【ヒイラギ】
ナオからの手紙を作業机に向かった時に正面に見えるように壁に掛けているコルクボードに貼る。頭が空っぽになる前は僕のこれからのスケジュールやノルマが敷き詰められていたそこに、今は丸っこい字で丁寧に紡がれたそれのみが温かく存在していて、視界に現れる度にうっすら見えていた音符たちがゆっくりと時間を掛けて立体になっていくのを感じる。
半日掛けてたった三小節。それだけ。それでもこの三小節のメロディーラインには華やかに舞う花びらの彩りを乗せることができた。この節も、この節こそナオに渡せたら。
そんな思いを胸に一度手を止めラジオを付けると、過去の、ちょうど十年前くらいに世に広がった僕の曲の一番サビが流れているところだった。
……ヒュドラが勝手に世に出した曲をきっかけに僕の過去の作品が再び評価され始めたようだ。
それに代わるように三年間毎日違う人物で在り続けた少女ナオの存在は徐々に人々の興味が薄れてきているようで、彼女の心のモヤを掻き消すように僕の音楽が塗り重ねられているのだとしたらこれ以上の本望はない。
この頃に作った曲も拙さこそ見え隠れするもののその実直で粗削りな部分がダイレクトに刺ささってくるような良さがある。そんなことを思いながらラジオに耳を傾けていると家のチャイムが鳴る。鳴る。鳴る。鳴る。
宅配の場合は二度目が鳴らされた後に自身が宅配業者であることを口頭で伝えられる。長年この地区を担当している方の癖だ。
そしてこの三度以上鳴らすのが、ヒュドラ。来訪は前回のあの一件振りになる。
当然のように居留守を決め込むと次いでヒュドラの肉付きの良い柔らかい手の肉でもってダン、ダン、ダンとドアが叩かれる音が響く。本人はノックのつもりなのだろう、だがこれは殴っているに近いような弾力のある激しさを含んでいる音。それに加えてこちらに届くように「ヒイラギさまーーー! ご在宅ですよねー! 」と野太い声で張り上げるもんだからたまらずにドアを開けてしまった。
「なんなんだお前は。周囲の目も気にしてくれ」
「やっぱりいらっしゃるじゃないですか。ヒイラギ様は自分が不幸になってでも他人を不幸から救いたがる方ですからね。こうしたら開けてくれるって信じてましたよ」
そうのたまうヒュドラは足元に置かれていた段ボールを持ち上げ「事務所に届いた手紙や品を届けに伺いました。お部屋に運びますね」と僕の許可の有無なんてお構いなしに部屋へ押し入る。あの体格を外に出すのも至難の業だ。僕は無意識に吐き出された溜め息を玄関に残しヒュドラの後を追って室内へと戻った。
ソファの前のテーブルの上にドンッと無造作に置かれた段ボールは蓋が開いており、振動で手紙がいくつか零れ落ちる。花柄の封筒や緑に近い青の海が広がるポストカード。どれもポストに投函するまでは丁寧に丁寧を重ねて扱われていたであろうことが伝わるものばかり。
「わかりますか? これがヒイラギ様の需要の具現です」
いつものように揉み手で口角を上げて話すヒュドラの気持ち悪さが軽減されているように感じるのはこの段ボールに詰め込まれ、溢れたものたちの為す力なのか。
「過去の産物であれ一切色褪せずに寧ろ色味を増してさえいるのがヒイラギ様の音楽です。今回の件でこれまでのものも含めてヒイラギ様の音楽が広がり、それがまた多くの心を動かしました。聞き手は勿論幸せ、ヒイラギ様の音楽の素晴らしさを広めることが勤めである私たちも幸せ。さて、ヒイラギ様はいかがですか? 」
「……君たちの場合は金銭面が潤うことが幸せなのだろう? 」
そんなそんなと手を忙しく動かすヒュドラを視界の端で感じ取りながら段ボールの中に視線を落とす。多くの手紙の中にはこれから寒くなるのでと短くカードが添えられた大判のストールや音楽制作は頭も使うだろうからと添えられたチョコレートの詰め合わせなんかも確認できた。
この箱に適当に放り込まれているそれらを一枚一枚しっかりと存在を確認しながら重ねて束ねる。その作業に集中している間も何故か横に突っ立っていたヒュドラに帰宅を促しこれから読むそれぞれの想いのお供にとコーヒーを入れていると、玄関に向かったはずのヒュドラが引き返してきた。
「すみませんすみません、部屋の外、廊下と玄関に何通かお手紙を落としていたようで」
コーヒーを注いでいる最中なのでヒュドラの方を見ることなく片手間で受け取ると一通二通という程度の量ではない厚みを握らされ、扱いの悪さに自然と生まれた溜め息で再びヒュドラを見送ることになった。
右手に熱いコーヒーの入ったマグカップ、左手に手紙の束を持ち部屋に戻る。
渡された手紙は七通。一つ一つの心を確認していると、一つだけ覚えのある真っ白な封筒。一度大きく跳ねる僕の心臓。
……封筒を裏返すと丸みのある文字で小さく書かれた、ナオより。
この手紙はヒュドラが落としたのではなく、自分の意思でやっとここまで来たものだろう。
これから触れる想いの一通目はナオにしよう。逸る想いと上がる口角を一口のコーヒーで少し落ち着かせてから、静かに封を切った。