#99 佐保姫の泣血(腥風に散る命の灯6)
崩れ落ちた天井が瓦礫の山と化している。もうこの地下施設は使い物にならないだろう。誰しもがそう思える程、地下施設は見るも無残な姿に変貌していた。
ただ地下施設は完全に崩壊したわけじゃない。いや、あれほどの地震があったにも拘らず、むしろ施設の体裁は保っている。秘密結社が作り上げた施設だけに、かなり頑丈な構造になっていたのか。
所々にある照明はまだ生きており、か弱い光を息継ぎしながら光らせている。また断線した配線からは時折火花が飛び散り周囲を明るくさせた。そしてそんな地下施設の隅で一人、ティニが懸命に瓦礫を掻き分けていた。
瓦礫の隙間から細長い金属の物体が突き出ている。マイヤーのライフルだ。ティニは必死になってライフルが突き出ている部分の瓦礫をどかしていく。すると彼女は直ぐにマイヤーの体を掘り当てた。
「しっかりして下さい、隊長! 生きてますよね!」
ティニは叫びながら瓦礫をどかす。小柄な彼女にとって瓦礫を排除するのはこれ以上ないほど骨が折れる作業だ。でもティニは全力でマイヤーの体を覆う瓦礫をどかし続ける。彼女はマイヤーを救いたい一心で体を動かし続けたのだ。そして彼女は手の平の皮がボロボロになりながらも、マイヤーに被さる瓦礫のほとんどを撤去させた。
「隊長! お願いだから返事して下さい、隊長!」
ティニはマイヤーに強く呼び掛ける。動揺は隠せない。でも隊長はきっと生きているはずだ。ううん、こんな場所で死ぬような弱い人じゃない。ティニはそう信じたからこそ、想いを込めて叫んだのだ。するとそんな彼女の声が届いたのだろう。マイヤーが小さく呟いた。
「ティニ……」
「隊長! 良かった。本当に良かった」
ティニはホッと胸を撫で下ろす。こんなところで一人ぼっちにはなりたくなかったし、なにより大好きなマイヤーが生きていてくれた。嬉しさで彼女は泣きそうになる。そしてそんな彼女の胸の内を察したのだろう。マイヤーもティニの顔を見て穏やかに微笑んで見せた。
「ありがとう、ティニ。君のお蔭で助かったよ」
マイヤーはボロボロになったティニの手を見て告げる。ただその視線に気付いた彼女は恥ずかしがる様にしてその手を後ろに隠した。
「あ、あたしは当然の事をしたまでですよ。照れるからそれ以上言わないで下さい」
「いや、その手を見れば、君がどれだけ頑張って俺を助けてくれたのか分かるよ。だから本心でお礼を言ったんだ。ただもう少しだけ辛抱してくれないか。俺の左足の上にある瓦礫をどかしてくれ」
マイヤーは左の足首にのっている瓦礫を指差す。でもそこでティニは表情を顰めた。なぜならマイヤーの足首は本来曲がるはずのない方向に曲がっていたのだ。
「こ、これって、折れてますよね。痛くないんですか?」
「痛いに決まってるだろ。でもこのまま寝ているわけにもいかない。さっさとどかしてくれ」
額から噴き出した脂汗がマイヤーのダメージを物語る。しかし今はそれに構っている時間が無いのだ。マイヤーはライフルを支えにしながら上半身だけを起こすと、太ももをしっかりと押さえながらもう一度ティニに言った。
「さぁ、やってくれ」
「じゃ、じゃぁどかしますよ。――フン!」
ティニは一気に瓦礫を放り投げる。すると同時にマイヤーは小さく呻き声を上げた。どうみても足首は折れている。激痛が体を駆け抜けたのだろう。ううん、折れた足首の激痛もさる事ながら、彼は一時全身を瓦礫の下敷きにしていたのである。相当なダメージを負っているはずなのだ。
それでもマイヤーは弱音を吐かない。持ち前の彼の冷静な性格がそうさせているのか。マイヤーは周囲に気を掛けながらティニに尋ねた。
「ティニ、君は良く無事だったな。崩れ落ちて来た天井の瓦礫を全て躱したのか? 俺が思っていた以上に君は凄いんだね」
「偶然ですよ。たまたま立っていた場所が良かったんです。ただちょっと不思議ではありました。何て言うか、【大地】に守られているみたいだったので」
「大地に守られている? もっと具体的に言ってくれないか」
「う~ん、そうですね。一瞬だったから本当の事だったのか自信ないんですけど、あたしの足元の土が競り上がって盾になってくれた様に思えたんです。でもその土の盾はすぐに消えてしまって。気が付いたら、こんな事になってたんです――」
ティニはそう告げると、自身の背後をゆっくりと指差す。ただそこは真っ暗闇であり何も見えない。彼女は一体何を言っているんだ。そう思ったマイヤーであったが、次第に目が慣れたのだろう。その闇の正体を見て息を飲んだ。
ティニの肩を借りてマイヤーはゆっくりと立ち上がる。そして彼は目の前に開けた恐るべき光景に唖然とした。なんと彼が見つめる先には大地が無く、底が目えない程の深い谷になっていたのだ。
途轍もなく巨大な爪で抉られたかの様に大地は裂けている。それもこの裂け目は新しいものにしか見えない。これも獣神の力によるものなのか。
ただそこでマイヤーは思った。天井の瓦礫と一緒に大量の水が流れ込んで来ていたはずだと。その証拠に自分の体を含めて周囲全体がズブ濡れの状態になっている。しかし肝心の水がどこにもない。天井の崩落よりも、むしろ溺死してもおかしくない量の水が押し寄せて来たはずなんだ。もしかしてこの谷は、その水を流れ落とす為に抉られたのか。
ティニは大地の盾に守られた様だと語った。ならば押し寄せる水から彼女を守る為に谷が抉られたとも考えられる。そしてこんなデタラメな現象を引き起こせるのは黒き獅子だけだろう。でもどうしてティニを救う必要があるんだ。彼女はただの隊士であり、普通の人間。黒き獅子にとって、ティニを助けるメリットはない。何か他に理由があるのか……。
マイヤーは考えを巡らせる。しかし瓦礫の下敷きになった影響なのだろう。頭がくらくらして上手く考えがまとまらない。軽い脳震盪でも起こしているのか。それでも彼は最も重要な課題を思い出す。そしてマイヤーは緊迫した口調でティニに問うた。
「ヤツの姿が見えない。君は見ていないか?」
「あたしは隊長を助けるので精一杯で、よく確認してませんでした。済みません」
「水に押し流されて谷底に落ちたか。状況から見ればその可能性が高そうだけど――。どこかに出口はありそうか? ヤツがいないなら、構わずにここを脱出しよう」
マイヤーはそう言って出口を探そうとする。するとティニが崩れかけた壁を指差して彼に告げた。
「あそこに通路が見えます。行ってみましょう。先が潰れていなければいいんですけどね」
ティニはそう言うと微笑んで見せた。それが強がりなんだとマイヤーはすぐに察する。いや、この状況下で怖さを感じない方がおかしい。それでも彼女は懸命に使命を全うしようと耐え忍んでいるのだ。
言葉では信頼していると言いつつ、実のところ俺は心の奥でティニを未熟な新米隊士だと決めつけていたんだろう。でも彼女は決して諦めず、この過酷な状況から脱却しようとしている。頼もしい限りだ。
「君は強いな、ティニ。謝るよ。俺は君を信じきれていなかったみたいだ。済まない、ティニ」
「や、やめて下さいよ、隊長。急に畏まってなんですか、気持ち悪いですよ」
「君はヤツとの戦いでも、退くどころか向かって行った。あんなの熟練の隊士だってそうそう出来るモンじゃない。それに君は的確にヤツの動きを止めた。本当に凄いよ」
「照れるからもうやめて下さい。……でも、あたしを見直したって言うのが本当なら、後でデートして下さいね」
ティニはそう言ってから再度微笑む。でもその笑顔は先程の強がりの笑顔ではなく、嬉しさを前面に溢れさせた明るいものだった。
まったく、どういう神経しているんだよ。あれほど怖がっていたのに、少し褒めたらこの調子だ。困ったモンだ。マイヤーはそう思いながら苦笑いを浮かべる。でも今回ばかりは彼女の要望に応えてあげるべきなのかも知れないな。ティニには助けられたし、この状況で本気で笑える彼女は頼もしくさえ思えるんだから。マイヤーはそう思いながら痛む足を前に進めた。
か弱い電灯の明かりによって浮かび上がる通路が見える。瓦礫の山に半分が隠れながらも、ぽっかりと開いた空間が奥に続いているのだ。そしてその通路からは適度な風が吹き込んで来ている。恐らく外に通じているに違いない。この地下から脱出できるはずだ。ティニの肩を借りたマイヤーは歯を喰いしばりながらその通路を目指す。だが彼らがその通路の入り口に差し掛かった時だった。突然後方の瓦礫の山から唸り声が響き出す。そして次の瞬間、瓦礫の中から馬顔のヤツが飛び出して来た。
マイヤーは素早く振り返りライフルを構える。だが折れた足首が言う事を利かず体勢が定まらない。いや、深い谷底へ落ちたものとばかり考えていたから、急なヤツの出現に対して判断が遅れてしまったのだ。だがそんなマイヤーの都合など知った話ではない。馬顔のヤツは猛烈な唸り声を上げると、掴んでいた瓦礫の破片を二人に向け全力で投げつけた。
空気抵抗に耐えられなかったのだろう。豪速で投げられた瓦礫の破片は空中で分解しバラバラになる。しかしその攻撃力は低下しない。いや、それどころかバラバラになった破片は、まるで散弾銃さながらの殺傷能力でマイヤーとティニを襲った。
「ダダダダン!」
いくつもの破片がコンクリートの壁にブチ当たり白煙を上げる。そしてその立ち上る煙の中、マイヤーがガックリと膝を落とした。
「隊長!」
ティニが叫ぶ。マイヤーはその身を盾として彼女を守っていたのだ。全身にいくつもの破片が直撃したマイヤーの傷は深い。最新のバトルスーツを着ていたとはいえ、ショットガン並みの威力を持った破片を複数その身に受けたのである。むしろ即死しなかった方が幸運だったと言えよう。
だがティニはショックを隠せない。身を挺して自分を庇ってくれたマイヤーが瀕死の重傷を負ったのだからそれは当然だ。でも彼女が最も衝撃を受けたのは他でもない。瓦礫の破片が直撃したせいでマイヤーの右目は潰れており、そこから真っ赤な血が溢れ出ていたのだ。
マイヤーはかつて対戦した豚顔のヤツことウォラストンの攻撃ですでに左目を失明している。すなわち、右目が潰れた彼は完全に光を失ったのだ。ティニは率直にそう思ったからこそ、尻込みし戸惑ったのである。彼女は震え出した膝に力が入らず動けない。
「グオォォォ!」
馬顔のヤツが雄叫びを飛ばす。ヤツはこの機を確実にものにするつもりだ。トーマス王子としての理性は一欠けらも残っていない。ヤツは力を溜める様にして体を窄ませると、それを一気に解放してマイヤーに迫った。
鋭い爪を立てたヤツの剛腕が視力を失ったマイヤーに突き立てられる。こうなってしまっては回避不可能だ。ううん、仮に目が見えたとしても、深いダメージを負った彼にはどうする事も出来ないだろう。ただ次の瞬間だった。マイヤーを掠めて小柄な影が素早く動く。そしてその影は向かい来るヤツの懐に飛び込んだ。
「ダンッ」
一発の銃声が響く。ライフルから炸裂弾が発射されたのだ。でもそれを撃ったのはマイヤーではない。なんとティニが彼のライフルを掴み取り、ヤツの懐に飛び込んでその腕を打ち抜いたのだ。
「ギィヤァァー!」
馬顔のヤツが悲鳴を上げる。ティニの放った炸裂弾がヤツの右肘を貫いたのだ。これにはヤツも堪らずに後退する。完璧なカウンター攻撃を喰らい怖気づいたのだろう。だがそんなヤツに対し、今度はティニが打って出た。
「許さない。絶対に許さない!」
マイヤーの負った傷に極度のショックを受けていたはずのティニ。しかしヤツがその獰猛な爪を振りかざして彼を殺そうとした時、彼女の中で怒りが爆発した。
大好きなマイヤーに取り返しのつかない大怪我をさせたばかりか、その命までもを奪おうとするなんて許せない。たとえそれがトーマス王子だったとしても。絶対に殺してみせる。自分の命に代えても、コイツだけは倒すんだ。それが隊長を救う唯一の方法なんだから。
ライフルを手放したティニはヤツに向け灰色の玉を投げつける。灰玉は煙幕弾だ。破裂した灰玉から濃い煙が吹き出し、一瞬でヤツを包み込みその視界を奪う。そしてその隙を突いて後方に回り込んだティニが橙色の玉をヤツに投げつけた。
「ビギャーン!」
激しい電撃が馬顔のヤツの巨体に走る。でもこの程度じゃまだ倒せない。ティニはヤツの正面に回り込むと、今度は緑色の玉を放り投げた。
緑玉は催涙弾である。そしてその玉に向かいティニは小銃の引き金を引いた。発射された弾丸が確実に緑玉を打ち抜く。
「バシュッ」
「グギャァーッ!」
顔面間近で破裂した催涙弾の効果をモロに浴びたヤツが悲鳴を上げる。ヤツは人の数倍の身体能力を有しているのだ。ゆえに催涙弾の効果も人の数倍と成り得るのだろう。悶絶したヤツは動けない。
ティニは再びヤツの後方に回り込む。卓越性において秀抜した素早さだ。この動きにヤツはまったく追いつけない。そしてその隙を突く様、彼女はヤツの足元に赤玉を3つ放り投げた。
ティニは即座に後退しマイヤーの所へ駆け込む。彼女はそのままの勢いでマイヤーに抱きつくと、彼に覆い被さった。
「ズドガァーンガァーン!」
赤玉がヤツの足元で大爆発する。この破壊力なら十分ヤツに致命傷を与えられたはずだ。ティニはマイヤーと共に爆風を避けながらそう思う。ううん、これ程の爆発が直撃したんだ。死なないわけがない。ティニは祈る様に思った。ただそんな彼女の願いは儚くも掻き消される。素早い跳躍で爆発の衝撃を躱したのか。宙を舞っていたのだろうヤツが、両足で華麗に着地した。
「ズンッ」
硬い背中でガードしたのか。ダメージはほとんど無いように見える。元が王子でもやっぱりヤツはヤツ、化け物なんだ。ティニは改めてそう思い萎縮する。するとそんな身を強張らせる彼女にマイヤーが言った。
「ティ、ティニ。君は逃げろ。君だけなら逃げられるはずだ」
「な、何を言ってるんですか。逃げる時は一緒ですよ」
「これは隊長命令だ。行くんだ!」
そう指示を飛ばしたマイヤーは手探りでライフルを掴み取ろうとする。彼は失明しても戦うつもりなのだ。しかしそんな彼に対してティニも曲げない。彼女は足元に落ちていたライフルを拾い上げそれをマイヤーに受け取らせると、逆に強く言い放った。
「炸裂弾を準備して下さい。あたしがヤツを引き付けます」
「な、冗談は止せ。この状況でお前に何が出来る」
「任せて下さい。大丈夫。絶対にあなたを守ってみせます――」
「!」
マイヤーは唇に押し付けられた温もりに一瞬たじろぐ。なんとティニが彼にキスをしたのだ。目が見えないマイヤーにとって、それは完全に不意を突かれた衝撃だった。でもそこから伝わって来る覚悟の大きさにマイヤーは震える。
「ま、待てティニ! 行くんじゃない!」
「大好きです、隊長」
そう告げたティニはニッコリと微笑む。だがくるりと姿勢を変えた彼女はヤツに向かい全力で駆け出した。
「グオォォォ!」
ヤツが強烈な雄叫びを上げて向かい来るティニを威嚇する。獰猛な殺気を撒き散らすヤツは、彼女を躊躇なく八つ裂きにするつもりだろう。だがどうした事か、ヤツは雄叫びを上げただけで動こうとしない。いや、もしかして赤玉のダメージが足に効いていて動けないんじゃないのか。
肉体は信じられないほど頑丈でも、元の姿であるトーマス王子は特殊な訓練を積んだ軍人じゃない。タフさや強さは豹顔のヤツよりかなり劣るんだ。これなら行ける!
ティニは直感でそう思いながらヤツに迫る。でもだからと言って油断は出来ない。あの赤玉の爆発を躱したのは事実なのだから。
ティニは左右にフェイントを入れながらヤツに近づく。ヤツとの間合いは2メートル。完全な危険領域だ。だがそこでギアを入れ替えた彼女は瞬時に後方へ回り込んだ。
「ビギャン!」
ヤツの体に電撃が走る。橙玉を投げつけたのだ。堪らずにヤツの膝が折れ曲がる。そしてティニは先の攻撃と同様、灰玉を炸裂させて煙幕で周囲の視界を遮断した。
「!?」
ヤツは完全にティニを見失った。しかし同じ攻撃を仕掛けるのは危険極まりない。そう考えたティニは煙幕の中で方向を逆転させると、同時に短刀を引き抜き左手に構えた。
ティニは持ち前の小回りを利かせてヤツの足元に狙いを定める。狙うはただ一点。集中力を高めた彼女はヤツの周囲を旋回し、その勢いを保ったままヤツの右アキレス腱を断ち切った。
「ギャッ」
ヤツの悲鳴が響く。それにヤツは大きく体勢を崩した。アキレス腱を切断され踏ん張りが利かないのだ。今しかない! ティニは一気に勝負に出る。
さっきはヤツを仕留めようと焦ってしまった。赤玉の爆発くらいじゃ致せないのは分かっていたのに。でもヤツを爆風で吹き飛ばす事くらいは出来るはず。たとえ硬い背中でガードされたとしても。
ティニはヤツの背後に深い谷底が来る位置に回り込む。これなら行ける! 素早く赤玉を手にした彼女はヤツに向けそれを投げつけようとした。――がしかし、それよりも早くヤツの蹴りが彼女の腹に捻じ込まれる。
「げふっ」
意味が分からない。どうしてあたしは血を吐き出しているのか。それに腹部から伝わって来るこの鈍い痛みは何だ。徐々に強まって行くこの痛みは何なんだ。
理解出来ない状況に彼女は戸惑う。ただそこでティニは気付いた。自分の腹に深く付き刺さったヤツの太い足の存在に。
それはアキレス腱を断ち切った足だった。ヤツは傷ついた足で強引に蹴りを突出し、彼女の腹を貫いたのだ。
ティニの顔色が蒼白に変わる。あれだけ油断は禁物だと自分に誓っていたのに、どうしてこんなミスを犯してしまったのか。痛みと一緒に伝染し始めた怖さで震え出した奥歯が噛み合わない。
ティニは絶望感に打ちひしがれる。ヤツはそんな彼女の肩を右腕で掴むと、突き刺さっている右足を力任せに引き抜いた。そしてもう一撃。ヤツは振りかぶった左の手刀をティニの胸に突き立てる。
「グサッ」
真っ赤な鮮血に彩られた爪が5本、ティニの背中から突き出している。ヤツはその爪を引き抜くと、無造作に彼女の体を放り投げた。
「ドサッ」
小柄なティニの体が力なく倒れる。もうダメだ。あたしは死ぬんだ……。ティニは急速に薄れて行く意識の中で一筋の涙を流した。だがそこで彼女は意識をハッと甦らせる。涙でぼやけた視界の先。そこに映るのは目の見えないマイヤーにゆっくりと歩み迫るヤツの姿だった。
このままじゃ隊長が危ない。ティニの体に僅かばかりの力が湧く。彼女は震えた手で小銃を握り締めると、狙いを定めて精一杯に引き金を絞った。
「パン!」
「――ズッガーン!」
赤玉が爆発する。ヤツに投げつけようとしていた赤玉の一つが、運良くヤツの足元に落ちていたのだ。そしてそれを見つけたティニは必死の想いで撃ち抜いたのである。
予想外の衝撃を受けたヤツは尻込みするしかない。それに爆発の衝撃でヤツは下半身を損傷したらしく、谷底を背にしたヤツの動きは完全に停止していた。
「た、隊長! ライフルを撃って!」
ティニがありったけの声で叫ぶ。もう残された力は少ない。
「ヤ、ヤツは隊長の正面にいて動けません。今ならヤツを谷底へ落とせます!」
ティニの指示を聞いたマイヤーが素早くライフルに炸裂弾を装填する。彼女の必死な想いが伝わって来るのだ。これに応えないわけにはいかない。
目が見えないながらも手際よくライフルに炸裂弾を詰め込むマイヤー。体に馴染んだ操作だけに、その動きに無駄がない。そして彼は正面に向かいライフルを構えた。引き金に掛ける指先に力が籠められる。
「待って! もうちょっとだけ下を狙って。そ、それともう少しだけ左を……。そ、そうです。それでいい。……撃って」
徐々に小さくなっていくティニの声。でもその声はマイヤーの耳に確実に届き、その声に誘われる様にして彼は引き金を引いた。
「バンッ!」
ヤツの体勢が大きく崩れる。炸裂弾が命中し、後ろへ仰け反った格好だ。背面にあるのは深い谷底。しかしまだヤツをその谷に落とすだけの衝撃が足りない。
マイヤーは素早く新しい炸裂弾を装填する。もう一撃必要だ。彼は目が見えないながらも熟練の隊士の勘でそう判断した。そしてマイヤーは再度ライフルを構え直す。
「グオォォォ!」
ヤツが激しく咆哮する。この状況が如何に危険なものなのか、ヤツの方も分かっているのだ。怒りを前面に押し出したヤツはマイヤーを睨み付ける。
マズい。もし背中で受け流されれば万事休すだ。真正面からの攻撃ではヤツは倒せない。マイヤーは苦々しく表情を歪める。――でもその時だった。
「もっと下! ヤツの足元を撃って!」
ティニが叫ぶ。そしてその声に反応したマイヤーは、反射的にライフルを発射した。
「バンッ!」
マイヤーが発した炸裂弾がティニの指示通りにヤツの足元に着弾する。するとその瞬間、大爆発が巻き起こりヤツの巨体が吹き飛んだ。
「ズッガガーン!」
凄まじい衝撃を受けたヤツが勢いよく吹き飛ばされる。そしてその体は為す術なく、深くて暗い谷底へ落ちて行った。
ティニの声はこっちから聞こえた。失明しているマイヤーは、その感覚だけを頼りにして進む。足が折れていても関係ない。早く彼女のところへ行かなくちゃいけないんだ。
マイヤーは奥歯を強く噛みしめながら必死にティニを探す。すると程なくして彼は横たわっているティニを探り当てた。
「ティニ、君は――」
マイヤーは思わず言葉を飲み込む。ヤツとの戦闘でティニがダメージを受けたのは何となく分かっていた。しかし彼は彼女がここまでの傷を受けているとは思いもしなかったのだ。
マイヤーは小柄なティニの体を抱き抱えて悔しさを噛み殺すしかない。そんな彼の腕には、彼女の胸と背中から止め処なく流れ出る血液が伝わっていた。
「や、やりましたね、隊長。ヤツは谷に落ちました。も、もう、戻っては来れません」
「これが最善策だったなんて思いたくない。なんてバカな事をしたんだ、君は」
「た、隊長だって、あ、あたしを守ってくれたじゃ……ないですか。そ、そのせいで、隊長の目はもう見えないんでしょ。あ、あたしには、そっちの方が……、つ、辛くて」
「ティニ――」
マイヤーは声に詰まる。ティニはもう助からない。助けられない。いくつもの戦場を経験した彼は理屈抜きにそう思う。ううん、これが現実なんだと受け入れるしかなかったのだ。だからマイヤーはせめて安らかに逝ってほしいと願い、彼女の戦いを敬った。
「君のお蔭でヤツを倒せた。ありがとう、君は本当に立派だったよ。俺は、君の様な部下を持てて光栄だった」
「う、嬉しいな。だ、だったら最後に一つ……だけ、わがまま言っても……いい、ですか?」
「何でも言ってごらん。俺に出来る事なら何でもするぞ」
「な、ならもう一回。こ、今度は隊長の方から、――――キス、してもらいたいなぁ」
ティニはそう言って和やかに微笑む。でも何故だろうか。死が目前に迫っているのに、その笑顔はとても優しいものに感じられる。いや、死を悟っているからこそ生まれた笑顔なのだろうか。ただその笑顔をマイヤーは見られない。それでも彼は彼女の最後の想いを汲むべく、その唇にそっと口付けを交わした。
ティニ目から涙が零れ落ちる。大好きなマイヤーから伝わった優しい温もりに、これ以上ないほどの幸せを感じたのだろう。でもそこでティニの体から力がだらりと抜け落ちた。
「ティニ――」
もう彼女の姿を見る事は叶わない。この手に伝わる感触とて、時間と共に消え去ってしまうだろう。マイヤーは大切な存在を失ってしまったのだと痛感し項垂れる。
もう、力が入らない。どうせ目も見えないんだ。ならこの場所でティニと共に逝ってしまうのも悪くないよな。完全に気持ちが折れてしまったマイヤーは極度に衰弱してしまう。ただその時、彼は救援に駆け付けたエイダに呼び掛けられた。
「マイヤー隊長、ご無事ですか? ――えっ、ティ、ティニ!」
エイダは驚きを隠せない。同期の女性隊士であり、また親友であったティニの変わり果てた姿に愕然としたのだ。いや、嘘であってほしいと切望したのかも知れない。エイダは腰を抜かした様に膝をつき、その場に蹲ってしまった。
「ティニ。……嘘でしょ。これは何かの間違いよね? ねぇ、冗談だって言ってよティニ!」
「済まない。俺はティニに救われるばかりで、みすみす彼女を死なせてしまった。弁解のしようもない。俺は、隊長失格だ」
「――――」
「ティニはヤツを倒す為に犠牲になった。ティニは立派だよ。そうする事でしかヤツを倒せないって判断し、隊士としての責任を果たしたんだからね。絶望的な状況の中で諦めずに全力を出し切って戦った。本当に凄いよ、ティニは。それに彼女は俺が思っていた以上に強かったしね。そして俺はそんな彼女の強さに甘えてしまった。ティニが何をしようとしているのか分かっていながら、俺はライフルの引き金を絞る事しか出来なかったんだ。情けない隊長だよ。あの状況下でティニが俺の制止なんて聞くはずないのに。そんなの当たり前なのに。――いや、彼女の強情さはよく知っていた。俺はただ、ヤツを倒す為に部下の命を道具にしただけなんだよな」
マイヤーは弱気に告げる。息を引き取った感覚が直接肌に伝わって来ただけに、彼は遣る瀬ない想いに苛まれているのだ。いつもの冷静で沈着なマイヤーの姿はどこにもない。ただそんな意気消沈した彼の姿を見たエイダが立ち上がる。そして彼女は涙を拭ってからマイヤーの腕を掴んで言った。
「立って下さい。もうこの地下施設はもちません。急いで脱出しましょう」
「エイダ、君は無事なんだろ? だったら君一人で逃げてくれ。俺はこの通り何も見えないし、満足に動けもしない。足手まといになるくらいなら、ティニと一緒にいるよ」
「バカ言わないで下さい! 何の為にティニが命を懸けたと思ってるんですか。あなたを助ける為に戦ったに決まっているでしょう」
「言わないでくれ! それ以上はもう」
「うるさい! 男のくせにウジウジするな! ティニは隊長に生きてほしいと願ったから最後まで戦えたんですよ。そんなティニの気持ちを無駄にするつもりですか!」
「し、しかし」
「しかしもヘッタクレもありませんよ! あなたは生きるんです。ティニの事を想うなら、意地を見せて下さい!」
そう吐き出したエイダは強引にマイヤーの腕を引き上げる。そして彼の肩を無理やり担いだ。
「どうして、どうして君は俺をそこまで駆り立てようとするんだ。俺にはもう敵を狙う目が無いんだぞ。戦う術が無いんだ。それなのに、どうして?」
「あなたは約束したはずです。アメリアさんを守るって。ジュールさんはそれを信じて戦火に留まった。隊長は、そんな友人の気持ちまでもを蔑ろにするつもりですか」
マイヤーの胸にエイダの言葉が深く突き刺さる。確かに彼女の言う通り、俺はジュールと約束を交わした。それはとても大切なもののはずだ。でもこの体でどうやってアメリアを守れっていうんだよ。俺にはもう、何も見えないんだぞ。
悔しさと不甲斐なさで胸が極度に締め付けられる。一番重要な時に、どうして俺は役立たずなんだ。そう悲嘆せずにはいられない。でもそこで彼はふと思った。
アメリアはエイダと一緒にこの地下施設から脱出しようとしていたはず。エイダは真面目な隊士だ。自分やティニが窮地に陥ったからと言って、アメリアやリーゼ姫を放って来るわけがない。緊急なアクシデントが発生したのか。マイヤーの冷静な判断力が徐々に甦る。
「エイダ。アメリアはどうしたんだ? 君と一緒に逃げたんじゃないのか」
「リフトに乗って地上までは行ったんですが、その後アメリアさんは一人で地下に引き返したんです。私はリーゼ姫をブロイさんに任せてから直ぐにアメリアさんの後を追ったんですが、見つからなくて」
「なら君はアメリアを探している途中で俺達を見つけたわけか――」
マイヤーの背中に冷たい汗が流れ落ちる。地震によって大部分の天井が崩落したこの地下で無事でいられる可能性は低い。それに加えて大量の水まで流れ込んで来たのだ。常識的に考えれば絶望的だろう。
アメリアが地下に引き返したのはジュールが心配だったからのはず。何が出来るわけでもないが、彼女はそう言う性格だ。恐らくリーゼ姫を地上に届け、その安全を見届けたから次はジュールを助けようと考えたんだ。クソっ、俺が付いていれば勝手なマネはさせなかったのに。
マイヤーは居た堪れない気持ちになる。だがそこで彼はふと思った。この散々な状況の中でエイダはここまで来れた。それはすなわち、地下施設の通路はまだ完全に崩壊していないんじゃないのかと。
「エイダ、君は地震による天井の崩落と大量の流水からどうやって逃れたんだ? 目は見えないけど、感触として君はそれほどダメージを負っていないのが分かる。もしかしてだけど【大地】に守られたのか?」
「えっ!? どうしてそれを知っているんです?」
「ティニが言っていたんだよ。足元の土が競り上がって盾になったって。そうじゃなけりゃ俺みたいに瓦礫の下敷きになっているはずだろ。――そうか。だったらアメリアも無事でいる可能性は高いな」
「どういう事ですか?」
「推測だけど、黒き獅子が君達を守ったんだ。大地の力を使ってね」
「え、黒き獅子が。どうして?」
「アメリアだ。詳しくは分からないけど、アメリアは獣神にとって重要な存在らしい。絶対に死なせたくないほどにね。だから天災とも呼べる地震と流水から彼女を守る必要があったんだ。だけど黒き獅子は地下にいるアメリア一人を特定出来なかった。いくら獣神でも限界はあるんだろう。それでも黒き獅子は地下にいる女性らしき存在だけを探り出し、その全てを土の盾で守ったんだ。だからティニも君も無事でいられたんだよ」
「ならアメリアさんも無事ですよね!」
「あぁ、そうだ。そしてアメリアが向かう場所は一つしかない。ジュールがガウスと戦っていたあの地下工場だ。行くぞ、エイダ!」
マイヤーはそう言ってエイダの肩を強く掴む。もう弱気になっている暇はない。例え目が見えなくとも、この命が尽きるまで全力を出し切るんだ。ティニのところへ行くのはその後でいいんだから。
マイヤーは決意を新たにして前に進み出す。そしてそんな彼の覚悟を察したエイダもまた、ティニに恥じぬ戦いをしようと決意し足を踏み出したのだった。