【ヒイラギ】
こいつはよくここに来られたな、と感心した。
コーヒーを片手にソファに腰掛け、何気なく付けたラジオから聞き馴染みのあり過ぎる曲が流れてきて衣擦れすら起こさないように身体を硬直させる。
聞き馴染みは、確かにある。でもこんな形で耳にするわけがないのだ。
確信が持てた瞬間に立ち上がり作業用の机に向かう。何も変わらない様子の机上ではあるけれど、疑惑のCDケースを開けると案の定中身は空だった。
身体を動かさずにこれだけの疲労と倦怠感を感じさせられたのは初めてだ。
連絡する気も起きずラジオを消して再びソファに深く埋もれているとそれからしばらくしてから家のチャイムが鳴った。
施錠を解除してヒュドラを招き入れはしたが、歓迎はしない。そのまま顔も見ることなくまたソファに戻りコーヒーを口に含む。ヒュドラはまた普段と変わらず揉み手で口角を気持ち悪く上げながら部屋の入り口に突っ立ったまま。
「……何の用だ? 」
「その苛立ち様ですと、もうご存知なんですね。広がる前にご報告をと思ったのですが、案外世に渡るスピードが速すぎまして。」
さすがヒイラギ様ですね、と続けてさして悪びれる様子もないヒュドラ。CDを断りもなく持って行って勝手に世に出したということが悪だとはカケラも思っていないような振る舞いに身の毛がよだつ。
「とても素晴らしい曲でしたしヒイラギ様の再始動にはピッタリな壮大さでしたのに何故これを世には出せない曲という扱いにしていたのですか? 」
「何故CDを持って行った? 」
お前の質問に答える必要なんてない。そういった態度をあからさまに取って質問を打ち返すも、ヒュドラはそんな意図にも気付くことなく朗々とした口調で答える。
「リハビリか何かで出来たものなら聞いてみたいと興味を持ってしまったのです。ヒイラギ様に聞いても許可は下りないと思ったのでひっそりと持って行って後でまたひっそりお返ししようと思っていたのですが非常に良いものでしたのでこれは世に出さねばと」
「タイトルをナオにしたのも善意からだと言える? 」
「これほどの曲は多くの人の耳に入らなければ勿体ないじゃないですか。話題になるのであれば乗っかるべきです。実際ナオに会った後に生まれた曲なのだとしたらそういう扱いにしても罰は当たらないはずですし」
これは本心なのか。全ては金に繋がる為の回答をどの角度からどんな質問をされてもそうは聞こえないように事前に練りに練ったものを用意してきたのか。詰まることなくサラサラと、悪びれることなく答えるヒュドラの様子に頭を抱えてしまう。
「各所からプロモーションの場のお誘いもありましたがあまり体調もよろしくなさそうなので今回はすべて見送ることにしましょう。中途半端に露出するよりは久し振りに曲だけを表に出して何も語らないというのもミステリアスで価値が上がりますし」
ああ、本当に君は有能だよ、ヒュドラ。仕事をするという点では大いに評価される人材だ。様々なものを握り潰し踏み躙ることになんの躊躇いも持たない。君の才はそれなのかもしれない。
そんなことをヒュドラ本人に伝えても無意味だということは身に染みているので、笑いが一つ、口を開くことなく鼻から抜けていった。
為す術なく数日を過ごした後、この曲が今のナオに宛てたものでヒュドラという仕事仲間が流出させたのだということを他でもないナオに説明しに行かねばと思い、身なりを整えて家を出た。
しかし家のドアを閉めて数歩進んだ時点で捕まってしまうのだ。
新曲、素晴らしかったです。スランプと聞いていたけれどちっとも衰えていない。過去にあなたの曲でどれほど救われたことか。この曲を聞いてまた感情が込み上げてきました。
様々な声が僕を取り囲んでいく。
だれも悪意は見せていない。羨望の眼差しや好意が向けられているとわかっているから無下には出来ず、それらを受け止め続けながら進むのは極めて困難かつとてつもない精神力が必要なこと。
そうして進む先までどんどん人を連れてしまっていることにも気が付いた。
きっとこのままナオの家に向かうとそれを面白おかしく伝える人たちを生んでしまうだろう。ナオだって毎日のように世間を賑わせていて、僕なんかと比べ物にならないくらい疲弊しているはずだ。
僕は近くのパン屋に寄って六枚切りの食パンを一斤買うと、そのまま家に戻った。
ナオに会わなければという確固たる意志を打ち破った完全な善意でもって紡がれた好意が今の僕にはあまりに痛かった。
沢山の想いを背負った心がその重さで悲鳴を上げ、家の鍵を閉めると足を真っ直ぐベッドへと向かわせる。
怒りも諦めも多くの人の声援も、得たものを曲に昇華させることで均衡を維持していたのに今の僕の頭は空っぽ。シーソーが傾くと一気に疲れてしまう。
目が覚めた先でまた僕の頭の中が音だらけでありますように。せめてこの際、目を閉じた先の一瞬でもいいからさ。
朝日の眩しさで目を覚ました僕はノソノソと起き上がる。
ジャムも玉子も乗せていない食パンを齧り、コーヒーで流す。たまに付けるラジオは数分に一度、僕の曲を流す。何かが浮かんだわけではないけれど、作業机に向かっては適当に並べてみた何にもならない音たちを流す。
……そんな日々を三日程繰り返しただろうか。
ラジオも流さず静寂が包んでいた部屋に玄関から聞こえたカタンという音がやけに響いた。時間から考えるに、夕刊が届いたのだろう。
玄関に向かうとドアに付いている郵便受けに突っ込まれている新聞、と、下に落ちて玄関のタイルに寝そべっている真っ白な横長の封筒。
……そしてその右下に小さく書かれているナオよりの文字。
新聞なんかそっちのけで手紙を拾い上げると、封を切るべく急いで作業机へ戻る。
手で切って開けてもいいのだが丸みのある年相応な筆跡があまりに愛おしく、ぞんざいに扱ってはいけない気がした。
ヒイラギさん へ
あなたがこちらを読んでくださっているということは私の作戦のどれかひとつが功を奏したのでしょう。
発表された新曲、とても素晴らしかったです。過去のヒイラギさんの曲だってどれも素敵なものでしたけれど、その中でも涙腺に響くくらいに一番惹かれた楽曲でした。どうしても文字では伝え切れない感動が胸の中に生まれています。
ただ、お預かりしたCDは一枚も減っていなかったですし保管場所は絶対に私にしか開けられない場所だったので問題なかったとは思うのですが私から流出させてしまったのではないかと心配で……。
あちらの曲はヒイラギさんが自ら発表したもので間違いないでしょうか?
失礼だとは思いますが私はまたヒイラギさんにお会いしたいです。が、今はお互い難しいでしょう。また何かありましたらお手紙を送らせてください。もっとも、今回のように上手くヒイラギさんのお手元に届けられるという保証はないのですが。
趣味のひとつに切手集めがあってよかった。ストックブックが三冊もあるのです。今度会ったときにその切手も返してくださいね。
追伸、返信は不要です。先にお母様がヒイラギさんから届いたお手紙を見つけたとしたら、それがその状態を保ったまま素直に私の元へ届けられるとは思えないもの。
無事に貴方の手元に渡っていることを願って。
ナオ より
一度下書きをしたのだろうかと思うほど、誤字も脱字も修正された様子も見受けられない、便箋一枚にきっかり収められた綺麗な手紙。切手は確かにそこらでよく見かけるようなものではなく何かの記念に作られた特別なもののように見えた。
これはちゃんと返さなくては。それが僕の生きる新たな糧になり、脳内にうっすらと音符が見えたような気がした。