#19 凍解の事実(六)
国立ルヴェリエ美術館にて、ルーゼニア教主催の展覧会が予定通りに開催された。
さすがは国立美術館で開催される大規模な展覧会である。どこを見渡しても世界に名立たる著名な絵画や彫刻ばかりだ。これ程の展覧会が開催出来るというのは、それだけルーゼニア教の権威が凄まじい証拠なのだろう。
特に教科書にも載っているほどの有名な絵画が百点ほど展示されている。これが今回の展覧会の目玉であるのは間違いない。そしてその厳重な警備体制は、素人目から見てもハッキリと分かるものだった。
この百点の絵画をまとめて売ったとしたならば、ちょっとした小国くらいは買えてしまうだろう。それほどまでの値打ちがある絵画に、厳重な警備が布かれているのは当然だ。そしてそれが功と成したのか、美術館の中でもあまり目立たない位置に展示された【海の鏡】には、ほとんど警備らしい警備がされていなかった。
人の頭部程の大きさをした骨董の鏡。それはある意味、この展覧会に相応しい貫禄の様な凄味を感じる事が出来る。理由はよく分からないが、見る者を惹きつける不思議な力が鏡にはあったのだ。しかし色あせた紫色の鏡がその存在感を主張するには、いささか今回の展覧会はスケールが大き過ぎたのだろう。すれ違うのが困難なほど来客者は多かったが、そのほとんどが海の鏡には目を向けず、主役の絵画ばかりに集中していた。
そのため海の鏡の前で足を止める者はほとんどいない。というよりも、その存在に気付かない者もいるくらいだ。恐らく来客者の大半が、普段はあまり美術品に興味がない者ばかりだったのだろう。それゆえに来客者達は目的の絵画だけを目当てとし、足早に鏡の前を過ぎ去っていた。
もしこれが一般的な展覧会であれば、もっと海の鏡は注目されていたかも知れない。美術品に興味がある者であれば、鏡を一目すればその魅力に惹き込まれるはずなのだから。だが不運にも海の鏡にスポットが当たることは無かった。いや、それでも興味を持った者も少なからずいただろう。しかし今はそれ以上に、輝かしい美術品が存在感を露わにしていた。
鏡を見て一瞬気に留めた者が居たとしても、それが美術館を出た頃には、残念ながらその意識の中に鏡は存在していなかった。そして然したる問題も発生しないまま、展覧会は2週間の日程のうちの半分を経過させていた。
未だ計画を実行に移せないグラム博士達の心境は苛立ったものだろう。表面上は冷静さを保っている様にも見えたが、やはり焦りはじわじわと彼らの気持ちを波立たせていたのだ。しかし計画を実行する為のタイミングがどうにも掴めない。そんな息の詰まる状況に、博士達の胸の内はひどく疲弊していくばかりだった。
予想以上に海の鏡の警備が手薄だっただけに、博士達は逆にそれが罠なのではないかと疑っていたのだ。そこで博士はウォラストンとエルステッドに入念な調査を指示し、鏡周辺の隅々まで確認させる。ただいくら警備が手薄だとはいえ、美術館全体で考えればかなりの数の警備員が配置されているはずだし、それに抜け目なく監視カメラも設置されているのだ。もちろん展示物である海の鏡自体にも、何かしらの防衛装置が施されているだろう。
そんな状態の中で、計画を確実に実行できるタイミングを見計らうのは困難極まりない。ウォラストンとエルステッドは彼らなりに精一杯役割を果たそうと努力していたが、しかし無情にも時間は過去るばかりだった。
すでに展覧会の日程は折り返しを迎えている。このままでは何も出来ずに終わってしまうぞ。そんな焦燥感に駆られながらも、ウォラストンとエルステッドは今日も交代で鏡の状況を見て回った。
そんな調査活動を担う二人とは別に、美術館の駐車場に停まる中型のトラックでファラデーとハイゼンベルク、それにディラックは待機をしていた。ただそんな三人もまた、ひどく焦りを感じイラついている。いや、何も出来ずにじっと待っている方が、むしろ気持ちが逸るものなのだろう。
それにハイゼンベルクとディラックは未だに悩んでいた。彼らはクローンの勾玉の力を使うべきかどうか、最終的な覚悟を決めきれていなかったのだ。
もとより死は恐れていない。しかし人間を辞める覚悟までは決められない。それが彼らの本心だった。人を辞めてヤツなんていう化け物になるなんて、常識的には受け入れられるはずがないのだ。それでも勾玉の力が必要不可欠なのだという事も理解している。だから二人は迷い悩んでいた。
ハイゼンベルクとディラックは、すでに拘置所を脱走した脱獄囚として広く指名手配されている。その為に表だって動く事は当然出来ない状態だった。そしてそんな窮屈な状況が、余計に二人の気持ちを鈍らせていた。
しばらくすると、そんなハイゼンベルク達が待機するトラックにウォラストンが戻って来る。彼はエルステッドと見回りを交代し、休憩をとりに来たのだ。ただそんな彼に向かい、ファラデーは鏡の状況を尋ねる。定常の報告を求めたのだ。しかしその答えはあえて尋ねるほどの成果は無く、ファラデーは深く溜息を漏らしていた。
手を伸ばせば届く距離に海の鏡は展示されている。それなのにタイミングが掴めず計画は一向に進められない。いや、そもそも計画を決行するタイミングとはいつなのか?
不安が常に疑問を浮かび上がらせる。でもウォラストンとエルステッドは懸命に状況を探っているのだし、それを疑ってしまってはここまで自重した意味もなくなってしまう。単純に焦燥感に苛まれたせいで、冷静な判断が出来なくなっているだけなんだろう。ファラデーとハイゼンベルクはそう思い、早まる感情を必死に宥めようと努めた。だがしかし、ディラックが堪らず叫ぶ。彼は変わり映えのない現状に、我慢の限界を迎えてしまったのだ。
「ええい、もういい加減にしてくれ! 我にはもう堪えられん。こうなったら我はこの目で海の鏡とやらを見てくるぞっ! 実際に鏡を見て、そこで何か感じられれば、自分の気持ちにケジメがつくやもしれんならな!」
「待てディラック! 早まるな!」
「退いて下さい副将、我にはもう我慢できんのだ!」
そう吐き捨てたディラックは、ハイゼンベルクの制止を薙ぎ払ってトラックを飛び出した。
「バカ野郎っ」
ハイゼンベルクとファラデーが即座に追い駆ける。ただでさえ体の大きなディラックは目立つのだ。それに彼は脱獄囚として顔も知られている。そんなディラックが展覧会会場に駆け込んだら騒ぎにならないはずがない。そうなったら計画は一巻の終わりなのだ。
ハイゼンベルクとファラデーは全速力でディラックを追う。しかしその巨体に見合わず、ディラックのスピードはかなり速い。さすがはパーシヴァルきっての精鋭兵士だ。基礎運動能力は、全ての項目において高いものを有しているのだろう。そしてディラックはハイゼンベルクらに追いつかれるよりも早く、美術館の正面ゲートに駆け込んだ。
展覧会は入場無料であった事もあり、混み合うほどに人が溢れている。だがディラックはそんな人混みを半ば強引に掻き分け、一目散に海の鏡を目指した。
海の鏡の展示位置は展覧会のパンフレットで確認済みである。それにウォラストンとエルステッドにも繰り返し確かめているから間違えるはずがない。だからディラックは人で溢れる美術館の中でも、最短コースで海の鏡の場所へたどり着いた。
「ハァハァハァ……」
ディラックは激しく肩を上下させて息をする。最短コースを駆けたとはいえ、多くの人々を無理やり掻き分けて来たのだ。かなりの疲労感を覚えたはずだろう。ただそんな疲れ切った彼であったが、目の前の存在を確認した瞬間、不思議な力を感じてふと呟いたのだった。
「これが伝説の天照の鏡なのか――」
見事な【竜】の彫刻が施された紫色の鏡がそこにあった。そしてその鏡にディラックは見入っている。なぜか彼には鏡が自分の到着を待っていたのではないか、そう思えて仕方なかったのだ。
決して雅やかとは言えない。むしろ原始時代を想像させてしまうくらいの骨董品だ。でも何故なのだろうか。その鏡からは心を惹き付ける不思議な力が感じられる。そしてその感覚を直に察したディラックは、茫然と立ち尽くす事しか出来なかった。
心が安らぐというか、妙に落ち着く気がする。まるで母なる海に包まれているかの様な。ただそんな不思議な力に魅了されているディラックのもとに、血相を変えたエルステッドが駆け寄り声を掛けた。
「あんた、何しに来たんだよっ! こんな場所にいたらすぐに通報されちまうぞ。早く戻ってくれ!」
エルステッドはディラックの腕を掴み、強引に引き返そうとする。しかしディラックの体はビクともしない。彼はエルステッドの忠告を拒んだのだ。
すると今度はハイゼンベルクとファラデーが駆け付ける。そして彼らは仁王立ちのディラックに向かい言ったのだった。
「戻るんだディラック! ここは危険だ。コルベットに見つかれば逃げ場はないぞ!」
ハイゼンベルクが強制力を込めた言葉で指示する。彼の戦場で培った勘が鋭く働いたのだ。ここはヤバい場所なんだと。その証拠にハイゼンベルクの全身には鳥肌が立っていた。
ハイゼンベルクとファラデーは必死でディラックの体を押し戻そうとする。冗談抜きで只ならぬ気配を感じるのだ。だがしかし、二人は怪力のディラックに逆に投げ飛ばされてしまった。
「ドガドガッ!」
ハイゼンベルクとファラデーの体が無造作に転がる。そしてその変事を敏感に察した周囲の来客者達が騒ぎ始めた。何か揉め事でも起きたのだろう。彼らはそう思い、ざわつき出したのだ。そして恐れていた様に、その騒ぎを嗅ぎ付けた警備員までもが駆け寄って来てしまった。
「どうかなされましたか? 問題があるようなら話して下さい」
警備員は丁重な言葉で話し掛ける。だがその眼差しは明らかに不審者を見る目つきだ。ただそこで後から駆け付けたウォラストンが咄嗟に機転を利かせ、その場を乗り切ろうとした。
「何でもありません。ただの内輪揉めです。お騒がせして申し訳ありませんでした。私達はもう帰りますので、お気になさらないで下さい」
「注意して下さい。ここは美術館なんですからね。くれぐれも他のお客様に迷惑が掛からないよう、静粛にお願いしますよ」
警備員はそう言うと、大きく溜息を吐き出した。問題が大きくならず、安堵したのだろう。そしてそんな警備員の姿にウォラストンも胸を撫で下ろす。相手が一般の警備員で助かった。彼はそう思い笑顔を浮かべた。
通路に倒れたハイゼンベルクとファラデーが素早く起き上がる。ウォラストンの計らいで窮地には至らなそうだ。でもグズグズしている暇は無い。そう考えたハイゼンベルクは再度ディラックに近づいた。ただその時だ。先程の警備員とは別の警備員が、ハイゼンベルクとディラックの顔を見てハッとしたのだった。
「ん!? もしかしてお前達、拘置所を脱走したパーシヴァル王国の兵士じゃないのか。そうだ、その顔は間違いないぞ!」
その声に周囲は騒然とする。そしてハイゼンベルクらの正体に気付いた警備員は、応援を呼ぼうと無線機に手を伸ばした。だがそれよりも早くディラックの蹴りが警備員に叩き込まれる。
「ドガッ」
「キャァァ!」
蹴りの衝撃で数メートル吹き飛ばされた警備員の体が美術館の壁に激しくぶつかる。そしてそれを見た一般の来客者達から悲鳴が上がった。
マズイぞ。正体がバレた以上、騒ぎは収まらないはずだ。どうすればいい――。ファラデーは反射的にそう考える。しかし彼は強引に腕を掴まれ姿勢を低くさせられた。
「お、おい。何をするんだウォラストン! 何のつもりだ!」
「しっ! 黙ってこっちに来るんだ」
ウォラストンは無理やりファラデーの腕を引っ張って進み出す。
「な、何を考えているんだお前。あの人達を見殺しにするつもりか!」
「ファラデー、君は軍人だ。そんな君が脱獄囚と一緒にいたと知られれば、立場的に危ぶまれるのは間違いない。それにただでさえ困難な計画が更に難しくなってしまう。だからここは私に任せてくれっ」
そう口走ったウォラストンは通路にあった非常扉を開ける。そして素早くファラデーと一緒にその扉から外へ飛び出した。
「俺達だけで逃げるっていうのか! そんな卑怯なマネ、俺には出来ないぞ」
「そんな事したって、この状況から逃げられやしないさ。――バリバリッ!」
ウォラストンはスタンガンをファラデーに突き付けた。激しい電撃がファラデーの体を突き抜ける。そして彼は為す術無く膝をつき倒れ込んだ。
僅かに意識は残るものの、ファラデーの体の自由は失われている。あまりにも予想外な衝撃に彼の防衛反応は機能しなかったのだ。そしてそんな倒れ込んでいるファラデーの懐より、ウォラストンは【小さな石】を取り出した。
「ちょっ、ウォラストン。お、お前、何をするつもりだ」
嫌な予感が過ぎったファラデーは、ウォラストンを止めようと必死にもがく。だが悲しくも体は言う事を聞いてくれない。するとそんなファラデーに向かい、ウォラストンは少しだけ寂しそうに言ったのだった。
「もし私の自我が失われてしまったら、その時は容赦なく殺してくれ。どうせ討たれるなら、君に殺めてもらいたい」
「なっ、バ、バカな……。早まるな、お前のその体じゃ……たとえ意識を保てたとしても……長く……は……」
ファラデーはそう告げるのが精一杯だった。そして彼は意識を失う。するとそんなファラデーに対して、ウォラストンは軽く微笑みながら言った。
「ありがとう、ファラデー。君と友になれて、本当に良かった。さよなら……」
ウォラストンはグッと拳を握りしめる。そして彼は騒ぎ立つ美術館の中に戻って行った。
美術館の中はひどく騒然としていた。騒ぎの中心には、当然の事ながらハイゼンベルクとディラックがいる。そしてその横では、エルステッドが激しく動揺を露わにしていた。
彼らを取り囲む黒い影。それは揃いの黒い制服に身を包んだコルベットであった。完全武装を施した精鋭部隊の登場に、緊張感と焦燥感は加速度を上げて高まって行く。そしてその感覚を敏感に察した多くの来客者達もまた、その場の雰囲気に飲まれて動けなくなっていた。
アダムズ軍の最高部隊であるコルベットと脱獄囚であるパーシヴァルの兵士が睨み合う。一触即発なのは間違いない。そう思う周囲のギャラリー達は、生唾を飲み込みながら状況を見守った。ただそんな張り詰めた緊迫感の中で、ディラックは勝気にも皮肉を吐き出したのだった。
「へへっ、ぞろぞろとゴキブリみたい現れやがって。どうやら王国最高の集団とやらは、ジメジメした場所に潜んでいるのが得意な様だな」
ディラックは不敵に微笑んでいる。それはむしろ差し迫った状況を楽しんでいるかの様だ。彼の勝気な性格の現れなのだろう。ただそんな彼とは対照的に、ハイゼンベルクは冷静に状況を観察していた。
コルベットの隊士は全部で9人。皆それぞれに完全武装している。これから戦争を始めてもおかしくない程の体勢だ。それに引き替えこちらはほぼ丸腰と言っていい。何の準備もせず、突発的に飛び出したディラックを追ったがゆえの有様だ。でもだからと言っておめおめと諦めるわけにもいかない。どうすればいい――。
ハイゼンベルクの額から大粒の汗が流れ落ちる。ただその中で彼はコルベットに怪しまれぬくらい自然に、石が収められたズボンのポケットに手を伸ばしていた。
やるしかないか。いや、どのタイミングで使うべきか。ハイゼンベルクは意識を集中させる。ただそんな彼に対しコルベットの隊長であるトウェイン将軍が、一驚する事実を口走った。
「餌に食いついたのが、パーシヴァルの二人だけだったのが残念だな。出来る事なら【首謀者】であるグラム博士も捕えたかったが、でもさすがにそれは虫が良過ぎるか。他にも数人いたように思えたが、まぁいい。雑魚は後でじっくり探し出すとしよう。――ところで【そこの者】よ、ご苦労であったな。下がって良いぞ」
トウェインはそう言うと、腰を抜かして座り込んでいるエルステッドに目配せした。
「なっ! 貴様、裏切ったか!」
ディラックは憤怒の形相をエルステッドに向ける。するとエルステッドは怯えながらも必死に言い返した。
「あ、あんた達は国王を殺すつもりなんだろ。お、俺にはそんな、こ、国家に反逆するなんて、出来るわけないだろっ!」
エルステッドは目一杯に声を張り上げる。それは竦み上がった自分を誤魔化す精一杯の反発だった。ただそんなエルステッドの怖気づいた態度に対して、ハイゼンベルクは憐みの表情を浮かべる。縮こまるエルステッドの姿がひどく惨めに思えたのだ。それでもハイゼンベルクはエルステッドの真意を見定めようと、あえて自らの想いを告げたのだった。
「お前はグラム博士から全てを聞いたのではないのか? それにお前は博士の事を崇拝していたのではないのか。それなのにお前はどうしてこんな事をするのだ。お前の博士に対する敬意の感情は、決して偽りでないと、我には思えていたのだがな」
「グ、グラム博士を心から尊敬していたのは事実さ。けど俺の父を【殺した】のもまた、博士なんだよ。俺には博士の事を軍に報告するいわれがある。それに博士の話は信じられない内容ばかりだ。それを信じろっていう方が無理なんだよ。でもさ、仮に国王が本物の獣神だとしたなら、尚更歯向かうべきじゃないだろ。人の力ではどうも出来ないんだし、まして神に矛先を向けるなんて、ルーゼニア教の信者である俺には、到底考えられない事なんだから」
エルステッドは半べそを掻きながらもゆっくりと起き上がる。彼なりに反発したことで、体の萎縮が幾分収まったのだろう。だがそんな彼に向かい、ディラックは堪らずに吠えたのだった。
「チッ。貴様の事は、初めの尋問の時から虫が好かなんだ! 今の我は国王より、むしろ貴様をここで八つ裂きにしたいわ!」
ディラックは激しい怒りを噴出させる。だが同時に彼を包囲するコルベットの隊士達が最新式の銃を構えた。ディラックの威圧的な姿勢に反応したのだ。
引き金に掛けられた指先に力が込められる。こうなっては如何にディラックとハイゼンベルクが歴戦の兵士だとしても攻撃は防げない。そしてそんな絶体絶命な彼らに向かい、トウェインは投降を命じた。
「ここで無理に抵抗したとて無駄死にするだけだぞ。大人しく降伏するんだ。素直に従えば、お前達は元の拘置所に戻るだけで済む。だから無駄な抵抗はせず、大人しく投降しろ。そうすれば命の保障だけは確約する。まぁ、どのように拘置所を抜け出したのか、その方法はしっかりと話してもらうがな」
トウェインは不敵な笑みを浮かべて言った。彼にしてみれば完全な勝ち戦だ。この状況で二人が反抗するなんて考えられるわけもない。トウェインはそう確信したからこそ、余裕を見せて降伏を促したのだった。――がその時、突然鼓膜を突き破る様な高周波が発生した。
「ビッキーーン!」
頭部がかち割られると錯覚するほどの衝撃が突き抜ける。またそれと同時に美術館内の照明が全て消えた。日中であるにも拘らず、閉塞された美術館内部は一気に暗くなる。――と次の瞬間、彼らの目の前に信じられない姿が出現した。
「ドンッ!」
何かが墜落したかの様な大きな振動が美術館に伝わる。だがその振動の正体は、そんな天災すら凌駕してしまう戦慄の仕業だった。
吹き抜けの2階から飛び降りて来たのだろうか。そこにはなんと【腐った豚】の様な顔をした、体全体を黒い毛で覆う巨大な人型の化け物が現れていたのだ。
「グオオォォォ!」
化け物が巨大な雄叫びを上げる。するとその叫びは美術館全体を揺らし、またそれ以上に人々の心を恐怖で震撼させた。
「くっ、な、なぜ【ヤツ】がこんなところに!」
突然出現したヤツの存在に、さすがのトウェイン将軍も気後れする。また同じく王国最高と呼ばれるコルベットの隊士達も尻込みした。
とても現実のものとは思えない。そんな化け物が姿を現したのだ。それも豚顔のヤツは尋常でないほどの敵意を剥き出しにしている。その感覚に誰しもが躊躇せざるを得ない。だがその状況の中でトウェインは素早く気持ちを切り替え、部下達に向かい命令を飛ばした。
「何をしている、ヤツを討て! その化け物の姿に騙されるな! 訓練通り対応すれば、そんな化け物我らの敵ではないぞっ!」
トウェインの激によりコルベットの隊士達は冷静な意識を取り戻す。しかしそんな彼らに新たな問題が発生した。
「隊長! 銃がまったく機能しません!」
一人だけならまだしも、隊士全員が所持する最新式の銃が使えないのだ。これは単なる偶然なのか。いや、そんなはずはない。仮に整備不良があったとしても、全員が所持した全ての武器が使えなくなるなんて、到底考えられない事態なのだ。ならこれはヤツの仕業だというのか。
トウェインを筆頭に、コルベットの隊士達に動揺が走る。いかに彼らがアダムズ軍きっての精鋭集団だからとて、ヤツなんていう化け物相手に武器無しで挑めるはずはないのだ。
コルベットは怯み上がっている。彼らがこんな姿を見せるなど、今まで一度もなかった事だろう。そしてそんな彼らに対し、豚顔のヤツがついに動き出す。ヤツは躊躇なく、及び腰になっているコルベットの隊士達に向かい攻撃を仕掛け始めた。
鋭い爪が猛威を振るう。ヤツは剛腕を振り回し、コルベットの隊士達に襲い掛かった。
ヤツの猛威によって美術館の壁が破壊される。またその影響で展示されていた美術品が風に舞う木の葉の様に吹き飛んだ。
そんな絶望感が支配する状況の中で、それでもコルベットの隊士達は持ち前の身体能力の高さで攻撃を回避する。武器が使えないことで一瞬戸惑いを見せた彼らだが、やはり王国最高の隊士達の強さは伊達じゃなかったのだ。
ヤツのパワーこそ凄まじいが、スピードにはなんとかついていける。恐れず冷静に対処すれば、少なくとも致命傷を受ける可能性は少ないだろう。
次第に隊士達はヤツの攻撃を余裕を持って掻い潜り出す。冷静さを取り戻せば、トウェインが言う様にたとえ相手が人外の化け物であろうと問題ない。コルベットはそれ程までに強かったのだ。そして彼らは使えない電子兵器を投げ捨て、その代わりに腰に差す刀を抜いた。
ヤツの攻撃を躱し続けた事で、接近戦に目が慣れたのだろう。これならば刀でも十分戦える。コルベットの隊士達はそう判断し、一斉に刀を抜いたのだった。
たがそれを見たヤツも動きを変える。ヤツは自分から攻撃に出るのをやめ、美術館中を駆け回りだしたのだ。そしてしばらく美術館内を縦横無尽に駆け回ったヤツは、ガラス窓を突き破って外へと逃走した。
「追え! 絶対に逃がすなっ!」
トウェインが大声で隊士達に下知する。生死を問わず、絶対にヤツを確保したい。トウェインはそう思い、必死でヤツを追い駆けた。だがヤツの足は想像以上に早く、彼らはヤツを取り逃がしてしまった。そしてもう一つ。当初彼らが包囲していたハイゼンベルクとディラックもまた、混乱に乗じてその姿を消していた。
あまりにも唐突で衝撃的な出来事に美術館はバニックとなっている。美術館から逃げ出す者。動けずその場に蹲る者。とても現実とは思えない状況に、来客者達は混乱しきっているのだ。ただそんな混乱した状況の中で、海の鏡に施された竜の彫刻の目だけは、そんな大荒れの事態を静かに見つめている様であった。
それから数日が経過したが、ヤツへとその姿を変えたウォラストンの消息は完全に途絶えていた。そして不意を突かれたとはいえ、ウォラストンにクローンの勾玉を奪われたファラデーは、ひどく悔やみきっていた。
ファラデーは責任を感じているのだろう。不測の事態であったとはいえ、どうしてウォラストンの勝手な判断を防げなかったのかと。ただそんな彼を心配したハイゼンベルクは、どうにか励ませられないかと声を掛けたのだった。
「我らが無事に美術館から逃げられたのは、ウォラストンがヤツになって暴れてくれたお蔭げだ。そうでなければ今頃お前も含めて全員が拘束されていただろう。あれはウォラストンが咄嗟に考えた唯一最良の策だったのだ。彼は自分の命を懸けることで、我らを助けたのだ。だから我らはそれを悔やむのではなく、感謝するほかあるまい」
「そんな事は言われなくても分かってるさ。分かってるけど、俺の気持ちがそれを許さないんだよ。あいつは俺達とは比べられないほどひ弱な体をしている。そんなウォラストンがヤツの力に耐えられるわけがない。あれは完全な自殺行為だったんだ。そんなの受け入れられるはずないだろ」
自責の念に駆られたファラデーの心は今にも張り裂けそうだった。何より彼は、ウォラストンが最後に告げた言葉が忘れられないのだ。
『もし私の自我が失われてしまったら、その時は容赦なく殺してくれ。どうせ討たれるなら、君に殺めてもらいたい』
あの時のウォラストンの悲しそうな瞳が脳裏に浮かぶ。ファラデーは胸が苦しくて仕方なかった。ただそんな彼に向かい、今度はグラム博士が優しく告げたのだった。
「恐らくウォラストンは自我を失った時の事を考えて姿を消したんじゃろうな。もし自我を失ったとして、その近くにワシらがおれば、間違いなく危害を加えてしまう。そう恐れたからこそ、ウォラストンはいなくなったんじゃ。あやつは誰よりも優しい男じゃからのう」
「だ、だからこそ、あいつは人であってほしかった。ヤツの姿なんて、ウォラストンには一番似つかわしくない姿のはずなんだ。それなのにどうして……」
ファラデーは堪えられずに弱音を吐き出す。ただそれと同時に彼は壁を背にして佇むディラックを睨みつけた。
その目には明らかに殺気に近い感情が込められている。するとそれを感じ取ったディラックが、いい加減にしてくれとばかりに強く言ったのだった。
「ちょっと勘弁願いたい。確かに我がお前達の制止を聞かず、鏡のもとに向かってしまった非は認める。だがそれでもエルステッドの裏切りがあった以上、遅かれ早かれこうなることは決まってたんじゃないのか」
「何だと!」
頭にきたファラデーは反射的にディラックの胸ぐらを掴み上げる。そして拳を振り上げた。
「やめるんじゃファラデー! 仲間内で言い争ったとて、すでに起きてしまった事、ウォラストンは戻って来ぬのじゃ! 大事なのはこれからどうするかを考えることのはず。それがウォラストンの決死の覚悟に報いることに繋がろうて」
「クソッたれがっ!」
「ガンッ!」
ファラデーはディラックに向けて振り上げた拳を渾身の力で壁にめり込ませた。しかしそんな事くらいで気持ちに折り合いがつけられるわけもなく、彼はくるりと背を向けて小さく呟いたのだった。
「俺は作戦を外れます。今は何も考えられない――」
ファラデーはその言葉だけを残し、博士らのもとより離れて行った。
だが事態は唐突に変化を見せる。ファラデーが博士達のもとから抜けた直後の事だ。なんと今度はディラックがクローンの勾玉の力を使ったのである。
あまりにも予想外な出来事であった為、グラム博士とハイゼンベルクは事態を把握するのに手間取った。と言うよりも、ディラックの目的が掴めなかったのだ。
しかし旧知の仲であったハイゼンベルクは彼の行動理由をすぐに察する。その風貌や言葉使いからは想像出来ないが、ディラックは誰よりも仲間の絆を大切にする男だったのだ。そしてそんな男気溢れる彼が絶対に許せなかった者がいる。そう、それは裏切り者のエルステッドであり、ディラックはエルステッドを殺しに向かったのだ。
どうやらエルステッドはエクレイデス研究所に身を潜めているらしい。グラム博士からその情報を聞きつけた彼は、クローンの勾玉の力で【牛顔のヤツ】に変化する。そして彼はエルステッドを殺すため、単身でエクレイデス研究所に殴り込みを掛けたのだった。
エクレイデス研究所の自己防衛機能による激しい攻撃が発せられる。それはまるで戦争でも始まったのかと錯覚してしまうほどの激しい攻撃だ。だがヤツになったディラックは、そんな猛烈な攻撃を全て掻い潜った。
精鋭中の精鋭であった軍人がヤツへと変化する。その強さはまさに常軌を逸したものだ。そしてディラックは研究所にいたエルステッドを見つけ出すと、その裏切り者の体を力一杯に蹴り飛ばした。
瀕死の重傷を負ったエルステッドは倒れ込む。もしもの事を考え、最新の防護服を着用していたにも拘らずこのザマだ。もう彼は虫の息しか出来ない。そしてそんなエルステッドに留めの一撃を喰らわせようと、ディラックは剛腕を振るう。彼は躊躇する事なく、エルステッドの息の根を止めようとしたのだ。
だがしかし、偶然にもその場に居合わせたトウェイン将軍によって、ディラックは撃退されてしまった。エクレイデス研究所の自己防衛機能を難なく乗り切ったディラックであったが、トウェイン将軍が繰り出す天乃尾刃張の攻撃に苦汁を強いられたのだ。そして次第にディラックは窮地に追い込まれていく。
ただそこに今度は【羊顔のヤツ】になったハイゼンベルクが現れる。ディラックの暴走を食い止める為に、ハイゼンベルクは覚悟を決めたのだ。
するとそんな羊顔のヤツことハイゼンベルクの尋常でない強さに、今度はトウェインが後退を余儀なくされた。さすがの将軍も羊顔のヤツのスピードについていけなかったのだ。そしてそこに生じた一瞬の隙をつき、ハイゼンベルクはディラックを強引に引き連れエクレイデス研究所を脱出した。