授業中の囁きと放課後の包囲網
昼食時の、あの喧騒と熱気が嘘のようだ。
窓から差し込む午後の陽光は、埃のダンスを教室の隅々に描き出し、天井の扇風機が緩やかに回る羽の音だけが、停滞した重い空気をかき混ぜている。教壇に立つ教師の、抑揚のない単調な講義は、もはや心地よい子守唄にしか聞こえない。
だが、俺の意識は一点に留まっていた。先ほど、未来から来た自称・愛娘の衣織から投げつけられた未来の断片が、脳内で不協和音のように何度もリフレインしているのだ。
『ママはね、パパが頑張った人を放っておかないところが好きなんだ。あ、でも、パパが怒られたりして悲しんだり、困ってる顔を見るのも、実は好きだったりするんだよ』
一体どっちなんだよ、と心の中で毒づく。
一方は、美談だ。困っている人を放っておけない、誠実で利他的な男。もし俺にそんな一面があるのだとしたら、素直に喜ばしいことだろう。だが、もう一方はどうだ。俺の困り果てた顔、情けない姿を見て楽しむサディスティックな趣味。そんな歪んだ愛情を俺に向ける嫁が、この中の誰だというのか。
俺はため息を飲み込み、少し体を右側に傾けて、後ろの席の織一に視線を送った。
彼女はいつも通り、背筋を定規で引いたように真っ直ぐに伸ばし、一心不乱にノートを埋めている。時折、さらりと流れる黒髪のポニーテールが、彼女の厳格な美しさを際立たせていた。
「なぁ、織一」
声を潜め、前を向いたまま呼びかける。周囲に悟られないよう、最小限の音量で。それだけで、織一のポニーテールが、警戒する猫の耳が動くように微かに揺れた。
「何だ真田。今は授業中だぞ。風紀委員のお前が自ら規律を乱してどうする。後で相応の罰則を科してもいいんだぞ」
返ってきたのは、相変わらずの鉄面皮な言葉。だが、その声の輪郭はどこか柔らかい。彼女の視線は教科書に向けられたままだが、俺の言葉を拒絶していないことは、そのわずかな間でわかった。
「悪い。午後の委員会、何か急ぎの仕事あったっけ? ちょっと頭が回ってなくてさ」
すると、織一はペンを止めた。カツンと小さな硬い音が机に響く。
「はぁ。お前というやつは。今日が生徒会への月間報告書の提出期限だと言っただろう。忘れたのか。あれほど念を押したというのに。貴様の脳細胞は、昼食の唐揚げと一緒に咀嚼されて消えたのか?」
織一がジト目で、俺の横顔を射抜くように見た。冷ややかではあるが、どこか呆れたような、面倒見のいい姉のような眼差し。その怒った顔を見ていると、どうしても衣織のヒントが頭をよぎる。いや、まさかな。織一は規律を重んじる人間だ。俺が困るのを楽しんでいるようには見えないはずだ。だが、その冷徹な視線の裏に、微かな愉悦が混じっていないと言い切れるだろうか。
「悪い、すっかり抜けてた。今からでも間に合うかな」
俺が少し気まずそうに頭を掻くと、織一はフンと小さく鼻を鳴らした。
「いい。放課後、私が手伝ってやる。下書きさえあれば、清書はこちらで引き受けよう。その代わり、放課後は真っ直ぐ委員会室に来い。いいな? 逃げたら明日の朝、校門で全校生徒の前で全力で説教するから
な。覚悟しておけ」
「ああ、助かるよ。恩に着る」
俺が困りながら小さく笑うと、織一は感謝するなら、もう少し真面目になれと呟き、バツが悪そうに急いで顔を逸らした。
その瞬間、俺は見てしまった。彼女の耳の付け根から、襟足にかけての真っ白なうなじが、先ほど体育館で褒めた時のように、ほんのりと熱を帯びた朱色に染まっているのを。
そして。そんなやり取りを、俺の死角から見守る視線があった。
左前方、衣織だ。彼女は授業などどこ吹く風で、頬杖をつきながら、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべてこちらを凝視している。俺と目が合うと、彼女は楽しげに指を動かし、音を出さずに口パクで告げてくる。
『ね? 困ってる顔、好きそうでしょ?』
頼むから前を向いて授業を受けてくれ、娘よ。父親の初々しい恋愛模様をエンターテインメントにするのはやめてくれ。俺は頭を抱えたくなった。衣織のヒントは、あまりにも「今」の状況に合致しすぎていて、それがかえって俺の猜疑心を煽る。
やがて、終業を告げるチャイムが校舎内に響き渡った。
それは学生たちにとっては解放の合図だが、俺にとっては、より複雑な戦いの始まりを告げるドラの音だった。
織一に言われた報告書のことを考え、俺が机の中を整理し始めた、その時だ。
ドサッ、と真横の机にカバンが置かれた。物理的な音以上の、目に見えない強烈な圧力を俺は感じた。
「真司。まさか、お昼話した今日一緒に帰る約束とおでかけ、忘れたわけじゃないわよね?」
振り返ると、そこにはすでにカバンを肩にかけ、完璧な帰宅モードをセットした紗奈がいた。彼女の顔には、逃がさないと言わんばかりの、どこか暗い光を宿した笑顔が張り付いている。幼馴染特有の「当然の権利」という名の圧力が、空気を重く沈ませる。
「あ、いや。織一と委員会の報告書を提出しなきゃいけないんだ。今日が期限でさ」
「ダメよ。約束は約束。衣織ちゃんだって楽しみにしてるんだから。ね、衣織ちゃん?」
紗奈が味方を求めるように話を振る。すると、いつの間にか紗奈の隣に、影のように並んでいた衣織が、パッと花が開くような明るい笑顔で大きく頷いた。
「うん! お兄ちゃん、約束だもんね。織一ちゃんの委員会は、明日まとめて頑張ればいいんじゃないかな? せっかく三人で帰れるって、紗奈ちゃんも張り切ってるんだよ?」
衣織、お前…! 味方だと思っていた実の娘が、ここでは俺を逃がさないための外堀を埋める側に回っている。父親の苦境を楽しむ姿は、まさに先ほどのヒントそのものではないか。
その言葉を聞き逃さなかったのが、後ろの席で荷物をまとめていた織一だ。彼女は凛とした態度で立ち上がり、紗奈の視線を正面から受け止めた。
「なっ。真田、委員会を蔑ろにするな。報告書は今日中だ。これは学校の公式な公務だぞ。遊びの約束と一緒にされては困る。風紀を預かる身として、無責任な行動は断じて許容できん」
「あら織一。真司は私と、その、いつもの帰りとそれからお出かけとかの特別な約束もあるのよ。委員長なら、他人のプライベートも尊重すべきじゃない? 堅苦しいルールで縛り付けてばかりじゃ、真司に嫌われちゃうわよ」
紗奈の言葉に、織一の眉間にぴくりと筋が寄る。
「嫌われる云々の話ではない。プライベート以前に、彼は委員としての責務があると言っているんだ。責任感のない行動は風紀を乱す原因になる。真田、どっちなんだ。規律か、馴れ合いか。はっきりしろ」
バチバチ、と。
二人の美少女の間に、目に見えるほどの火花が散る。教室の空気が、体育の授業の時よりも緊張感で張り詰めている。周囲の生徒たちが何だ何だ?と野次馬のような視線を送ってくるのが、刺すように痛い。
だが、嵐はこれだけでは終わらなかった。
「あの。真田くん」
二人の睨み合いの隙間から、消え入りそうな、けれど確かな意志を持った声が響いた。
振り返ると、そこには銀髪を窓際の新緑のような光に透かした結衣が立っていた。彼女は自分の胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、上目遣いで俺を見つめている。
「真田くん。あの、図書室の整理。今日、手伝ってくれるって言ってくれたから。私、ずっと待ってて…」
その瞬間、俺は思い出した。昼休み、彼女と図書委員の話をしていた際に、「人手が足りないなら手伝うよ」と軽口を叩いてしまったことを。
「えっ、結衣まで!?」
紗奈が叫ぶように結衣を凝視する。
「図書室の整理? 真田、貴様は一体いくつ身体があれば気が済むんだ」
織一の冷徹な声が、さらに一段低くなった。
三方向からの視線。三方向からの要求。俺はまさに四面楚歌の極みに立たされていた。
そして、衣織はといえば。
「あーあ、、板挟みだねぇ。どっちを選んでも地獄、選ばなくても地獄。ふふふ、頑張れ! 今すっごくママ好みの困り顔だよ!」
楽しそうにニコニコしながら、そのカオスな状況を特等席で観賞している。
俺は冷や汗を流しながら、三人の視線に挟まれて立ち尽くすしかなかった。誰を選び、誰を後回しにするか。この選択が、未来の嫁の機嫌を損ねる決定打になるかもしれない。俺の明日からの学校生活が、文字通り風前の灯火だ。
「わかったよ。みんな、落ち着け」
俺は絞り出すように声を出し、苦肉の策としての妥協案を提示する。
「紗奈、今日の帰りもお出かけの約束は守る。絶対に一緒に行くよ。けど、その前に少しだけ時間をくれ。まず、結衣の図書室整理を十数分だけ手伝う。重い本だけ片付けたらすぐ行く。その後に委員会室に寄って、織一に下書きと清書用のデータを渡す。それさえ済めば、あとは自由だ。織一、これなら今日中に間に合うだろ?」
俺の必死の提案に、三人は互いに不満げな、鋭い視線を交わし合った。
「少しだけなら、いいわよ。委員会の入口で、衣織ちゃんと待ってるから」
「妥当な判断だな。清書はこちらでやる。だが下書きを渡すまで、私はここを動かんぞ」
「ありがとう、真田くん。うれしい、です」
結衣だけが、控えめに、けれど勝利を確信したような小さな笑みをこぼした。
結局、俺は右に紗奈、左に衣織、後ろに結衣、そして少し前を、毅然とした背中で歩く織一という、クラス中の全男子から呪われ、刺されそうな布陣で教室を後にすることになった。
夕日に染まる長い廊下を、俺たちは無言で歩く。
床に伸びる五人の影が、オレンジ色の世界を切り裂いていく。
前を行く織一のポニーテールが、規則正しい足音に合わせて左右に揺れている。彼女の背中は、いつになく強固な壁のように見えた。
一方で、右隣を歩く紗奈は、俺の制服の袖を指先でぎゅっと掴んでいる。彼女特有の、甘く、けれどどこか焦燥感を感じさせる香りが鼻先をかすめた。彼女の視線は、時折後ろの結衣に向けられ、警戒心を隠そうともしない。
後ろから付いてくる結衣の足音は静かだが、その存在感は無視できないほど重い。彼女は時折、俺の背中を見つめては、満足そうに吐息を漏らしている。
そして左隣の衣織は、まるでお散歩を楽しむ子供のような足取りで、時折俺に視線を向けては「パパ、大変だね」と言わんばかりの含み笑いを送ってくる。
ふと、衣織が俺の耳元に身を寄せた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「…何だよ」
「ママはね、こうやってお兄ちゃんが女の子たちに振り回されて、悲しそうな、そして情けない顔をしてるのを見るのが、世界で一番好きだよ。だから、今のお兄ちゃんは、未来のパパとおんなじで完璧な姿なんだ」
その囁きに、背筋がゾクリとした。
頑張った人を放っておけない誠実さと、困っている顔を嗜虐的に愛でる感情。
その矛盾した二つを併せ持った「嫁」が、今、俺の周囲を取り囲むこの三人の女友達の中にいる。
俺の心臓は、放課後の嵐を予感して、授業中の居眠りなど到底不可能なほど、激しく、痛烈に鳴り響いていた。
図書室へ向かう角を曲がる時、夕日がより一層赤く燃え上がった。
俺の平穏な日常は、衣織という存在が現れた日から、もう二度と戻らない場所まで流されてしまったのだと、改めて痛感させられた。
前方で足を止めた織一が、図書室の扉の前で振り返る。
その瞳に映る俺は、果たして彼女の望むものなのだろうか。それとも。
「着いたぞ。図書委員の整理が先なんだろう? 真田、早く済ませろ。私は、ここで待っている」
織一は腕を組み、壁に寄りかかった。紗奈もまた、俺の袖を離さずに睨みを利かせる。衣織はこの修羅場を目に焼き付けたいのかニヤニヤしている。
事務的な言葉の裏に隠された熱を、そして背後に立つ結衣の静かな期待を、俺はまだ、正しく読み解くことができずにいた。
毎度投稿した後に再編集をしている気がする…
気づくのが遅い!




