消灯のお時間
「官邸全域が壊滅状態……皇太子様はヘリに回収され、既に排斥派と合流した……と。素晴らしい。さて……そろそろか」
司令官は、時計とパソコンを見比べる。
暫くほくそ笑んでいると、遠くで自動ドアが開いた。全身に返り血を浴びた天夢の姿があらわれる。
「三極院、よくやった」
「只今」彼女は襟を正してからロビーを進んできた。
「ご苦労だったな。まさかここまで計画通りに決めてしまうとは流石だ」
「光栄です」小さく添えて天夢は一歩下がった。「しかし、少しお待ちを。まずはバッテリーの整備をお許し下さい」
「ふふん」司令官の口元が緩む。「砲を使いすぎるなよ。無理をして搭載させたんだから」
「分かっております」
天夢は開発室へ向かう階段を見据える。視界の端に、白い布切れのようなものを見つけた。
「あら、ごみが…」無菌室並みの清潔な部屋であるだけに、天夢は気を引かれる。
歩み寄って拾い上げると、何か冷たいものが背中に流れるような感覚があった。初めて味わった痛みに、天夢は後ずさる。
「なんだ?」司令官が怪訝に頬杖をつく。
「この布…誰の服ですか」
「知らんな。それより早く整備したらどうだ」
「……」何か引っかかる。なぜ司令官はただの布を服だという前提で返答したのだろう?口調もどこか焦っているようだった。なによりも……。
「……これ、女性用の服では——」
「だったらなんだ。早くしろ」
司令官は憤慨して手を払った。天夢の眉尻が下がる。
「なにを隠してらっしゃるんです……?」
「やけに反抗的だな」司令官はせせら笑った。「こんなめでたい日くらい、落ち着いたらどうだ」
天夢の頭に様々な可能性が巡る。この程度のやり取りは何度かしたが、ここまで拒絶されるのには何らかの理由があるはずだ。
しかし司令官は睨み合いもそこそこに席を立つ。呼び止める間もなく、足早に角の奥へ消えてしまった。
「一体なにが……?」
釈然としないまま視線を戻し階段へ足を踏み出す。
しかし何かとっかかりのような抵抗が天夢を足止めしてきた。速くなる鼓動に反比例するように、足の動きが鈍くなってくる。
「なぜ…」
目に力を込めて手元の布を睨む。見ているうちに背中から力が抜けていく。これは――。
天夢は息を呑みこんで足の向きを変え、司令官を追うように歩き出した。彼の歩んだ先には初めて見る鉄の階段があった。躊躇いながらも足音を消して登る。
「これは、光が……いちばん大事にしていた服です」
「なんで…」
「なんで……」
「なんで…………!」
最上階まで歩くと、暗い廊下の隅にそいつはいた。司令官の背中が小さく目に映る。
「……よく違和感に気付いたものだな。鈍い奴だと思っていたが」せせら笑うような声。
空気が一気に張り詰めた。天夢はおびえたように拳を握る。
「何をなさっているのですか……!」
「お前は、知らなくていいことだ。帰れ」
「……」温度のない声を返され、天夢は顔を上げた。
この男が何を言おうと、天夢は退く気を起こさないと決めた。
「教えてください。私には知る権利があるはずです。ここまで尽力してきたのに……」
「はぁ?」司令官が振り返り、目を丸くした。
「何を言っている?お前は、そんなものが許されると考えているのか?」
「へ…?」
天夢の脳裏に、かつて路上で誰かが叫んでいた言葉がよぎった。人工生命にも求められる人権があるだろう、と。それなのにこの男は?思えばいつもこうだ。
「指令。及び無い話だと仰るならば、私への不都合と解釈してよろしいでしょうか。例えば、姉を手に掛けるようなマネを――」
怒りをあらわにしたその言葉に、司令官は震える。
「いいから黙って帰れ…命令だ」
天夢は確信を得た。立ち止まる司令官を抜き去り、片開きのドアに手をかける。
「おい、お前――」後ろから手が伸びてきた。天夢はさらりと躱して地面を強く踏む。
「邪魔しないでください」僅かに振り返り、司令官を制する。「この部屋なのですね?」
「おいおい、なんだその態度は――」司令官は靴下に着火されたようにあわただしく手首を振った。
「……」
天夢はドアに向き直り、指先に全霊を込めて開いた。
そこは、フェンスのない屋上へと続いていた。
「あ――——」
「て、ん……天夢?」
「光。これは、なんですか…。その傷は…?」
「助けて……!」
「どうして――」
「死にたくないよ……!」
「っ。司令官、光に何したんですか!!!!」
「落ち着けよ」
「光に何をしたと聞いているんです!!!」
「クソが。邪魔をするな」
「ッ……!!!」
「待って、待って――」
「姉さん!!」
「体が熱いよ…やめて。許して」
「うるさい」
「何を――。ッ、ふざけないでください!!!今すぐ助けないと死んでしまいます!!」
「そんな無能に未練はないだろ」
「なっ……どうしてそんなことを!!姉をどうしようと!!!?」
「ああ、お前には言ってなかったか。こいつは処分する」
「はっ…?司令官…今なんて――。正気ですか!!??」
「おお、風が強いな。もうすぐ真っ逆さまに落ちるんじゃないか」
「……やめっ…話を――」
「ひぃ……助けて」
「はっ……!!?光!!!!!待っ——」
「天夢…ごめんね…」
「て……」
「あ…」
「あ…」
「えっ…」
「は……?」
「…………」
「あっ」
*
頭が冷えた頃には、なにも聞こえなくなっていた。
男の影がどこにも見えなくなると、天夢は立ち上がり、亡霊のような形相で屋上のドアを叩き壊した。階段を下った。腕をだらりと垂らし、窓を割り、彷徨うように外に出た。
ビルの隙間を歩き、屋上の真下で足を止めた。
一面は時が止まったように静かで、壁を這うトカゲと空に去ってゆくハトだけが視界を流れていった。冷たい風を運んでくるフェンスを離していよいよ視線を動かすと、足元に金色のペンダントが転がっていた。
「………」
雨が降ってきて、天夢は膝から崩れ落ちた。
「言われた通り、生きて帰ってきました。だから……起きてくださいよ……」
みだれ髪に収まった光の表情は虚ろだったが、どこまでも綺麗に整っていた。世界で最も美しい顔だと思えた。首から下は……見たくもなかった。
「て、ん……」
見直すと、光の眼が微かに開いているのが見えた。
「光……?」顔を押さえた指の隙間から覗く。信じられなかったが、光は笑って天夢の手を握っていた。
「光!!」天夢は光の手を強く握り返した。指が3本千切れた姉の左手を両手で持ったら、全身が酷く震えてきた。
「よかった、いきてる……」光は囁くような掠れた声を絞り出した。
「なに言ってるんですか、あなたは……」
「わたし、つらくないよ」
微笑む光の頬に、天夢は涙を落とした。
「なんで……?」
「……だって……しょうがないでしょ」光の顔はどうしようもないくらいに恍惚としていた。天夢にはその意味が分からなかった。
「でも私は、姉さんに……まだ、なにも……」
人間なんて、社会なんてどうでもよかった。生きてさえいれば。一番近くにいたはずの人でさえ、こんな姿になるまで眼を見て話せなかった。それでもひとつだけ、天夢の心の中で、絶対にやらなければいけない事はあった。
「私はまだ姉さんに、なんの夢も……見せていないんです」零れる涙と唇から出た血、そして降り続ける雨が混ざりあった。
「なに言ってるの?きみが生まれるずっと前から、きみは……わたしの――」
「……」
午前3時11分14秒46。彼女は世界の片隅でひとりになった。
さみしい夜に響く甲高い足音に、大粒の水滴が跳ねる音が混ざった。