表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/8

斜陽が差す銀髪と黒髪密室は二度繰り返す

 

 図書室の、どこか立て付けの悪い木製の扉を、俺は処刑台のレバーでも引くような心持ちで押し開けた。


 途端に、放課後の廊下の喧騒がふわりと遠のき、代わりにインクと古い紙が混じり合った、図書室特有の静謐な空気が肺を満たす。窓から差し込む西日が、宙を舞う微かな埃を黄金色に染め上げていた。普段ならこの静寂は、戦場のような日常から逃れるための避難所になるはずなのだが、今の俺にとっては、これから始まる未知の試練を告げるカウントダウンの音にしか聞こえなかった。


「あ。真田くん、こっち」


 結衣が、制服のスカートをふわりと揺らしながら、迷いのない足取りで棚の奥へと進んでいく。

 俺がその後を追おうと一歩踏み出した瞬間、背後から物理的な質量を持ったかのような強烈なプレッシャーを感じて首を巡らせた。


 そこには、腕を組みながら壁に寄りかかる織一と、袖を掴もうとして空を切った手を恨めしそうに握りしめる紗奈の姿があった。織一の瞳は、規律を守らぬ不届き者を監視する鷹のように鋭く、紗奈の視線は、大事な宝物を奪われた子供のような悲痛さと、それを許さないという執念が混ざり合っている。


 そして、その二人をニヤニヤと眺めながら、

 パパ、頑張って!と無音で口パクを送ってくる衣織。この野郎…お前、絶対に楽しんでるだろ。ただその衣織の余裕が、今の俺には一番の恐怖だった。


 ヤバイ。扉が閉まる直前に視界に入った紗奈の目が、完全に光を失っていた。バキリ…ザバァ…。

 決して漏らしたわけではない。俺の精神に、新たな、そして今までで最大級の亀裂が入った音だ。


「……真田くん? どうかしたの?」

「い、いや。なんでもない。さっさと終わらせようぜ、結衣」


 俺たちは図書室の最奥、美術系の大型本が並ぶコーナーへと辿り着いた。ここは他の棚よりも高さがあり、入り組んだ配置になっているため、入口からは完全に死角になっている。


 結衣が立ち止まり、細い指先で上方の棚を指差した。


「これ、新しく入った画集なんだけど。重くて、上の棚に届かなくて」


 彼女が指差したのは、確かに俺の腕ほどもある厚みの画集だった。現代美術等を網羅したそれは、十数冊も積み重なればかなりの重量になる。それを、かなり上にある最上段へ収めなければならない。


「任せろ。これくらい、お安い御用だ」


 俺は少しでも早くこの密室から脱出すべく、制服の袖をまくって作業に取り掛かった。隣で結衣がありがとうと、鈴を転がすような声で囁きながら、本を俺に手渡してくれる。その際、彼女の白く透き通るような指先が、俺の手の甲に微かに触れた。


 体育の授業からもう数時間は経っているはずなのに、触れた場所からじわりと熱が伝わってくる。いや、熱いのは俺の体温の方だろうか。


「真田くんの手、温かいね。もう放課後なのに、まだ熱が残ってるみたい」

「あ、ああ。そうかもな。今日は一日中、なんだか落ち着かないからさ」


 本棚に挟まれた、幅一メートルにも満たない狭い通路。


 結衣の銀髪が、夕日に透けて幻想的な輝きを放っている。彼女が重い画集を持ち上げるたびに、制服の生地がピンと張られ、その下にあるしなやかで豊かな曲線が嫌でも意識させられた。昼間の更衣室で亮太が騒いでいた言葉が、今この至近距離で、圧倒的な真実味を持って俺の脳を揺さぶる。


 彼女が本を渡すたびに、ふわりと甘い、花の蜜のような香りが鼻をくすぐる。


 静寂の中で、俺の動悸は昼間のバスケの試合中よりも激しさを増していた。その音が、図書室の薄い壁を越えて、外で待つ三人にまで聞こえてしまうのではないかと、俺は生きた心地がしなかった。


「真田くん。私ね、さっきの体育館での言葉、嬉しかったよ」


 最後から二冊目の画集を受け取ろうとした時、結衣が動きを止めて俺を見上げた。


「言葉? ああ、ポニーテイルのことか」

「うん。私だけを見ててほしい、なんて。言ったら困るかな?」


 結衣の潤んだ双眸が、じっと俺の瞳を射抜く。その瞳の奥には、夕日のオレンジ色が溶け込み、吸い込まれそうなほど深い熱が宿っていた。

 返事に詰まり、肺に溜まった空気が抜けていくような感覚に陥った。その時、絶妙な、あるいは最悪なタイミングでそれが聞こえた。


「真司。まだ? ちょっと時間かけすぎじゃない?」


 木製の扉という、あまりにも頼りない境界線を越えて、紗奈の、低く、湿り気を帯びた声が漏れ聞こえてきた。小窓からは彼女の影さえ見えないが、扉に耳をぴったりと押し当て、こちらの微かな吐息さえも逃すまいとしている気配が伝わってくる。


 続いて


「紗奈、静かにしろ。真田、あと三分だ。それを過ぎたら強制執行する」


 織一の、感情を排した冷徹な宣告が響く。彼女の声はどこか硬く、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。


「…あはは。外の皆、元気だね。紗奈ちゃんも、織一ちゃんも」


 結衣が、少しだけいたずらっぽく、慈しむような笑みを浮かべた。彼女は俺の制服の裾を、さっきの紗奈と同じように、けれどより静かな、決して離さないという意志の籠もった力で握りしめる。


「もう少しだけ。あと一冊、終わるまで。私だけの真田くんでいて」


 脳内で、衣織のあの言葉が警報のように鳴り響く。


『ママはね、パパが困ってる顔を見るのが、好き』


 結衣、お前なのか? この、守ってあげたくなるような可憐な文学少女の仮面の裏に、俺が外の二人に怯え、板挟みになって困惑する姿を、特等席で楽しんでいる未来の嫁なのか!?


 俺は冷や汗を拭いながら、最後の一冊を棚にねじ込んだ。


「よし、終わった! 行こう!」


 半ば逃げるように、俺は結衣を促して図書室の扉へと向かった。


 扉を開けると、そこには案の定、腕組みをして眉間に深い皺を刻んだ織一と、鬼の形相で自分の親指を噛んでいた紗奈、そして、ぶんぶんと手を振る衣織がいた。


「よし、次は委員会室だ。真田、行くぞ」

「ちょっと、私と衣織ちゃんで、真司と一緒に帰るって約束してるんだから」

「紗奈、公務が先だと言っただろう。真田、私の後ろを歩け。いいな?」


 織一が、有無を言わさぬ手つきで俺の腕を強引に引き寄せる。彼女の細い指先は、まるで限界まで張り詰めた弦のように僅かに震えていた。


 ふと、隣を歩く衣織が、俺の脇腹をこれでもかという角度で肘打ちし、誰にも聞こえないような小声で囁いた。


「ねえパパ。今の織一ちゃん、最高に独占欲って感じじゃない? ママもね、パパが他の女の人と仲良くしてると、ああやって何かと理由をつけてパパを連れ去るのが得意だったんだよ」


「衣織。お前、さっきからヒントを小出しにして俺を混乱させて楽しんでるだろ」


 俺も声を潜めて応じる。すると、衣織はさらに顔を近づけ、秘密を共有するような共犯者の笑みを浮かべた。


「いい? 内緒だよパパ。未来のママはね、超が付くほど優しいパパ専業の主婦なの。だって、パパが大好きすぎるから!」


 その単語が、今の俺にはひどく重く、そして甘美で恐ろしい響きを持って聞こえた。


 もしその嫁が、家で俺のことだけを考えて、俺が他の女と話していないか監視するような生活を送っているとしたら。


「はぁ。お前、未来からほぼ手ぶらで来たからって、俺を観察して暇つぶししてないか?」

「あ、図星! だって、こっちに来てから自分のスマホもないんだもん。パパの困り顔以外に娯楽がないんだよ」


 衣織はそう言うと、俺の腕を不意にぎゅっと抱きしめてきた。


「ねえ、パパ。今度のお休み、二人でお出かけして、衣織にスマホ買って? 約束だよ? 衣織もママみたいに、パパのこと一日中追いかけ回したいんだから!」

「親子揃ってストーカー気質かよ。分かった、約束だ。今度買いに行こう」


 実の娘からの、微笑ましくも恐ろしいおねだり。


 委員会室へ向かう廊下、右からは紗奈の嫉妬の熱波が肌を焼き、後ろからは結衣の静かな執着が背中を突き刺し、前からは織一の強硬な支配が俺を牽引する。そして横には、未来からの最強の観客が、期待に目を輝かせている。


「真田。報告書が終わったら、今日はそのまま帰っていい。…紗奈たちが待っているんだろう?」


 委員会室のドアを開けながら、織一が背を向けたまま、消え入りそうな声で呟いた。その声の震えは、彼女が抱える寂しさの裏返しなのだろうか。それとも、彼女もまたルールという鎖で自分を縛り付けているだけなのだろうか。


「ああ。終わらせよう。すぐに」


 夕日が廊下を血のように赤く染め上げ、俺たちの長い影が、まるで運命の鎖のように複雑に絡み合っていた。


 木製のドアが閉まり、背後でカチャリと小さな音が響く。


 

 放課後の委員会室。

 広々とした室内には、整然と並べられた長机。窓から差し込む斜陽が、床に細長いオレンジ色の帯をいくつも作り、宙を舞う埃さえも静止しているかのように見えた。


「座れ。作業を始めるぞ」


 織一は俺の目を見ようともせず、事務的な口調で命じた。だが、その声は心なしか、普段よりも一段低いところから、自分を律するように絞り出されている。俺たちは向かい合わせに座り、報告書の下書きを広げた。


「真田。」


 と名前を呼ぶ織一の小さな声


「ん、なんだ?」

「図書室で結衣と、何をしていた。画集を片付けていただけにしては、時間がかかりすぎていたようだが」


 彼女が結衣を名前で呼ぶたび、そこに宿るひりつくような緊張感が伝わってくる。


「いや、大型の画集だったからさ。結衣の手じゃ届かないところもあったし。」

「そうか。結衣は、見かけによらず計算高いところがあるな。お前のような無防備な男を、ああいう死角の多い場所に連れ込むなど、最初から意図的だったに違いない」


 織一のペンの先が、報告書の紙を鋭く突き刺した。


 彼女は顔を上げない。だが、握りしめたペンの軸が、ミシミシと悲鳴を上げているのが分かる。


「お前は、風紀委員だろう。それなのに、監視の目がない場所で異性と不適切な距離を保つなど、私の指導不足と言わざるを得ない」

「不適切な距離って、ただの手伝いだってば。それに、織一だってさっき、廊下で俺の腕を」

「それは、連行だ!」


 織一が勢いよく顔を上げた。


 夕日に照らされた彼女の瞳は、琥珀色に輝き、その奥に激しい動揺を隠しきれずに揺れている。


「貴様がフラフラと、あちこちの女にいい顔をするから、私は…っ」


 言葉が途切れる。


 織一はハッとしたように口を噤み、再び視線を書類へと落とした。彼女のポニーテールが、感情の昂ぶりを隠すように激しく揺れる。これほどまでに彼女を動揺させているのは、単なる規律の問題なのだろうか。


「私は、秩序を守りたいだけだ。規律が乱れ、お前が結衣や、紗奈に独占されるような事態になれば、それは学校の、いや、私の管理責任に関わる」

「管理責任って、俺は織一の備品じゃないんだから」


 俺は少し困ったように笑った。だが、彼女の頑なな態度の裏にある何かに、胸の奥がわずかに疼く。


「真田、手を貸せ」

「え?」


 織一が、机越しに震える手を差し出してきた。

 俺が戸惑いながらもその手を握ると、彼女の手のひらは驚くほど冷たく、そして力強く俺の指を絡め取っ

 た。


「これは、脈拍の確認だ。お前が図書室で、結衣を相手に不適切な興奮状態に陥っていなかったか、チェックする必要がある」

「脈、なら手首の方がいいだろ。指を絡めたら、正確には測れないぞ」


 俺は彼女の手の熱に戸惑いながら言った。


「黙れ。少しの間、このままだ。いいから、黙っていろ」


 織一は目を閉じ、深く息を吐いた。

 冷たかった彼女の手のひらが、俺の体温を吸い取って、徐々に熱を帯びていく。


 夕暮れの委員会室。二人きりの空間で、絡めた指先から彼女の鼓動がダイレクトに伝わってくる。ドクン、ドクンと、規律正しいはずの彼女の心音が、今はひどく乱れているのが分かった。


「よし。異常なしだ」


 その後は何秒、何分かわからないが、絡めていた指先を織一はパッと手を離し、何事もなかったかのようにペンを再び握った。


 だが、その耳たぶは、夕焼けのせいだけではない、鮮烈な朱色に染まったままだ。


「報告書は、これで完成だ。真田、今日はもう行っていい。紗奈たちが、外で痺れを切らしているだろう」


 彼女は背中を向けたまま、静かにドアを指差した。


「ああ。また明日な、織一」


 俺が立ち上がり、ドアへと向かう。


 背後で彼女が小さく、明日も、私の視界に入る位置にいろ。と呟いたような気がしたが、振り返った時には、彼女はもう次の書類の山に顔を埋めていた。

競馬と仕事に傾倒していたら4ヶ月も経ってしまっていた。

そして回収率は鬼のマイナス域…賭博辞めます。


まあ仕事は辞めませんが笑

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ