#102 佐保姫の泣血(劫火の覚醒3)
一面の湿地帯のような場所に様変わりした廃工場跡地。所々に瓦礫の残骸が顔を出してはいるものの、それがかつて工場であったと想像出来る者は少ないだろう。それほどまでにこの場所は短時間で変わり果ててしまった。
リーゼ姫は空を見上げながら思う。立っていられない程の大地震に炎の雨、それに【湖】までもが空から落ちて来た。とても想像なんて出来やしない。人の常識を遥かに超えた災厄が現実となって降り注いだのだ。でもその中で私は生きている。
何者かに守られていた感覚はあった。そしてそれは恐らく黒き獅子の力によるものなんだろう。でも私の命にそれだけの価値があるのだろうか。
確かに死の鏡から湧き出した蒼き蛭の封印には成功した。超絶な力を持つ黒き獅子や紫の竜を窮地に追いやった化け物を打ち消したのだから、獣神達にしてみれば自分は有益な存在だと言えるのだろう。だけど獣神達にとって、本当の意味で重要な存在なのは私じゃない。
リーゼ姫の胸が震える。だって獣神達が必死になって追い求めているのはアメリアなのだ。そして彼女は今、黒き獅子の背に乗せられ飛び立ってしまった。
ほんの一瞬の出来事だったから見間違えかも知れない。だけど地中より勢いよく飛び出して来た黒き獅子の背中にアメリアが居たように見えたのだ。何よりこの耐え難い不安がそれを事実だと思わせてならない。
アメリアが何者であるのか、それは彼女自身も分かっていないだろう。リーゼ姫はそれまでのアメリアの態度からそう判断する。しかし獣神達の行動から推測すれば、間違いなく彼女は最重要人物であるはずなのだ。
早くアメリアを助けなければ。リーゼ姫は直感としてそう思う。理屈は分からないが、アメリアの存在が世界を崩壊させる引き金に成り兼ねないと感じたから。でもだからと言って、今の自分にはどうする事も出来ない。リーゼ姫は悔しさを噛みしめながら黒き獅子が飛んで行った南の空をきつく睨む。ただ姫はくるりと振り返ると、脇腹を押さえながら蹲っているブロイに寄り添った。
「かなり痛そうですね。でも我慢して下さい。ここでは何の対処も叶いませんんので、きついでしょうが移動しましょう」
「ぼ、僕に構わず、姫だけでも安全な場所に移動して下さい。ろ、肋骨が何本か折れているみたいです。ざ、残念ですが、僕はもう動けませんよ」
「ごめんなさい。飛散した瓦礫から私を守るために体を張って下さって。何とお詫びを申し上げれば良いか……。でも諦めないで下さい。もう少しの辛抱です。獣神達の気配が感じられない今こそ、安全な場所に移動するチャンスですから」
リーゼ姫はそうブロイを励ましながらニッコリと微笑んで見せた。するとその笑顔にブロイは溜息を吐き出す。やれやれ、もういい加減放っておいてほしい。なのにこの笑顔を差し向けられたら弱音なんか言ってられないじゃないか。
ブロイは痛む肋骨を押さえながら渋々と立ち上がる。やっぱり姫が諦めない限り、自分も進むしかないんだろう。そう、逆の意味で諦めるしかないんだ。死ぬまで足掻き続けなければいけないのだと。――だがその時だった。ジェットエンジンの噴射する轟音が急速に接近して来る。そしてリーゼ姫とブロイの行く手を塞ぐようにして、黄金に輝く巨人がそこに降り立った。
ブロイはリーゼ姫を守るように身構える。重傷を負っている身でありながらも危険を感じ取った彼の行動は素早い。かつてアニェージと共にガルヴァーニに鍛えられた体が反射的に動いたのだろう。ただそんな彼らの前で賽唐猊は膝を着く。そして胸のコックピットハッチが開くと、そこからトウェイン将軍が姿を現した。
コックピットから垂れ下がるウインチを利用して将軍が地面に降りて来る。表情の硬さからして、だいぶ疲れが溜まっていそうだ。これまでの戦闘でかなりの疲労とストレスが蓄積したのだろう。しかしその反面、どことなく満ち足りた充実感が醸し出されている。この終わりを告げた戦場で彼は何を遂げたのであろうか。だがリーゼ姫とブロイには、そんな事を考えている余裕は無い。なぜならトウェイン将軍は右手に小銃を構え、不敵に口元を緩めながら近づいて来たのだ。
「思ったよりもお元気そうで何よりです、リーゼ姫。お迎えに参りました」
「将軍、あなたはアルベルト国王が黒き獅子であったのを知っていたのですね。そのロボットが何よりの証拠。獣神と戦う準備をされていたなんて、備えを怠らないあなたらしい素行です」
「お褒め言葉と受け取って構いませんよね。あなたの言う通り、私は黒き獅子を殺す為に、この賽唐猊を完成させたのです。どうですか、この出来栄えは。見事だと思いませんか? 極限を越えた戦闘のせいで少し傷付いてしまいましたが、それでもまだ十分に昂然たる苛烈さを感じさせるでしょう」
「馬鹿げた話です。恐らくそのロボットは最先端の科学技術を結集させて作り出されたものなのでしょう。でもその目的が人を救う為ではなくて、神殺しの為だなんて、私には受け入れられません」
「おやおや、言ってくれますな。神殺しをして何がいけないんですか? 人を救う方法はいくつもあるんですよ。あの獣神どもは人を虫けら同然に蹴散らす力を持っている。現に首都ルヴェリエは奴らのせいで壊滅的な被害を被っているでしょう。だからいっそ神なんて殺してしまえばいい。そうすれば結果として人を救う事に繋がるんですからね」
「あなたの考えは暴力的過ぎる。確かにあなたの言う通り、獣神達は自らの欲望を叶える為だったら私達人間なんか羽虫を焼き払う様に殺すでしょう。でもだからと言って、力に力で対抗しては最後に訪れるのは破滅だけです」
「ならどうすれば良いって言うんです! あなたは何の力も無く人を救えるって言うんですか! いいえ、すでにあなたは蒼き蛭を封印した力を持っている。女神の巫裔でもない、ただの人間であるはずのあなたがね。だから主はあなたを連れて来るよう命令したんですよ。神はあなたの力を恐れている。――クソっ、なんでこんな小娘ごときに獣神を屈服させる力があるんだ。せっかく銀の鷲を殺して気分良かったのに、台無しだな」
「なっ。い、今何と仰いました? 銀の鷲を殺したって……」
リーゼ姫の体に戦慄が駆け抜ける。本当なの? あの銀の鷲が死ぬなんて考えられない。リーゼ姫はかつてプトレマイオス遺跡で目撃した獣神の姿を思い浮かべながら息を飲み込んだ。ただそんな姫に向かいトウェイン将軍は冷酷に告げる。
「別に驚く必要はないでしょう。あなただった分かっていたはずです。銀の鷲が命を擲って戦っていたんだとね。黒き獅子だけならいざ知らず、我が主である紫の竜までもを相手にしたのですから、生きていられる方がむしろおかしいと思いませんか? それにあいつは残り少ない体力を顧みず、死の鏡までもを利用した。その代償は計り知れなかったはずです。挙句の果てに最後の最後で炎の雨である八十禍津火まで繰り出した。死んで当然でしょう」
「で、でも、それでも銀の鷲は獣神です。体力が底をついたからって死ぬとは思えません!」
「だから最後のトドメは私が下したんですよ。我が愛刀であるこの天乃尾刃張でね。これでもまだ信じられませんか? あいつはもう死んだんだ。ラヴォアジエはもうくたばったんだよ!」
トウェインは怒りを吐き出すかの様にして強く叫ぶ。恐らく彼はリーゼ姫が銀の鷲を頼りにしているのだと感じ取ったのだ。でももう全ては終わった。あいつは死んだんだ。トウェインは恨みを込めた言葉でラヴォアジエを罵った。
「銀の鷲なら世界を救ってくれると思ったんですか? バカバカしい。あいつのどこが救世主なんだよ。このルヴェリエの惨状だって、半分以上はあいつが暴れた影響によるものなんだ。そうなんだ、むしろあいつこそが人殺しの悪魔なんだよ。だってそうでしょ。黒き獅子や紫の竜がどれだけ都合良く自分勝手に自らの欲望を叶えようとしていても、むやみに人殺しなんかしていないんですからね。銀の鷲、いやラヴォアジエの方がよっぽど人殺しの悪魔なんですよ!」
「そ、そんな……」
リーゼ姫は言葉に詰まる。確かに将軍は間違った事を言っていない。ううん、首都の中心で銀の鷲が絶大な力をこれでもかと発動させたのは事実なのだ。逆に黒き獅子はその攻撃からルヴェリエを守っていた気さえする。これじゃ自分の願いと正反対じゃないか。でもどうして――。
あの時、プトレマイオス遺跡で見た銀の鷲の赤い瞳はとても神秘的だった。哀しさや寂しさが強く感じられたけど、それでもあの瞳に私は胸を打たれたんだ。だってそれは私の未来に明るい光を差してくれた気がしたから。
思い込みだったのか。そうであって欲しいと強く願ったばかりに錯覚に陥ってしまったのだろうか。分からない。私には何が正しいのか分からない。
リーゼ姫の表情がみるみると焦躁していく。信じていたものが消え失せたせいで姫は意気消沈してしまった。するとそんな姫の心情を察したのか。トウェインは明らかな命令口調で促した。
「さぁ、もうお喋りは終わりです。私と一緒に来なさい。我が主、紫の竜が待っておられる」
トウェインはそう言ってリーゼ姫の腕を掴もうとする。彼は焼野原と化したこの場所から、いい加減に早く立ち去りたいのだ。だがしかし、そんなトウェインとリーゼ姫の間にブロイが割り込んだ。
「ちょっと待って下さいよ。姫が震えているじゃないですか。いい歳したおっさんがさ、こんな清楚なお姫様を怖がらせちゃダメだよ」
「なんだ貴様、どこの誰だ? ずっと姫と一緒にいたみたいだが、ボディガードにでもなったつもりか。ケッ、アホらしい。どこのどいつだか知らんが、お前になど用はない。さっさとそこをどけ、パン!」
トウェインはブロイに小銃を向け、それを容赦なく発射させる。するとその弾丸はブロイの腹部に命中し、彼はその衝撃で膝を着いた。
「ハハハッ。これが現実だ、よく分かったか。ここはお前の様な小物が割って入っていい舞台じゃないんだよ。邪魔だから死ね」
「やめて、乱暴はしないで! この人は重傷を負いながらも私を守って下さったのよ」
「だからその褒美として、私自らの手で葬ってやるんですよ。アダムズ軍の将軍が直々に殺してやるのだから名誉な事でしょう」
「な、何を馬鹿な。あなたは人の命を何だと思っているんですか!」
「ならばこうしましょうか。この男の命を助ける代わりに、あなたは私に大人しく従う。どうですか、これ以上は譲歩出来ませんよ」
そう言いつつもトウェインはブロイの頭部に向けて小銃を構える。彼には分かっているのだ。姫は自分自身の困難には極めて強くとも、自分のせいで誰かが傷つくのには堪えられないのだと。そしてその読みは見事に的中する。リーゼ姫は屈み込み心配そうにブロイを気遣うも、将軍の指示にやむを得ず従おうとした。
「……、分かりました。あなたとご一緒しましょう。ただし、この人を病院に運んで下さい。それが条件です」
「分かりました。アダムズ軍の将軍として約束しましょう。その男を賽唐猊の手の平に乗せなさい。病院まで飛んで行ってあげますよ。まぁ、その男の体力がどこまでもつか知りませんけどね」
トウェインはそう言うと強かに微笑む。勝ち誇った笑顔が溢れ出したのだろう。そして彼は振り返り、賽唐猊のコックピットに向かおうとする。ただそんな彼を満身創痍のブロイが呼び止めた。
「ちょ、ちょっと待てって言ってるでしょう。ぼ、僕はあんたに助けてほしいなんて願っちゃいないよ。ただね、僕は一言だけ言いたいんだ。気持ち悪い笑顔を見せるあんたにね」
「ほう、黙っていれば痛い思いをしなくてすむのに、どうして平民というのはこう場を弁えんのだ。それともお前、私に何か恨みでもあるのか?」
トウェインは呆れて物が言えない。そんな困った表情を浮かべてみせる。しかしブロイは至って真剣だ。彼はトウェインに対し、一歩も退かずにその胸の内を吐き出した。
「ぼ、僕にはあの獣神って化け物達が何を考えているのか分からない。でもね、あんたの考えなら手に取る様に分かるよ。あんた【一番】になりたいんだろ? だから獣神に従い、あわよくば国王に変わって自分が王様に成りたい、ううん、世界を征服したいって考えてるんだ。だからあんたはプライドが高いくせに獣神に従っているんだよ」
「へぇ、伊達に歳を喰っているわけじゃなさそうだな。良く分かっているじゃないか。そうだよ、お前の言う通りさ。私は世界の頂点に君臨する存在になりたいんだよ。我が主も黒き獅子も人類については興味ないようだからな。私がこの世界を統治してやるのさ」
「哀しいね。結局そういうくだらない考えで争いは起きるんだよ。でも『私がこの世界を統治する』だって? ハハッ、こいつは笑えるね。あんた、真面目にそう思っているのか」
「何が言いたい!」
「たぶんあんたの言う通り、あの怪物達は人間の事なんかこれっぽっちも視界に入ってないんだろう。でもね、そう遠くない将来、あいつらは自分の望みを叶えるために世界を滅亡させるつもりさ。今はまだその時じゃないから無駄に人殺しをしていないだけだよ。銀の鷲にはそれが分かっていたから、犠牲を払っても打って出たんだ。だけどあんたはその銀の鷲を殺してしまった。もう取り返しは着かないぞ。あんたがどれだけ世界征服を望んだところで、たとえそれが叶ったとしても、そこに人が誰もいなかったらどうするんだ」
「知った口を利くな! お前の様な中年のクズに何が分かる。クソっ、気分が悪い。もういい、クズはクズらしく死んじまえ」
「やめて!」
「パン!」
リーゼ姫の制止も虚しく、トウェインはブロイの頭部に向けて小銃を発射する。二人の間は約5メートル、将軍が狙いを外す距離ではない。でもそこでトウェインは目を丸くして驚きを露わにした。いや、彼だけではない。リーゼ姫もまた、目の前の光景に唖然とした。
なんとトウェインの愛機であるはずの賽唐猊が腕を伸ばし、ブロイを銃弾から守ったのだ。
トウェインは激しく戸惑う。賽唐猊には誰も乗っていないはずだし、そもそもこれを操縦できるのは自分だけなんだ。しかし現実に賽唐猊は独りでに動き出し男を守った。どういう事なんだ?
トウェインの顔色が明らかに変わっていく。現状がまったく理解出来ず、甚だしい不安に陥っているのだ。するとそんな彼に向かい今度はブロイの方が口元を緩める。そしてブロイは出血する腹を押さえながらも、将軍に向かい得意げに言い放った。
「そのロボットだけど、メインシステムに【出雲】を使っているでしょう。ちょっと難しかったけど、ハッキングして乗っ取らせてもらいましたよ。時間的にギリギリで危なかったけどね」
「ふ、ふざけるなっ! 出雲をお前が乗っ取っただと!? ただの中年オヤジがいい加減な事を言うな!」
トウェインが烈火に怒る。突如として賽唐猊が意味不明な動きを取ったのだから当然だ。だがそんな彼に対してブロイは自身の頭を指差しながら告げた。
「出来ればワイヤーを繋いで制御したかったんだけど、そうもいかないから強引に無線で出雲にリンクしたんだよ。僕の頭の中には特殊なモデムが埋め込まれているからね。直接手なんか触れなくても、ネットワークを中継して制御するくらいは可能なのさ」
「バ、バカな。いや、たとえネットワークの中継が可能だったとしても、出雲は軍が開発した最新鋭の特殊AIなんだぞ。それをハッキングして制御するなんて出来るはずがない。き、貴様、一体何者だ!?」
見た目は冴えない中年のオヤジである。しかしブロイは超高度な技術で賽唐猊を動かして見せた。その事実を知ったトウェインは尻込みするしかない。当然ながら小銃一つで賽唐猊に勝てるわけないのだから。ただその時、突然ブロイが大量の鼻血を垂れ流す。そして彼はガックリと体を地面にひれ伏してしまった。
まったく訳の分からない状況が続くものだ。だがやはり勝者は私なんだろう。そう察したトウェインに僅かな余裕が戻る。そして彼は小銃をブロイに向け直して言った。
「大したモンだよ、お前。たとえ一瞬でも遠隔で賽唐猊を動かしたんだからな。人は見かけに寄らないって、改めて思い知ったよ。でも流石に出雲をハッキングするのは肉体的にも精神的にも厳しかったんだろうな。もう限界ギリギリなのが良く分かるぞ」
「そ、そうだね。あんたの言う通りなのかも知れない。で、でもね、あと少しだけ、そのロボットであんたを殴り潰せば!」
賽唐猊の一つ目が真っ赤に光る。ブロイによって再起動した証拠だ。だがしかし、賽唐猊はそれ以上動かなかった。ハッキングによる制御に失敗したのだ。
「こ、この死にぞこないが、焦らせやがって!」
トウェインは怒り心頭だ。もう絶対に許しはしない。この私を侮辱した罪を後悔させてやる。そして彼は小銃でブロイの右足を撃ち抜いた。
「パン!」
「ぐわっ」
ブロイは激痛に悶え苦しむ。腹に続き右足まで撃たれたのだ。堪えられるわけがない。だがトウェインはそんな彼に対し、更なる地獄を見せようとした。
「楽には殺さんぞ。弾が尽きるまでなぶり殺しにしてやる」
「やめて! これ以上この人を傷付けないで!」
「邪魔だ!」
トウェインは制止するリーゼ姫を突き飛ばす。もう我慢ならない。いっその事、この小娘も殺してしまおうか。怒りに満ちた将軍はそう思う。今の彼には冷静な判断力がないのだ。そして今度はブロイの左足を撃ち抜いた。
「ぎゃっ」
ブロイの口から悲痛なうめき声が漏れる。トウェインは本当にブロイをなぶり殺しにするつもりなのだ。腹と両足を撃ち抜かれたブロイは悶絶するだけで動けない。トウェインは容赦なく銃を構え右の肩に狙いを定める。これでは完全な虐殺だ。――がその時だった。突然地面が突き上がる様にして激しく揺れる。そして次の瞬間、まるで足元が噴火したかの様に、凄まじい火柱が立ち上がった。
猛烈な炎がトウェインとブロイ、それにリーゼ姫を包み込む。火柱の高さは軽く十メートルを超えているだろう。もし少し離れた場所から誰かが見ていたとしたならば、三人は間違いなく即死だと感じたに違いない。
だが実際にはその見た目に反し、熱量はさほど高くはなかった。火柱は激しく燃え上がっているはずなのに、火傷どころか掠り傷の一つも刻まれないのだ。いや、むしろ心地良く柔和に癒されていくかの様な温かさに感じる。一体なんなんだ、この炎は。
トウェインは不思議な感覚に一瞬だけ怯んだが、でもまったく害がないのだと理解すると、なんと彼は炎に包まれる中で当初の予定通りブロイを殺そうと銃を構え直した。だがそこでトウェインは目を疑う。なぜならそこでもがき苦しんでいたはずのブロイの姿が消えていたのだ。
バカな。両足を撃ち抜かれたあいつが動けるはずがない。トウェインは必死になって周囲を見回す。しかし炎が激しくて視界はほとんどない状態だ。これでは見つけられない。それになんだが熱くなってきた気がするぞ。あれほど心地良かったはずの温かさが、気が付けば肺を焼くほどの高温に変わっている。これはマズイ!
危機的な状況を察したトウェインは思い切って駆け出す。火柱が立ち上がっている範囲はそれほど広くはないはずだ。彼は直感としてそう考えたのだろう。そして彼は全力で跳躍し、激しい炎の中からの脱出に成功した。軍人としてのこれまでの経験が彼を窮地から救ったのだ。
ただ全身が文字通り焼ける程に熱い。耐火性能が備わったバトルスーツを着用していたのにこのザマなのだ。あと一歩遅かったら焼け死んでいただろう。焦げ付きボロボロになった制服の切れ端を見ながら彼は思う。だが次の瞬間、今度は一瞬にして炎が消え去った。
クソっ。一体何がどうなっているんだ。理解に苦しみながらトウェインは奥歯を噛みしめる。致命傷にはなっていないが、それなりの火傷を負ってしまったのだ。辛く表情を歪めるのは仕方ないだろう。ただそんな彼の目に思いも寄らぬ光景が映り込む。どこからどうやって現れたのか。いや、あいつは黒き獅子が殺したんじゃないのか。――――うっ!
トウェインの顔からみるみると血の気が引いていく。い、痛い。心臓が鷲掴みされているみたいだ。
息をするのも困難な激痛にトウェインは苛まれる。火傷は追ったが死ぬほどではないはず。それなのにこの痛みは何なんだ。あいつがやったっていうのか!
トウェインは少し離れた場所に立つその存在をきつく睨む。死んだとばかり思っていた男。そう、それは紛れもない【ジュール】の姿だった。
単純に打ち損じただけなのか、それともジュールの生命力が異常に強いのか。いや、もしかして黒き獅子の奴め、わざとジュールを生かしたとでも言うのか。
クソが。はやり私の手で黒き獅子も討っておくべきだった。勝てるチャンスはいくらでもあったはずなのだから。でもまぁいいさ。賽唐猊でもう一度戦えばいい。黒き獅子など恐れるに足りはしないさ。それに憎たらしい小僧とて同じこと。こいつが月読の胤裔であり、神の力を持っていたとしても同じ事だ。賽唐猊で蹴散らしてやる。
そう思ったトウェインは激痛に身を委ねながらも笑ってみせた。彼にはどんな神にも勝つ自身があったのだ。――がしかし、そこで彼の表情が一気に青ざめた。
トウェインの制服は炎の影響でかなり損傷している。特に右の二の腕あたりはボロボロに焼け焦げており、素肌が見える状態だ。そして彼はそこに表れた【刻印】の存在に気が付いてしまった。
「バ、バカな! いつの間に刻まれたんだ、まったく記憶にないぞ! いや、そうじゃない。ギリギリのところで回避出来たはずなんだ。私は蒼き蛭とはこれっぽっちも接触していない。それなのにどうして、どうして私の腕に【死の刻印】が刻まれているんだ!」
トウェインは自らの腕に刻まれた奇妙な刻印を見て愕然とする。絶対に避けたはずなんだ。私に落ち度はないはずなんだ。責任を誰かに押し付け、自分自身の潔白を確かめたい。こんなバカな話しがあって堪るか。だが無情にも彼は苦痛の原因がその刻印から来ているものだと理解してしまった。
トウェインはジュールを睨み付ける。こいつさえ現れなければ、こいつがちゃんと死んでいれば良かったんだ。彼は強烈な恨みを込めてジュールを睨み続けた。そしてそんな彼をジュールの方も見つめている。ただそれはトウェインのものとは真逆の憐れみの込められた哀しい視線だった。
死の刻印は蒼き蛭の呪い。この刻印が刻まれた者は死の神である蒼き蛭に魂を拘束された事を意味し、もし他人に刻印を見られれば死んでしまうという悍ましき呪縛なのである。
こうなってしまったらもう、逃れる術はない。全ては終わりだ。そう思ったトウェインは痛烈な憤りを感じる。ただその反面、彼は薄らと笑ってみせた。
「フフッ。さ、最後の最後まで……運が悪いな、私は。もう少しで黒き獅子すら倒せたはずなのに、それなのに……こんなにも呆気なく、死を迎えてしまうのか……。ラ、ラヴォアジエの奴は今頃、地獄の入り口で私を笑っているんだろうな。ぐっ、……こ、こうなってしまったなら仕方ない。ラ、ラヴォアジエよ、私も地獄に付き合うぞ。す、すぐに行くから、……首を洗って……待って…………い……ろ…………。ドサッ」
声にならないくらい小さく最後の言葉を告げたトウェインは前のめりに倒れ込む。そして彼はピクリとも動かなくなった。
アダムズ軍の将軍であり、国家の将来を担う存在でもあったはずのトウェイン。獣神すら手玉に取り、あわよくば世界を手中に収めようと大きな野望も抱いていた。しかし彼の最後は驚くほど淡白であり、手応えのないのものに感じられる。ううん、人の死などというものは、大抵そんなものなんだろう。
ジュールは息絶えたトウェインを無言で見つめながらそう考える。いや、そうじゃない。次は自分の番かも知れないのだと無意識に覚悟したのだろう。だが憂いている暇がないのも現状だ。彼はトウェインの亡骸から視線を外すと、足元で横になっているブロイを気遣う。そしてジュールはブロイの腹の傷口にそっと手を添えながら言った。
「リーゼ姫を守ってくれたんですね。さすがです、ブロイさん。だけどもう少しだけ辛抱して下さい。自力で歩ける程度まで傷を回復させますから、リーゼ姫を連れてここから離れて下さい」
「き、傷を回復させるって、どうやって――。い、いや、それよりもジュール君、き、君の方こそ大丈夫なのか? なんだか雰囲気が違うし、それにこの炎は」
ブロイは驚きを隠せない。なぜならジュールの体から僅かに炎が燃え上がっているのだ。でもその炎は熱くない。一体何なんだ、この不思議な炎は。
ただそこでブロイは更に驚き目を丸くした。なんとジュールが手を添えていた腹の傷がみるみると塞がっていくのである。それも腹の傷だけではなく、小銃で撃ち抜かれた両足の傷まで治っていくのだ。ジュールの体から燃え上がる炎が回復させているのだろうか。でもそうとしか考えられない。だってこの炎の温かさはとても気持ちが良いのだから。
まるで母親の温もりに浸っているかのような安らぎを感じてならない。ブロイは不思議な感覚に癒されていく。これなら20分、いや10分もあれば全回復出来るだろう。ブロイはあまりの心地良さに眠気すら覚えて来る。ただそこで口惜しくも癒しの時間は終わりを告げた。
「ブロイさん、もう動けますよね。リーゼ姫を安全な場所まで連れて行って下さい。俺はアメリアを助けに行きます」
「え、あ、あぁ。頑張れるだけ頑張ってみるよ」
「でもあなたはどうやってアメリアを助けに行くのですか? アメリアは黒き獅子に連れ去られてしまったんですよ」
リーゼ姫が訝しげに問い掛ける。ジュールの体が普通じゃないのは分かるが、でもだからといって獣神に勝てるわけもない。なにより彼の体は目を背けたくなるほどボロボロなのだ。こんな状態でどうやってアメリアを助けるというのか、それはリーゼ姫でなくとも疑わしさを覚えるだろう。だがその時だった。ジュールの右目が真っ赤に輝く。そして彼は悶え苦しむ様な呻き声を上げた。
「ぐ、ぐぅぉぉおおお!」
「だ、大丈夫ですか! 気をしっかり!」
突然唸り出したジュールにリーゼ姫が歩み寄る。だがそんな姫をジュールは突き飛ばして言った。
「は、早くここから離れるんだ! お、俺はもう、た、耐えられない。い、怒りに……、の、飲み込まれて……しまう……。グオォォ!」
ジュールの体から激しい炎が放出される。それはさっきまでの優しい炎ではない。トウェインに襲い掛かった灼熱の炎と同じものだ。
「きゃっ」
あまりの熱さにリーゼ姫が悲鳴を漏らす。するとそんな姫の体をブロイが強引に担ぎ上げて駆け出した。
「ヤ、ヤバい。あの炎は恐ろしいものだ。それにどんどん範囲が拡大している。このままじゃ僕も姫も焼け死んじゃうぞ。どうすればいい――、あっ!」
急拡大する灼熱の炎は絶望感しか植えつけない。だが同時にブロイはそこで唯一の希望を視界にする。彼はリーゼ姫を抱えたまま、突発的に賽唐猊のコックピットへ飛び乗った。
「こいつは銀の鷲の炎も防いでいた。だったらこの炎だって受け流せるはずだ!」
ブロイは手際よくコックピットのハッチを閉めながらそう願う。再びネットワークを中継してAIである出雲を制御したのだ。まだ半開とはいえ、傷が回復した彼にはこの程度の操作はお手の物なんだろう。しかし操縦桿を握ったブロイの手は凄まじく震えていた。彼は尋常でない恐怖に支配されたのだ。
爆炎に包まれるジュールの姿が徐々に変化していく。それも人ではない【何か】に。またそれにも増してジュールからは激しい憎悪が噴出されていた。その苦々しい激情にブロイは怖さを感じたのだ。そしてそれはリーゼ姫も同じであった。
「あ、あの方はどうなってしまったの!? あれじゃまるで――」
「今は考えるのを止しましょう。ここは危険です。離れますから姫はしっかり掴まっていて下さい!」
ブロイはそう指示すると操縦桿を引き上げる。彼とてジュールの身に何が起きたのか心配で仕方ない。でも今のジュールは危険すぎる。そう判断したブロイは賽唐猊の出力を全開にして、その場から一気に距離を取った。
凄まじい勢いで燃え上がるジュール。すでにその姿は人間の形ではない。地獄の炎のように真っ赤に輝く右目。体の大きさはそれまでの二倍にまで巨大化し、その全身は銀色に輝く体毛で覆われている。そして何よりも悍ましいのが、頭部が【狼】のそれに変化している事だ。
ジュールはヤツになってしまったのか。しかしヤツと決定的に違う部分がある。ヤツの全身は真っ黒い体毛で覆われているのに対し、変化したジュールの体は明らかな銀色だ。それにヤツの顔はどれも腐った獣の顔をしていたが、ジュールのそれは狼の顔になっているものの、とても精悍な顔つきをしており、まったく腐ってはない。だから見る者が見れば分かるだろう。ジュールの姿がヤツとはまるで別物なのだと。その証拠に少し離れた場所からではあるが、二つの黒い人影が生唾を飲み込ながらジュールを見ていた。
「おいおいおいおい、何なんだありゃ!? ヤバ過ぎるだろ。ありゃ本物の化け物だぞ!」
「確かにあれは規格外だな。体の大きさこそ俺達より少し小さいが、内に秘めた力の大きさは比べものにならない。獣神ですら勝てるかどうか怪しいところだ。……で、どうするんだ、デービー。あの化け物と戦ってみるか?」
「アホ言え。いくら俺が戦い好きだからって、あんなのとヤルほど馬鹿じゃないぜ。ここは逃げるに限る。ほら、さっさと飛べよワッツ」
「チッ、人使いが荒い奴め」
隼顔のヤツであるワッツはそう吐き捨てると、大きな翼を広げて軽く舞い上がる。そして豹顔のヤツであるデービーの肩を足で掴むと、そのまま上空に飛び上がった。
「正直アダムズ城に戻るのは気が進まないんだがな。行くんだろ、デービー?」
「たぶんあの化け物も城に向かうんだろうな。でもあいつの狙いは黒き獅子さんだ。余計な手出ししなけりゃ、俺達に害はないはずだぜ。それによ、城にはこれまでに稼いだ金が置いてあるんだ。ずらかるにしても、それを持って行かなきゃなんねぇだろ」
「とりあえず目立つ行動だけは避けろよ。万が一って事もあるからな」
ワッツはやれやれとばかりに溜息を吐く。目的地であるアダムズ城に不安を感じてならないのだろう。だがデービーと対等に話しをするだけの実力者でもあるワッツは、表情を引き締め直すと全力で城に向かい飛び立った。
猛烈な炎に包まれながらジュールは抵抗する。体の内側から底なしの怒りが込み上げて来るのだ。そしてこの怒りに支配されたら、きっと狂暴な力は大切な存在諸共全てを破壊してしまうだろう。だから絶対に自我は失えない。
ジュールは直感としてそう感じる。だからこそ彼は必死の想いで湧き上がる怒りを抑え込もうと足掻いた。だがしかし、そんな彼の精神力を嘲笑うかの様にして怒りは膨れ上がる。なぜこれ程までに怒りが溢れて来るのか。
ラヴォアジエが抱いていた憎しみなのか。それともアメリアをみすみす黒き獅子に奪われてしまった自分自身への腹立たしさなのか。確かにそれらの感情もあるのだろう。でも根本的に違う気もする。
激しい頭痛に襲われながらジュールは感じた。再び頭の内側からオーケストラの様な演奏が響いて来るのを。そしてその演奏に混じり、いくつかの見覚えのある姿が彼の胸を通り抜けて行く。
ガウス、ティニ、そしてアニェージ。みんな何処に行こうっていうんだ。そっちに行ったらもう二度と戻って来れないぞ! ジュールは焦燥感に煽られながら必死に呼び止める。しかしガウス達は悲しい表情を浮かべるだけでジュールの呼び掛けには応えない。
俺を無視するつもりか。俺が普通の人間じゃないから、みんな俺の所から離れて行ってしまうのか。もしかしてアメリアが黒き獅子に乗って行ったのも、俺との距離を取るため…………。いいや、そんなわけない。そんなはずはない。だって俺はアメリアを愛しているんだ。誰よりも愛しているんだ! そうなんだ、アメリアは俺のものなんだ! ――グオォォォ!」
猛烈な咆哮を上げたジュールの体が真っ赤に燃え上がる。するとそれは巨大な炎の塊となり、その炎の塊は爆音を響かせながら天へと舞い上がった。
銀の鷲がかつて見せた【火之夜藝】の力。だがそれは無情にもジュールが怒りに支配された証しであり、炎の神の力が暴走を始めた前兆でもあった。
炎の塊はぐんぐんと上昇していく。ただその過程で炎は形を変え、再び狼の顔をした怪物の形に戻っていった。そして遥か上空で停止する巨体。その背中には禍々しい形をした炎の翼が生えており、まさにその姿は【修羅の化身】と呼ぶに相応しいものだった。
「グゥォオオオオオ!」
再び咆哮を轟かせるジュール。するとそれを合図にしたのか、彼は――いや、狼の顔をした修羅は、まるでジェット噴射したかの様な猛烈な加速で南の空に飛び立って行った。