#10 春荒の首都(疾雷の塔2)
塔の最上階である五階は広い展望室になっていた。四方の壁は柱以外ほとんどが分厚い透明なガラス板になっている。展望室というだけに、全ての方角を見渡すための配慮がなされた構造なのだろう。ただその為に今は絶え間なく光る雷光が逆に差し込み、展望室を眩しいほどに明るくさせている。そしてその中央に、追手を待ち構えるヤツの姿がはっきりと確認出来た。
ジュールはマシンガンを構えながらゆっくりとヤツに近づいて行く。雷の光に浮かび上がるヤツの姿は本物の悪鬼にしか見えない。それにヤツに対峙するのは自分一人だけの状況なのだ。気を抜けばその瞬間に足が竦み上がり動けなくなるだろう。彼は本能としてそれを察したからこそ、銃口をヤツに向けながら一歩一歩確実に足を進めていた。ただそんな意気込むジュールに対し、ヤツは不敵な笑みを浮かべながら口を開く。
「ほう、英雄ドルトンのあの様を見ながら一人で来るとは見上げた度胸だな。いや、それでこそアダムズ最強のトランザムの隊士と言ったところか」
ヤツは他人事の様に感心を現す。その余裕さの感じられる口調より、牛顔のヤツは追手であるジュールの事を敵対する相手として蔑ろにしているのだろう。ただそんなヤツの舐めきった態度にジュールの感情は波立って行く。そして彼はヤツに対し、強く警告を口にしたのだった。
「初めに一言だけ言っておくぞ。大人しく降伏するんだ。さもなくばお前をここで始末する」
そう告げたジュールは左手首にあるバトルスーツのダイヤルを回す。現状で最も頼りになるのはこの身体能力加速機能だ。そしてこいつのレベルを無理にでも上げない限りヤツに勝つ事は出来ない。いきなりの実戦投入で不安を感じるのは当然だが、出し惜しみしている間に殺されてしまっては、それこそ意味が無いというもの。スーツの副作用である肉体への反動など、この際気にしてなどいられない。ジュールは覚悟を決めてヤツに臨む。するとそんな彼に牛顔のヤツが呆れたように聞き尋ねた。
「本気で我を倒せると思っているのか?」
「こんな時に冗談を言ってられる程、俺はお調子者じゃないぜ」
「戯言でないところが、逆に甚だ似て可笑しなものだ」
「【牛】のくせによく喋る奴だ。何だか腹が減って来たぜ。さっさと終わりにして、今夜は仲間と一緒に焼き肉にでもするか。お前の肉はどう焼いてもクソまずいだろうがな!」
「ほう。いつまでその減らず口を吐いていられるか、楽しみだ!」
ヤツがそう告げたと同時に落雷が発生する。そしてその轟音を合図にしたかの様に、ヤツは力一杯床を踏込みジュールに襲い掛かった。
「やってやるさ!」
戦闘は開始された。意気込むジュールは猛スピードで向かい来るヤツにマシンガンの引き金を引く。だがヤツはその巨体に見合わず、身軽なフットワークで銃撃を躱した。
ヤツの腹部はドルトンとの戦闘で無残なほどに傷ついている。それなのに牛顔のヤツはダメージをまったく感じさせない敏捷性に富んだ動きを見せた。やはりヤツの肉体は人のそれとは根本的に作りが異なっているのだろう。そして更にヤツはそのスピードを加速させていく。ジュールの放つマシンガンの銃弾を見事に躱し続けながら、ヤツは展望室を縦横無尽に駆けた。ジュールとヤツの距離がぐんぐんと縮まる。
(くそっ、なんてスピードだ)
スーツの機能は4.5倍にまで上げられている。もちろんそれが常人であれば、今のジュールの動きについて行けるわけがない。しかし常軌を逸したヤツの動きはそれすら上回っていた。ジュールが発した夥しい数の弾丸は、悲しくもヤツにかすりもしない。
「驚いたな。さすがはトランザムだ。常識外れの戦闘力を有している。しかし相手が悪かったな」
ジュールの背後を取ったヤツが呟く。だがその声にジュールも神がかり的な速度で反応した。彼の持つ高い戦闘センスが反射的にヤツの気配を追ったのだ。しかしジュールの振り向いたそこにヤツの姿がない。
「!」
その瞬間にジュールはゾッとした。纏わりつく様な尋常でないヤツの殺気を彼は背後に感じたのだ。
(しまった――)
ジュールがそう思ったと同時に彼の体は分厚いガラスの壁に激突していた。息が出来ぬほどの衝撃が体を突き抜ける。一体何をされたのか、それを瞬時に把握する事は出来ない。いや、それどころか頭がふらついて方向感覚が狂っているのだ。倒れ込まずに足を踏ん張っているだけでも大したものだろう。だがこのままでは為す術無くやられるだけだ。ジュールは無理やりに体の感覚を引き戻す。そして素早くマシンガンを拾い上げると、その引き金をヤツに向け強く絞った。
だがヤツにしてみれば、そんなジュールの攻撃は想定の範囲内なのだろう。ヤツは銃撃に構うことなく、背中を向けながらジュールに飛び掛かった。
鉄の様に硬いヤツの背中が次々と銃弾を跳ね返す。そしてまたもジュールの体を激しく吹き飛ばした。
「ドガン!」
風に舞う紙切れの様にジュールの体が宙を飛ぶ。直撃を避ける為にワザと自分から飛び上がったものの、やはりその衝撃は堪えきれない。彼の体は数メートル離れた床に強く叩きつけられた。
(くっ、体がバラバラになりそうだ。この新しいスーツを着ていなかったら間違いなく即死していたぞ。それにしてもヤツの強さは何だ。前に戦った豚顔のヤツも恐ろしく強かったけど、今回のヤツはそれとは桁違いだ)
激痛に表情を歪ませつつも、ジュールは苦笑いを浮かべた。まったく歯が立たない相手に悔しさを通り越し、呆れてしまったのだ。それでも彼は必死に立ち上がる。たとえ攻略の糸口が見えなくても、それを理由に諦めていいはずがない。彼は痺れる腕を持ち上げてマシンガンを構える。するとそんな彼に対し、緑色の瞳を光らせたヤツが不敵に微笑みながら告げたのだった。
「貴様が初めに見せたあの自信は、恐らく過去に我以外のヤツと戦った経験があったからだろう。だが残念だったな。我は元【軍人】だ。元々が普通の人間だった者と一緒にされては困る」
「へぇ、元【牛】じゃなかったのか。どうりで乳臭くないわけだぜ」
「フッ。トランザムは腕だけでなく、口も達者のようだな!」
そう言ったヤツは立っているのがやっとのジュールの体をその剛腕で薙ぎ払った。懸命にガードするも、ジュールの体はまたしても木の葉の様に宙を舞う。そしてその体は勢い余り、展望室にあるエレベーターの乗り口の扉を突き破った。
「!?」
ジュールは咄嗟にマシンガンを投げ捨てて下に伸びるワイヤーに掴まる。そう、そこには人が乗るための籠が無かったのだ。下を向いてもシャフト内は暗闇に包まれているため、恐らく籠はずっと下の階に止まっているのだろう。すなわち落下すれば無事では済むまい。しかし体の言う事が利かないジュールはワイヤーに掴まっているのが精一杯の状況だ。縋るように彼はワイヤーに掴まり続ける。ただそれでも彼は思う。やはりヤツの正体は元々人間だったのかと。ヤツの口から直接それを聞いたのだ。疑う余地はどこにもない。でもそれを知ったからと言って、この危機的な状況が改善されるはずもない。どうすればいい――。
まったく歯が立たないヤツの強さにどう対抗するかジュールは必死に考える。ただ彼は聞き逃さなかった。ヤツが頭をボリボリと掻き毟りながら、あさっての方向を見て呟いた一言を。
「なかなか面白い戦いではあるが、やはりこの体に太刀打ち出来る人間などそうはいないものだな。ならばもう一度ドルトンの元に赴き、奴に引導を渡して来るか」
(な、なんだと。俺なんかじゃ役不足だって言うのか! それに瀕死の重傷を負った隊長の命を狙うなんて許せない。そんな卑劣な横暴を、俺が黙って見過ごすと思ったら大間違いだ!)
ジュールは怒りに震える。いかにその実力に差があるとはいえ、まるで眼中にないと言わんばかりのヤツの態度が許せない。それに大切な仲間に危害を加えるなんて以ての外だ。そう感じた彼の心はついにブチ切れる。
「フザけるなっ!」
そう強く叫んだジュールは手首のダイヤルを一気に捻り上げた。
「ドン!」
ジュールはエレベーターから人の常識を遥かに超えたスピードで飛び出す。そして彼は一気にヤツの懐に飛び込んだ。
「!?」
突然目の前に現れたジュールの姿に牛顔のヤツはギョッとする。あまりに予想外の出来事にヤツは息を飲んだのだ。ただそれが僅かな隙としてヤツの反応を鈍らせた。そしてその隙を突き、ジュールはヤツの腹に渾身の蹴りを叩き込んだ。
「ガズンッ」
ヤツの巨体が激しく吹き飛ぶ。そしてその巨体はガラスの壁に激突した。
「グオォォ」
さすがのヤツもその凄まじい一撃が堪えたのだろう。醜い顔を更に引きつらせてヤツは唸る。ただそんなヤツに対してジュールの攻撃は止まらない。コンパクト化された橙色の玉を両手に持ったジュールは、それらを一瞬床に擦りつけると、そのままヤツに向け全速力で駆け込んだ。
そんなジュールの動きに只ならぬ切迫感を感じたヤツは即座に身構える。ヤツはその野獣の勘で察したのだ。目の前にいるトランザムの隊士は普通じゃないと。ならば全力で息の根を止めるしかない。息苦しそうにしながらも、ヤツはジュールに向けて鋭い爪を持った手刀を猛烈な勢いで突き出した。
「なっ!」
ヤツは一驚する。確実に手刀を突き刺したはずのそこにジュールの姿がないのだ。だがヤツが戸惑うのも無理はない。ジュールは自身の残像だけを置き去りにして方向を変えたのだ。ヤツはただ、その残像に渾身の手刀を突き立てたに過ぎない。
ジュールの体はすでにヤツの側面側にあった。彼のスピードはもう人の動きとは呼べないものである。そしてジュールは回り込んだ勢いに乗せて、そのまま右足の一撃をヤツに叩き入れた。
「バガン!」
ヤツの体が凄まじい勢いで吹き飛ぶ。そしてその体は再び壁に激突した。その衝撃により発生した振動が、まるで地震のように塔全体に波及する。それでもヤツは倒れぬよう足を踏ん張り体を支えた。恐らくヤツにしてみれば、信じられない気持ちで溢れ返っていることだろう。人の身であるはずなのに、その動きにまったく目がついていかないのだからそれは当然だ。しかしそれだけでヤツが観念するわけもない。怒りに満ちた緑色の目が激しく光る。そしてヤツは全身の体毛が逆立つほどの覇気を放ちながら強く吠えた。
「ゴオオオォォ!」
その咆哮は大気を揺らし、展望室を圧迫する。まるでこの空間自体がヤツの恐怖に震えているかの様だ。だがそんな尋常でない殺気を放出させるヤツの足元に、小型の橙玉が二つ静かに転がった。
「ビガガガーーン!」
落雷の直撃を思わせる凄まじい電撃がヤツの体を焼け焦がせる。一体何が起きたのか。ヤツはただ茫然と立ち尽くすだけだ。するとそんなヤツに走るスピードを加速させたジュールが迫る。そして彼は真正面からヤツの顔面に強烈な飛び蹴りを入れた。
「グゴッ」
ガラスの壁とジュールの蹴りに挟まれたヤツの頭蓋骨が奇妙な鈍い音を発する。間違いなくその一撃は、ヤツに甚大なダメージを与えたはずだ。それでもヤツはジュールに向け剛腕を振るう。頭蓋を損傷し、かつ全身を黒焦げに焼きながらも、ジュールを睨むヤツの緑色の眼光は微塵も衰えていない。
たださすがにヤツもダメージが隠せないのだろう。その攻撃にキレがないのは明白だ。ジュールはヤツの体を踏み台にして後方に大きく跳躍しその攻撃を躱す。そんな彼を逃さないと、ヤツは懸命に足を踏み出そうとした。だがその足元に、今度は小型の赤玉が三つ転がる。
「ズガガガーーンン!」
何発ものバズーカ砲が一気に打ち込まれたかの様な、凄まじい爆発が巻き起こる。その衝撃で展望室の分厚いガラスは粉々に砕け散り、天井と床には巨大な穴が口を開けた。
赤玉の爆発が巻き上げた噴煙により周囲の視界は遮られる。だがそれも穴の開いた天井から降り注ぐ激しい雨により、その視界は急速に改善して行った。
展望室は半壊したと呼べるほどに手の付けられない状態と化している。そんな中で、ジュールは膝をつき蹲っていた。彼は全身の筋肉が引き千切れたかの様な激痛に見舞われ、身動きする事が出来なかったのだ。
左手首のダイヤルは7倍を指示していた。最新のバトルスーツがいかに優れた緩衝機能を有していたとしても、さすがにこれはやり過ぎである。ジュールの体はその過激な機能の負担に耐え切れず、悲鳴を上げているのだ。でもそれは覚悟の上であり、これ以外にヤツに対抗する手段など考えられなかった。だからジュールは想像を絶する副作用に苦痛を強いられつつも強引に立ち上がったのだ。
(どこだ、どこにいる。今の攻撃だけではまだ、完全に仕留めきれていないはずだ――)
ジュールは周囲を見回しヤツの居場所を確かめる。ヤツの尋常でないタフさを知っているからこそ、彼は神経を尖らせ集中したのだ。しかしその姿が見つからない。まさか赤玉の爆発でバラバラに散らばったとでもいうのか。――とジュールが思った瞬間、
「ドゴンッ!」
足元から突き上げられる衝撃が伝わる。ヤツがジュールのすぐ背後の床を突き破り、その姿を現したのだ。そしてヤツは振り上げた拳をジュールに向かって激しく突き出す。
猛烈な風圧と共にヤツの拳が空を横切った。ジュールは全身から発せられる激痛に襲われながらも、紙一重でヤツの拳を躱したのだ。そして彼は一歩後ろに飛び退き間合いを取ると、赤玉をヤツ目掛けて思い切り投げつけた。
「ズガーーン!」
赤玉が激しく爆発する。しかしヤツはその衝撃を背中で受け流していた。効率よく防御を取るヤツの姿勢は、まさに元軍人ならではと言ったところか。ただそんなヤツの巧みな戦闘スキルにジュールは今更ながら舌を巻く。破壊力を倍増させた新型の赤玉が致命傷を与えられないのだ。彼が口惜しむのは当然だろう。しかしまったくのノーダメージだったかと言われればそうではない。その証拠にヤツの動きは明らかに鈍化しているのだ。
「出し惜しみは無しだ。我慢比べと行こうぜ!」
ここが勝負どころと感じたジュールは自分自身を鼓舞するよう捲し立てる。そして彼は所持する赤玉と橙玉全部をヤツに向け連続で投げつけた。
「ビギャーン! ズガガーン!」
立て続けに凄まじい爆発と雷撃が巻き起こる。そしてその衝撃は展望室を更に滅茶苦茶な姿に変えていく。しかしヤツはそんな攻撃を見事なまでに背中で受け流し続けた。巨大な体をコマの様に回転させ、迫り来る衝撃から硬い背中で身を守ったのだ。
ただジュールだって負けてはいない。有り得ないほどの近距離で多発する爆風と雷撃の衝撃は、攻撃を仕掛けるジュール自身をも被ばくさせたのだ。だがそれでも彼は構うことなく攻撃を続けた。そしてそんな我慢比べの軍配はジュールに味方する。
ついにヤツは全ての衝撃を受け流すことが出来なくなり、その巨体を風に舞う木の葉のように踊らせた。さすがのヤツも体力の限界に達したのだ。もうヤツの体に自由は無い。
「これで終わりだ!」
ジュールは最後の赤玉を床に擦りつける。そしてその玉を最も損傷の酷いヤツの腹目掛けて投げつけた。
これが直撃すればひとたまりもない。ヤツはそう確信したからこそ、懸命に身を逸らそうと足掻いた。しかしヤツの足は言うことを聞かず、赤玉はその傷ついた腹の目の前で激しく爆発した。
「ッドガガーーン!」
ヤツの肉片が飛び散る。そしてジュールはその返り血を全身に浴びた。
「獲った。――なにっ!」
確実な手応えにジュールはヤツの打破を確信する。だがそれと同時に彼の背中に戦慄が走り抜けた。
ヤツが噴煙の中から勢いよくその姿を現したのだ。そして内臓が飛び出す腹に構うことなく、ヤツはジュールに向かって剛腕を猛烈に振りかざした。
ジュールは咄嗟に腰の刀を抜きガードする。だがヤツの攻撃はその刀を粉砕し、彼の体を激しく弾き飛ばした。
「ゴハッ」
ジュールの体はその半身を塔の外にはみ出していた。半壊した展望室の壁は、文字通りその半分が粉々に崩れていたのだ。その為ジュールが吹き飛んだ方向には、彼の体を静止する為の壁が無かったのである。それでも奇跡的に彼の体はどうにか落下だけは免れていた。
ジュールの意識は半分飛んだ状態であったが、それでも彼は歯を食いしばって半身を塔内に戻す。だがそれが限界だった。ヤツから受けたダメージと能力を上げ過ぎたスーツの副作用により、全身から湧き上がる激しい激痛は極限にまで達していたのだ。
そしてヤツもまた、ジュール同様甚大なダメージの為に動く事が出来なかった。その証拠にヤツはジュールに止めを刺す為の一歩を踏み出せずにいる。大量の血反吐を吐き出したヤツは、やはり立っているのがやっとといった感じだ。ただヤツは荒く苦しい呼吸をしながらも、ジュールに対し言ったのだった。
「グロロロ……。み、見事だ、トランザムの若き隊士よ。あの英雄ドルトンでさえ、我の力を利用する柔軟な技でしか対応出来なかったというのに、まさか我に対して真正面から力とスピードで挑み、これほどの戦いが出来る者が居ようとは、想像もつかなかった」
「ハァハァ、今夜の焼き肉はやめだ、こんなに牛肉が不味いとは知らなかったよ――。もともと俺は鳥肉派だったからね、これ以上続けたら完全に食あたりだな」
「まだそんな減らず口をたたく力が残っているのか。だがそれももう終わりだ。アダムズの科学技術の凄さを改めて思い知ったが、生身の人間がそれを使いこなすのは、やはり限界があるというもの。そしてその苦しみに耐えるのはさぞ辛かろう。ならば貴様のその無謀とも呼べる正義感に敬意を表し、ひと思いに息の根を止めて進ぜよう」
そう告げたヤツはボロボロの体を引きずりながら、倒れ込むジュールにその足を向ける。そしてそんなヤツに対してジュールは必死に起き上がろう足掻いた。
このままでは殺されるだけだ。ヤツにはまだ、人一人程度を殺す力は残っているはず。そう思ったジュールは必死にその体を動かそうとする。しかしそれは彼の意志に反して動くことを拒否し続けた。そしてヤツがあと一歩という距離までジュールに近づく。だがその時、
「ゴーン、ゴーン……」
突然下の階より鐘の音が鳴るのが聞こえた。すると何故かヤツが動きを止める。あれ程までにジュールを強く睨んでいた緑色の視線は、今はどこか別の場所に向けられていた。
ヤツは損壊した塔の側壁に鋭い視線を向けている。だが一体何を見ているのか。絶体絶命の状況は変わりないはずなのに、ジュールは思わずヤツの見ている方向に視線を向けてしまった。
「なんだ?」
そこには6時ちょうどを示す大きな時計が壁に掛けられていた。でもジュールにはそれが何を意味しているのか分からない。そしてそんな彼を更に混乱させるようにヤツは小さく呟いた。
「ついに、ついにこの時が来た――」
そう言ったヤツの瞳は輝いていた。それはまるで切なる希望が叶ったかの様な澄み通る輝きである。そしてヤツは目の前に倒れているジュールを無視し、雨が吹き込む天井の穴の下に向かい出した。
「ま、待て。どこに行く!」
ジュールが必死に叫ぶ。だがヤツはまったく気に留める事なく、その穴から天井によじ登り始めた。そんな態度の急変したヤツをジュールは何とか追い駆けようと試みる。しかし全身の激痛が邪魔をして満足に体を動かす事が出来ない。
「く、くそっ。あと少し、あと少しなんだ。俺の体よ、大人しく言うことを聞きいてくれ!」
尋常でない激痛を感じながらもジュールは奥歯を食いしばり、這いながらヤツを追い始めた。呼吸をする度に肺に槍が突き刺さったかの様な激痛を感じる。それに心臓が鼓動する度に体全体が爆発している様な感覚にさえ見舞われる。それでもジュールは這いつくばりながら、一歩、また一歩とヤツに向けその体を進めた。
ゆっくりではあるが、ジュールの体は次第に進む速度を早めて行く。そして穴の開いた天井の下に着いた時、彼は立ち上がっていた。
満身創痍の体は立つ事はおろか、呼吸をする事すら困難だったはず。それでも彼は現実として立ち上がった。そんなジュールの右目はあの日と同じく【青白い光】を放っていた。
横殴り豪雨の降りしきる塔の外はまるで嵐だ。もちろん立っている事さえままならない。それでも穴の開いた天井をなんとかよじ登ったジュールは、血管の様に雷光の走る雲の下を進んだ。
傾斜のきつい屋根の上をジュールは這う様に移動する。少しでも気を抜けば一瞬でその身は風で飛ばされてしまうだろう。それに川の様に雨が流れる足元を踏み外せば、一溜りも無く地上へ転落してしまうだけだ。それほどにまで状況は劣悪である。ただそれでも彼は目指すべき場所に向かい、懸命に体を前進させた。
五重塔の屋根は頂点に一本の鉄柱を突き出す五角すいの形をしている。そしてその鉄柱の足元に、雷光によって浮かび上がったヤツの姿が確認出来た。ただヤツがそこで何をしているのかは分からない。
ジュールは横殴りの雨と風に飛ばされぬよう、必死に体を支えながらヤツに近づく。だがどういう事だ。ヤツは蹲る姿勢でその巨体を固めるだけで、動く気配がまるで無い。それに嵐の真っただ中であったとしても、これだけ接近したジュールにヤツが気付かないなんて考えられない事だ。でも実際にヤツは微動だにしない。
そんなヤツの姿に不審さを感じたジュールは目を凝らす。するとヤツが手元に何かを抱えているのが分かった。そしてその何かは粉々に砕けているらしい。視界の悪い状況の中でジュールはさらに集中し、それが何なのかを確認する。そして彼にはそれが、人の頭部ほどの大きさをした【鏡】ではないのかと認識した。
もうジュールとヤツの距離は手の届くまでに近づいている。しかしヤツは愕然と肩を落しながら身を屈めるだけだ。そしてそんなヤツに対し、ジュールはなぜか攻撃する事を躊躇した。突然戦う姿勢を失くしたヤツの態度が気になって仕方なかったのだ。何を目的としてヤツは今ここにいるのか。どうして戦うことを止めたのか。ジュールにはそれが我慢できず、危険であると承知の上でつい叫んでしまったのだった。
「おい! お前はここで何をしていたんだ。その手に抱えている物は何だ!」
ジュールの呼び掛けにヤツは動かない。でもその声は確実に耳に届いているはず。だからもう一度ジュールは問い掛けようとした。だがそれよりも僅かに早くヤツが立ち上がる。
「お、おい」
「どうやら【賭け】は失敗だったようだ。王立協会も馬鹿ではなかったと言うことか――」
ヤツはジュールの問いに答えなかった。だがその代わりに意味不明なことを呟いた。そしてそんなヤツの表情は、どことなく寂しさを滲ませている。ジュールはそんなヤツの哀しげな眼差しをただ見つめる事しか出来なかった。
少しの沈黙の時間が流れる。ヤツの目的は何だったのか。ジュールはそればかりを考えていた。だって牛顔のヤツの緑色に輝く瞳は、廃工場で戦った豚顔のヤツが最後に見せた哀しげな表情と同じなのだから。きっとヤツには自分達人間には言えない何かしらの行動理由が存在するのだろう。だからこそ、これ程までに残虐な行為を続けられるのだ。ジュールはそう疑わなかった。だがそんなジュールに対し、突然ヤツは敵意を剥き出しにする。ヤツは開き直ったかの様な強い口調で彼に言い放った。
「もはや我の命は残り僅か。ならば最後に貴様のような【強者】を道連れにし、地獄への餞としようぞ!」
ヤツがそう叫ぶと同時に巨大な雷鳴が轟く。するとその爆音に驚いたのか、ジュールの体は硬直してしまった。いや、あまりに唐突なヤツの変化に彼の思考がついて行かないのだ。だがそんな彼の胸の内などヤツが考えるわけがない。ヤツはこれが最後の力だとばかりに、動くことが出来ないジュールに渾身の攻撃を浴びせ掛かった。――がその時、
「伏せろジュールっ!」
紫色の激しい光を放つ稜威之雄覇走を振りかぶったドルトンがジュールの後方より猛スピードで駆け込む。そしてジュールは反射的に身を伏せた。
ドルトンはその頭上を激しく空気を切り裂く轟音を響かせながら大刀を振り抜く。そしてその大刀はヤツの突き出した剛腕と激しく激突した。
「バギャーーン!」
雷鳴に匹敵するほどの轟音と共に、五重塔の屋根が消し飛ぶ。ドルトンによって力の溜められた稜威之雄覇走は、その斬撃で塔の屋根半分を塵に変え消滅させたのだ。そしてさらにその衝撃は塔全体に波及し、五階から二階にかけてその一部が崩れ出す。そんな壊滅的な状況の中で、ジュールの体は崩れ行く塔の破片と共に、一階の床へと激しく叩きつけられていた。
「ハァハァ。どうやら死んでないみたいだな――」
塔の屋根から転落しながらもジュールは無事であった。そして彼は命があった事に安堵しながら、雷光と雨が降り注ぐ崩れた天井を見て呟いた。
「こりゃぁいい。屋根が無くなったせいで礼拝堂が明るくなったぜ――――、ん!?」
ジュールは雷光によって照らされた瓦礫の中に何かを見つける。それは紛れも無く、崩れた塔の破片に埋もれたヤツの姿であった。そしてジュールはそんなヤツのもとに、全身に感じる激痛を無視して向かう。
瓦礫に混ざって倒れているヤツの体は酷く損傷していた。その巨体は右の肩から左の腰に掛けて、真っ二つに切り裂かれていたのだ。そしてその切り口は徐々に原子分解を始めている。これが十拳封神剣である稜威之雄覇走の威力なのか。あまりの壮絶さと無残なヤツの姿にジュールは思わず目を背けそうになる。するとそんな尻込みする彼に向かい、意外にもヤツが話し掛けたのだった。
「さ、さすがは英雄ドルトンだな。この期に及んであれほどの攻撃をしてくるとは、見事なものだ」
次第にその体を消滅させつつも、ヤツは小さく続ける。
「先程ドルトンが貴様の名を【ジュール】と呼んだな。もしや貴様、グラム博士の一人息子か――」
「!」
ジュールは突然ヤツの口から出てきた博士の名前に息を飲む。どうしてヤツがグラム博士を知っているんだ。出し抜けに告げられたヤツの話しにジュールは混乱を隠せない。するとそんな彼にヤツは意味深な視線を向ける。そして緑色に透き通る瞳を差し向けながら、ヤツは話しの続きを語った。
「軍にいるとは聞いていたが、まさかトランザムだとは思わなかった。だが青白く光るその右目が確かな証拠。最後に気が付いて良かった。我は危うく恩人をこの手に掛けてしまうところだった――。なぁ、少年よ」
「何だよお前、博士の事を知っているのか。それに俺の事も!」
ジュールは装着していたインカムを投げ捨てヤツに詰め寄る。そんな彼にヤツは緑色の瞳を切なく輝かせながらゆっくりと告げた。
「その様子だと、お前は本当に何も知らないようだな。我は元パーシヴァル王国軍の兵士であり、ボーア将軍の部下であった者だ。あの戦争の後、我はアダムズ軍の拘置所に囚われていたが、ボーア将軍の意思を継ぎ、時が来るのを待っていた。そしてグラム博士の助力により拘置所を脱出した我らは、ある作戦を実行する事にしたのだ」
「い、一体何の話をしているんだよ、お前は――」
そう言いつつもジュールは静かに語り続けるヤツの話しに聞き入っている。ヤツの話しに思い当たる節など有るはずも無いし、耳を貸す必要も無い。いや、むしろ聞きたくないと抵抗したいくらいなのだ。現にジュールの体は身の毛が弥立つ程の怖さで竦むほどなのである。それでも彼はヤツの話を聞かなければいけないという意味不明な義務感に駆られ、黙ってその言葉に耳を傾けた。そしてそんな彼に向け、ヤツは息苦しそうにしながらも話し続けたのだった。
「わ、我らの目的は【ある人物】の命を討つ事だ。しかしそれを実行する為には【ある鏡】が必要であり、その鏡を入手する為に我は数名の協力者達と一つの計画を立てた。ただしその計画を遂行するには人知を超えた力が必要だった。だから半年ほど前に我を含めた三人が、止む無く人々に【ヤツ】と蔑まれる獣人の姿にその形を変えたのだ。グラム博士の手によってな」
「えっ……」
「全ては死を賭してまで望んだ将軍の願いに報いるため。博士とボーア将軍は旧知の仲であり、共に研究に勤しんだ間柄であったからな。そして今回、我々が実行した作戦の立案者こそ、そのグラム博士なのだ」
「なっ! そ、そんなバカな話が」
ジュールはあまりにも唐突な話に動揺を隠せず狼狽する。だがそれとは対照的に、悲鳴を上げていたはずの全身の耐え難い苦痛は、いつの間にか鳴りを潜めていた。それはまるで、輝きの消えた右目が痛みを吸い取ってしまったかの様である。ただそれでもジュールの苦痛は完全には癒えやしない。ヤツの話を聞くほどに、その目の奥に感じる鈍い痛みだけは、むしろ強さを増していった。
「ざ、残念だが、今回我らが手に入れた【鏡】は偽物だったようだ……。いや、初めから上手くいく確率など、無きに等しい【賭け】だったのだ……。だが我らは……それに縋るしかなかった……。なぜならもう、我らには……時間が無かった……から……」
原子分解が進行するヤツの体は、すでに胸の上部にまで達している。
「す、済まない。どうやら……最後まで話すこと……が……出来ない……ようだ……。グラム博士の子であり……月読の……胤裔よ……。急ぎ……羅城……門へ……向かえ…………。そこに居る者は……我より……強い。ま、まだ間に……合う……はずだ。羅城門で……全てを…………聞け…………」
ヤツは優しくも哀しい眼差しをジュールに向ける。そしてその目には確かに彼に向けた何かしらの想いが込められていた。もちろんそんなヤツの切なる心情はジュールに伝わっている。でもそれに対して彼は何も言えなかった。戸惑いを露わにする彼にはどうする事も出来なかったのだ。ただそんなジュールに向けて最後にヤツが告げたのは、大切な者を信じてくれという願いの込められた言葉だった。
「グ、グラム博士は……、最後までお前……に……本当の……事が……言えなかっ……たと、悔やんで……いた……。しか……し、お……前……への……想い…………に……偽りは…………ない…………」
ヤツは死に絶えた。そして残されたヤツの首は、廃工場での戦闘の時と同じく【人の物】へと変わった。それでも原子分解は止むことなく、ついにヤツはその存在全てを消滅させた。
そんな光景を目の当たりにしたジュールは不意に思い出す。半年前テスラによって切り捨てられた、豚顔のヤツの首が変化して現れた人間の顔を。
そうだ。あの時現れた人の顔は、グラム博士の研究室の壁に貼り付けられていた写真に写っていた男の顔だった。あれは間違いなく博士やファラデーと共に写っていた【顔色の悪い男】の顔だった。
「博士。あなたは一体何をしようとしていたのですか――」
否定のしようのない繋がりに気付いてしまったジュールの右目はさらに痛みを強める。しかしその痛みこそが真実を告げる警告ではないのか。ジュールは右目を押さえながらグッと奥歯を噛みしめる。ただそんな彼の後方より、その無事を心配するドルトンの声が掛けられた。
「ジュール、無事か?」
輝きの消えた稜威之雄覇走を携えたドルトンが脇腹を抑えながら駆け付けて来た。真っ青な顔色より、むしろ彼の方が重傷であるのは疑い様がない。それでもドルトンは隊長としての責任を果たすべく、懸命に駆け付けたのだった。
「まったくタフな奴だな、お前は。あれだけの戦いをしてまだ立っていられるとは、恐れ入ったよ。それで、ヤツはどうなった」
「――完全に、消滅しました」
ジュールはそう答えると、下唇をきつく噛みしめる。
「そうか……。それにしてもジュール、俺の制止を聞かず無茶しやがって。今度同じマネをしたら只じゃ済まさんぞ! 俺の気のせいかも知れんが、なぜか俺が刀を振り抜く瞬間、ヤツはお前に向けた腕を止めた気がした。単にヤツの体力が限界だっただけかも知れんが、でもそうでなければお前は今頃死んでいたかも知れんのだぞ!」
ドルトンの激が飛ぶ。しかしジュールはそんなドルトンの説教を聞き流していた。つい先程までヤツが横たわっていた場所を見つめる彼の脳裏には、消えゆくヤツの姿がはっきりと映し出されていたのだ。
『まだ間に合う! 急げ!』
ジュールの心にヤツの死に際の言葉が強く響く。すると彼は背中を後押しされる様にして、塔の出口に向かってその足を踏み出した。そしてすれ違い様にドルトンの手にする稜威之雄覇走を奪い取る。
「済みません隊長。これ、少し借ります!」
「ま、待てジュール、どこに行く気だ」
「ちゃんと返しますからっ!」
ジュールはまたもドルトンの制止を無視し、土砂降りの雨の降る塔の外に飛び出した。
「間に合ってくれ!」
心の中で祈る様にそう叫んだジュールは意を決してバイクに跨る。そして彼はまるで運命に引き寄せられているかの様に、羅城門に向けアクセルを開けた。