【ナオ】
幾日寝ても覚めても、ヒイラギさんがおっしゃっていたような方々はこの部屋を訪ねては来なかった。
そしてヒイラギさんも然り。きっとまだ私の曲なんて恐れ多いものが生まれていないのでしょう。それ以前に口約束であってもおかしくない。
ヒイラギさんはお忙しい方。先日の様子をお見受けするに、曲を一切表に出さなくなってからの方が物理的な忙しさというより、なんというか、余裕が無いのだろうなと思った。
クローゼットを開けて、中にある六段の真っ白なタンス。その一番下の引き出しは今、私にしか開けることができない。
その取っ手に手を掛けて引くと仕舞っておいたCDたちの嵩は変わることなく、誰にも触れられず此処で眠っていた様子に胸を撫で下ろした。
……私は何もおかしくなんてないのに、この部屋には毎日お医者様がいらっしゃる。
なんてことない会話をするだけ、毎日、毎日同じような質問をされるだけ。そして昨日話した内容を覚えているか確認させられるだけ。
お医者様が望んでいるであろう回答をする度にお母様は失望したような眼差しで私を見ながら喜んでみせた。
三年間別人で在り続けた少女、遂に生還!
そんな見出しが世で踊る。
なんてことない会話をするだけ、毎日、毎日同じような質問をされるだけ。今度はお医者様ではない見知らぬ方々とカメラの前で。
そしてお母様は喜々とした様子で何本ものビデオをその方々に見せては饒舌に語った。
その無様で醜い姿を見ていられなくなった私は一人で自室に戻ると、CDプレイヤーとその横にヒイラギさんのCDが並んだ棚のある言わば私にとっての聖域へ。
一枚一枚を取り出してジャケット、収録曲を指でなぞる。
タイトルを見るだけで、歌詞を読むだけで、脳内で流れだす曲たちとヒイラギさんの声。それを立体にするべく特にお気に入りのものからCDを取り出してプレイヤーにかけた。
私が惹かれる音の数々に囲まれながらまた一枚一枚CDを取り出して見ていくと、端の方に何の装飾もない、ジャケットなんてもちろんない、CDが一枚だけ入れられた簡易的な紙のケースが存在を隠すように収まっていた。これは……?
引っ張り出す。
記憶にはない盤面も真っ新なそれ。
ヒイラギさんがこれまで世に出してきたCDたちはジャケットの手の込みようはもちろん、盤面にもシンプルではあれどなんらかの施しがあったので、そのCDはあまりに異質だった。
その異質の正体を探るために、空間を彩るヒイラギさんの音を止めて取り出し、そこにその奇妙なCDを座らせる。
再生するとそこから流れて来たのは単なる一曲。だけれど、切れ間も速度の違和感もなくヒイラギさんの曲たちが入れ替わり立ち代わりで矢継ぎ早に流れてきた。
なんでしょう、これは。魅力的な曲たちをこのような形でより美しく繋いで一曲にする方法があるのか。こんなの、私には真似できない。
何度も触れて来た楽曲に初めて耳にする技法。聴き入って酔いしれていると不意に部屋のドアがノックされ、慌てて停止ボタンを押す。「どうぞ」と促すと開かれたドアの先にいたのはお母様。
「あら、いつもは音楽を止めないのに」
「偶然曲が終わったの。どうかされました? 」
ツカツカと室内に入ってきたお母様は「なんだか他人行儀ね」と笑う。
それもそうだろう。私たちは他人のようなものなのだから。
私は十六年生きて来た。はずだった。
おかしなことに十六年生きて来た感覚はあるのに明確な記憶がないのだ。
したがってこのお母様が本当に私のお母様であるという保証はどこにもなく、寧ろ私は違和を感じているほど。
「あなた、何か面白いものを持っていたりはしないかしら? 」
「面白いもの、ですか? 」
「そう。例えば、他のナオから譲り受けたものとか」
お母様に背を向けて「あったらこれは何かと既にお母様にお聞きしています」と答えながらジャケットのついた正真正銘ヒイラギさんのCDを棚から一つ適当に取り出す。
そしてプレイヤーから先ほどまで回っていた真っ新なCDを取り出し、元々の紙のケースではなくジャケットの付いた上等なCDケースを開け、既に収められていたCDの上に重ねて上手く閉まらない状態を隠しながら棚に戻した。そのついでに紙のケースも棚の隅へ。
お母様は「そう」と落胆を隠さずにおっしゃって、そのまま部屋を出る。直前に「明日は午前中からお客様が見えるから早めに身なりを整えておいてね」と放ち、ドアを閉めた。
私じゃない、他のナオ。
それはヒイラギさんもおっしゃっていた。
私以外のナオ。
その何人かの為、一人一人に当てられたCDの存在も知っている。
馬鹿ではないつもりで十六年生きていたからもうわかっている。
私は三年間毎日違うナオだったのだ。
ただ、記事には生還と打たれていたけれど。私もきっと私ではない。この身体の持ち主であるナオはきっと別にいる。
では、ナオという名の私は一体……?