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月読の奏  作者: 南爪縮也
第一章 第一幕 夜余威(やよい)の修羅
2/109

#01 更待月の夜戦場(前)

「全員後退しろ!」

 小隊長のファラデーが叫びながら腰のホルスターより小銃を引き抜く。だがそんなファラデーを突然大きな影が包み込んだ。

 ゾッとした彼は即座に振り向く。するとそこには人の形はしているものの、3メートル程の巨体全てを黒毛で覆う、人外(じんがい)の化け物が月明かりを背にして立っていた。そんな化け物の姿にファラデーは戦慄を覚え息をのむ。それでも彼は化け物に向け、素早く小銃の引き金を引いた。

「ドサッ」

 小銃の発射音とは明らかに異なる鈍重な音が足元に鳴る。そこにはなんと、小銃を構えたままのファラデーの右腕が、無残にも根元から千切(ちぎ)れ地に落ちていた。

「ウォラァァア!」

 苦痛に顔を(ゆが)めるファラデー。それでも彼は残された左腕で懸命に刀を抜き放ち、化け物に切りかかる。しかし化け物はその一撃を容易にかわすと、そのままファラデーの背後に素早く回り込んだ。

「やめろーっ」

 ジュールは力の限り叫んだ。だがそれと同時に化け物は鋭い爪を持つその右腕をファラデーの背中目掛けて突き立てる。すると一瞬時間が止まったかの様に、小隊全員の心は(こお)りついた。

 ファラデー小隊長の姿が月の光に照らされる。しかしその体は人の三倍はあろう化け物の太い腕に(つらぬ)かれ、奇妙に折れ曲がっていた。


 ― 少し前 ―


「……全員無事だな」

 小隊長のファラデーは、廃墟の壁を背にしながら月夜に浮かぶ若い隊士一人一人の顔を確認する。

 それらの顔には極度の緊張と疲労が(うかが)えた。だがそれ以上に(おとろ)えのない戦いへの強い意志も感じられた。

 まだ大丈夫、こいつらなら戦える――。胸の内でそう認識したファラデーは、崩れかけた窓から廃墟の中をゆっくりと覗き込んだ。薄暗いながらも月明かりが少し差し込んだ廃墟の中は十分に見渡すことが出来る。そして彼はその中に【ヤツ】の存在を確認した。

 ファラデー小隊長の指示がインカムを通して隊士たちに届く。そんな小隊長の声は(かす)かに震えていたが、しかしその声には恐怖に身を(すく)める弱さは微塵もなく、むしろ冷静に状況を判断する心強さを感じさせた。

「ジュール、お前はテスラを連れて左側の入り口に向かえ。ヘルツとガウスは裏口だ。俺は正面から行く。配置についたら合図するまで待機しろ。勝負は一瞬だ、気を抜くなよ」

 隊士たちの体力はとうに限界を超えている。若さゆえの気力と集中力だけでここまで来たのだ。だがもう引き返すことは出来ない。そんな過酷な状況の中で、若い隊士たちの気持ちを(つな)ぎ止めるためにファラデー小隊長は力強く言葉を発した。

「ヤツに今までどれだけの仲間が殺されてきたことか。確かにあの強さは異常だ。だがそんなヤツとこれだけ戦いながらも、小隊の全員が無事なのは決して運が良かっただけじゃない」

 小隊長は自分自身にも言い聞かせるよう続ける。

「自分達の力を信じるんだ。今確実にヤツを追い詰めている。俺たちならやれる。ヤツを倒すんだ! この機会を逃したら、また大勢の人がヤツの手にかかるだろう。そんなことは絶対にさせてはいけない」

 夕暮れ時に人ごみ溢れる市街地で突然始まったこの戦いは、月の明かりが輝きを増した頃、人気の無い廃工場に戦場を移し、あと少しというところまでヤツを追い詰めていた。ただ当初四小隊いた部隊は、今やこの一小隊を残すのみになっていた。


 左側の入り口についたジュールは、共に行動しているテスラの顔色の変化に気づき声をかけた。

「どうしたテスラ。どこか痛むのか」

「――ジュール。違うんだ、ごめん。僕は怖くてたまらない」

 顔色を蒼白に変えたテスラは明らかに動揺している。だがここは戦場だ。一瞬の気の緩みが死に繋がる。ジュールは気弱なテスラを気遣いながらも、どうにか奮い立たせようと励ましの言葉を告げた。

「心配ない。さっき小隊長が言った通り【ヤツ】を追い詰めているのは俺達の方なんだ。ここまでやれたんだから、お前な大丈夫さ」

「ぼ、僕はただ必死にみんなについて来ただけだよ。付いていくことに必死で、周りで大勢の人が傷ついていても気にならなかった。ううん、戦いに集中することで気づかないようにしていたんだ。でもここに来て急に怖くなってしまった……」

 弱音を吐くテスラの表情は(ひど)く弱弱しい。ただそんな彼に向いジュールは優しく続けた。

「怖いのはみんな一緒だ。でももう少しだ。この壁の向こうにヤツがいる。でもヤツは深手を負っているし、体力もかなり消耗しているはずだ。俊敏(しゅんびん)なヤツの動きに切れがなくなってきているのは明らかだしね。ファラデー小隊長の下でみんなが協力し、お互いをカバーし合えば絶対に倒せるはずだ」

 同期入隊であり、訓練所時代からの親友であるテスラをジュールは強く(はげ)まし続けた。

「自信を持つんだ! この小隊で一番強いのはお前なんだ。それはみんなも良く分かってるし、頼りにしている。だがもしもの時は俺がお前を守ってやる。大丈夫、心配するなテスラ。絶対にお前を死なせやしない」

「ありがとう、ジュール……」

 空元気だが、テスラは強がるように微笑(ほほえ)んだ。


 ジュールは装備したインカムから全員が無事配置に着いたことを確認し、ファラデーの合図を待った。

(今まで使い物にならなかったインカムが、ここに来てようやく電波が改善されて正常に機能するようになった。俺たちに運も向いてきた。やってやるさ!)

 ジュールは刀を強く(にぎ)り、必死に自分自身に言い聞かせた。今まさに命懸けの戦闘が始まろうとしている。そんな中で弱気になっているテスラを(はげ)ますために、あえて強気なことを言ったジュール。しかし彼自身もまた、その(のど)はカラカラに乾き、刀を(にぎ)るその手の震えは(おさ)まることを許さなかった。

 気持ちを落ち着かせるため、ジュールは水筒を取り出し水を口に含む。彼は久々(ひさびさ)に取った水分が体中に染み渡るのを感じた。そんなジュールは、今にも折れそうな心に無理やり(ふた)を閉め強がる自分とは対照的に、正直に自分の弱さをさらけ出すテスラを少しだけ(うらや)ましいと思った。

 ジュールは水筒をテスラに手渡しながらゆっくりと廃墟の入り口の中を(のぞ)き込む。そして彼は深手を負い(うずくま)るヤツの存在を確認した。(ひたい)から止め処なく流れる汗を拭いながら、ジュールはファラデー小隊長の指示を待つ。インカムからはヤツの様子を冷静に観察し、突入のタイミングを図るファラデーの小さい呼吸だけが聞こえていた。

 周囲に緊張が走る。直ぐそこに(せま)る慄然の中、じっと身構えているだけの状況は想像以上に厳しいものだ。高まる鼓動にジュールの抱く緊張感と焦躁感は否応なく煽られていく。そんな不安定な気持ちの彼はじっとしている事が出来ず、再度ヤツを確認しようと廃墟(はいきょ)の中を(のぞ)き込んだ。――が、その時だった。

「カラン……」

 後方より無機質(むきしつ)な音が鳴った。

 ジュールは素早く振り向き、音の鳴った場所に視線を向ける。するとそこには水筒を地面に落とし、血の気の引いた顔をしているテスラの姿があった。

「マズいっ」

 ジュールはすぐ様振り返り廃墟の中を見る。――――だがそこにヤツの姿は無かった。


「全員後退しろ!」

 ファラデー小隊長は叫びながら小銃を素早く引き抜く。だがそんなファラデーを突然大きな影が包み込んだ。

 ゾッとした彼は即座に振り向く。するとそこには人の形はしているものの、3メートル程の巨体全てを黒毛で覆い【(くさ)った豚】のような顔を持つ【ヤツ】が、月明かりを背にして立っていた。そんなヤツの姿にファラデーは戦慄を覚え息をのむ。それでも彼はヤツに向け、素早く小銃の引き金を引いた。

「ドサッ」

 小銃の発射音とは明らかに異なる鈍重な音が足元に鳴る。そこには小銃を構えたままのファラデーの右腕が、無残にも根元から千切(ちぎ)れ地に落ちていた。

「ウォラァァア!」

 苦痛に顔を(ゆが)めるファラデー。それでも彼は残された左腕で刀を引き抜いた。そして彼は渾身の斬撃を化け物に向け放つ。しかしヤツはその巨体からは想像出来ないほどに素早かった。ファラデーの一撃を容易にかわしたヤツは、そのまま彼の背後に回り込む。

「やめろーっ」

 ジュールの怒声に構うことなく、ヤツは鋭い爪を持つその右腕をファラデーの背中めがけて激しく突き立てた。すると一瞬時間が止まったかのように、小隊全員の心は(こお)りつく。

 ジュール達の見つめた先で、ファラデー小隊長の姿が月の光に照らされる。しかしその体は人の三倍はあろう化け物の太い腕に(つらぬ)かれ、奇妙に折れ曲がっていた。


「うあああぁぁぁぁ」

 尻餅(しりもち)をつきながら叫ぶテスラの悲鳴が廃墟と化している工場に(ひび)き渡る。そして目の前の光景に混乱したジュールは、何が起きたのか現状を把握出来ず、ただファラデーとその体を背中から無造作に(つらぬ)くヤツの姿を見ている事しか出来なかった。だが状況に飲み込まれている若い隊士達に対し、背後から腹を貫かれたファラデーが懸命に叫ぶ。

「……しょ、小隊っ。何をしている。今は作戦中だっ! 目標を叩けっ!」

 ファラデーは薄れ行く意識の中で、大量の血を吐きながら最後の指示を出し続けた。

「あとは任せたぞ、ジュール。お前はつくよ『ギャオオォォっ!』

 ファラデーの最後の言葉を(さえぎ)り、ヤツは爆発音のような巨大な叫び声を上げる。そしてヤツは躊躇(ちゅうちょ)なくファラデーの首を切断した。

 月明かりが注がれる廃墟にその首は粗雑に転がってゆく。そしてそれを見つめるジュールは、錯綜する頭の中で一つ理解した。小隊長が死んだのだという(くつがえ)せない現実を。またヤツがファラデーを残虐に殺害したことで、まるでそれが開戦の合図にでもなったかのように、凍りついていた時間が高速で動き始めた。

 ヤツがファラデーを殺した。その事実を目の当たりにする事で、逆にジュールは冷静さを取り戻す。ジュールは無残にも切り落とされた小隊長の首を凝視し、ヤツに対する憎しみを激高させたのだ。そしてその感情が、彼の中で必ずヤツを倒すという戦闘意識の向上へと直結していく。

 ジュールは若いながらも戦場のスペシャリストだ。彼は軍隊士になってからわずか五年の間に、いくつもの戦地を渡り歩いた。いくら巡り合せが悪いといっても、これほどの短期間に数多くの戦場を股に掛ける兵士は極めて稀だ。それでもジュールは常に死と隣り合わせの過酷な状況の中で困難に打ち勝って来た。生き残る事すら容易ではないはずなのに、彼は死地の中で誰よりもその身を危険に晒し続けて奮闘してきたのだ。

 自分自身でも気付かない内に精神と肉体を強く叩き上げたジュール。誰よりも負けん気が強く、絶望するほどの逆境にも決して諦めない。戦闘能力が突出して高いわけではないが、彼はそれを補って余りあるほどのタフな精神力と凄味のある気迫を兼ね備えていた。そして何より死線を掻い潜る勘の良さと強運に恵まれている。そんな彼が極限にまで集中力を高めたのだ。ヤツを殺す、ただそれだけの為に。ジュールは迷う事なく隊士達に対して明確な指示を飛ばした。

「ヘルツ! ガウス! 戦闘隊形【ホーネット】、正面からヤツをブッ殺す!」

 ジュールの放った咄嗟(とっさ)の指示に対し、即座(そくざ)に反応するヘルツとガウス。二人はジュールより歳下であり軍における階級も下であったが、幾度(いくど)の作戦を共にしてきたジュールの指示に対して自然と体が反応した。

 ジュールは拳大(こぶしだい)の黄色い玉をヤツに向け投げつける。さらに小銃を両手に素早く構えると、ヤツに向け鉛玉を浴びせた。

 放たれた銃弾の一発が先に投げられた黄色い玉に当たる。空中で弾けた黄玉は激しい閃光(せんこう)を発し周囲を包んだ。

 ヤツはたまらず目を押さえながら引き下がる。左足に深手を負っている状態にもかかわらず、小隊長の体を盾にしながらヤツは右足一本で10メートル後ろにある(くず)れかけた(へい)の影まで飛んだ。そんなヤツに抜刀(ばっとう)したヘルツが猛然(もうぜん)と走り込む。

 ホーネットは敵に対し複数人が一直線に連続攻撃を加える戦術だ。小隊一俊足のヘルツは裏口から一気に廃墟を走り抜けると、さらに後方に飛んでいるヤツが地面に着地する前に切りかかった。――がその瞬間、ヘルツは横に大きくはじけ飛ぶ。

 ヤツは右腕に刺さっていたままの小隊長の体を、力任せにヘルツに向け投げ捨てたのだ。小隊長の体を抱きかかえる様な体勢でヘルツは吹き飛ぶ。それでも彼は空中で小銃を1発放った。

 反射神経の優れた彼は手にしていた刀を放り投げ、ホルスターから銃を引き抜くことなく、そのままヤツに向け引き金を絞ったのだ。ヘルツの発射した銃弾はヤツの右足に命中する。するとヤツはその衝撃によって体勢を(くず)した。

 そこに二番手として小隊一怪力のガウスが猛然と駆け込む。(なた)のような分厚い刀を手にした彼は、体勢の定まらないヤツの頭部を目掛けて渾身(こんしん)の力で切りつけた。しかしヤツは素早く身をひるがえし、ガウスの強烈な攻撃を背中で受け止める。すると鈍く重い衝撃音が廃墟に波及した。

「痛っ! なんて(かた)い体してやがるっ」

 ガウスの太刀(たち)は確実にヤツを捕らえたが、背中を(おお)う鉄のような(かた)い肉に押し返えされた。(しび)れと共に激しい痛みがガウスの両腕に伝わる。

 すかさずヤツは振り向き様に反撃の(こぶし)()り出した。それをガウスは紙一重(かみひとえ)で避ける。空気を押し退けるヤツの剛腕の凄まじさに、ガウスの背中は激しく泡立つ。それでも彼は(しび)れる腕に構うことなく、全体重を分厚い刀に乗せ、もう一太刀(ひとたち)を上段から振り下ろした。

「獲った!」

 ガウスは勝利の笑みを浮かべる。その快心の手応えに、彼の兵士として経験がヤツの打破を確信させた。しかしガウスの表情は一瞬で青冷(あおざ)める。渾身の斬撃を浴びせた彼の刀は、無情にもヤツの鎖骨(さこつ)の辺りでヘシ折れていた。

「グオオオォォォっっ!」

 ヤツは衝撃波のような叫び声を上げた。それはまるで苦痛に悶えている様にも聞こえる。絶命に至らしめることは出来なかったが、それでもガウスの一撃がヤツに相当なダメージを与えたのは事実なのであろう。醜い腐った豚の表情が、さらに歪んだものへと変化してゆく。それでもヤツはガウスに向けて右拳を振り下ろした。邪魔な障害を振りのけるかの様に。だがそれと同時に遥か後方から銃声が発せられた。

「ダァーン!」

 ヤツは激しく体勢を崩した。ヤツの右肩に強弾が命中したのだ。そしてそこに三番手のジュールが刀を抜き飛びかかった。彼はヤツの顔面を狙って一直線に猛烈な突きを繰り出す。唸りを上げ放たれるジュールの突きは、ヤツが防御するよりも早くその左目を(つらぬ)いた。

「ギャッ」

 ヤツは叫び声を上げ大きくのけ反る。それでもヤツは強引にジュールをなぎ払おうと左腕を振った。そんなヤツの剛腕が(ひたい)をかすめながらもギリギリで避けたジュール。彼は素早く橙色(だいだいいろ)の玉を取り出すと、まだ鎖骨(さこつ)に刺さったままの折れたガウスの刀目掛けてそれを投げつけた。玉は刀に当たって炸裂(さくれつ)し、ヤツの全身に強烈な電撃(でんげき)を走らせる。

 タフなヤツもついに動きを止めた。電撃に体を貫かれた衝撃は、さすがのヤツでも耐え難い苦痛を強いられたのだろう。ジュールはそんな動きの(にぶ)ったヤツの(すき)を見逃さず、その足に向け目一杯(めいっぱい)に刀を突き刺す。すると刀はヤツの足の甲を(つらぬ)き地面深くまで達した。

「くたばれ!」

 ジュールはヤツの喉元(のどもと)に小銃を向ける。身動きを封じたヤツに(とど)めを刺すつもりだ。()れる時に確実に殺すのが戦場の鉄則。ジュールの兵士としての経験がそれを直ちに遂行させる。だがそれよりも一瞬早く、ヤツは刀の突き刺さった足でジュールを()り上げた。

「ぐはっ」

 血反吐を吐きながらジュールは吹き飛ぶ。形振(なりふ)り構わぬヤツの戦いぶりは、まさに野獣そのものだ。そんなヤツの尋常でない強さにジュールは改めて肝を冷やす。それでも彼のヤツを見据える眼光の強さは衰えてはいない。ヤツの足元にはジュールの布石である拳大(こぶしだい)の赤色の玉が転がっていた。そして廃墟の壁に身を隠したガウスが、落ちているその赤色の玉目掛けて小銃を放った。

「ズガァァァーンン!」

 赤色の玉は爆弾であり、大爆発を引き起こしたそれは、ヤツを激しく吹き飛ばした。


「これでダメなりゃ笑うしかないぜ」

 爆風によって立ち込めている噴煙の中で、ガウスはヤツがいたであろう場所を見ながら(つぶや)く。あれほどの爆発が直撃したのだ。絶命しないわけがない。常識として彼はそれを確信した。しかしそんなガウスに向かって叫ぶジュールの声が廃墟に響く。

「ガウス、上だ!」

 ジュールの声に無意識ながらも自然に反応したガウスは身をひるがえす。すると(するど)い爪を立てた腕を振り下ろし、ヤツが頭上より舞い降りてきた。

「フザけんな!」

 間一髪(かんいっぱつ)攻撃を避けたガウスは、そのまま渾身(こんしん)の回し蹴りをヤツの脇腹(わきばら)に叩き込んだ。重たい彼の蹴りがヤツの腹に深く捻じ込まれる。ただガウスは咄嗟に蹴りを放つも、ヤツが生きていた事が俄かに信じられず目を丸くした。

 あれほどの爆発をモロに受けて何故生きていられるんだ――。ガウスは愕然と肩を落とす。それでも彼は足に伝わるヤツの感触に現実を呼び戻した。ヤツには人の常識など初めから通用しないのだ。確実に息の根を止めない限り、ヤツはいつまでも暴挙し続けるだろう。

 ガウスは再び強く拳を握りしめる。そう、彼はもう一つのある事に気が付いたのだ。蹴りを叩き込んだヤツの脇腹が、先ほどの爆発で大きく損傷(そんしょう)しているという事に。すると案の定、ヤツは度重なる衝撃に堪えきれず、(にぶ)いうめき声を上げながら動きを止めた。

「うおおおおっ!」

 勝負所と感じたガウスはその損傷(そんしょう)している脇腹めがけ全力で殴り掛かる。鉄甲(てっこう)をはめた拳に持てる力を全てをつぎ込み、彼は連続でヤツを殴り続けた。そして6発目の打撃がヤツに叩き込まれた時、その巨体は完全に【くの字】となった。

 ヤツは力無くうな()れる。その(わず)かな隙を見逃さないガウスは、(とど)めの一撃をヤツのアゴ目掛けて思いきり放った。

 彼の拳はヤツのアゴを確実に捕らえると、そのまま一気に上空に突き抜ける――――が、同時にガウスの体も上空に吹き飛んだ。

 ヤツは自らのアゴが()ね上げられると同時に、膝蹴(ひざげ)りをガウスのアゴに浴びせていたのだ。お互いのアゴの(くだ)ける鈍い音がすると共に、ガウスは空中で気を失いそのまま地面に倒れ込んだ。

 ヤツは完全に足にきている。もう立っているのがやっとだ。瞬発的に驚異的な動きを見せガウスと合い打ちしたヤツではあったが、やはり尋常でないダメージをその身に蓄積しているのは間違いないのだろう。ただそれでもヤツは攻撃の手を緩めようとはしない。ヤツはふらつきながらも倒れているガウスに近づき左腕を振り上げた。

「ダァーン!」

 銃声が聞こえると共に、今度はヤツの左肩に銃弾が命中した。満身創痍のヤツは強弾の衝撃を堪える事が出来ず、(くず)れるように倒れる。それでもヤツは銃弾の飛んできた方向を、残された右目で睨みつけた。すると視線の先には、小隊一の狙撃の名手であるマイヤーの姿が小さく確認出来た。

 100メートルは離れているであろう、崩れかけた木造の塔の三階にある小さな窓から、ライフルの銃口がヤツを狙っている。ファラデー小隊長はヤツを追い詰める過程で、スナイパーであるマイヤーの特徴を生かすために、あらかじめ戦場の全域が見渡せるこの位置に彼を向かわせていたのだ。そしてそれが功を奏し、近接戦を繰り広げるガウスらの命を守ることに成功した。ただマイヤーは先の戦いの中で、ヤツから受けた攻撃により左目を失っていた。

 引き金を引く度に気を失いそうになる激痛を顔面に感じる。もちろん左目を(おお)包帯(ほうたい)は真っ赤に染まったままだ。それでも彼は冷静に(ねら)いを定め、躊躇(ためら)うことなく引き金を引いた。

 ライフルから放たれた強弾は、ふらつきながらも立ち上がったヤツの左こめかみを(わず)かにかすめる。

「外れた、左目を失った影響か――。いや違う。ヤツめ、かわしたのか」

 マイヤーはヤツから目を離すことなく、冷静に状況を分析しながらライフルに弾を込めた。

「俺に気づいているヤツを近距離からのサポート無しで死止(しと)めるのは不可能だ。どうする……」

 常に平静を保ちペースを乱したことのない彼であったが、この時ばかりは引き金にかける指先に今まで感じたことのない緊張感を覚えた。しかしその時、ヤツの殺気づく視線がマイヤーから外れる。

「今だ!」

 指先に力を込めるマイヤー。だが同時に彼は信じられない状況を目にし、引き金を絞る指を止めた。そんなマイヤーの背中に冷たい汗が一気に溢れる。

 突然ヤツが向けた視線の先。そこには腰が抜け、ただ呆然と涙を流しているテスラの姿があったのだ。

「何やってんだ、あいつは!」

 マイヤーはヤツにライフルの照準を合わせながらも、窓から身を乗り出し懸命に叫ぶ。

「テスラ立て! 立って刀を抜くんだ!」


 テスラは若いながらも剣の達人だ。その腕は厚さ5ミリの鉄板を平然と切り捨てる程の凄さである。

 軍のトップである総指令官を父に持ち、幼い頃から剣を(たた)き込まれた彼は、砂が水を吸ごとく教えられた技を容易に習得した。まさに天才だ。その上努力家でもあった。テスラは決して自分の腕に満足する事はなく、日々思考(しこう)を重ね、更なる(きわ)みを目指していた。

 そんな国一番の呼び声高い剣の使い手である彼だが、同時に国一番の優しい心の持ち主でもあった。訓練ではまさに神業(かみわざ)的な刀さばきを披露(ひろう)していても、普段は虫をも殺せぬ性格だったのだ。

 目の前で現実に起きている血まみれの戦いに、テスラの心は粉々(こなごな)(くず)れている。叫ぶマイヤーの声は彼に届かない。

 脇腹(わきばら)を押さえ、足を引きずりながらもヤツは着実にテスラに近づいて行く。

「テスラ! 頼むから立って刀を抜け! テス――」

 マイヤーの目に30センチはあろう廃墟の残骸を無造作(むぞうさ)に掴むヤツの姿が写った。ヤツはそれを自分めがけて全力で投げつける。

 空気を切り()轟音(ごうおん)を響かせ、投げられた残骸は一直線にマイヤーに向かった。彼は襲い来る残骸にライフルの照準(しょうじゅん)を即座に合わせ弾丸を放つ。そして発射された弾丸は見事残骸に命中した。だが粉々になった残骸の破片は、それでも彼に向かって飛んだ。

「くそっ……」

 マイヤーは窓から乗り出していた身を必死に塔の壁に隠す。その直後に残骸の破片が壁に降りそそぎ、激しい音を立てた。そして木造の塔の壁には、無数の風穴(かざあな)がハチの巣のように口を開けた。


 一進一退の攻防を繰り広げる隊士達とヤツの戦いは熾烈(しれつ)さを増すばかりだ。だが一向に終わりは見えやしない。果たして隊士達はヤツを倒す事が出来るのだろうか。

 駆け抜ける(とき)に急かされるよう、若い命は削られてゆく。それでもただ、月は無言で夜空に浮かんでいた。

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