荷馬車と逃走 一
蹴飛ばされたような衝撃と、誰かの悲鳴で目が覚めた。
そこは、薄暗い荷馬車の中。数日前に王都の城下町で人拐いに遭い、目が覚めたときには既にここにいた。
両手を縄で縛られ、両足を鎖で繋がれた石の錠をした、十人程の少年少女が身を縮めるようにして蹲っている。年格好は疎らで、下は五歳、上は十六歳ほど、野袴を着た少年、行灯袴を着た少女、農民のように袴の裾を絞った者、貴族なのか小袖や筒袖の下に襯衣を着た者、様々だが、皆一様に目と髪は黒く、虚ろな表情をしている。その中の一人、古風に布で髪を結った下男の着物の少年が、傍らの小さな影を揺り起こす声が聞こえた。
「起きて。それは夢だよ」
先程の悲鳴は、悪夢をみた彼女のものなのだろう。幼い少女は体を起こして辺りを見回すと、それが現実であるとわかったのか、膝を抱え、声を殺して啜り泣き、時折しゃくりあげる。
「うるせぇぞ!」
業者台のほうから怒鳴り声と荷台を棒で殴る音。ほとんどの子供が耳を塞ぎ、身を縮める。
今、拐われて何日目だろう。この馬車はどこへ向かっているのだろう。皆は俺を探しているだろうか。見つけてくれるだろうか。思わず左手を耳にやるが、そこに耳環の感触はない。
何日か前、食事の配給で戸が空いた瞬間に逃げようとしたが、強かに腹を殴られ、耳環を取られ、僅かな芋すら与えられず、更に関係のない子供まで殴られてしまった。それは反抗の意思を折り、恐怖で縛りつけるには十分だった。
(それでも、俺は、俺だけは、逃げなきゃいけない)
この空腹で力の入らない手足で、隙をついて逃げなくては。例え残された子供達がどんな仕打ちを受けようと、自分さえ帰る事ができたなら、もうこんな思いをする子をなくす事ができる──そう思うのだが、残される子達への罪悪感が一層体を重くし、身動きができない。
車輪が木の根や石を踏む度、体に蹴飛ばされたような衝撃が走る。体があちこち痛む。誰かのうめき声。啜り泣き。家族を呼ぶ声。咳込む音。吐瀉物のすえた匂い。排泄物の悪臭。
ルークは心の中で謝って、抱えた膝に顔を伏せた。
荷馬車が止まった。いつの間にか微睡んでいたらしい。荷台の後方から光が差し込む。逆行の中男が言う。
「飯の前に、さっき騒いだ奴出てこい」
一番幼い少女がわかりやすくびくりとして、恐怖に目を見開きカタカタと震え始める。それを見て、何度も反芻した兄の言葉で自分を奮い立たせる。
「──俺だ」
という言葉は、ルークが言うよりも先に、誰かの気だるい声で形になった。男は舌打ちしてその少年に荷台から出るように言い、少年はガチャガチャと足枷の鎖を引きずりながら出ていく。別の小柄な男が入ってきて、子供達に水と野菜を与えてまわる。外から人体を殴打する鈍い音。男達の悪態、下品な笑い声。
「おい、それくらいにしとけ、商品なんだから」
「気味悪ぃな、このガキ」
「まあ気持ち悪いガキだけどよ、こいつは高値がつくぞ」
「この面見てると殴りたくなってくんだよ」
「違いねぇ」
拳を握りしめて奥歯を噛み締める。「おい、お前」 言われて水の入った椀を差し出され、反射的に受け取って飲み干して、渇きの変わりに罪悪感が喉を焼いた。せめてもの罪滅ぼしに、与えられた人参は半分だけ囓って懐へしまった。
「起きろ」
目を開けると、そこは相変わらず荷馬車の中だった。だが、やけに静かだ。ルークと、話しかけた少年以外は皆寝ているのか、呻く者もいない。揺れていないどころか、外から虫の声や風の音すらしない。耳鳴りがするほどの静けさだった。
「お前、名は?」
「……ルーク」
問われて、一瞬本名を答えそうになって、意識が覚醒する。はっきりと少年をみる。身長が同じくらいだから、同じ十一歳かそこらだろう。線の細い整った顔からは、何の表情も読み取れない。
「ルーク。お前の耳環の意味を知っている」
はっとして左手で耳を押さえる。けれど耳環の感触はない。
「これは夢だ。ここでどんな話をしても、奴らには聞かれない」
夢。夢か、確かにそんな現実感の無さだ。誰の寝息さえ聞こえない荷馬車、何の気配もしない外。ただ目の前の少年と、自分の思考だけが、本物であるとなぜか思える。
「俺の条件を飲むなら、お前を王都まで連れてってやる。どうする?──王弟殿下」