【ヒイラギ】
あのお嬢様が、ナオだった……?
三年もの間、あれだけ毎日を違うナオで過ごしていたナオが、僕が最後に会ったあのお嬢様が現れてから一度も誰かに代わることなくナオで在り続けている。その様子を奇跡の生還だと謳っていたニュースも何度か見た。
……でも僕には違和感ばかりで疑問が浮かんでしまっている。
あのしっかりと教育を受けてきたような聡明さ、気品。これらを自分の子供になんの興味も無さそうだったあの母親が何年も手塩にかけて身に着けさせた?
そして何よりあの外見。耳の真ん中辺りの長さで一直線に短く切り揃えられた黒髪。とても印象的で似合ってもいたけれどあの言動のお嬢様が好んでしていた髪型だったとしたらなかなかのギャップを感じる。
仮に母親の趣味でその髪型が維持されていたとしても、あれだけ賢く気高い子に育つまで英才教育を施していたとしたらあんなに個性的な髪型を選ぶだろうか。
それでも僕がそれぞれのナオに宛てた曲たちが汚い形になって世に出ていないことを考えるとあの子がずっと表に出てくれていて安心していると同時に、彼らの耳に届かないのであればあれらはもう無価値に成り下がってしまったのかと静かに心が荒んでいくのを感じる。
この感情の動きをせめて曲に……! と思い机に向かったけれど幾ら時間が経てども頭は空っぽ。カップから減っていったコーヒーが底に少し渇いて残ったのを確認してからは空白に抗うこともやめて席を立った。
僕の音楽は世界一の才能だった。
何か一つ、世界一とも言える突出した能力を携えて産まれ落ちるこの世。その唯一を見つけるには可能性が莫大すぎるのでそれに気付くことができる人間は一握りもいないと言われる中で僕はその一握り以下の割合に入り込んだ。と、思っていた。
さっきまで僕が向かっていた机の上には曲を生むためのツールと底に渇いたコーヒーの残骸だけが残るマグカップ。そして最後に会った気品のあるナオのための曲を閉じ込めているCDがプラスチックのケースの中で仰向けになって眠っている。
この曲が完成した瞬間はナオに会いに行こうと思っていた。
あのナオ本人の耳には届かなくともこれまでのように何度も通って何人もの他のナオに会ってみてまた責任感がありそうな子に預けてこようと考えていたのだが、あの報道を知ってしまったから。
今行けば僕がこの曲を届けたい相手には確実に届くだろう。でもナオの周りには沢山の人がいて、渦中のナオとかつて持て囃されていた僕が接触したら、きっと周囲の人々が橋から投げ入れられたパンに群がる鯉に変わってしまう。
結果的にナオの顔に失望を浮かばせてしまうのであれば、今は僕と会うべきではないと思った。
「どうですか、調子は。最近はお出掛けにはなってなさそうだ」
ボサボサの頭、整えられているとは言えない身なりの僕を見て、急に我が家に現れたヒュドラはわかりやすく揉み手をしながら気持ちの悪い笑みを浮かべて部屋の入り口付近に突っ立っている。
こいつ、この界隈ではやり手なのだが金の匂いがする場所を探してはどこにでも首を突っ込んで使えるものは骨の髄までしゃぶった挙句、マイナスを感じた際には容赦なく毒を与えるという、丸々とした体形と下手に出た態度からは想像が付かないくらい恐ろしいやつだ。
既に頭が空っぽになってしまっている僕に未だに執着していて、こうやって定期的に様子を窺いに来る。
「調子は見ての通りだね。君ももう、僕のことなんか諦めたらどうだ」
「いえいえ。私はまだヒイラギ様を信じておりますので」
こうやってさも僕のためというような言い方をするところがこいつの卑怯かつ嫌いなところだ。信じているのは僕の曲をビジネスとして扱ったときに生まれる金に対してだということくらい、こちらはわかっているのに。
「世に出したいと思えた曲が生まれたら君に渡すよ。僕は僕の曲を聞いた人の心が動いたという声を聞くことができればそれでいいんだ。広く曲を届けてくれる君の手腕は買っているからね」
だから僕から連絡するまでは来なくてもいいよ、と続けて机の上のマグカップを手に取り新たなコーヒーを入れるためにキッチンに立つ。そんな僕の一連の動きを顔ごと追っているヒュドラは相変わらず気味が悪い笑顔を張り付けたまま。
「世に出したいと思えた曲が生まれたら、ということは世には出せない曲は生まれているのですか? 」
目聡さに背筋が凍る。
「……何が言いたい? 」
「いえ! もしヒイラギ様の満足いくようなものでなくても何かしらの曲が生まれたのであれば、リハビリとして良い兆候なのではないかと」
心にも無いことを。こうやって綺麗な言葉に変換できる能力に長けているから仕事面では評価されているのだろう。
マグカップにゆっくりと落ちていくコーヒーを眺めてザワザワとした気を静める。無心で見つめていると八割ほど溜まる頃にはいつも心の波が落ち着くから不思議だ。
湯気と香ばしさの立つマグカップを片手に部屋へ戻ると、「お顔も拝見できたので今日はもうお暇致します」と言いながらドアノブに手を掛けていた。
「では、是非また近いうちに」
そう言って会釈をしてドアノブを捻り退出していったヒュドラになにも言わず、示さず、僕はマグカップを口元に運びコーヒーを口に含んだ。