第三章 強行突破
決行の時は、空が紫と朱の混ざり合う不吉な色に染まった頃に訪れた。もはや夕暮れという穏やかな言葉では形容できないほど、街路はどろりとした闇を孕み始めている。
カナとエリスは、大通りに面した路地裏のコンクリートの死角に身を潜め、じっとその時を待っていた。
オフィスビルのガラス扉が開き、拓海と栞が並んで出てくる。定位置で立ち止まり、いつも通りのもどかしい距離感で会話を始めた。
「……来たわ」
カナが小さく息を呑む。
近づく決行の瞬間に、カナの心臓は人間のそれではないはずなのに、爆音のような鼓動を刻み始めていた。心の準備なんて、これっぽっちも整っていなかった。
カナが隣のエリスを見て、焦りで声を上ずらせる。
「ね、ねえエリス、やっぱり流石にマズいって。もっとこう、タイミングを――」
「今よ」
エリスはカナの慌てぶりなど一切無視して、短く囁いた。
次の瞬間、エリスが紫色のローブの内側から滑り出させたのは、細長い木製の筒と、怪しく光る針だった。
「ちょっと待って、心の――!」
カナの制止が間に合うはずもなかった。エリスは余計な言葉を一切挟まず、流れるような美しい動作で筒を構えると、夕暮れの雑踏の向こうへ狙いを定め、鋭く息を吹き込んだ。
シュッ、と風を切る微かな音が響く。
針は寸分の狂いもなく、人混みの向こうにいた拓海の首筋を捉えた。
「うっ……!?」
言葉を失った拓海は、驚愕に目を見開いたまま、自分の首元を片手で強く押さえた。そして、そのまま視線が泳ぎ、アスファルトの上へと不自然に崩れ落ちていく。
「えっ!? 拓海さん!?」
隣にいた栞が悲鳴を上げる。しかし、エリスの動作は止まらない。神業的な手際ですでに次の針を筒へと装填し、取り乱す栞の首筋へと狙いを定めていた。
「待って、本当に大騒ぎになっちゃ――!」
カナの脳内での叫びを嘲笑うように、魔女は再び鋭く息を吹き込んだ。
針は狂いなく、栞の細い首筋を捉える。
「あ……」
栞の視界が急速に反転し、彼女もまた、拓海の身体に重なるようにして崩れ落ちた。
白昼堂々の怪事件に、周囲の通行人が即座に反応した。
「おい、大丈夫か!?」
誰かの絶叫を皮切りに、またたく間に野次馬の輪が広がり始める。
「救急車を呼べ!」
「警察にも連絡だ!」
都会の中心が瞬時に大パニックの渦に巻き込まれる中、エリスは吹き矢をスマートに仕舞い、平然とした顔でカナを振り返った。
「今よ、行きなさい」
「うー。も、もうどうにでもなれーーーっ!」
カナはヤケクソになって路地裏から飛び出した。エリスを引き連れ、パニックで右往左往する人混みをかき分け、重なり合って倒れている二人の元へと肉薄する。
カナはアタフタと動転しながらも、拓海の顎を強引にこじ開け、ポケットから出した小瓶の残液を喉奥へと一気に流し込んだ。エリスもまた、流れるような手際で栞の口内に同じ薬を注入していく。
黒いコートを翻す自分と、派手な紫色のローブをまとったエリス。白昼堂々、倒れた男女に怪しい液体を流し込んでいる二人の風体は、あまりにも異様で、あまりにも目立ちすぎた。
「おい! お前たち、何をしているんだ!」
背後から、ひときわ鋭い怒鳴り声が突き刺さった。
ハッとして振り返ると、野次馬の中から一人の年配の男が声を荒らげ、鋭い足音を響かせながらこちらへ向かって走ってくる。男の剣幕に釣られるように、周囲の視線が一斉にカナたちへと集中し、新たな不審者へのガヤガヤとした騒ぎが一気に広がっていくのが分かった。
「引くわよ、カナ」
エリスの短い囁きを合図に、カナは身を翻した。野次馬たちが男の行く手を遮る混雑の隙を突き、二人は元の路地裏の闇へと滑り込んだ。
「間に合った……! あとは薬が効くだけ!」
カナはレンガの壁に背を預け、激しく上下する胸を押さえた。人間の心臓ではないはずなのに、今だけは爆音のような鼓動が耳の奥で鳴り響いている。
「静かに、見てごらんなさい」
エリスに促され、カナは路地裏の影から、再び大通りの人混みの中心へと視線を向けた。
薬の覚醒効果は劇的だった。拓海が激しく咳き込みながら、パチリと目を開けた。力強さで上体を起こす。同時に、栞もまた、意識を取り戻した。
周りの人間が「動かない方がいい!」と制止しようと近づくが、二人はそれを拒絶するように、強い磁石に引き寄せられるようにして立ち上がった。
「栞――」
拓海が彼女の名を呼んだ。その声は、震えてはいたが、周囲の喧騒をすべて掻き消すほどの質量を持っていた。
「好きだ。ずっと、ずっと前から、君のことが好きだったんだ」
言葉を浴びせられた栞の目から、大粒の涙が溢れ出し、頬を伝って舗道を濡らす。
「私も……!」
栞が叫んだ。
「私も、ずっと拓海さんのことが好きだった……!」
集まった数十人の野次馬が、救急車を呼んだサラリーマンが、全員が呆然と見守る修羅場の中心で、二人は吸い寄せられるように激しく抱き合った。まるで世界には自分たちしか存在していないかのように。
静まり返っていた大通り。
あまりにも劇的な愛の告白に、一瞬の静寂が訪れた。
次の瞬間――「なんだ、痴話喧嘩かよ」と、一人の男が苦笑した。
そして、その男が、ぽん、ぽんと小さく手を叩いた。
それを皮切りに。
「やるじゃねえか、お兄ちゃん!」
「おめでとうー!」
「ヒューッ!」
パチパチパチパチ……! と、さっきまで「事件だ」「警察だ」と大騒ぎしていた野次馬たちから、一斉に温かい大拍手が沸き起こった。通行人たちが皆、笑顔で二人を囃し立てている。抱き合ったまま、さらに赤くなって縮こまる二人。
「……やったね」
路地裏の闇の中で、カナは小さくガッツポーズをしながら、安堵の息を漏らした。その横で、エリスが満足そうに口元を歪める。
「荒療治だったけれど、大成功ね」
その時、遠くの大通りから、ウーウーと空間を切り裂くようなサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。
「お巡りさんが来る前に、退散するわよ」
エリスは重力から解き放たれたように、ふわりと上空の闇へと飛び上がった。カナもそれに遅れじと、漆黒のコートを羽ばたかせて後を追う。
地上の騒音と、警察車両の赤いロータリーランプの光が、またたく間に遠ざかっていく。沸き起こる拍手と歓声に包まれた二人の姿が、豆粒のように小さくなっていった。
(本当によかった。これでもう、すれ違わずに済むね)
カナは速度を上げ、どこまでも深く、澄み切った夜空を仰ぎ見た。
祝福を贈るかのように、満天の星々が、ただ静かに優しく瞬いていた。
──THE END──




