【ナオ】
凄まじい睡魔。お腹が膨れたからでしょうか?
ヒイラギさんのお家に着く前にヒイラギさんのおすすめするパン屋さんへ寄って、彼のプロデューサーと紹介はされたけれど邪険に扱われていたヒュドラさんだけが車を降りて買ってきてくださった数種類のパンを先程ヒイラギさんと二人で頂いた。
ヒュドラさんは家に寄ることなく私がヒイラギさんから預かったCDたちのみを持ってどこかへ行ってしまったけれどヒイラギさんはそれが当然といった様子で、引き止めて食事に誘うこともなかったのでこれでよかったのだと思う。
二人で美味しいパンを頂いて、あの日に伝えきれなかったヒイラギさんの生んだ曲への想いや話し切れなかった曲への疑問を散々ぶつけて、ヒイラギさんはそのひとつひとつに対して丁寧に答えてくださった。
なにより今、私がいるこの空間で彼の音世界が生み出されてきたのだと思うと感慨深過ぎて溺れてしまいそうになる。
そして一緒に切手のストックブックに私が拝借した切手を戻す作業を終えると、満腹感からか安心感からか、睡魔がじわじわと私を襲いだした。
目を擦りながらなんとか保っているとヒイラギさんはその様子に気が付いたようだった。
「……眠るかい? 」
愁いを含んだ柔らかな表情。ヒイラギさんは察している。
ここで眠るときっともう私は戻って来られないでしょう。
ナオを降霊ビジネスから救い出し、CDも鍵の外、ヒイラギさんの納得する場所へ戻ってきた。私がここにいる必要はもうないのだ。
この睡魔は満腹感でも安心感でもない、本物の彼女が私を呼んでいるのかもしれない。
ヒイラギさんは何も言えないでいる私の両手を引きベッドに座らせると、彼自身もその横に浅く腰掛けた。重ねられた手は少し冷たい印象を持つ彼からは想像が付かないくらい温かく、その心地良さも眠気に拍車を掛ける。
「君に預けた曲たちを纏めて世に出すことにしたんだ。表題曲は君の曲にしようと思っている」
「私も、他のナオの曲を聞きたかったです」
「届けるよ、絶対。そしてこれからも。僕の頭の中は今、音符で溢れているんだ」
そうしてヒイラギさんはゆっくりと私の肩を押して身体を横にし、毛布を掛けた。
「他に何か、して欲しいことは? 」
「……子守唄を、歌って欲しいです」
ベッドに浅く腰掛けたまま面を食らった表情のヒイラギさんに「贅沢でしょうか? 」と続けると偉大な作曲家はふわりと笑ってゆっくりと唇を開き音符を宙に放ち始める。これは私のためと言ってくれたあの曲だ。
瞼を閉じると一定のテンポで触れられる肩の温もりが私を私の中の深いところに沈ませていく。こんなに満たされた気持ちで眠りに付こうとするのはいつ振りだろうか。
音符と多幸感を抱き締めて、私はゆっくりと落ちて行く。
私はずっとあなたを見ているかもしれないし、また初めましてと言える時がくるかもしれない。その時は違う姿だろうけど、きっと私はまたあなたの曲に惹かれる。
私が新たな身体で戻ってきた時があなたの身体はもう存在しない時代だったとしても、あなたの生んだ音符の数々はきっと残っている。
また会いましょう。
再びあなたに触れられる時まで、おやすみなさい。