荷馬車と逃走 四
どのくらいの時間が経ったのだろう。半時は経っていない気がするが、定かではない。カヤルは目を瞑り、体を起こしているのも辛いといった雰囲気で横になってしまった。眠ってしまったのかとも思ったが、荒い呼吸と、時折何か呟く声が聞こえる。
ルークは膝を抱えて、思案に沈む。癖で左耳を触ってしまう。
耳環を取り戻せるのか。王都まで帰れるのか。不安だが、今のルークにはどうしようもない。完全にカヤル頼みだった。
そしてルークは、カヤルのことを思う。横たわるカヤルは、苦し気に目を瞑っている。それは必死に何かを堪えているようにも見えた。
(こいつは、きっと、まともじゃない)
二人の男を伸したときの鮮やかな動き、自分の腕を切ったときの迷いの無さ、女の子を庇って殴られる音、人参の半分を差し出したときの驚いた顔。そして“それが一番難しいだろうけどな”という言葉──。
「信じるよ、カヤル」
ルークは聞こえないほど小さな声で、そっと囁いた。
「おかえり」
カヤルがはっきりと呟いた。物思いに沈んでいた意識が浮上する。見ると、栗鼠が戻ってきていた。一直線にカヤルに向かった栗鼠は持っていた小枝のようなものをカヤルに差し出すと、ルークの膝に乗り、頬袋から耳環を取り出すとぽいと膝に落とした。慌ててそれを拾い上げる。
祈るような気持ちでその少し欠けた小さな円を月光に翳す。刹那、耳環は紅く煌めいた。本物だ。
「ありがとう。君の生が、飢えもなく、病も怪我もないものでありますように」
カヤルは横になったまま、栗鼠の頭を指先で撫でる。栗鼠は残っていた野菜くずの所へ戻ると頬袋へ詰め込めるだけ詰め込み、夜闇へ走り去った。
「カヤル、ありがとう」
喜び勇んでルークは言った。しかしカヤルは聞いていないような、酷くぼんやりした手つきで小枝を確かめるように月光に翳す。
それは少し曲がった、簪だった。硝子玉に月明かりが反射して、優しく照り返している。
カヤルは両手で簪を握りしめた。無言のそれは、祈っているようにも、泣いているようにも見えた。
「俺は……少し眠る。お前も……少し、眠ってお、け……」
カヤルは絶え絶えにそう呟くと、戸惑うルークをよそに眠ってしまった。
こんな状況で眠れるわけがない、と思っていたが、連日の睡眠不足のせいか、いつの間にか眠っていたらしい。微睡みの中、何かを悪し様に言う険悪な声に、ルークははっと目を覚ました。
「ぜってぇあの気味の悪いほうがそういうもんだったんだ、俺にはわかる」
「そういうもんて呪い屋とかだろ? あのガキがか?」
「そうだ。ガキの頃俺の村にいた婆と同じ空気、同じ目だ。余計な仕事増やしやがって、見つけたらぶっ殺してやる」
「やめとけよ、そういうガキは西に高く売れんだろ? 売って高い酒でも飲もうぜ。つってももう、これだけ時間が経っちゃ遠くへ逃げてるだろうがなぁ……」
ルークは首を回してカヤルを見る。まだ、起きている気配がない。
寝返りをうつ。ざわざわとした不吉な予感を眠気で誤魔化して、ルークは微睡みの中へ沈んだ。
はっ、と目を覚ました。完全に眠っていた。幾分か体と頭がすっきりとしている。
空が白み始めていた。体を起こすと、カヤルも体を起こしている。
「おはよう。……体は、もういいのか」
カヤルは面食らったような、不思議なものを見たような調子で答えた。
「良くはないが……悪いとも言っていられない。問題ないよ。お前、馬術の経験は?」
「わりと得意」
「ならいい。ここを出たら奴らに見つかる。早急に馬に乗って脱出するぞ。もう少し、明るくなったら……」
カヤルは空を見た。ルークも空を見て時を計る。
「……なあ」
暫しの無言のあと、ルークは問いかけた。
「なんで、俺に協力してくれるんだ」
世界が色を取り戻していく。カヤルの表情が、だんだんとわかるようになっていく。問われたカヤルは、少し間をおいて答えた。
「人拐いが嫌いなんだ。王弟殿下に恩を売って、なんとかしてほしいだけさ」
ルークはその言葉を反芻する。そして、もう一つだけ訊いた。
「その、簪は……誰かの?」
少年は女物の簪を懐から出すと、悲しげに微笑んだ。それはルークが初めて見る、カヤルの微笑だった。
「親友の形見」