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月読の奏  作者: 南爪縮也
第一章 第五幕 寒乱(さみだれ)の修羅
102/109

#101 佐保姫の泣血(劫火の覚醒2)

 パラパラと天井から細かいコンクリート片が降り落ちて来る。もうこの地下施設は長く持たない。絶望感ばかりが(つの)る危機的な状況の中で、それでもアメリアはジュールのもとに駆け付けていた。

 この荒れ果てた地下施設の中で、倒れ込む彼を見つけ出したのは奇跡と言えよう。いや、無意識にも女神の巫裔(かんえい)としての力が導いたのかも知れない。ジュールに会いたいと願った彼女の想いが強かっただけに。

 アメリアは倒れているジュールの(ほお)に手を添える。ボロボロに傷ついた彼の姿を見る限り、とても無事であるとは思えない。しかし彼女は手の平から伝わって来る温もりにホッと胸を撫で下ろした。

 大丈夫、生きてる。ううん、こんなところでジュールが死ぬはずがない。少し安心した彼女の目から涙が溢れて来る。ただアメリアはそれを手早く拭うと、ジュールの肩をゆっくりと揺らしながら彼に向かい呼び掛けた。

「しっかりしてジュール! お願いだから目を覚まして!」

 アメリアは必死に呼び掛ける。彼の声が聞きたい。強く抱きしめてもらいたい。そう想うばかりの彼女は、無意識にジュールを揺する腕に力を込めていた。――すると、

「……う、い、痛ってぇな」

「ジュール! 気が付いた。ジュール、私が分かる? ねぇ、ジュール!」

「ア、アメリア、なのか? ど、どうして、ここに! ――うっ」

 ジュールにしてみれば、あまりにも唐突に感じられたのだろう。目の前に現れたアメリアの姿に驚いた彼は、反射的に体を起き上がらせようとする。しかし激痛が走り、上半身を起こした状態で表情を(ゆが)ませた。

「マ、マイヤー達と一緒に地上へ脱出したんじゃないのか? ど、どうしてアメリアがここにいるんだよ」

「マイヤー君達に助けてもらって一度地上には行ったよ。もちろんリーゼ姫も一緒に。だけど私はジュールが心配で、だから私だけ戻って来たの」

「バ、バカかお前は! ここがどれだけ危険な場所なのか分かってないのか!」

「だって、ジュールのこと放っとけないでしょ!」

 そう言い返したアメリアはジュールに抱きつく。どうして戻って来たのだと叱られるのは分かっていた。でもやっと会えた。会いたくて会いたくて仕方なかった。アメリアはまるで幼子が父に(すが)るよう彼にしがみ付く。これまでの耐え難い不安や迷いから逃れる様にして。そしてそんな彼女をジュールは優しく包み込んだ。彼にしてみても、やはりアメリアとの再会は嬉しかったのだ。

「ありがとう、アメリア。ずっと探してたんだ。無事で良かったよ」

 ジュールはアメリアの頭を撫でながら囁く。彼女から感じる温もりが堪らなく心地よい。まるで傷ついた体と心を癒してくれているみたいだ。こんな事ってあるのだろうか。ううん、やっぱりアメリアは自分にとって掛け替えの無い存在であり、誰よりも愛する者だからこそ、こんなにも力が湧いて来るんだろう。

 少しの間、二人はそのまま抱きしめ合う。幸福な時間。倒壊寸前の地下施設は絶望的な空間であったが、そこにいる二人の心は満ちていた。そして見つめ合った二人は自然な流れで唇を重ね合わせる。もう放さない。この愛を決して手放したりはしない。ジュールとアメリアは互いにそう心に強く決意する。ただその時、二人に向かい緊張感を持った声が掛けられた。


「取り込み中のところ悪いけど、そろそろ脱出しよう。ここはもう崩れるよ」

 そう告げたのはテスラだった。ただ彼はキスをしていたジュール達の姿に少しばかりの気恥ずかしさを覚えたのだろう。仄かに顔を赤らめて照れくさそうな表情を浮かべていた。だが状況は悪化の一途をたどっている。ゆっくりしている暇は少しも残されていない。表情を引き締め直したテスラはジュールの腕を取ると、力を入れて彼を起き上がらせた。

「体中が痛むだろうけど、今は脱出するのが先決だから我慢してよ、ジュール」

「だ、大丈夫さ、気にしなくていい。体の方は問題ないからよ。ただちょっと頭が痛いだけさ。それにしてもテスラ。よく助けに来てくれたな」

「君を助けるのに理由が必要かい? でもね、本音を言えば僕の方が助けてもらいたいんだよ」

「ん? どういう意味だよ」

「フフ、簡単な事だよ。僕にはこの地下施設からの脱出経路が分からない。でも地上から駆け付けたアメリアなら分かるはずでしょ。さぁ行こう。グズグズしてたら三人とも生き埋めになっちゃうよ」

 そう言ってテスラは微笑んで見せた。その笑顔はとてもあどけなく、穢れのないものに見える。訓練生時代から変わらないテスラを映し出した優しい笑顔だ。

 そんな笑顔を見たジュールとアメリアも笑ってみせる。三人でここを脱出するんだ。絶対に生き延びてみせるぞ。三人は(うなず)き合って意志を確かめる。そしてアメリアを先頭にして出口に向かい進み出した。――が次の瞬間、猛烈な振動が大地を揺らす。地震と呼ぶにはあまりにも大き過ぎる振動だ。立つ事すら困難な状況に三人は顔色を蒼白に変える。だが本当の意味で顔から血の気が引いたのは、そこに突如として出現した【黒き獅子】の姿を目の当たりにしたからであった。

「クソッたれが。こんな時に何処から現れやがった」

 ジュールは奥歯を強く噛みしめながら小さく吐き出す。この状況で黒き獅子と対峙するのは絶望的だ。まともに戦ったって勝てる見込みなんかない。どうする――。

 ジュールの額から大粒の汗がダラダラと流れ落ち始める。数々の戦場で培ってきた彼の勘が、これ以上ないほどの危険シグナルを発しているのだ。それに黒き獅子を前にしたアメリアは腰を抜かして尻餅を着いている。マズイぞ。自分一人だって勝ち目がない状況なのに、アメリアを守らなければいけない。くそっ、どうすればいい。

 ジュールは咄嗟に布都御魂(ふつのみたま)を強く握りしめる。この封神剣だけが頼りだ。よく見れば黒き獅子の方もかなりの傷を負っている様に見える。トウェイン将軍と戦った影響なのか、それとも銀の鷲から受けたダメージなのか。その理由は分からないが、でも布都御魂(ふつのみたま)とテスラの蛇之麁正(おろちのあらまさ)の一撃を叩き込めば突破口は開けるんじゃないのか。

 ジュールは僅かな望みに全てを懸ける。素早く居合の構えを取ったテスラの姿からして、彼も自分と同じ考えだと率直に思えたから。だがそんなジュールの考えを蔑ろにするよう、黒き獅子は低い声で言った。


「テスラよ。その娘を連れてこっちに参れ」

 コイツは何を言っているんだ? ジュールは黒き獅子が発した言葉の意味が飲み込めない。いや、どう見たってテスラは黒き獅子に向けて攻撃を仕掛けようと構えている。獣神は血迷っているのか。しかしジュールの戸惑いを余所に、黒き獅子は再度テスラに問い掛けた。

「テスラ。お前にもその娘が何者であるか、もう理解出来ているのだろう。その娘さえいれば、女神の【祝福】を授かれる。言い換えれば、お前の願いも叶えられるのだぞ」

「で、でも」

「時間がない。早くするのだ!」

 一体何の話をしているんだ。ジュールは更に戸惑うしかない。だがテスラの表情が困惑しきっているのが分かる。まさかテスラに限って、黒き獅子の言いなりになるなんて事はないよな――うっ。

 ジュールの右目の奥に猛烈な激痛が走る。これまでに何度も感じた痛みだ。でもどうしてこんな時に。あまりの痛さにジュールは右目を抑えつけて膝を着く。ただそんな彼の隣で無情にもテスラは居合の構えを解き、蛇之麁正(おろちのあらまさ)から手を離した。

「ま、まさか。おい、テスラ。やめろ、頼むからやめてくれ!」

 ジュールは激痛で体が縮こまる中、必死でテスラに切望する。しかし彼の想いは(むな)しく、テスラは腰を抜かしているアメリアの体を抱きかかえた。

「ちょっと待てよテスラ! アメリアをどうするつもりだ、バカなマネはよせ!」

「――ごめん、ジュール。僕にはこうするしかないんだよ」

「フザけるなっ! お前、自分が何をしているのか分かっているのか! お前が連れ去ろうとしているのはアメリアだぞ!」

「そんなの分かってるよ! でも仕方ないだろっ! 僕は決めたんだ。僕は願いを叶えるって!」

「待てっ!」

 ジュールは懸命にテスラに追い縋ろうとする。しかし激しい頭痛に(さいな)まれ足元が覚束ない。テスラはアメリアを抱えたまま黒き獅子に近づいて行く。ちくしょう、俺は何も出来ないのか。ジュールの体は怒りで震えるも、自らの意志にまったく反応しなかった。

 テスラは後ろを振り返らずに進む。ただその表情はとても辛そうなものであり、悔しさを噛み殺しているようにも見える。その証拠に彼は抱えたアメリアに向かい、とても小さな声で告げた。

「ごめんねアメリア。君をこんなバカげた争い事に巻き込むつもりはなかったんだ。でも君の存在はとても無視できるものじゃなくなってしまった。本当にごめん」

「や、やめて、テスラ君。わ、私を、ジュールのところに、か、返して」

 アメリアは息苦しそうに身悶えしながら反発する。だが彼女の体は思うように動かない。まるで見えない力で抑えつけられているかの様だ。するとどうした事か。彼女を抱えた状態のテスラの体がふわりと宙に浮いた。

「!?」

 ジュールの背中に只ならぬ危機感が走り抜ける。このままアメリアを行かせていい訳がない。絶対に守るんだ。しかし彼の目の前でアメリアとテスラは空中に浮き上がり、そのまま黒き獅子の背に乗ってしまった。全ては獣神の力なのか。でも行かせない! アメリアを連れてなんか絶対に行かせやしない!

 ジュールの右目が激しく輝き出す。それに比例して頭痛も更に激しくなったが、今のジュールにはそんなものに構っている暇はない。彼は布都御魂(ふつのみたま)を握る腕に力を込め、獣神に撃ち込むべく構えを取った。

「アメリアを返せ。さぁ、早く返せよ!」

「ほう、さすがは月読の胤裔(いんえい)。いや、その中でも底なしの体力と鉄壁な防御力を兼ね備える【狼の頭を持つ修羅(しゅら)】なればこそか。逞しい執念だな。しかし残念だ。いつぞや城の水堀で言った様に、お前とはゆっくりと話がしてみたかったが、今の余にその余裕は無いのでな」

「なに訳わかんねぇ事言ってんだよ! 早くアメリアを返せ!」

 布都御魂(ふつのみたま)から強いピンク色の光が放出される。命を奪う輝きだ。ただその光に目を細めつつ、黒き獅子は冷静な口調で言い放った。

「グラム博士の息子よ。可能であれば、お前とは友好的な関係を築きたかった。これは偽りではない。本心だ。しかし皮肉にもお前は月読の胤裔(いんえい)であり、その想い人は女神の巫裔(かんえい)であった。運命とは、これほどにも残酷なものなのかと憂いたくなるものよ」

「テメェ、いつまで御託を並べてんだ。いい加減にアメリアを返せよ!」

 ジュールは強く叫ぶと同時に獣神に向かって全力で駆け出す。封神剣から漏れ出した輝きもまた凄まじい。だがしかし、ジュールの体は獣神の遥か手前で停止した。


「――――ぐほっ」

 ジュールは大量の血反吐を吐き出す。何だ、これは? 俺はアメリアを救わなければいけないのに、どうして体が動かない。何がどうなっているんだ――。

 全身に伝わる激痛が邪魔をして体が動かない。でもこのままではアメリアは獣神に連れ去られてしまう。やっと出会えた、やっと抱きしめられたのに、再び俺から離れて行ってしまうのか。

 極度の焦燥感にジュールは陥る。一刻も早くアメリアを救いたい。しかしまったく体が動かない事に彼は混乱したのだ。ただそこで響いたアメリアの悲鳴を耳にして彼はハッとする。

「ジュール! いやぁぁぁー!」

「!」

 全身に伝わる激痛の正体。それは大地から突き出した極太の【土の(やり)】に胸を貫かれているからであり、それは確実にジュールの心臓を打ち砕いていた。

 直径30センチはあろう丸太の様な太さの槍が、地面から飛び出してジュールの胸を貫いているのである。体が動かないのは当然だ。いや、むしろ即死しなかった事の方が不思議なくらいか。自身の置かれた状況を理解したジュールの顔から血の気が引いて行く。するとそんな彼の失意を悲嘆するよう、黒き獅子は静かに言った。

「土の大槍である【野椎(のづち)】でお前の心臓を完全に破壊した。残念だがこれまでだ。いくらお前が月読の胤裔(いんえい)といえども、心臓がバラバラになっては再生は叶わん。諦めるがいい」

「ふ、ふざけるな……、ゴフッ。――こ、これくらいで、あ、……諦め……られるか……よ……」

「ジュール!」

 自分の名を呼ぶアメリアの声が遠くから聞こえる。意識はまだはっきりしているのに、視界が徐々にぼやけて来た。それに体が冷えて仕方ない。寒い、この寒さはなんだ。まるで雪に包まれたスラム街に一人ぼっち、取り残されたみたいじゃないか。頼む、お願いだ。アメリアを返してくれ。アメリアの温もりを感じさせてくれ。そうじゃないと、俺は――――!

 霞んだジュールの視界に浮かぶ老人の背中。それは紛れもない、グラム博士のものだ。そうだ博士、あなたなら俺の願いを聞いてくれるでしょう。お願いです博士。アメリアの温もりを感じさせてくれ。俺にアメリアを救う力を与えてくれ!

 ジュールの目から一筋の涙が零れ落ちる。彼の熱い想いが湧き出た現れなのかも知れない。だがしかし、ジュールの意識はそこで失われた。

「ジュール、ねぇジュール! 返事をしてよ、ねぇジュール!」

 アメリアは懸命に叫び続ける。ただそれは虚しく地下に響くだけであり、彼の耳に届く事はない。そしてそんな冷たくなったジュールをテスラは悔しそうに見つめている。こんな別れ方になるなんて思わなかった。でも仕方ないよね。君は僕にとって一番の親友だったけど、一番の【憎い存在】でもあったんだからさ。本当に悔しいよ。出来る事なら僕の一刀で君を討ちたかった――。

 地下深くで氷の様に冷たくなったジュール。彼の頬に流れた涙もまた、薄氷に姿を変えていた。そしてそんな変わり果てたジュールの姿を見て獣神は言う。それはとても歯痒いものであり、哀しいものだった。

「ジュール。鬼才グラム博士の息子にしてかつ、月読の胤裔(いんえい)となり生まれて来たことを悔やむがいい。全ては女神の司りし運命なのだ。これには誰も逆らえん。むしろこの様な最期を遂げたお前に同情するぞ。……さて、行くか」

 黒き獅子は傷ついた翼を大きく広げる。そのままテスラとアメリアを背に乗せて飛び去るつもりだ。ただそこでテスラが黒き獅子に向かい問い掛けた。

「どこに向かうおつもりですか、国王。まさか、今更ラザフォード総主教のところに行くはずはないですよね?」

「よく分かっているな、テスラ。その通りだ。今更あの方のところに出向きはせんよ」

「覚悟を決めたのですね」

「せっかく手に入れた女神の巫裔(かんえい)なのだ。このままバカ正直に送り届けるつもりはない。テスラ、お前はどうする。余につくか、それとも総主教につくか?」

「あの方は生きた化石ですよ。もう役目は終わっているのに、それに気付く事すら出来ない(みじ)めな老害です。それに比べてあなたは僕の望みを理解して下さっている。だから――。ううん、僕にはもう、あなたと行くしか残ってないんですよ」

「……そうか。ならばしっかりと掴まっておれ。行くぞ」

 そう告げた黒き獅子は翼を大きく羽ばたかせる。そして地上まで伸びる抉られた土のトンネルへと舞い上がった。


 あっという間に地上へ戻った黒き獅子は、そのまま空高く飛び上がる。紫の竜を無視してこの場から飛び去るつもりなのだ。ただ獣神はその目に映り込んだ存在に複雑な気持ちを抱く。それは虫の息でまったく動けない銀の鷲の(あわ)れな姿だった。

「ラヴォアジエ、ついにお前も終わりか。その身に獣神を宿しても尚、女神の運命に翻弄されるとは不憫なものだな……」

 まるで気の毒とでも思っているのか。黒き獅子は寂しそうな表情を浮かべている。ただそんな獣神に対し、テスラが心配そうに問い掛けた。

「ゆっくり飛んでいて良いんですか? 早くこの場を去らないと、総主教に捕まっちゃいますよ」

「心配はいらぬ。蒼き(ヒル)のお蔭であの方は相当に疲弊しているはずだ。それに銀の鷲の命を懸けた攻撃のダメージもかなりのはず。追いつかれはせんよ」

 黒き獅子はそう告げると空中で体勢を整える。そして背中にテスラとアメリアを乗せた獣神は、速度を上げて南方向に飛び立った。

「おのれ、血迷ったかアルベルトめ。私を出し抜こうなどと(たわ)けた事を考えおったか。だが好きにはさせんぞ、女神の巫裔(かんえい)は私のものだ。私はこれをずっと待っておったのだからな!」

 紫の竜は目を真っ赤に染め上げて怒りを露わにする。だがその眼光の先にあるのは瀕死の状態である銀の鷲だった。

 このまま放っておいても直に命尽きるだろう。それほどまでに銀の鷲の傷は深いものである。ただ紫の竜は容赦しない。殺せる時に確実に殺す。そう考えた紫の竜は、銀の鷲の息の根を止める為に力を溜めた。――が、そんな紫の竜を呼び止める声が発せられる。それは賽唐猊(さいとうげい)のコックピットから降りて来たトウェインが発したものだった。

「お待ち下さい主よ! こいつを葬る役目、私に任せては頂けませんか。どうかお願いします。こいつだけは、私の手で殺したいのです!」

「トウェイン、生きておったか。群衆と化した蒼き(ヒル)の中、人の身でありながらよく無事でおれたものだ。それだけ(せい)への執念が大きかったという事か。だが邪魔をするな。銀の鷲の私への反逆行為は決して許されるものではない。この私の手で八つ裂きにしなければ、私の気が収まらんのだ!」

「しかし主よ。恐縮ではございますが、あなた様の力は著しく低下されています。ここで無駄に力を使われては、黒き獅子を追えなくなりますぞ」

「この(たわ)けが! 誰に向かって申しておる。そんな事、お前に指摘されなくても分かっておるわ。 ――――ならばトウェイン。お前は確実に銀の鷲を殺せるのだな」

「もちろんです。この天乃尾刃張(あまのおはばり)を叩き込めば、銀の鷲は塵となり消滅するでしょう」

 トウェインは右手に掴んだ封神剣を振りかざして紫の竜に意気込んで見せる。いや、彼にしてみればラヴォアジエをみすみす自分以外の者に殺されたくないのだ。なぜなら彼にとって、ラヴォアジエは最も【憎むべき】対象なのだから。するとそんなトウェインの執念を感じ取ったか、紫の竜は彼の申し出を受け入れた。

「フン。ならば私は黒き獅子を追う。少し惜しい気もするが、銀の鷲にとどめを刺す役目はお前に譲ろう。だが絶対にしくじるなよ。虫の息とはいえ、それでもあやつは獣神なのだ。最後の瞬間まで詰めを怠るな。それと死の鏡の回収も忘れるなよ。死の鏡は銀の鷲の体の中にある。鷲が死ねばおのずと出現するだろう。それにリーゼ姫も近くにいるはずだ。鏡と一緒に姫も連れて私のところに来い。分かったな」

「承知いたしました。確実にお役目を遂行いたしますので、ご安心下さい」

 そう言ってトウェインは力強く頷いてみせる。念を押されるまでもない。明確な死が訪れるまで、徹底的に殺すまでだ。彼の銀の鷲を憎む感情は本物であり、決して揺らぐものではないのだろう。するとその感情を悟った紫の竜は口元を緩める。そして黒き獅子が飛び去った南の空を見上げると、巨大な翼を広げてその場を後にした。


 トウェインは銀の鷲を前にして天乃尾刃張(あまのおはばり)を構えた。すでにその刀身からは紫色の光が放出されている。切り裂いた対象を原子から破壊する悍ましき剣。今の銀の鷲がその一撃を浴びれば、万に一つも助かりはしないだろう。ただしトウェインに傲りはない。今度こそ殺す。彼の頭にはその考えしか残っていなかった。

 何度苦汁を強いられた事か。ううん、今回の戦いも危ういところだった。最強兵器である賽唐猊(さいとうげい)を稼働させても尚、一人で獣神を倒すには至らなかった。それどころか蒼き蛭が現れた時にはもうダメだと諦めたほどなのだ。でも最終的に勝つのは自分だった。だからこれまでの非礼は全て水に流そう。だから死ね、ラヴォアジエ。かつての上官であり【友】であった私が引導を渡してやる!

 決して口に出しはしない。しかしトウェインの覚悟は本物だ。冷酷なまでに冷たい眼差しが銀の鷲に注がれる。そしてラヴォアジエは為す術無く、その瞬間を待つのみだった。

 もう銀の鷲の体力は底をついている。火を操る神でありながら、もはやロウソクの炎ほどの火すら発生させられない。ただどうしてなのか、銀の鷲の赤い瞳からは悔しさや寂しさは感じられなかった。

 銀の鷲からすれば、今回の戦いは完全な敗北なはず。蒼き蛭を利用する形振(なりふ)り構わない戦いをしたにもかかわらずこの有様なのだ。本来であれば忸怩たる思いで間違いない。だが銀の鷲の赤い瞳はとても綺麗に澄み通っている。

 死を覚悟したからなのか。それとも意識がはっきりしていないのか。それは分からない。ただその宝石の様に輝く赤い瞳だけがやけに美しく、それを見たトウェインは僅かに怒りを感じ、封神剣を強く握っていた。

「さぁ、これで終わりだ。せめてもの情けとして、一思(ひとおも)いに殺してやる。もうその目を見るのはうんざりだからな。さらばだ、ラヴォアジエ!」

 そう叫んだトウェインは全力で駆け出す。そして大きく跳躍した彼は、浅い沼地でひれ伏して動けずにいる銀の鷲に強烈な一撃を叩き込んだ。

「ズバッ」

 拍子抜けするほど抵抗なく、トウェインが振るった天乃尾刃張(あまのおはばり)は銀の鷲の体を切り裂く。ただそこでトウェインは詰めを怠らず、続け様に三度も獣神の体を切り付けた。

「ズバッ、ズバッ、ズバッ!」

 紫色の粒子が周囲に舞い上がる。それは天乃尾刃張(あまのおはばり)から放出された光であり、またその光は銀の鷲の体を確実に消滅させ始めた。

 音も無く消えて行くラヴォアジエをトウェインはただ見つめる。こんなにもあっけない最後なのか。神とてまた、儚いものだな――。崩壊していくラヴォアジエの姿に少しの哀れさを感じたのか。トウェインは僅かに寂しそうな表情を浮かべた。

 恐ろしいくらい早く銀の鷲は死滅していく。もう残るは首から上だけだ。気が付けば銀の鷲の胴体があった場所に大きな鏡が落ちている。それは間違いなく死の鏡であり、銀の鷲の体が消滅した事で出現したのだろう。

 あれほど透き通っていた赤い瞳の輝きも今では見る影もない。恐らくあと一分もしないうちに銀の鷲は完全に消滅してしまうだろう。そう感じたトウェインは静かに目を閉じ背を向ける。かつての友だったラヴォアジエが完全に死ぬ瞬間を目にしたくなかったのだろうか。……だがその時だった。

「ボッ」

 炎が燃え上がる音が聞こえる。この期に及んで悪足掻(わるあが)きか。トウェインは素早く振り返り銀の鷲の首を睨み付ける。すると案の定、その首は炎に包まれていた。

「まだ死を躊躇(ためら)うかラヴォアジエ! いい加減にしろ、もうお前は死ぬんだ!」

 トウェインが握る天乃尾刃張(あまのおはばり)が強烈に輝く。そして彼は迷いなくその一撃を銀の鷲に叩き入れた。――すると、

「ズパーン!」

 燃え上がっていた銀の鷲の首が真っ二つに切り裂かれる。これで完全にラヴォアジエの命は尽きた。トウェインは刀を通して伝わる感触にそれを確信し疑わない。そしてそれは事実となり、銀の鷲の首は完全に消滅した。

 燃え上がった炎も残り火だけが点々とし、それも大地に吸い込まれるよう消えて行く。まるで銀の鷲の死と共に、炎までもが地獄に落ちていくかの様だ。

 やっと終わった。トウェインはホッと息を吐き出し肩から力を抜く。生温かい空気だけがやけに頬を撫でるが、それもあと僅かな時間で感じたくなるだろう。さらばだ、ラヴォアジエ。もうそれ以上は何も言うまい。

 辺りはこれまでとは違い、耳が痛むくらいの静寂に包まれている。獣神達の激しい戦闘が終結し、この星までもが安堵しているかの様だ。そしてそこに残されたのは、不気味な蛭の彫刻が施された死の鏡だけだった。



「――トクン、トクン」

 (かす)かに聞こえる心臓の鼓動。手や足の先にも(わず)かながら温かい血液の流れが感じ取れる。俺はまだ死んでいないのか?

 ジュールは朧気(おぼろげ)な意識の中で、体の内側から感じる温かさに戸惑いを見せるしかない。だって土の槍に心臓を撃ち抜かれたのだ。生きていられるはずがないだろ。でも体が温かいのは間違いないし、この温もりはとても優しいものに感じられる。とても心地いい、不思議な温もりだ。

 まだ体は動かない。そのせいもあってかジュールは優しく体を包む温もりに身を委ねた。ただそこで彼はふと気配に気づく。それは男性のものであり、自分のすぐ前に立っているのだと直感として理解出来た。

 誰だ? いつからそこにいる。しかしまだ体を動かすどころか目も開けられない。そこにいるのは分かっているが、彼はただ状況を傍観する以外に何も出来なかった。

 ジュールは徐々に焦りを感じ始める。俺はまだ生きているんだ。だったら早くアメリアを助けに行かなければならない。それなのに体の自由がまったく利かないのだ。彼が苛立ちを覚えるのは真っ当だろう。ただそこでジュールはハッとする。まだ目は開けられていないのに、なぜか彼は目の前に立つ男が一筋の涙を流したのに気付いたのだ。

「……どうして泣くんです。悲しい事でもあったのですか?」

 なぜか彼は丁寧な口調で問い掛けた。いや、口からその言葉が本当に発せられたかさえ不確かである。でもジュールは男の流した涙に心を惹かれ、そう質問せずにはいられなかった。

 逞しい肉体を持った年上の男性。イメージとしてはファラデー小隊長に似ているかも知れない。でも歳はもっと上かな。ただ頼り甲斐という感じでは、ファラデーやドルトンよりも更に上の様な気がする。とても力強くて安心感がある頼もしさ。一体何者なんだ、この男性は。

 ジュールは謎の男性の正体を探ろうと記憶を辿る。どこかで会った過去があるのは間違いない。それもつい最近のはずだ。男性から感じる優しさを俺は覚えているのだから。でもまったく思い出せない。とても大切な存在であるのは間違いないのに、どうして思い出せないんだ。そう思い悩むジュールは戸惑いを露わにする。ただそんな彼に向かい、意外にも男が静かに語り掛けた。

「君の宿命は試練の堪えない過酷な道を歩まなければならないもの。そしてその宿命は今後更に君に対して獰猛な牙を剥き出しにするだろう。でも、それでも君は彼女を救いたいんだろ? ならば私の炎をその身に受け入れてみせろ。【狼の頭を持つ修羅(しゅら)】のタフネスさは、ある意味【燦貴神(さんきしん)】すら凌ぐものだ。不完全な覚醒を招く事になってしまうが、今は【月読の奏】を待つ時間が無い。さぁ、その身を紅蓮の炎で焼き尽くしてみろ!」

「ちょ、ちょっと待ってくれよ。何を言っているのか全然分かんねぇよ。もっとちゃんと説明してくれよ!」

 ジュールは男に対してきつく詰問する。男の発言がさっぱり飲み込めないのだから当然だろう。しかし事態は急を告げる。突然ジュールの体が燃え上がったのだ。

「熱っ! な、なんだこれは!」

「恐れる必要はない。その炎は【火の神】である銀の鷲の力によるものだ。そしてその力はこれからお前のものになる。女神の巫裔(かんえい)であるアメリアを救う為の大切な力だ」

「これが、銀の鷲の力――」

 ジュールは不思議に思う。熱くは感じるけど、でも我慢できない熱さじゃない。いや、本来これだけ激しい炎につつまれていたら、あっという間に焼け死ぬはずだ。でもどうしてだろう。むしろ力が湧き上がって来る。とても強大で無限に感じる力が。

「その力には時間制限がある。言わばお前自身が【月読の奏】を感じるまでの(つな)ぎでしかない。早くアメリアを救い出せ。黒き獅子や紫の竜に遅れを取るな」

「わ、分かったよ。でもあんた、どうして俺にこんな力を与えてくれるんだ? あんた、一体何者だよ…………ハッ!」

 ジュールはそこまで言って思い出す。北の滝から首都に向かう為に、銀の鷲の背中に乗っていた時の感触を。

 熱く魂を揺さぶられつつも、柔和に癒してくれる温もり。そうだ、この感触は銀の鷲から伝わって来た感触とまったく同じなんだ。と言う事は、この男性が銀の鷲なのか。確か名前は――、ぐおぉぉぉぉ!

 ジュールを包み込んだ炎が急激に燃え上がる。凄まじい熱量だ。気が付けば胸に刺さっていた土の槍の姿がない。完全に蒸発してしまったのだろう。またそれにも増して体中から力が溢れ出してくる。爆発寸前と言ったところか。もう我慢できない。早くこの力を何かに叩きつけなければ狂ってしまいそうだ。

 ジュールは腰を落として力を溜め込む。地上に向けて一気に飛び上がるつもりなのだ。理屈なんか分かるわけがない。でも今の自分なら空だって自由に飛べる気がするんだ。さぁ、アメリアを助けに行くぞ! ただそんな気を吐くジュールに向かい、男性は寂しそうに微笑みながら告げたのだった。

「許してほしい。私にはこんな力を授ける事しか君にしてあげられなかった。私は何を誤ったのだろうか。本当に君には済まないと思って止まないよ」

「あ、謝る必要なんてないだろ。お、俺はあんたに感謝しているぜ。こんな凄ぇ力をくれたんだからさ」

 もう力を抑え切れない。ジュールは力を解放するため足に力を込める。でもその時、彼は初めて男性の顔をはっきり見た。

「あ、あんた、あの夢の中の人だよな。お、俺が生まれた時の……。あ、あんた、ラヴォアジエって人なんだろ。もしかして、あんた俺の――――父さん?」

「君から父と呼ばれる存在はこの世に一人しかいない。それはグラム博士だ。あの人は君にとって、本当に良き父だったからね。ただ、これだけは覚えておいてほしい。私もマリーも、君が生まれて来てくれて、本当に嬉しかったよ」

「じゃぁ、やっぱりあんたは俺の本当の――」

「さぁ行け、ジュール。今の君なら誰にも負けない。だって護貴神(ごきしん)である【狼の頭を持つ修羅(しゅら)】の力と、燦貴神(さんきしん)である【銀の鷲】の二柱の力をその身に宿しているんだから。ただその力は怒りが強過ぎるのが手に負えぬところ。頼むからどんなに苦しくても、自我だけは失うなよ」

 ラヴォアジエはそう言うと優しく微笑む。それは紛れもない、息子を送り出す親の顔だった。ただその姿は徐々に薄れ消えて行く。最後の力をジュールに託した事で、魂が消滅しているのだ。

 ジュールはそんな消えかかったラヴォアジエに精一杯手を伸ばす。一瞬でもいい、最後に指先だけでも触れてみたい。彼は必死にそう願った。だが彼に託された力はそれを許さない。臨界点に達した力が彼の意識を凌駕して爆発する。ジュールは自らの意志に反して地面を強く踏み込むと、一瞬にして地上まで飛び上がった。

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