診療所にて 二
秋から冬へ移り変わろうとしていた。冷たい雨が、朝から降り続いている。
夜が明けて暫くして、薄暗く寒い中、ノマは少し前に生まれた赤子が熱を出したと赤子の父に呼ばれ、薬箱を担いで傘を被り、二つ隣の村まで出掛けていった。
昼になろうかという時刻。ルークはじっと布団に横になって、じくじくとした傷の痛みを堪えていた。体全体がじんと発熱し、傷は特に熱く、思考と感情が苦痛に飲まれないよう、必死に抗う。
何度、窓辺で読書するカヤルに話しかけようとしただろう。その度に口ごもり、右手を左耳にやり、口を開き、そして閉じてを繰り返していた。
やがてルークは意を決し、体を起こす。
「何か……兄上達に俺の無事を知らせる方法はないか」
この地を治める領主に目通りを願う、という案は、領地名を聞いた瞬間に却下した。それは長く兄王に対立する意地の悪い領主の名だった。どんな不利な交渉材料に使われるかわからない。兄の不利になることは、なんとしても避けたかった。
「春になったら必ず送り届ける。それじゃ駄目なのか。」
ぱさり、と本を傍らへ置いて、カヤルがルークへ顔を向ける。
「それだけでも十分ありがたいと思うよ……! でも……!」
日増しに焦燥感が胸を焼く。穏やかな暮らしの中で、取り返しのつかないことをしているような気分になる。怪我をしているのは自分で、動けないのは自分のせいだ。でも、だからこそ何もしないのが堪えられない。ルークは吐き出すように言った。
「無事だと知らせることができれば……! 文だけでもいいんだ……!」
「誰に読まれるかも知れない文に、王弟がこの村にいるとは書けないという話になっただろう。それに、迎えを請えばノマさんに迷惑がかかる。ノマさんに迷惑がかかることは、俺はしない」
カヤルは静かに言い切った。ルークは呻くように言う。
「それは俺も嫌だよ……! でも、何かないのか? 俺は無事だと知らせられる何か……! 少しでいいんだ。不確かでもいい。何か行動したい」
言葉が雨のように、ぼとぼとと落ちていく気がした。カヤルに届かず、誰にも響くことなく。ルークは俯き、呻いた。
「……きっと心配している……」
カヤルはじっとルークを見つめていた。その視線を、ルークは項垂れた頭部に感じる。
すべて口に出してしまってから、ルークは後悔の念に襲われた。感情のままに捲し立ててしまったが、理性では、怪我が治るのを待つ他ないとわかってはいるのだ。どうしようもないことを言葉にしてぶつけてしまった。これでは八つ当たりだ。
「ごめん。……お前は不思議な術を使うから、なんとかできるんじゃないかと思っただけだ。忘れてくれ」
「術は万能じゃあないが」
カヤルは気だるげな、面倒臭そうな口調で口を開いた。
「不確かで、少しでいいなら、一つだけ可能性のある術がある」
ルークは勢いよく顔を上げ、肩の傷に響いて顔をしかめた。
「成功させたいなら新月の晩だ。一昨日新月だったから、するとしたら一月近く先になる。難しい術だ。俺がとちって怪我させちまったから言うんだ。これをやったら、俺とお前は貸し借り無しだ。それでもいいなら」
「うん……! ありがとう!」
内心、そんなふうに思っていたのかと心苦しくも思ったが、否定も肯定もせず、傷が痛むのも構わずに、ルークは深く頭を下げた。
「恩に着る!」
昼過ぎには雨は上がり、カヤルは庭仕事をすると言って出ていった。薬が効いて熱も下がり、ルークは細く切るようにと指示のあった根菜を切っていた。
夕方になって、裏から薪を割る音が聞こえ始める。それは夜闇もだいぶ深まる頃まで響き続けていた。暗闇の中でどうやっているのだろう。
(そういえば、ここでこんなに一人になる時間は初めてだ)
窓の向こうの細い月を眺めやり、ルークは思う。歩けないルークの為だろう、ここに来てからカヤルかノマのどちらかは、必ずと言っていいほど声の届く距離にいてくれる。
王城に住んでいたとき、一人の時間が余ると、ルークは武術の稽古ばかりしていた。けれど今、怪我のせいでそれはできない。
体を動かしたい。鬱々とした気になるのは、体を動かしていないせいもあるに違いないのに。
ルークは淡々と、まな板の上に野菜を乗せ、小刀で切り続けた。
「なんだこれ」
その日の夜。ノマは結局帰ってこなかった。夕食には遅い時間になってからやっとカヤルは薪割りをやめ、家に入ってきて、ルークが用意した鍋の中を見て言った。
「なんだろうな……うん……」
ルークは曖昧に視線を逸らす。
「こういう料理、なんかあったよな?」
「見た目は焦げた糠漬けに見えるが……知らん。糠漬けは短時間じゃ作れないだろ。まあ、とりあえず食うか」
カヤルは土間へ行き、椀に朝炊いた雑穀米をよそうとルークへ手渡し、囲炉裏を挟んで胡座をかく。
「いただきます」
一口食べて、二人は同時に噎せた。
「ぐ、っ、ごほ! おま、なんだこれ、塩どんだけ入れたんだ」
「げっほ、ごほ! いや、一掴みくらい……」
「……なんて?」
「だから、一掴み。料理の単位であっただろ?」
カヤルはルークと、焦げた漬物もどきを交互に見、ふっと吹き出し、くっくっと子供には似合わない笑い方をする。ルークは極り悪く口をもごつかせた。
「悪かったよ……食材無駄にして。ずーっとまな板トントンやってると、料理出来そうな気がしたんだよ……」
見様見真似で適当にやったのは秘密だが。カヤルはくつくつと体を震わせて笑いを堪えている。
(なんだ、こいつ、ちゃんと笑えるんじゃないか)
「そういや、お前、王子様なんだよなぁ。忘れてたよ。まあこれも、米の進むおかずだと思えば庶民には有難いんじゃないか」
笑いを滲ませた声でカヤルは米を口へ入れ、漬物もどきを齧り、米を掻き込んだ。黙って咀嚼して、堪えきれなくなったように遂に吹き出し、カヤルは声を上げて笑い出した。
「ふっ、くっ、ははっ、あっははは!」
「そんなに笑うなよ……」
ルークも漬物を齧る。強烈な塩味と焦げの苦味、そして謎の酸味とえぐみ。つられてルークも笑い出した。
二人は暫く、声を上げて笑いあっていた。