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月読の奏  作者: 南爪縮也
第一章 第五幕 寒乱(さみだれ)の修羅
101/109

#100 佐保姫の泣血(劫火の覚醒1)

 上空から降り落ちて来る数十、いや数百もの(ヒル)が神々を襲う。だがそれら全ても死の鏡より吐き出された存在、すなわち正真正銘の【獣神】なのである。当然ながらそれらの(ヒル)が持つ力は、他の獣神の命さえ吸い取る(おぞ)ましいものだった。

 紫の竜、それに黒き獅子は焦燥感を表に出して(あお)(ヒル)から身を守る。特に紫の竜の当惑ぶりは著しい。恐らく絶対の自信を持って放った大綿津海(おおわたつみ)の攻撃が、まるで効果無かった為に怯んでいるのだろう。そして黒き獅子も同様に狼狽えている。大綿津海(おおわたつみ)の威力は絶大だ。しかしその超絶な力を持ってしても(あお)(ヒル)には歯が立たなかった。黒き獅子はそう感じ、対応に苦慮するしかなかった。

 だがいくら尻込みしているとはいえ、指を咥えているだけでは本当に命が吸い取られてしまう。事実として(あお)(ヒル)と接触する度に(いや)(おう)にも体力が奪われていくのだ。このままでは本当に死んでしまい兼ねない。

 紫の竜も黒き獅子も獣神なのだ。ただ黙っているわけもなく、二体の獣神はそれぞれに申し合わせをして反撃に撃って出た。

「獅子よ、この害虫どもを焼き払うのだ! 私の力でお膳立てをしてやる。それを利用して(ヒル)を八つ裂きにしろ!」

「ならば一匹たりとも撃ち漏らしたくはない。出し惜しみは困りますぞ!」

「戯け、誰に物を申しておる。お前こそ手を抜くでないぞ!」

 紫の竜が薄緑色の目を光らせる。そして竜は勢いよく尻尾を振り回し始めた。するとその勢いに乗じて突風が吹き荒れる。その強風は急速に激しさを増し、あっという間に巨大な竜巻となった。

 竜巻の猛烈な突風によって(あお)(ヒル)達が舞い上がる。見た目の姿通り、(ヒル)達は手も足も出ない状態だ。だがそれでも(ヒル)の生命力は高く、ダメージを負った存在は無いらしい。人間であれば瞬時に五体がバラバラになるほどの強烈な爆風が吹き荒れる中、(ヒル)達は竜と獅子を襲う隙を窺っていた。

「チッ、害虫のクセにしぶとい奴らだ。だが【風木津別之忍尾(かざもつわけのおしお)】が生み出す竜巻は布石の一つに過ぎん。私は燦貴神(さんきしん)の【(おさ)】である紫の竜。害虫の分際でこの私に楯突こうなど笑わせるな!」

 紫の竜が高らかに叫ぶ。すると再び竜の目がキラリと輝き、今度は大量の水しぶきが空中に舞った。

「ブシュァー!」

 水しぶきは竜巻の突風に乗って猛烈に加速する。たかが水しぶきであるのに、その威力はマシンガンを有に超えたものらしい。その証拠に水しぶきは容赦なく(ヒル)達の体を撃ち抜いた。

 水しぶきのマシンガンを浴びる(ヒル)は空中で跳ねる事しか出来ない。いや、それどころか数えきれない水滴の弾丸に弾き飛ばされ、体をボロボロにさせた。だがそんな(ヒル)を紫の竜は更に追い詰める。獣神は竜巻の中に(みずか)ら飛び込むと、そこで凄まじい咆哮を上げた。

「グオォォォ!」

 竜巻の中から紫の竜の瞳が輝く。すると次の瞬間、突如として竜巻が【渦潮】に変化した。

「ゴゴゴゴゴッ!」

 紫の竜は空気中の水分をこれでもかと言うくらい集結させて、空に立つ巨大な渦潮を形成させたのだ。そして時間にしてコンマ数秒といったところか。その渦潮は瞬く間に膨れ上がる。そんな破裂寸前まで膨れ上がった渦潮の中で紫の竜は大きく息を吸うと、怒りを噴き出すかの様にして唸った。

「虫けらどもが、粉々に吹き飛ぶが良い! 速度重視の【速秋津被湖(はやあきつひこ)】は貴様らの動きを規制させる為の力。そしてこの【志那都飛虚(しなつひこ)】こそが、貴様らを破壊するとっておきの力よ!」

 紫の竜が吠え叫ぶ。するとその瞬間、膨張した渦潮が一気に破裂し、水流の迫撃砲が全周囲に放たれた。

「ズドドドドドッ!」

 速秋津被湖(はやあきつひこ)が水しぶきのマシンガンであるならば、志那都飛虚(しなつひこ)は濁流の大砲と呼ぶべき強大な力だ。これにはさすがの(ヒル)も一溜りもない。水の大砲が直撃するたびに、その体はバラバラに引き裂かれていく。

 空中に飛散する(ヒル)の体。もうその体は当初の大きさの千分の一もないだろう。やはり紫の竜の力は次元を超越した凄まじいものなのだ。こうなってしまってはもう、(ヒル)は朽ち果てるだけである。だがしかし、紫の竜はまだ攻撃の手を緩めない。紫の竜は薄緑色の目を一際(ひときわ)光らせると、黒き獅子に向かい合図を送った。

「今だ獅子よ! 大気中の水分は溢れているぞ!」

「言われるまでもない! ここまで環境が整ったのだ。全ての(ヒル)を消滅させましょう!」

 今度は黒き獅子が空に向かって吠える。すでに上空は雷雲で覆われ真っ暗な状態だ。そして黒き獅子は金色に輝く両目でその雷雲を睨み付けると、腹の底から絞り出す声で【八本の雷】の名を呼んだ。

「身命を賭して契約し【八紅彩雷(やくさいかづち)】よ。今こそ余の力となりて怨敵を打ち払え! お前達の力で(ヒル)の存在を分子から消滅させるのだ!」

「ビギャビギャァーン!」

 黒き獅子が叫んだと同時に巨大な雷が八本落ちる。その衝撃は凄まじく、大地が揺れたのはもちろん、大気までもが振動して周囲に衝動を波及させた。だが恐るべきはその衝撃ではない。なんと雷雲から落ちた八本の雷はそのまま雲と大地を繋ぐ姿で留まっているのである。

 まるで天を支える巨大な光の柱が立っているかの様だ。それもその光の柱は高エネルギーを集約させた雷そのものなのである。常識ではまったく考えられない現象と言えよう。でも事実としてそこに雷の柱は存在している。そしてそれらは自らの意志で(ヒル)を始末するかの如く、粉々になっている獣神に襲い掛かった。

 大雷、火雷、黒雷、折雷、若雷、土雷、鳴雷、伏雷。黒き獅子に召喚されし八本の雷が大気を焼き尽くす。そしてそれらの雷が放つ超閃熱は、確実に(ヒル)の存在を消滅させ始めた。


「さすがだな。弱っていてもやはり獣神は獣神か、(あなど)れんな。それにあんな特殊な雷見たことないぞ。一撃の威力としては武甕雷(たけみかづち)に劣るも、あんなに長時間雷撃に晒されたら、どんな存在だって無事じゃいられない」

 賽唐猊(さいとうげい)のコックピットからモニター越しに雷撃を見るトウェインが(つぶや)く。その額から流れる汗の量からして、黒き獅子の攻撃がいかに危険なものであるか、彼は本能で感じ取っているのだろう。それに八紅彩雷(やくさいかづち)の雷達は、(ヒル)だけでなく賽唐猊(さいとうげい)も攻撃対象としているのだ。すでに幾つもの雷撃が黄金の機体を直撃している。その衝撃を直接感じる度に、トウェインは肝から震える怖さを覚えていた。

 賽唐猊(さいとうげい)に雷撃は効かない。でもそれが100%かと言われれば、正直なところ不安はある。人が作り出す物に完璧はないし、それに相手は獣神なのだ。予期せぬイレギュラーが発生し、窮地に陥る可能性は十分にあるはず。そう思うからこそ、彼は怖さを感じて仕方なかった。

 またトウェインが焦燥感に駆られる理由はもう一つある。それはこの凄まじい雷撃を持ってしても、死の神である蒼き(ヒル)は完全に倒せないんじゃないのか。彼はそう考えていたのだ。そしてその考えは徐々に正しいものだと証明されていく。なぜなら(ヒル)達は粉々になり、その一部が完全に消滅しながらも反撃を仕掛けて来たのである。

 数センチから数十センチ程度の大きさに分断された蒼き(ヒル)。しかしそれらは分断された数だけ奇体数を増やし、数万の大軍として牙を剥いたのだ。

 大気を灼熱のエネルギーで焼き尽くす八本の雷を掻い潜りだした蒼き(ヒル)が黒き獅子と紫の竜に襲い掛かる。また(ヒル)達はトウェインの乗る賽唐猊(さいとうげい)にまで襲い掛かった。この領域にいる生命体全てを攻撃対象としているのだろう。

 体が小さくなった分、命を奪い獲る力はかなり減少している。でも(ヒル)の生命力を吸い取る力は侮れない。黒き獅子と紫の竜は懸命に(ヒル)を追い払い、トウェインは矛戟(ボウゲキ)である方天画戟(ほうてんがげき)を振り回して防御を続けた。

 方天画戟(ほうてんがげき)の矛先に取り付けられた十拳封神剣である【天乃尾刃張(あまのおはばり)】は、蒼き(ヒル)に対しても効果を発揮する。そのお蔭でトウェインはなんとか身を守れていた。しかし獣神と違い彼は人間である。どれだけ(ヒル)の体が小さくなり力が弱まろうとも、生身で(ヒル)の体に触れでもしたら万事休すだ。それに賽唐猊(さいとうげい)はロボットなのである。機体を動かすエネルギーが底をつけば、今は防げている雷撃だって脅威になってしまうだろう。

「ここは一旦引き下がるか。黒き獅子を倒すチャンスではあるが、このままじゃ私の身が危ないぞ」

 トウェインは悔しさを隠しきれない。雷撃を打ち鳴らすも、数万の(ヒル)に体を覆われた黒き獅子は明らかに疲弊しているのだ。今なら方天画戟(ほうてんがげき)で一撃打ち込めば、かなりの確率で獣神を殺せるはずなのに。彼はそう思うからこそ、口惜しくて仕方なかったのだ。だがこのままでは自分も危ない。引き際を見誤れば取り返しのつかない事になってしまう。忸怩(じくじ)たるもそう判断した彼は、賽唐猊(さいとうげい)を反転させ離脱の体勢を取った。――だがその時、暗雲を突き破って一本の巨大な炎の矢が降り落ちる。

「ゴゴゴーッ、ドガン!」

 炎の矢は紫の竜に直撃する。ただ寸前ところで紫の竜は迦具土(かぐつち)のバリアでそれを受け流し、ダメージを最小限に喰い止めた。ただ炎の矢の勢いは止まらない。炎の矢はそのまま地面に直撃すると、その周囲一帯を一瞬で蒸発させる。とんでもない熱量だ。それにこの炎の矢は見た事あるぞ。姿が見えないと思ったら、雷雲よりも高く上昇して隠れていたのか。くそっ、完全に隙を突かれた。奴は、【銀の鷲】はこの状況を初めから狙っていたんだ!

「ゴゴゴーッ、ゴゴーッ、ゴゴゴゴゴーッ!」

 上空の雷雲を突き破り、次々と炎の矢が降り落ちる。そう、これは【八十禍津火(やそまがつび)】と呼ばれる銀の鷲の最大最凶の力だ。銀の鷲は死の神である蒼き(ヒル)を利用して、黒き獅子と紫の竜に対抗する最後の攻撃に打って出たのである。


 猛烈な炎の矢が雨の様に降り落ちて来る。そしてそれらは確実に紫の竜と黒き獅子を襲った。

 二体の獣神は防戦一方だ。ただでさえ(まと)わりつく蒼き(ヒル)に苦慮しているのに、そこを強烈な炎の矢で狙い撃ちされているのである。いくら迦具土(かぐつち)のバリアで防御したとしても、完全に衝撃を受け流せるものではない。

 大量に降り注ぐ炎の矢の影響で雷雲が掻き消されていく。灼熱が大気中の水分を強引に打消したのだ。すると黒き獅子が召喚せし八紅彩雷(やくさいかづち)の雷達も、徐々にその姿を消失させ始める。上空に高密度の雷雲がなければ、八本の雷は姿を形成させ続けられないのだろう。

 炎の矢は止まらない。黒き獅子も紫の竜も完全にジリ貧だ。いや、ダメージを受けているのはそれらの獣神だけではない。蒼き(ヒル)もまた、炎の矢によって焼け落ち、それにトウェインが操る賽唐猊(さいとうげい)にも炎の矢は直撃していた。

 衝撃の強さにトウェインは歯を喰いしばって耐えるしかない。賽唐猊(さいとうげい)は雷撃同様に炎の熱に対する高い防御能力を有している。だが超高速で飛んで来る矢の衝撃だけはさすがに無効化出来るはずもなく、炎の矢が機体に直撃するたびに、賽唐猊(さいとうげい)は大きく吹き飛ばされていた。

「ま、まずいぞ! さすがにこの衝撃を受け続けるのは危険だ。どうにか退避を――バンバンッ!」

 コクピットの一部が突然破裂する。炎の矢の衝撃がついに賽唐猊(さいとうげい)を破壊し始めたのだ。これにはトウェインも顔色を悪くするしかない。モニターに映し出された警告が危険度を視覚的に認識させる。このままでは賽唐猊(さいとうげい)はもたないぞ。早くこの場から退避しなければ。でも超高速で襲い来る炎の矢を(かわ)すのは物理的に不可能だ。どうすればいい……。操縦桿を握る手の平は汗でびしょびしょだ。計り知れない緊張感がトウェインを襲う。ただその時、彼は廃工場の中央付近に人影を見つけてハッとした。

「もうダメです! 姫、もう諦めましょう!」

「頑張って! 足を止めたら許しませんよ!」

 炎の矢が揺り注ぐ中、大地を懸命に駆けていたのは【リーゼ姫】と【ブロイ】だった。地下から脱出した二人は、更なる危機から逃れようと必死になって走っているのだ。しかし上空で発生した獣神達の激しい戦いに巻き込まれ、ついには炎の矢まで降って来る始末。普通の人間である二人にとって、この状況は絶望以外のなにものでもないだろう。ううん、むしろこの状況でまだ生きている方が奇跡だと言えようか。でももうブロイは堪えられず、姫に向かって弱音を吐き出すしかなかった。

「次の瞬間に炎の矢が直撃するかも知れないんですよ! いや、ちょっと離れた所に落ちただけで僕らは即蒸発だ。こんな状況でこれ以上逃げたって無意味ですよ!」

「でもまだ私達は生きています! だから諦めずに走って下さい!」

「ダメだ。ぼ、僕にはもう走れない」

「弱音を吐くなっ! あなた男でしょ! 意地を見せて!」

 リーゼ姫は(なげ)くブロイを強く励ます。まだ死ねない。ここは自分の死に場所なんかじゃない。姫は直感としてそう思うからこそ、過酷な状況の中で前に進もうとしていた。

 リーゼ姫は感じていたのだ。自分は何かに守られているんじゃないのかと。それが誰になのかは分からない。でも津波の様に押し寄せた濁流や、全てを倒壊させる程の地震から生き残れたのは偶然や奇跡なんかじゃないはず。それに今だって、炎の矢は私達を避けて降り落ちているかの様にさえ見える。どうしてこんな事になっているのか。その答えはすぐには見つからないだろう。だったら今は全力で逃げるしかないんじゃないのか。姫はそう覚悟を決めて、心折れる寸前のブロイと一緒に駆けたのだ。

 どこまで走れば安全な場所に辿り着くのか。そんなのはまったく見当もつかない。ただそこで二人は微かな希望を目の当たりにする。二人の目に映った物。それは並列に停められた二台の車だった。

 リーゼ姫はその内の一台が、自分達の乗せられて来た車だと察する。でももう一台は誰の車なのだろうか。ただそんな不安を余所に、車を目にしたブロイはそれまでが嘘だった様にして素早く駆ける。そして彼は片方の車に飛び乗ると、腕から引き出したケーブルをインパネにある端子に繋いだ。

「クソ、ダメだ。こいつは壊れてる。もう一台に賭けるしかない」

 彼は配線を通して電気的に車の状態を見極めたのだ。動く乗りものさえあれば生き残る確率は飛躍的に高まる。ブロイは心からそう願い、もう一台を調べるため車から降りた。リーゼ姫もそんな彼に付き従う。だがその時だった。突如として大きな物体が空から落ちて来る。そしてそれはこれから調べようとしていた車のルーフを押し潰した。

「バギャンッ」

 調べるまでもない。落下物の衝撃で車の天井とボンネットはペシャンコになってしまった。素人が見ても、もうこの車が動かないのは分かる。顔色を蒼白に変えるブロイとリーゼ姫。尋常でない恐怖が二人を蝕んでいく。なぜならそこに落ちて来たのは、1メート程の大きさをした(ヒル)だったのだ。


 粉砕したフロントガラスの破片がかすめたのだろうか。リーゼ姫の右手の甲から血が滲み出る。しかしリーゼ姫が直立したまま動けないでいるのはそれが理由ではない。目の前の(ヒル)という存在に耐え難い恐怖を感じているからだ。かつて親族やボーア将軍など、大切な人の命を奪い去った憎き存在。そんなヒルに姫は怯む事しか出来なかったのである。

 どうしてこの化け物は私の前に現れるのだろう。そして私の大切な人を奪って行く。今度は誰を奪うと言うの? 私にはもう、誰もいないのに……。

 リーゼ姫の目から涙が零れる。あれほど強がり、生きる為に必死で頑張っていた姫の姿はどこにもない。逃れられぬ絶望に心が砕けてしまったのか。だがそんな姫の体をブロイが抱きかかえて走り出す。最悪の事態が訪れた状況で、今度は彼の方が年長者としての責任を果たそうと覚悟を決めたのだ。

「まだ諦めるのは早いですよ姫様。泣くのは僕が死んでからにして下さい!」

 ブロイは懸命に走る。自分の命に代えても姫の命だけは守らなければいけないはずだ。だって姫は初めて会ったこんなオヤジを必死で励ましてくれたのだから。彼はそう思いながら全力で走った。

 本来であれば一般市民が王族と会話をする機会なんてほとんど無いに等しい。まして相手はあのリーゼ姫だ。行きずりとはいえ、可憐で美しくて気立てが良いお姫様が、自分と行動を共にしているなんて信じられない。でもこれは現実なのだ。それも絶対絶命のピンチを迎えている。姫を救えるかどうかなんて分からない。でもここで諦めたら男として生まれて来た意味がないぞ!

 ブロイの体に力が(みなぎ)る。中年と言えども彼は男なのだ。いや、自分が今まで生きて来た意味は、この窮地を乗り越えて姫を守る為だったんじゃないのか。彼は自分にそう言い聞かせながら大地を蹴った。

 ガルヴァーニ程じゃないにしても、彼も体の一部を改造した一種のサイボーグである。それは乗り物を操縦するのを第一の目的としていたわけだが、小柄な姫一人を担いで走る事くらいは造作も無い。それにここに来て自分でも信じられない程の力が湧いて来るのを感じる。これなら姫を救えるかもしれない。ブロイの瞳が高まった活力で輝く。――がしかし、そんな彼を取り囲む様にして、上空から更に数匹の(ヒル)がボトボトと落ちて来た。

「なんてこった! でも諦められるか!」

 ブロイはフットワークを駆使して(ヒル)(かわ)す。ほんの(わず)かでも触れれば終わりだ。緊迫した状況に足が震え兼ねない。ただそんな彼の後方で、何かを切り裂く凄まじい衝撃音が鳴り響いた。

「ズババッ」

 賽唐猊さいとうげいに乗るトウェインが方天画戟(ほうてんがげき)(ヒル)を撫で斬りにしたのだ。姫の存在に気付いた彼が、その窮地を救いに来たのである。

 当初はリーゼ姫が女神の巫裔(かんえい)であると考えられていが、その可能性はアメリアの存在が(おおやけ)となった事で覆る。だがそれでもリーゼ姫は救うべき対象のはずだ。かつて蒼き(ヒル)を封印させたのは紛れもない姫の力なのだから。それに獣神達が超絶の力で相対するこの戦況の中で姫が生きて居られたのは他でもない。獣神達が姫に危害を加えないよう配慮していたからなのである。そんなリーゼ姫は自分にとっても十分に利用価値はあるはずだ。トウェインはそう考えたからこそ、危険を顧みずに姫を救いに駆け付けたのだ。

 トウェインの猛攻は止まらない。炎の矢の衝撃で機体の一部が損傷しているにも拘らず、賽唐猊さいとうげいは蒼き(ヒル)達を次々と切り裂いていった。

 やはり方天画戟(ほうてんがげき)の先端に取り付けられた天乃尾刃張(あまのおはばり)は、獣神に対して絶大な効果を発揮するのだろう。通常であれば銃弾も剣もすり抜けてしまう(ヒル)を確実に切り裂き、原子分解させているのである。これならばリーゼ姫一人くらいを救うなど容易い話しだ。

 トウェインは余裕を感じながら(ヒル)を蹴散らしていく。黒き獅子や銀の鷲を相手にするよりよっぽど楽な仕事だ。彼はそう思ったのだろう。触れただけで命を奪い去る死の神であるが、逆に触れさえしなければ問題ないのであるのだから。だが彼はふと頭上に何かの気配を感じて身を強張らせる。そして彼は反射的に上を向くと、突然目の前に出現した存在に肝を潰した。

 トウェインの頭のすぐ上。そう、賽唐猊さいとうげいのコックピットの中に、20センチほどの大きさをした(ヒル)がいたのだ。

「バ、バカな。どこから侵入して来たと言うのだ。ハッチを開かない限り、ここは密室のはずだぞ――、ゲッ」

 トウェインは更に度肝を抜かれる。頭上だけではない。背後や足元にも(ヒル)が這っているのに気付いたのだ。少なく見積もっても5~6匹はいるだろう。でもどうして(ヒル)がここに? そう疑問を抱くも、彼はその侵入経路を目の当たりにする事となった。

 コックピットに搭載された電子パネルから更にもう一匹のヒルがひょっこりと顔を出す。そこに穴が開いていたわけではない。なんとヒル賽唐猊さいとうげいの胴体をすり抜けて、コックピットに侵入して来たのである。

「ふ、ふざけるな。こんなの何かの間違いだ!」

 トウェインは取り乱した。こんなはずじゃない。こんなところで死にたくない。彼は取り出した小銃でヒルを撃ち始める。しかし虚しくも銃弾はヒルの体をすり抜け、コックピット内を跳弾した。

「ズドドドンッ」

 コントロールを失った賽唐猊さいとうげいが地響きを立てて倒れ落ちる。こうなっては最新兵器のロボットもただの金属の塊だ。やはり獣神を敵に回すなど、人間には無理があったのだろう。そしてそんな崩れ落ちるロボットの姿を見たブロイもまた、諦めの境地に達していた。

 大きさは10センチにも満たないものばかりだが、彼とリーゼ姫は数えきれないヒルの群れに囲まれていたのである。トウェインの助っ人により窮地から脱出できると希望を持った矢先にこれだ。体より先に心が折れるのは仕方がなかった。

 もうダメだ。どこにも逃げる場所が無い。ブロイはリーゼ姫を抱きかかえたまま絶望感に飲み込まれる。やっぱり自分みたいなオヤジが姫を守るなんて出過ぎたマネだったんだ。ちくしょう。まさかこんな終わり方をするなんて思わなかったなぁ。

 ブロイの体からガックリと力が抜ける。彼は完全に敗北を悟ってしまった。そしてそんな彼を嘲笑う様にしてヒルは増殖していく。それどころか群れを成したヒル達は再結合を始め、みるみると巨大な体に変化して行った。

 数メートルの大きさになったヒルがブロイとリーゼ姫を見下ろす。その表情はまるで、どちらの命を先に頂こうかと品定めをしているかの様だ。ただその時である。それまで尻込みしていたリーゼ姫がヒルの前に進み出た。

「さぁ、私の命を奪いなさい! さぁ、私を殺しなさい!」

「な、何を言っているんです姫。危険ですから下がって!」

「もういいんです、邪魔しないで! ――さぁ、何をグズグスしているんです。早く私を殺しなさい!」

 リーゼ姫はブロイの制止を振り抜き、更に前に一歩踏み出す。するとそんな姫に触発されたのか。巨大なヒルはリーゼ姫に向かい、その獰猛な牙を剥いた。

 ご希望とあらば、その命遠慮なく貰い受けよう。まるでヒルはそう言っている様だった。そしてヒルは躊躇する事なく姫に襲い掛かる。そんなヒルに対して姫はただ、祈る姿勢で目を閉じた。

「リーゼ姫!」

 ブロイが絶叫する。だが悔しくも彼の目の前で、リーゼ姫はヒルに飲み込まれてしまった。


 なんて事だ。助かる見込みはもうゼロだけど、姫を先に逝かせるなんて僕は男として最低だ。目の前の惨劇にブロイは酷く憔悴する。でも次は僕の番だ。もしもあの世があるならば、そこで姫に頭を下げよう。

 ブロイはそう思いながら顔を上げる。せめて姫を残酷に喰い殺した憎きヒル(にら)み付けようとしたのだ。ただそこで彼は異変に気付く。なんと姫を喰ったはずのヒルが息苦しそうに(もだ)え始めたのだ。

「ギギギギギッ」

 耳を塞ぎたくなる奇声が響く。これは間違いなくヒルが発している悲鳴だ。でもどうしてヒルは苦しみ始めたのか。要領を掴めないブロイは混乱するばかりだ。だがそこで状況は予想だにしない方向に変化する。なんとヒルの体がドロドロに溶け始めたのだ。

 熱を発しているのか。溶けだしたヒルの体からは真っ白い湯気が立ち上っている。まるで蒸発を始めたみたいだ。その証拠にヒルの体はみるみると小さくなっていく。そして気が付けば、ヒルは完全に消滅していた。

 一体何が起きたと言うのか。でも現実にヒルはその姿を消した。いや、目の前にいたヒルだけではない。【全て】のヒルが一瞬で消え去ったのだ。そして残されたのは、喰われたはずのリーゼ姫だけであった。

「ひ、姫様! ご無事ですか!」

 倒れそうになる姫の体をブロイが素早く抱きかかえる。何が起きたのかは分からない。でも姫はまだ生きているぞ。抱きかかえた腕から伝わって来る温もりを感じながらブロイはホッと安堵する。するとそんな彼の安心感が伝わったのか、姫は少しだけ微笑みながら言ったのだった。

「ど、どうやら蒼きヒルは大切な事を忘れていたみたいですね。それが原因で自滅したのでしょう」

「た、大切な事? 何ですか、それは?」

 ブロイは怪訝に首を傾げる。するとそんな彼に対して姫は空を指差した。その右手は血が滴り赤く染まっている。でもどうしてだろう。その手はとても力強く感じられた。

「まだ皆既日食は続いています。皆既日食は天照(あまてらす)の鏡の封印を解く原則となるもの。でも条件さえ整えば、その逆も可能になる。だって皆既日蝕は、月が太陽を隠す現象なのですから。今日は私の【誕生日】。蒼きヒルにとっては不幸な事でしょうが、死の鏡を封印する条件が偶然にも整ってしまったんですよ」

 リーゼ姫はそう告げると優しく笑った。ただそれが姫にとっての体力の限界だったのだろう。姫はブロイの腕の中でぐったりとなり意識を失う。気力と体力を使い果たしたのだ。

 これは姫にとっての賭けだったのかも知れない。絶望的な状況の中で、唯一蛭ヒルに対抗出来る手段はこれしかないのだと姫は考えたのだろう。でもそれを実行するには言葉では言い表せないほどの勇気と覚悟が必要となる。小柄で華奢なリーゼ姫にしてみれば、それは文字通り命を削る行為だったはずだ。しかし皮肉にも彼女はかつての経験を糧にしてヒルに対抗し、打ち勝ったのである。

 ブロイはリーゼ姫の体を横に寝かせると、傷付いた彼女の右手をハンカチで縛った。そして彼は気を失っている姫の顔を見て思う。まだあどけなさすら残る姫なのに、その心には中年の自分ですら勝てない強い芯が通っているのだと。

 これまでにリーゼ姫がどれだけ苦い思いを味わって来たのか。それはニュースで報道された内容を遥かに超えたものだったのだろう。それを想うと胸が痛くて堪らなくなる。でもその経験があったからこそ、姫はこの窮地で最善の道を選択出来たんだ。そして自分は救われた。だったらこの命、姫の為に使うべきじゃないのか。まだ安全とは言えないこの場所から姫を救い出すのが僕の使命なんじゃないのか。あの日、約束を守れなかった【友】の為にも――。

 上空に流れる炎の矢はまだ降り止んではいない。そんな空の下でブロイは丁寧に姫を抱き起すと、その体を優しく背負う。そして彼はまだ続いている獣神達の戦況を(うかが)いながら、安全な場所を目指して移動を始めた。


 紫の竜と黒き獅子に降り掛かる炎の矢の威力は絶大であり、それらが放つ高熱は上空を覆っていた雷雲を跡形もなく消し去ってしまった。ただそのせいで皮肉にも銀の鷲の姿が露わになる。

 銀の鷲の姿は明らかに満身創痍の状態だ。紫の竜から受けたダメージが甚大であり、さらに命を削って攻撃を仕掛けているのである。当然の結果と言えよう。でもだからこそ銀の鷲は八十禍津火(やそまがつび)の力で二体の獣神を仕留めようとしているのだ。だが姿を露わにした事で銀の鷲の状況は不利に転じる。いや、蒼き(ヒル)が消え去ってしまってはもう、銀の鷲の勝つ見込みは限りなくゼロに近づいていた。

 紫の竜の瞳が強烈に輝く。蒼き(ヒル)さえいなくなれば、こんな炎の雨などに後れを取るものか。まさに紫の竜はそう言っているかの様だった。

 紫の竜は迦具土(かぐつち)のバリアで炎の矢を防ぎつつ体を直立させる。そして獣神は天に向かい甲高く奇声を発した。

「キィィィー!」

 その声に反応したのか、空の一部が真っ暗な闇に包まれる。そしてその闇は銀の鷲の頭上で最も大きくなった。周囲の湿度が急激に上昇するのが伝わる。すると次の瞬間、その巨大な闇の塊から凄まじい【水の砲撃】が打ち下ろされた。

「ズドドドドッ!」

 まるで深海の水が大滝になって流れ落ちて来たかの様だった。そしてその滝は確実に銀の鷲の体を捕え、その体を大地に押し潰した。

「バギャーン、ドババババ!」

 途轍もない水の量だ。それもその水の圧力は簡単に大地を抉る威力を誇っているのである。大型の隕石が落ちて来たと考えればいい。それ程までに紫の竜が放った力は絶大だった。

 もう銀の鷲にはどうする事も出来ない。強烈な水圧で大地に叩きつけられた鷲は、そのまま血反吐を吐き続けるしかなかった。

 時間にして一分あっただろうか。しかしその僅かな時間で状況は一変する。なんと廃工場跡は完全に水没し、そこは【泥沼】に姿を変えてしまったのだ。そしてその水面に大きな影が浮かんで来る。それは紛れもない、瀕死の状態の銀の鷲だった。

 文字通り、銀の鷲は虫の息だ。するとそんな獣神を見下す様に紫の竜と黒き獅子が舞い降りて来る。銀の鷲に動く気配はない。ううん、それが分かっているからこそ、紫の竜は口元を緩めて言ったのだった。

「まさか【闇の力】を使う羽目になるとは思わなかったな。それでも【闇御津波(くらみつは)】を真面(まとも)に浴びてはもう動けまい。八十禍津火(やそまがつび)に全力を懸け、迦具土(かぐつち)で身を守れなかったのが命取りなのだ。まぁ、蒼き(ヒル)が姿を消した時点で、決着はついていたのだがな。フフフ」

 勝ちを悟った紫の竜は笑ってみせる。でもその表情は明らかに疲弊したものに感じられた。紫の竜も相当に体力を消耗しているのだろう。でもだからと言って紫の竜がこのまま銀の鷲を見逃すはずもない。紫の竜は瞳の奥に怒りを宿したまま、黒き獅子に向かって指示を飛ばした。

「地下はどうなっている? 女神の巫裔(かんえい)は無事だろうな、獅子よ」

「心配はいりませんよ。抜かりはありません。それに地上にいるリーゼ姫の方も守護しておきました。しかしあなたの無茶な力のせいで、地下は荒唐無稽な有様となっています。もしまだ力を使うというのなら、これ以上は持ちませんぞ」

「だったら早く女神の巫裔(かんえい)を連れて参れ。腐っても銀の鷲は獣神なのだ。確実に息の根を止めるまでは油断は出来ぬ。こうなれば最後にもう一撃、闇御津波(くらみつは)を喰らわせるまでよ」

「月読の胤裔(いんえい)はどうなさいますか? 恐らく女神の巫裔(かんえい)と共にいるものと思われますが」

「消してしまえ。あくまで勘だがな、生きていては後々面倒になりそうだ」

「本当に、宜しいので?」

「構わん。利用価値があるかとも思ったが、今は構っておれんよ」

「かなりお疲れの様ですね」

「うるさいぞ、獅子よ。もうこのくらいでお喋りはいいだろ。ほれ、早く行かぬか! ただし、妙な考えは起こすなよ。抜け駆けなどしたら許さんからな!」

「承知しておりますよ。あなたは何でも御見通しだ。痛い目を見るのはもう懲り懲りですからね……」

 そう告げた黒き獅子はフゥと溜息を吐き出す。怒りに満ちている紫の竜が怖いのであろうか。ただ黒き獅子はすぐに表情を引き締め直し、金色の瞳を(わず)かに輝かせる。そして一度空に舞い上がった黒き獅子は、体勢を整えてから勢いよく泥沼の中に飛び込んで行った。

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