やボーア将軍は、そんなシュレーディンガーの科学者としての才能を高く評価していた。彼が有した知識の豊富さや着眼点の鋭さに博士らはいつも驚かされ、その度に唸りを上げていたのだ。しかしシュレーディンガーはそんな博士らからの高評価を、まったく気に留めていなかった。
シュレーディンガーは科学そのものについて、あまり興味がなかったのだ。なぜならシュレーディンガーにとって科学とは、資金を獲得する為の手段でしかなく、彼の一番の理念は企業家として会社を設立・運営し、巨万の利益を生み出す事だったからだ。
まさに彼の人生における最大の目的は【金設け】だったのである。それゆえ純粋に科学の追及だけを行っている博士達とは根本的な考え方が異なり、彼らは幾度となく衝突を繰り返していた。
それでもシュレーディンガーは自分が経営する会社が生み出した利益の一部を、博士達の研究資金として援助していた。彼は博士達が生み出す数々の画期的な技術が巨万の富を生むと確信し、投資として莫大な金額を惜しむことなく援助し続けていたのだ。
そんなシュレーディンガーに対し、博士らは憤りを募らせていた。シュレーディンガーの科学に対する考え方にはどうしても賛同出来ない。しかし研究には多額の資金が不可欠である。不本意ながらもスポンサーとしてシュレーディンガーからの資金提供を受け入れなければ立ち行かない。その不条理さに博士達は腹を立てていたのだった。
そして両者の衝突は何度も繰り返される。ただそれでも両者が袂を分かつ事はなかった。彼らはお互いの利害を考慮することで、持ちつ持たれつの関係を築き続けたのだ。
特にグラム博士は王立協会を抜け、お尋ね者に成り下がっている身分である。そんな博士に研究資金を援助するものなどそうはいない。それにボーア将軍にしたって、パーシヴァル王国での立場がある。表だってグラム博士を助けるのには限界があるし、それに彼の裁量で使える資金にも限度がある。そう言った意味で、シュレーディンガーからの資金援助は都合が良かったのだ。それに研究内容についてもシュレーディンガーは口を出さなかった。ある意味それが博士らにとって、一番差し支えがなかったのだろう。
そしてシュレーディンガーにしてみても、博士達に援助する価値は十分過ぎるほどあった。博士達の研究は奇想天外なれど、そこから生み出される産物の価値を彼はよく理解していたのだ。
恐らくシュレーディンガー以外の者がグラム博士達の研究成果を見たならば、誰もその価値を理解出来なかっただろう。いや、むしろ鼻で笑い飛ばすくらいで、興味を持つ者すらいないのかも知れない。しかしそこがシュレーディンガーの天才的な才能だったのである。
彼は科学者として超一流だった。そして経営者としても超一流だった。だからシュレーディンガーは博士らの発明の素晴らしさと、それを商品として社会に流通させる価値を把握出来ていたのだ。
両者が耐えぬ衝突を繰り返しながらも決別しなかった理由。それは双方の利害関係によるものだったのは間違いない。でもそれ以上にお互いが気持ちの深い部分で相手を敬い、決して相手を蔑にしなかった事もその要因の一つと断言出来るだろう。そしてその関係は、表面上は対立している様に見えても、実はむしろ言いたい事が平然と言い合える【戦友】の様な間柄と呼べた。
さらに神話や神器について調査する博士達にとって、シュレーディンガーは心強い理解者でもあった。
それがシュレーディンガー以外の者であったなら、意味不明な神の力の調査などに資金援助するなど、到底考えられる事案ではない。金を出すどころか、博士らに対して気が狂ったのかと怒りを露わにしてもおかしくないはずなのだ。しかしその反面、シュレーディンガーは惜しみなく資金を援助した。彼は直感として読み取ったのだ。博士らのやろうとしている事が、きっと未来で大きな利益を生み出すはずだと。
超一流の科学者の考えを一般の人が理解出来ないのと同じで、超一流の経営者の思い付きというのも一般の人は理解出来ないのだろう。だが決して血迷ったわけではなく、シュレーディンガーには彼なりの考えがあり、博士達に援助し続けたのだ。たとえそれが神に歯向かう事になろうとも。
そんなシュレーディンガーとハイゼンベルクは、少し遠いが血縁関係であった。だからハイゼンベルクとディラックはシュレーディンガーを頼ったのだ。
ヤツの姿になったハイゼンベルクとディラックは、縋る思いでシュレーディンガーを尋ねる。そして苦労の末シュレーディンガーと相見えた彼らは、自分の体を調査させるのを条件として、誰にも見つからぬよう保護を申し出た。
さすがのシュレーディンガーも、初めてヤツの姿となった二人を見た時は恐怖で腰を抜かした。悪名高きヤツが突然目の前に姿を現したのである。心臓が口から飛び出す程にシュレーディンガーが驚いたのは当たり前だろう。それでも彼はハイゼンベルクから全ての事情を聞く事で落ち着きを取り戻す。そして極めつけなのが、シュレーディンガーはヤツの驚異的な身体能力に金の生る臭いを嗅ぎつけ、快くハイゼンベルクらの保護を引き受けたのだった。
早速シュレーディンガーはヤツの体の調査を開始する。しかし彼は早々に壁にブチ当たった。調べれば調べるほど、シュレーディンガーは理解不能なヤツの性質に頭を悩ませたのだ。そう、ヤツの体はシュレーディンガーの想像を遥かに超えたものであり、もはや手に負える代物ではなかったのである。
行き詰まる調査に当人であるハイゼンベルクとディラックも肩を落とす。シュレーディンガーならば何とかしてくれるのではと期待していただけに、その失望感は大きかったのだ。だがその時、なんと彼らのもとにグラム博士が訪れたのだった。
シュレーディンガーはヤツの体の調査の難しさを痛感し、自分の力では無理だと早々に諦めていた。でもだからと言ってハイゼンベルクとディラックを放っておくわけにもいかない。だから彼は行方を暗ませていた博士を何とか見つけ出し、助けを乞うたのだ。
グラム博士はまだ生きていた二人を確認し安堵する。ヤツの姿へと変貌を遂げてしまったが、5ヶ月ぶりの再会に博士は目頭を熱くさせたのだ。ただそれでも博士は、心の中で燻ぶった複雑な気持ちを抱いたまま彼らに話し掛けた。
「おぬし達、よくぞ無事でいてくれた。まぁ、その姿で無事と言ってよいのかどうかは分からんがのう」
「こちらこそ、再び博士とこうして出会えて本当に嬉しく思っています。でもまさか、こんな場所で会うとは思いませんでしたよ。博士はもう、アダムズにいないと思っていましたので」
「何を言うちょる。何もかもが中途半端な状態で、この国を出て行けるわけなかろう。ワシには果たさなければならぬ責任があるからな。自分勝手に逃げ出せはせんのじゃよ。それにしてもワシの方も驚いたぞ。まさかおぬしらがシュレーディンガーのところに身を寄せているとは、思いもしなかったからのう」
「アダムズにはパーシヴァル縁の者が意外に少なかったので、必然的に我らはシュレーディンガー殿に助けを求めたんです。でも心配には及びませんよ。今のところ我らは体に異常を感じていませんから。それよりも、ウォラストンはどうなったんですか?」
ハイゼンベルクは真っ直ぐに博士の目を見て告げた。するとそんな彼の問い掛けに博士は口を噤む。苦い記憶を呼び起こしたのだろう。博士は悲痛な表情を浮かべて唇をきつく噛みしめた。しかしハイゼンベルクとディラックには伝えなければならない。そう心に決めた博士は、少し伏し目がちになりながらも小さく答えたのだった。
「ウォラストンは死におったよ。そしてファラデーもな。おぬしらが姿を消してすぐの事じゃ。ルーゼニア教の展覧会はウォラストンが暴れた影響で即刻中止になったんじゃが、その数日後に行われた撤収作業の時じゃった。ヤツとなったウォラストンが再び現れて、海の鏡を強奪して逃走しおったんじゃ。ただそんなウォラストンをファラデーが追った。ファラデーは軍の小隊を率いて自ら討伐に向かったんじゃよ。そして激戦の中、ファラデーは自我を失ったウォラストンに殺され、またウォラストンも軍の手によって殺されおった……」
そう言ってグラム博士は再び唇を噛みしめた。居た堪れない辛さを感じ、胸が押し潰されそうになっているのだ。
しばし沈黙の時間が流れる。ハイゼンベルクとディラックもまた、グラム博士と同じ様に心を痛めていた。短い付き合いではあったが、彼らは共に作戦に従事した二人の死を知り、憂鬱な気持ちになったのだ。ただそんな彼らに向かい、グラム博士は気丈にも強がる様に声を張る。そして博士はこう告げたのだった。
「とりあえず、おぬしらの体を見させてくれぬか。今は異常が無いとて、明日が無事でいられる保証はないのだからのう」
そう言った博士は、シュレーディンガーの協力のもとで二人の体の調査を始めた。
「ふむ、やはり想像通りのようじゃな」
一通り調査を終えたグラム博士は、ハイゼンベルクとディラック、そしてシュレーディンガーに向かって言った。
「おぬしらの体の詳細部分はさらに詳しく調査する必要がある。じゃが分かり易いところで説明すると、体温・心拍数・血圧などが一般的な人間の限界値を遥かに超えておる状態じゃ。前にも話したが、ヤツになるという事は命を凝縮して、それを神に匹敵するほどの力に変えるということ。体に異常が無いと言ったが、それは本当か? その姿になってから1分でも眠れた夜があるのか? 正直に言うてみぃ。薄々気付いてるんじゃないのか。自分らにはもう、そんなに時間が残されていないんじゃないのかとな……」
グラム博士は核心を突く様に現実を推測した。ただその言葉にハイゼンベルクとディラックは口を噤む。彼らは反射的に自分達の体に感じる違和感を隠そうとしたのだろう。しかしハイゼンベルクの哀しげな眼差しは、グラム博士の予想に対する答えを物語っていた。
重苦しい空気が周囲を覆う。そしてグラム博士はその重さに潰されるよう、弱々しく告げたのだった。
「申し訳ないが、ワシはおぬしらの体を元の姿に戻せん。それどころか猛スピードで消費しているその命を、微塵にも先延ばすことも叶わぬ。全てはワシの責任じゃ。ワシの身勝手な計画に、おぬしらを巻き込んでしまった事が、今になって悔やまれて仕方ない。本当に済まぬ事をした」
博士は深々と頭を下げた。取り返しのつかない事態を生み出した元凶として、博士は自分自身の行いを後悔すると共に嘆いたのだ。ただそんな博士に向かい、意外にもハイゼンベルクは違った意味で声を上げたのだった。
「やめてくれ博士! 頭を上げてください。それにあなたは誤解している。我らは決して博士を恨んだりはしていないのだし、何よりこの姿になったのは我らの意志なのだ。むしろ勝手に暴走し、博士の前より姿を消した我らの方が謝罪しなければならないはず」
ハイゼンベルクは頭を下げたままの博士に続けた。
「博士の推測通り、我らの命が尽きるまで、もう時間がそれほど残されていないのは間違いないのでしょう。自分の体ですからね、何となくそんな気がしています。でもだからこそ、博士に願いたい。願わせてほしい。我らはボーア将軍の遺志を継ぐ者。だから我らは残り少ない命でも、手に入れたこの偽りの神の力を全て使い切り、将軍の遺志に報いたいのです。そして将軍の遺志とは即ち博士、あなたが立てた計画を遂行する事なんですよ!」
ハイゼンベルクの叱咤にグラム博士は目を丸くしながら顔を上げる。不満や怒りをぶつけられると覚悟していただけに、博士にとってその言葉はあまりにも衝撃的だったのだ。そしてそんな博士の目を見つめながら、ハイゼンベルクは優しく微笑みつつ言った。
「本当ならプトレマイオス遺跡で散ったはずの命。それがここまで生き恥を晒しているというのは、我らが博士と共にアルベルト国王を討つ宿命を背負っているという証しなんでしょう。それに我らは死に場所を求めている。どうせ散る命、ならば派手に最後の華を咲かせたい。戦犯と叫ばれるボーア将軍と、化け物の姿となり果てた我ら。結構なことではないか! ともに悪者と語り継がれようとも、我らにとっては望むところ。もう何一つ悔いはありません! さぁ博士、作戦を練りましょう! そして黒き獅子に、一泡吹かせてやろうではありませんかっ!」
ハイゼンベルクは強い気概を込めて声を張る。そしてその言葉にディラックは黙って頷いた。彼もまた、とうに覚悟を決めているのだ。
そんな二人に対し、グラム博士は涙を流した。彼らの決意が嬉しくて堪らなかったのだ。そして博士は震える手で流れる涙を拭うと、彼らに負けぬようにと必死で気持ちを奮い立たせたのだった。
「よし、まずは現状を皆で把握しようぞ。作戦はその後じゃ」
そう言った博士は、自らが調査し把握した天照の鏡の状況を伝え始めた。
まずは火の鏡。それはラヴォアジエが持っているため問題はない。そしてボーア将軍が命を賭して守り続けた死の鏡。それも現在はアダムズ王国の南部の都市【ラングレン】にあり、グラム博士が信頼を寄せる【友人】に預けているので心配はいらない。
そして黒き獅子の命の源である大地の鏡。それはかつて掴んだ情報から変化は無く、依然として王立協会のエクレイデス研究所に保管されているらしいという事。ただ大きな問題であったのが、ウォラストンが美術館より強奪したとされる海の鏡の所在であった。
海の鏡の所在はまったくの不明だ。しかしそこにはある種の疑念が残されていた。と言うのも、ヤツとなったウォラストンが激闘の末その命を落とした場所というのが、なんと禊の地の一つとされる【廃工場跡地】だったのだ。
これが単なる偶然だと言えるだろうか。ヤツになり自我を失ったとはいえ、ウォラストンはグラム博士から全ての話しを聞いているのだ。記憶の底に眠った彼の使命感が、無意識にそこへ鏡を運んだと考えても不思議ではないはず。
だからグラム博士はこう考えていた。海の鏡は廃工場跡地のどこかに存在するんじゃないのかと。そしてそんな博士の推測を確信に近づけたのは、皮肉にも戦闘の事後処理を行ったコルベットの働きであった。
なんとコルベットの隊士達は、戦闘後の現場で鏡の捜索を行っていたのである。これはアダムズ軍総司令であるアイザックが入手した情報である事から、信頼性は極めて高いものと言えるだろう。
国王直属の部隊であるコルベットが廃工場跡地で鏡の捜索を行っていた。その事実は言い換えれば、ウォラストンが強奪した海の鏡が本物である証しだと言える。そしてコルベットは最終的に、海の鏡を発見出来ずにいた。
自我を失いつつも、ウォラストンは国王側に見つからない様に鏡を隠した。都合の良過ぎる考えかも知れないが、グラム博士にはそう思わずにはいられなかった。いや、そう信じたかったのだ。
「きっと海の鏡はあの廃工場跡地にあるはず。じゃからおぬしらに頼みたいのは、やはりまだこちらの手中に無い大地の鏡を、エクレイデス研究所から奪い獲ってもらいたいのじゃ。図らずしておぬしらはすでに一度、研究所に突入してその防衛機能を掻い潜る実績を得ておる。容易くはないじゃろうが、でも十分に大地の鏡を奪うのは可能じゃろうて。あとは鏡をそれぞれの禊の地に運ぶのみじゃ」
「でも海の鏡はどうすんだよ。廃工場跡地って所にあったって、現物を空に掲げて初めて【天光の矢】っつうのは発射されるんだろ? それが出来ないんじゃ、せっかく大地の鏡を手に入れても意味ないぜ」
ディラックが的を得た疑問を口にする。ただそれに対し、グラム博士は真っ直ぐに彼の目を見て答えたのだった。
「見かけに寄らずおぬし、鋭い指摘をするのう。確かにおぬしの言う通りじゃ。天光の矢は禊の地にて、それぞれの鏡を天に掲げて初めて効果を実行する。ただのう、不確定ではあるのじゃが、海の鏡は廃工場跡地で天に向けて置かれておるらしいんじゃ。根拠はまるで無いんじゃが、ある者がそう教えてくれたのでのう」
「ある者?」
ハイゼンベルクとディラックは首を傾げる。ただそんな彼らにグラム博士は微笑みながら言ったのだった。
「ある者とは【ラヴォアジエ】じゃよ。二日ほど前か、ここに向かう途中突然ワシの前に彼が現れてのう。その時に聞いたんじゃよ。何でも天照の鏡同士は惹かれ合う不思議な力を持っているのだとな。明確な場所の特定までは出来ないみたいじゃが、廃工場付近からその力を未だ感じるらしい。それも天に向けられた状態でな。藁をも掴む様なモンじゃが、作戦を遂行するにはそれを信じるしかあるまいて」
そう言って博士はニッコリと笑ってみせた。博士にしてみれば、それは強がりの苦笑いだったのかも知れない。ただハイゼンベルクはその笑顔に笑顔で返した。そして彼は妙に納得した表情を浮かべながら博士に言ったのだった。
「ラヴォアジエが言ったのなら信じるしかないでしょう。この姿になってからというもの、不思議な感覚を時々感じることがある。それは我らが初めてプトレマイオス遺跡に着いた時に見た、銀の鷲から感じた感覚と同じなのだ。姿は見せないが、恐らく彼は近くにいるのでしょう。そして本物の鏡の力をその身に宿す彼が海の鏡の存在を感じるならば、その感覚には確証が持てると思います」
ハイゼンベルクは博士の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳からは強い意志の込められた漲る力強さが伝わって来る。すると博士はそんな熱い眼差しから喚起したのだろう。博士はハイゼンベルクの気迫を胸に深く刻むよう、自分自身を鼓舞しながら声を上げたのだった。
「そうなればあとは時間の勝負じゃな。悔しくもおぬしらの寿命に余裕がないのは明白。となれば、次の朔の日に作戦を決行するしかあるまいて。ワシらが動けば間違いなくラヴォアジエも動くはずじゃ。唯一の心配はエクレイデス研究所の大地の鏡が本物かどうかじゃが、この作戦自体が元々ギャンブルじゃからのう。微かな望みに賭けるしかない。今更ながら聞くが、覚悟は良いか!」
グラム博士は強く言い切る。するとその言葉にハイゼンベルクとディラックは首を縦に振り、作戦決行を胸に誓ったのだった。
「これが、我らがここに至るまでの全てだ」
ハイゼンベルクはゆっくりと起き上がりながら言う。そして彼は柔和な眼差しでジュールの表情を見つめた。
全てを語り尽くした事で、それまで堪えていた重圧から解き放たれたのだろう。ハイゼンベルクからはハッキリとした安堵感が伝わって来る。それは化け物である羊顔のヤツの巨体からは絶対に想像出来ない和やかな感覚だ。ただそんな優しい感情を表に出すハイゼンベルクとは対照的に、ジュールはただ呆然とするしかなかった。
全てを知ったジュールは戸惑いを隠せない。豚顔のヤツ、牛顔のヤツ、羊顔のヤツ。これまでに自分が敵として戦ったそれら全ての化け物は、実は人類の為に命を懸けていたというのだ。それもその正体は自分と同じ人間だった。
ヤツが生まれた理由を知り、アルベルト国王が獣神である事実を知る。そしてグラム博士がその獣神を倒そうとしている中心人物であるのだと知った。
ボーア将軍の反乱の経緯。天照の鏡とラヴォアジエの関係。月夜の廃工場跡地で戦死したファラデーの憤り。
ジュールはそれら全てに繋がりがあるのだと理解した。それどころか、まるで見えない大きな力で皆が無理やり操られているんじゃないのか。彼はそう思い、震えが止まらなくなっていた。
気持ちが悪い。今にも吐きそうだ。ジュールは込み上がって来る嫌悪感に蝕まれる。全部嘘だったと言ってくれ。ジュールは本心からそう願った。でもそれが真実なんだと受け入れてしまったからこそ、こんな激しい不快感に身悶えるんだろう。
ジュールは必死で奥歯を噛みしめている。ただそんな彼にハイゼンベルクがそっと近寄る。そしてハイゼンベルクはジュールの前に屈み込むと、死の鏡を差し出して言った。
「お前がひどく混乱しているのは分かっている。ただもう時間が無いのでな。この鏡をお前に託すよ。天光の矢を発動出来ず、黒き獅子の討伐にも失敗した。でもだからと言って、この鏡をこのまま放置しておくわけにもいかんだろう。国王に扮した獅子が、鏡を欲してしる事に変わりはないんだしな」
「そ、そんな、俺にどうしろって言うんだよ。こんな物渡されたって、俺には何も分からない」
ジュールは激しく動揺している。突然ハイゼンベルクから切り出された話について行けないのだ。ただそれを承知でハイゼンベルクは続けたのだった。
「たとえ今日を生きながらえたとしても、我の命はもう何日も持つまい。それにな、グラム博士が今どこにいるのか、我には知りえぬのだ。だから鏡を託せるのはもうお前しかいないんだよ。これがどれだけ酷な話しかはよく分かっているつもりだ。でも我の話を聞いたお前なら、もう答えは出ているんじゃないのかな」
「勘弁してくれっ! こんな鏡受け取って、俺にどうしろって言うんだよっ! ファラデー隊長はもう死んだんだ。あんた達だっていなくなる。肝心の博士も何処にいるのか分からない。頼れる奴なんか一人もいないじゃないか! そんな状況で本物の大地の鏡を見つけ出して、さらに天光の矢を発動させて獅子を討てって言うのか。そんな事が出来るわけ無いだろっ!」
ジュールは自分自身の心に必死で抵抗した。ハイゼンベルクの話しは天地を揺るがすほどの大きなものなのだ。それなのに心の奥深くでは、それを受け入れようとする自分がいる。彼はそれに気付いたからこそ、声を荒げて反発したのだ。
ただそんなジュールが差し向ける鋭い視線からハイゼンベルクは目を背けない。いや、むしろ彼はそれを真正面から受け止めつつ、最後の本心を打ち明けたのだった。
「確かにお前一人で鏡を集め、天光の矢を発動させるのは困難だろう。それに今回の我らの様に、偽物を掴まされるリスクもある。いや、そもそもこの計画には無理が有り過ぎるんだ。相手が獣神と言うだけで現実味なんて無いに等しい。ましてそれを神話に出て来るだけの、天光の矢などという不確定な方法を利用して倒そうとしている。バカげているとしか言いようがない。でもな、それでも我らは藁にも縋る想いで作戦を実行した。黒き獅子が人類にとって甚大な脅威になると思ったから、我らはこんな姿になってまで作戦を決行したのだ。我らはボーア将軍やパーシヴァルの王族の命を奪った、蒼き蛭の存在を直に見ているからな。あいつらにとって、人の命は虫けら同然なんだろう。そしてもちろん黒き獅子だって同じはずなんだ。そんな危険な化け物を、放っておくわけにはいかないだろ」
「でも鏡を集めるのは至難の業だ。それにもし仮に鏡が集められたって、天光の矢っていうのは本当に発動するのか? あんたの話しを聞く限り、俺だって黒き獅子がヤバい奴なんだって事くらいは分かるさ。だけど相手が悪過ぎる。獣神に勝てる見込みなんて、あるわけないよ」
「常識的に考えればそうであろうな。獣神に勝つなど、人間に出来る所業ではない。だがそれでも我らは獣神を討とうとした。だから天光の矢などという迷信に縋るしかなかったんだ。でもな、グラム博士は違ったんだよ。博士は神には神の力で対抗するしかないという発想を転換させ、あえて神に対して人の力で対抗できぬか考えていたんだ」
「え、博士が何だって?」
「時間切れの為、その研究は完成していない。しかしそれが完成すれば、鏡など無くても黒き獅子が討てると言うのだ。そしてそれは、瞬間移動など子供騙しに思えるほどの凄まじい技術なのだという。ボーア将軍とグラム博士が生み出した【波導量子力学】という科学理論。その極みこそが獣神を倒す最良の方法であり、人の未来はその理論に懸かっているはず。だからお前はその理論を使って、獣神に挑むんだ」
「でもまだ未完成なんだろ! 完成する保障すらないんだろ! そんな状態で、何を信じろって言うんだよ!」
ジュールは抵抗の叫びを上げる。彼は全てを拒否したいと心の底から願ったのだ。でもそれは彼が心の奥深くで全てを理解してしまっている自分自身を、必死で誤魔化そうとしていただけなんだろう。そしてそんなジュールの萎えた気持ちをハイゼンベルクは十分に察する。だがそれでもハイゼンベルクはあえて強い口調で叱咤したのだった。
「博士を信じるのだ! そして友を信じるのだ! お前には信頼出来る仲間が多くいるはずなんだからな。博士は以前にこう言った。『人の力とは信じる力だ』と。その言葉はきっと正しいものだ。そしてそれはお前にとっても言える事。ファラデーや我らがいなくなったからとて、決してお前は一人なんかじゃない。もっと周りを信頼し、頼るのだ。ありのままを伝え全てをさらけ出し願えば、きっと誰もが惜しむ事なくお前に協力してくれるだろう」
「だからって、この話は命を懸ける話だ。現にファラデー隊長を含めて沢山の命が失われている。そんな危険な目に、俺の大切な仲間を巻き込ませられないだろっ!」
ジュールはボロボロの拳を強く握り締めて視線を落とす。憤った感情の向け先が分からないのだ。ただそんなジュールの戸惑う気持ちはハイゼンベルクに痛いほど伝わっていた。ジュールに願う事しか出来ないハイゼンベルクもまた、心を痛めていたのだ。
ハイゼンベルクは一度だけ大きく息を吐く。そして彼は穏やかな口調で我が子を諭すようにジュールに話し掛けた。誰よりも今のジュールが置かれた状況を理解しているからこそ、ハイゼンベルクはあえてジュールに前を向いて欲しかったのだ。
「お前の言う通り、この計画は命懸けだ。安易に他人に対して協力を要請するなんて出来るはずもない。でももしお前の友が、今のお前と同じ状況に立たされていると知ったらどうする? 駆け付けぬわけにはいくまい。例えそれが知らされていなくとも、気付いた時に手遅れであれば、きっとお前は後悔するはずだ。何で教えてくれなかったのだとな。真の友とはそういうものだ」
「だからこそ、分かってるからこそ、俺にはみんなを巻き込むなんて出来ないよ……」
ジュールはグッと唇を噛みしめる。頭の中が錯綜し、何を考えればいいのか判断出来ない。取り乱さない様に、精一杯気持ちに蓋を閉める以外には何も出来ないのだ。ただそんな彼に向かい、ハイゼンベルクは具体的な指示を出す。少しでもジュールを落ち着かせようと、ハイゼンベルクは現実的な話しを振ったのだった。
「まずは行方知れずのグラム博士を探せ。博士さえ見つけられれば、獣神打倒の方向性は自ずと決まるはずだからな。でももし見つからない様なら、博士に執着せず別の者を当たれ。我が知りえる限り、グラム博士以外でお前の進むべき道を示してくれる者は三人いる。一人はアダムズ軍総司令のアイザック。そして我らが世話になった資産家のシュレーディンガー。もう一人は博士が信頼する友人で、一時的に死の鏡を預かっていた南部の街ラングレンに暮らす男性。彼らに会い話すのだ。特にシュレーディンガー殿は博士がやり残した研究の全てを知っている。博士とボーア将軍の次に波導量子力学を知っているのは彼なのだから」
ハイゼンベルクはそう言うとニッコリと微笑んだ。その笑みにどんな意味が込められていたかは分からない。ただハイゼンベルクはゆっくりと立ち上がると、表情を引き締め直して歩み出した。
「ちょ、ま、待ってくれ。どこに行くんだよ。俺を一人にしないでくれ!」
ジュールは縋る様に口走る。ただその嘆きにハイゼンベルクは首を横に振った。
「済まない。お前の力になりたいが、もう時間がないのだ。最後に我にはどうしても行きたい場所がある。命尽きるまでにそこに辿りつけるかは分からぬが、でもどうしても行きたいんだよ。身勝手で本当に済まないと思うが、だけど我の仕事はここまでとさせてほしい」
「い、行きたい場所って?」
ジュールは素直に尋ねる。するとハイゼンベルクは少し寂しそうに告げたのだった。
「故郷のパーシヴァル王国さ。そこには残してきた女房とまだ幼い娘がいる。こんな姿になってしまったが、最後に一言、いや一目でいい。家族の無事な姿が見たいのさ――」
「……」
ジュールは何も言えなかった。もともと彼らに博士が持ちかけた計画を引き受ける義務は無かったのだ。それでも彼らは命を懸けてこれまで計画に従事してきた。ヤツの姿になってまでも。そんな彼が最後に望んだ、家族に会いたという当たり前の願い。その言葉の重みにジュールは下を向くしかなかった。
ただそんな彼にハイゼンベルクは向き直る。そしてこれが本当に最後なのだと、ハイゼンベルクは穏やかに語り掛けた。
「すぐに答えを出せと言った我が悪かった。命の終わりを近く感じるだけに、いたずらにお前を焦らせてしまった様だ。配慮が足らず、本当に済まぬ事をした。――そうだ、詫びというわけではないが、最後に一つだけ伝えよう。グラム博士はあまり詳しく語ってくれなかったが、グリーヴスに向かう途中の博士がラヴォアジエと接触した時、お前についても何か話したらしい。どうやらお前はその身に【真の神の力】を宿して生まれてきた者の様なのだ」
「か、神の力……、俺に?」
「その者は太陽の光が届かぬ夜に、右目を青白く輝かせ神と同等の力を発揮するらしい。そしてその者は月読の胤裔と呼ばれ、【月読の奏】を感じる事で真の力に覚醒するらしいのだ。それが一体どんなものなのかは知り得ぬが、実際にお前と戦った事でその凄まじさは体験した。まだ覚醒していない段階であの強さだ。真の力を発揮したならば、よもや黒き獅子とも対等に戦えるやもしれぬ。でもな、そんな神とも化け物ともいえるお前ではあるが、グラム博士は心から大切に想っていた。お前の身に何が宿っていようと、博士にしてみればお前は【お前】なのだ。大切な息子を苦しめたくないがために、博士はお前に何も言わなかった。今のお前にはその気持ちが十分わかるはずだ。だから次に博士に会った時は、あまり博士を責めないでくれ……」
ハイゼンベルクは微かに微笑みながらそう告げた。そしてジュールはそんなハイゼンベルクの優しい眼差しを見つめる。するとどうしてだろうか、僅かだが肩が軽くなった気がした。
ハイゼンベルクが教えてくれた博士の温かい想いに触れ、心が和んだのかも知れない。そう思ったジュールはホッと息を大きく吐き出す。そして彼はハイゼンベルクに向かい、素直な感謝の気持ちを述べたのだった。
「話してくれてありがとう。あんたのお蔭で少し気分が楽になったよ。――その腕、大丈夫か?」
「この程度の傷、どうって事は無い。この体の回復力を甘く見てもらっては困るぞ」
ハイゼンベルクは胸を張りながら微笑んだ。そしてその笑顔につられる様、ジュールも笑顔を差し向ける。
「そうか。ならあとの処理は俺に任せて、あんたは何処へなりとも行ってくれ。……会えるといいな、家族に」
「礼を言うぞジュール。出来る事ならお前とは戦場ではなくて、もっと別の場所で会いたかったな。お前の行く先にはこれからも多くの困難が降りかかるであろう。でもお前ならきっとそれらを乗り越え、目的を達成できると我は信じている。若き戦士よ、さらばだ……」
そう告げたハイゼンベルクは駆け出そうとする。だが最後にジュールの顔を見てふと【何か】を思い出したのだろう。彼はもう一度だけジュールに向かい声を掛けた。
「済まぬがもう一つだけ、お前に頼みたい事がある」
「何だよ? この際だから何でも言ってくれ」
「なら遠慮なく甘えるとしよう。我が願いたいのはリーゼ姫の事だ。表向きは保護を理由にアダムズ城にいる姫だけど、恐らくは黒き獅子によってその行動を監視されているに等しい。死の鏡の力を封印した姫の力の存在を獅子は知っているはずだし、自分の力まで封印される可能性があるのではと考えていても不思議はないからな。姫はこの世に生まれ変わった【女神】の様なお人だ。もう我は姫の力になれぬゆえ、お前に頼みたいのだ。どうか、姫を守ってほしい――」
ハイゼンベルクの訴えかける視線には厳しさが込められている。本来であれば、リーゼ姫を守るのはパーシヴァルの軍人である自分の使命なのだ。しかしそれはもう自分では叶えられない。最後に残されたのはジュールに願いを託す事だけ。でもきっとジュールならば、かつて【姫の命を救った】経験を持つ彼ならば、絶対に信用出来るはず。
そう胸に問い掛けたハイゼンベルクは真っ直ぐにジュールを見つめる。するとそんな彼に対し、ジュールは力強く頷きながら答えたのだった。
「姫のことは承知した。全力でお守りするよ。だからあんたは心配しないでくれ」
その言葉にハイゼンベルクは目頭を熱くさせる。でも彼は軍人だ。人前で涙を見せるわけにはいかない。だからハイゼンベルクは零れそうになる涙を必死に堪えながら、威勢良く声を張ったのだった。
「ありがとうジュール。君の健闘を心から祈る!」
ハイゼンベルクはそう言うと、ジュールに背を向けて足早に駆け出した。