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ギジテンこぼれ話  作者: 霜月昴
4/5

免罪符

清秋の話

 ああ、喉が渇いた。


 少年は空を見上げた。陽はまだ高く、秋口になっているというのに世間は暑い。だが少年は、もう汗も出ないほど乾いていた。

 当然だ。もう四日も何も食べていないし、飲んでもいない。空腹には耐えられるが水はそう言うわけにはいかず、切実に生命保持の危機に瀕している。

 くたばる前に、どうにかしなければ。

 少年は休んでいた作業を再開した。歯で噛んで弱らせた麻縄はもう少しで切れるだろう。そうすれば自由だ。そうは思うのだが、昨日の朝にすり切れた唇は、乾きで更に痛みを増してなかなか作業がはかどらない。水が欲しいのに血は滲む。太陽は容赦なく少年を灼く。

 日中は陰をつくることがないこの場所に、少年は磔られている。器用に首を回せば後ろ手に縛られた縄と繋がっている本締めに歯が届くのだが、その体勢も苦痛だった。休む回数が刻々と増える。それでも地道に歯をかみ合わせて少年は、ただ一つを思う。

(畜生、殺してやる)

 自らをこんな目に遭わせている連中を。

 そしてこの現状の最たる原因となった、あやかしを。



     * * *



 事の起こりは、五日前だ。

 道を歩いていた少年は目に付いた大根を一本、畑から失敬した。腹が減ったから、盗った。それはいつものことだった。いつものようにうまくいかなかったのは、畑の持ち主に見つかって掴まったことだ。恥ずかしいことに逃げる途中、周到に隠された猪用の落とし穴に引っかかり、少年はお縄となった。

 普段では考えられない失敗に、少年は「こんな日もある」と腹をくくった。煮るなり焼くなり殴るなり、どうとでもすればいいと開き直って少年は目の前で腕を組む男性を睨んだ。畑の持ち主だ。

 口を真一文字に結び、男はたいそう立腹した様子だった。これは骨や歯の一本二本は覚悟しなければと、少年が歯を食いしばった時だ。男が怒った様子もなく話しかけてきた。

「お前、どこの子だ」

「親なんていねぇ」

 そう答えたらまた男は黙った。答えは真実だったが、少年は面白くない。さっさと殴ればいいのに、尋問なんぞしてくる男の気が知れない。訊いたところで何が変わるというのだろうか。

「大根はおれが食う前にそっちに戻ったんだ、まだ文句あるのかよ」

 反省などしていない、と逆に男を煽ってみる。しかしその言葉と考えも真実だ。生きるためなら盗みもするし、必要とあれば誰かを殺すかも知れない。そうやって生き延びてきたのだから、それ以外の方法を知らない。誰かに生かして貰うことなど考えたこともない。そのことについて疑問など感じたこともないし、これからも感じない。

 男は重い口を再び開いた。

「腹が減っているんだろう?」

 当然のことを訊いてくる。男は続けて意外なことを言った。

「どれ小僧。うちで飯でも食ってくか。せいぜいうっすい粥しか出せねぇけどな」

 少年はその言葉に一瞬呆れ、そして次にむっと苛立ちを感じた。恩でも着せるつもりだろうか。

「いらねぇ」

 そう答えれば、男はしゃがんで目線を合わせた。少年は顔を逸らす。

「憐れみは受けねぇ。さっさと殴るなり蹴るなりして――――」

 そう言った少年の頭の上に、男が手を乗せた。そっと頭を撫でて、優しい声色で呟いた。

 少年は思わず目を見開いた。ゆっくり振り向くと、男が少し笑っていた。

「落ちた時に擦り剥いたのか? 手当てもしよう。・・・・憐れみなんかじゃねぇよ。うちに来い」

 擦り剥いた膝からくる痛みを思い出して眉を顰めた少年だったが、心中は驚いていた。

 男の意外な言葉に。優しい声に。利益にならない厚意に。少年の頭を撫でたことに。

 あまりに驚いていたからだ、と少年は後になって思う。

 そのまま、のこのこと男の後について行ってしまったのは。




 男の家はお世辞にも大きいとは言えなかった。むしろ貧窮の風体で、少年を迎える余裕など見るからにない。家の中には男の嫁と、まだ年若い娘がいた。男が帰ってきて、少年がいるのを見ると最初は驚いた様子だったがすぐに迎え入れた。

 甲斐甲斐しく嫁は少年に芋の蔓が入った粥を出し、白湯を出し、少ない野菜を少年の椀にもいれた。久しぶりの食事に少年はがっつき、娘は笑って手ぬぐいを差し出した。それで口を拭って少年は男を見ると、男はにこにこと笑ってもっと食べろと勧めてくる。

 こんな時代に、珍しい。少年はそれだけしか思わなかった。

 少なからず少年の心は舞い上がっていた。予期せぬ食事と、親切な家族との出会いに。

 あたたかい。じんわりと、凍てついていた少年の心は絆されていた。今まで経験したことのない優しさに、戸惑いも合わさって礼を言うことすら出来ないほどだった。

 一家は、夜には寝床を用意してくれた。久しぶりに少年は屋根のあるところで睡眠をとれることを喜んだ。重ね重ね申し訳ない気持ちになって、自分はこんな人達から盗みをしようとしたのかと後悔し始めた頃だった。胸に引っかかったその思いに、なかなか寝付けない少年が寝返りを打った時、ひっそりと闇から声が聞こえた。

 声の主は男と嫁のようだった。夫婦で話すこともあるだろう。なにも気にせず少年は眠ろうとした。だが静かな闇の中、その声はふいに少年に届いた。

 ひっそりとした会話は、数刻前少年に向けたものとは異なり、隠し事めいていた。

「本・・・に、だいじょう・・・なのかぃ?」

「問題ねぇ・・・、親無しだ」

 どうやら自分のことを話している、と少年は気付いた。そして気付いた時には遅かった。

「うまいことちょうど良いのを拾ってきたね」

「かわいい娘を、見殺しには出来ねぇからな」

 少年の胸に広がった嫌な予感。少年が体を起こそうとした時には、男がすでに少年を押さえつけていた。少年は突然のことに、抵抗した。

「! 起きてやがる、おい手伝え!」

「なっ・・・・・・放せ!」

 暗闇の中で、男に掴まれた少年は振り払おうと藻掻いたが、嫁の手もあり後ろ手と足首を縛られ、早々と床に転がされてしまった。あまりにきつく結ばれたそれに、少年の力ではどうすることも出来なかった。

「何しやがる!」

 怒鳴ると腹を蹴られ、少年は咳き込んだ。嫁は奥で蝋燭を付ける。苦痛に涙が浮かび、咳き込みながら男たちを見上げると親切だった夫婦の顔は、面のように冷たかった。まるで物を見ている視線に、少年は目の前にいる者たちが昼間の夫婦とは別人に見えたほどだ。

 夜中にこれ以上少年を叫ばせないためか、咳き込む途中の少年が息を取り戻すのを見計らって男は猿ぐつわを噛ませた。苦しい呼吸に耐えて男を睨み付けるが、意に介した様子はない。少年は畜生、と心の中で罵った。

「・・・お前は俺たちの娘の代わりに、八又(やつまた)様の生け贄になるんだ」

 少年は動きを止めて男の言葉を心中で反復した。『八又』とは一体なんだ。

 男は続けて説明した。

「毎年生け贄として白羽の矢を立てていく龍神だ。娘のいる家は毎年この時期になるとビクビク怯えて、白羽の矢が立たないように祈るんだ」

 男が説明するには、こうだ。

 この男たちがいる村は八又(やつまた)というあやかし(少年にとっては神なんて尊い物ではない)に、村から娘を生け贄に出して富んだ稲穂を祈願しているらしい。白羽の矢が立った家は、二日のうちに娘との別れを惜しんで、三日後には棺桶に娘を入れて、八又の御前に村の男たちが運ぶのだそうだ。その家には娘を飾るための装飾と、娘に食わす為の野菜や米が少々、村中から集められるという。少年が食った物もその中の一部だった。

 だが、この男たちは村の掟とはいえ娘を失うことを畏れた。

 諦めて泣くことも出来ず、潔く受け入れることも出来ず、逆らって八又の怒りの買うことも恐れ、また嫁も娘も同じ気持ちで、代理がいればいいのだと自ずと思いついた。

 良心が痛む、なんて気持ちは残らない。娘のほうが男たちには大切だった。

 明朝、猿ぐつわを噛ませて縛られた少年は棺桶に詰められて山奥へと運ばれた。がたがたと揺れる棺桶の中でも少年は暴れたのだが、無駄だった。

 村の男たちは棺桶を置いて去っていったが、娘の父親である男だけは最後までその場に残っても疑われることなど無かった。最後の別れをしているのだと村人は思う。以前に同じように娘を失っている男親には痛いほどよくわかる行動として取られたのだ。

 少年が逃げないように、男はわざわざ少年を磔にした。重い棺桶蓋や締め縄だけではどうしても不安だったらしい。手足を縛り、首にも縄をかけ、野晒しにされた。

 猿ぐつわを取られた少年は、汚い言葉で罵倒を繰り返し呪いの言葉を吐いた。男は少年の言葉に耳を貸さず、静かに村へと戻っていったのだ。



     * * *



 痛みで震える唇で、少年はついに縄を噛み切った。後は体を揺すれば縄が次第に緩み、体は前のめりに倒れる。腕が自由となり足首に巻かれた縄は手近な石を拾って擦り切った。

 痛む箇所は多々あるが、少年は自由になった。

(あの野郎・・・!)

 少年は夜となった空を見上げた。月が出ている。

 あれから五日経っても神なんて大層なものは出てこなかった。要するにあの者たちの愚行に他ならない。ならば以前生け贄にされた娘たちはどうしたのかと考えたが、何のことはない。逃げたに違いないのだ。

 この国には各所こういう生け贄が重宝されているが、まったく意味がないと思う。この世では、生き延びた奴が勝ちだ。生き方に綺麗も汚いも無い。生きた奴が全てだ。

 その考えに、少年はぎりっと歯を噛んだ。

 飯が貰えたことは真実だ。それによって生き延びたことも真実だ。今、まだ死んでいないことも真実だ。

 戻ったところで腹の足しにならない。そもそも帰り方も解らない。

 怨みなど、霧散させた方が利口だった。

 大きく息を吐いた少年は水を求めて歩き始めた。生きるためには他人を簡単に信じてはならないとまた一つ学習できて儲け、と考えたほうが役に立つ。

 少年は月夜を走った。走っているつもりだったが、実際は足を縺れさせて歩くような速度だったかもしれない。体力は限界まで削れていた。

 しばらくして川を見つけた。駆け寄って手で冷たい水を掬うと鼻を近づけて匂いを嗅ぎ、よっぽど酷くなければ構わないと、少々生臭い水を早々と啜った。ようやく潤された少年の体は、一気に力を失い弛緩した。少年は岩の上で仰向けに倒れて星を目で追う。空にも川があるようだった。

(・・・・・腹は、減ってるけど。これでまだ生きられる)

 少年は安心して眠ることにした。野犬避けに火も熾したいところだが、そんなものは無い。例え野犬が自分を見つけても骨と皮ばかりの自分を見逃すのではないかと根拠のない自信があった。利口な手段ではない。そう思って、自分の考えに少年はすこし笑った。もともと利口ではないのに、と可笑しくなった。利口に生きてきたことなんか無いはずだ。

 一人でくつくつ笑った後、少年は徐々に思い出した。確かに腹は立っているのだけれども、あの一家の振る舞いは見せかけだったのだけれども、どこか暖かいものを感じた。生け贄にされたことよりも、あの暖かさが嘘だったということが衝撃的だった。「憐れみじゃない」といった男の言葉に隠された意味は、より深く少年を傷つけた。

 男は娘が大事だと言った。だが少年を身代わりにして、娘はこれからどうするのだろう。生きていることを隠して生活するのだろうか。それとも一家で村を抜けるのだろうか。

 どうでもいいが、眠るまで、と決めて少年は思った。誰がしあわせになったのだろうか、と。

 娘を救った男だろうか。

 夫に従った嫁だろうか。

 生け贄を免れた娘だろうか。

 それとも生き延びた少年だろうか。

 きっと誰でもない。誰もしあわせではない。誰もがしあわせになりたいから、生きたいのだ。まだしあわせを手にしていない。

 ただ生きたいのではなく、みんなしあわせになりたいのだ。

 けれど男にとっては、娘を生かせることが出来てしあわせで。

 嫁にとってもしあわせとなるための行動で。

 娘もこれからしあわせになる可能性があって。

 少年もしあわせになるために生を勝ち取った。

 まだ誰もしあわせではないが、誰もがしあわせに向かってがむしゃらに走っていた。

 意味もなくらちもない考えに少年は頭を痛めた。らしくない、と硬い岩の上で寝返りを打つ。肩が痛い。あちこち痛い。でも、

 生きているから痛いなら、耐えられる。

 生きている証拠だ。自分はまだ生き延びる。

 生き延びたら、もっとしあわせになれる、かもしれない。

 それで十分だ。可能性で生きている。



 少年は山を下りて人里をさがす途中、猪を見つけた。というよりも襲われた。

 猪突猛進とは良く言ったもので、真っ直ぐ向かってきた猪を少年が慌てて避けると、猪はすぐ後ろにあった大木に頭を強かに打ち付けて目を回した。それを見逃す少年ではない。有り難く、肉を頂く。

 だが自分で食べるよりも、物々交換に出したほうがなにかと便利であると知っていた少年は空腹に耐えてそれを担いだ。持ちやすくするために、その辺りの蔦で猪を縛った。

 ずっしりと重いそれを持ち上げて、少年はよろめきながら一歩を踏み出した。まだ年若く子供に近い猪で良かったと少年は思う。なんとか持てそうだ。

 梺の村は近かった。猪が通ってきた道を辿ると人道に出た。そうなると人里を見つけるのは容易い。少年は村に着く前に、牛を引く少女に出会った。その少女は梺の村の人間だという。少年の様子を見て最初は驚いた少女だったがすぐに微笑んだ。猪の間抜けな話を聞いてさらに笑った。あどけない笑いにつられて、少年はすこし気をよくした。大人ほど狡い笑みではないのですこし嬉しかった。思わず、久しぶりに口角が上がる。割れた唇が痛んだ。

「これを、食い物と交換してくれるような商売をしている奴はいないか」

 少年が訊くと、少女は少し俯き考える。

「・・・わたしの家に持ってきて。お米と、野菜に代えてあげる」

 その返答に今度は少年が考えた。同じ二の轍を踏むつもりはない。慎重にもなるだろう。

「お前の家には、米があるのか」

「百姓だから」

 少女は朗らかに笑う。邪気の無い素直な笑顔。

(ああ、暖かいな)

 少年はそう思った。同時に油断ならないと気を張る。

 微細な変化だが、少女にもそれが伝わったらしい。

「安心して。あなた良い人だから、わたしも嘘なんか付かない」

 その言葉に、少年は足を止めた。猪が重い。早く運びたい。でも。

 もはや少女を信じることは出来なかった。

「おれがどうして、良い人になるんだ」

 少年は至極当然のことを訊いた。

 盗みを働き、こっぴどく殴られたこともある。

 腹を空かした子供を横目に、見殺しにしたこともある。

 弱った子供のふりをして、人を騙したこともある。

 殴られて殴り返して、倒れた人の懐の財布をすったこともある。

 自分より幼い子供を人質にとって、その親を脅したこともある。

(お前は、なにも知らないだけだ)

 『良い人』なんかじゃ、決してないのだと言うことを。

 またこの少女も、口先だけで自分を油断させようとおだてるのだろうか。

 少年は密かに落胆した。勝手に期待しておいて、落胆も何もない。だが少年は少しがっかりし、少し腹を立てた。言わなくてもいい余計な言葉を、吐き出さずにはいられない。

「恵まれて育ったんだなお嬢さん。優しいこった、・・・吐き気がする」

 怒りが言葉に乗ったのだろう。少女が脅えた目を向けた。

「おれは悪童だ。親無し()無しの、乱暴モンだ・・・・・お前が言う『良い人』がどんなもんかしらねぇが、気安く『良い人』扱いすんな」

 ギリギリと睨まれて、少女は完全に怯んだ様子だった。中途半端に心を暖められるより、恐れられたほうが良い。そう思うのに、少女の表情を見ているといい気はしない。何だって言うんだ。ちきしょう。

 怯えた少女は小さく「ごめんなさい」と言った。少年も謝ろうかと思ったが、結局言えなかった。

 気まずい沈黙のまま、二人は村に向かった。少女が引く牛だけが沈黙を気にせずモゥと低く鳴いた。



「ボウズがこの猪を運んできたのか! たいしたモンだ」

 少女の父に猪を見せると、軽快に歯を剥いて笑った。少年はすこし俯いてなるべく素っ気なく振る舞う。少女は気まずそうに奥に隠れてしまった。

「・・・・食いモンに代えてくれ。割に合わなくてもかまわねぇから」

 さっさと出て行きたかった少年は早口にそう言った。品定めをしていた少女の父は、手を叩いた。

「よし。そこの野菜の山から好きなだけと、白米五合持っていけ」

 豪快な言葉にあっけに取られ、聞き間違いかと思った。少年は目を瞠る。

「・・・・そっちが割に合わないんじゃねぇか?」

「良いってことよ。まどかが世話になったしな!」

 まどかというのは、男の娘――少女――の事だった。少年は麻袋に入れられた米を受け取りつつ、家の奥を覗いた。まどかの姿は見えない。

「世話どころか、気まずい雰囲気だったんだぜ」

「引っ込み思案な娘でよう!」

 ひとしきり笑った後、少女の父は少々真剣な顔つきになった。

「・・・・・旅ゆくボウズだから言うけどよ、実はまどかは本当のうちの子じゃねぇんだ」

「え?」

「そもそも俺は独り身だ。参ったねこりゃ」

 あっはっは、と男はさらに笑う。

「一年くらい前にな。よれよれになって山を下りてきたんだ。きれいなべべを着てんのに泥だらけの面で、ぼさぼさの髪でなぁ。迷ったのかと聞けば首を横に振るし、家はどこだと聞いても同じ。でも、か細い声で『もう帰れないから』とだけ言ってよう・・・・・独り身だった俺が世話することになったのさ。ま、今じゃもう本物の家族以上ってなもんよ!」

「・・・・・・・・」

――――恵まれて育ったんだなお嬢さん。

 少年は自分の言葉を心の中で反復した。

「最初の内は塞ぎ込んでニコリともしなくてよ。『良いヤツは笑え、良い笑い方をするヤツは良いヤツだ』ってのが俺の信条でな・・・・そのうち笑えるようになったんだ。ボウズも良い笑い方だ。時代の波に負けて笑えなくなったヤツをたくさん見てきたが、お前は大丈夫だ。ガキが笑えるってぇのは、大事だろ?」

「・・・・・・そう、だな」

 曖昧に頷いて、考える。一拍後、片手に米袋を持ち、もう片方の手で野菜籠からアケビを掴むと、少年は走って家を飛び出した。いきなりすぎる少年の行動に、少女の父は驚いて呼び止めたが、もう振り向かなかった。猪は置いてきたし、これはれっきとした報酬だ。盗人のように逃げる必要など無いのに、なんだか居た堪れなかった。

 少年はそのまま再び山に入っていった。

 腹が減ったので手に持ったアケビを食べて、食べながら少年は走った。立ち止まることが恥ずかしくなり、限界まで走り続けた。息が切れて、身体が悲鳴を上げ、何も考えなくなるまで走るつもりだった。考えてしまうことが苦しい。

 少女は、少年が笑ったのを見て『良い人』と言ったのだ。

 自分ばかりが不幸のように、少女に対して苛立ちを感じて、みっともない。器の小さな人間だ、恥ずかしい。

 あのとき謝っていれば、まだマシだったかも知れないのに。意地を張って。

 もと来た道を思い出して戻り、少年は『八又(やつまた)』の祭壇に向かった。しばらく経つのにそこにはまだ少年が抜け出した磔があり、しかしその足下には大きな獣の爪痕があったので少年は息を呑んだ。堅い毛もそこここに落ちている。恐らく野犬のものだろう。

「ハァ・・・・ハァ」

 少年はそこに立ちすくんだ。

 ここに捧げられた娘たち全員が全員、無事逃げたわけではないだろう。野犬に襲われたり人買いに攫われたり、逃げても楽に生きているとは思えない。いきなり親元から引き離されて、温かなぬるま湯で暮らしていた娘が生きていくのは困難なはずだ。少年のように最初から泥水を啜ってきたわけではない少女達には、きっと苦痛だ。

 そして、まどかもきっと、生け贄だったのだ。

 でもまどかは幸せになっている、と思う。比較したところで浅ましいだけだと思うが、まどかは再び帰る家を持ち、笑っている。

 少年も嬉しくなるように、やさしく笑えているのだ。

 人を喜ばせて笑わせるような生き方。羨ましいのか、少年にはわからない。でも。

(一人で居たら、笑わないじゃねぇか)

 少年は一人だった。ずっとずっと一人だった。

 少年にとって相手は騙すか利用するためのものであり、自分が生きていく過程の踏み台だった。まどかと会って、その父と話して、そんな自分に寂しさを感じた。今まで生きてきて、そんなものを感じたことなど無かったというのに。

(笑うのは自分のためだけど・・・・)


 その時は、誰かと一緒に笑いたいな。




     * * * * *




 米を路銀に変えながら、少年は山脈を一つ二つ越えた。地理なんて知るはずもないが適当に彷徨い、山で囲まれたその村を見た時「此処にしよう」と決めた。はっきりと覚えているわけではないが、少年が産まれた場所も山に囲まれたところだったと思う。昔から山の中は心が落ち着く場所だった。

 柄にも無く緊張して、少年はその村に足を踏み入れた。刈り終わった稲穂の匂いや、ゆっくり回る水車と草原で遊ぶ仔山羊、朗らかに笑う村人。のどかで、良い村だ。

 少年は、生まれて初めて人に頼んだ。いわく「この村に住ませてくれ」と。

 頭を下げるなんて、したことがなかった。でも村人は、二つ返事で承諾した。少年はそこでよく働き、よく笑った。大人に負けない力仕事をこなす少年に村人は感心し、またよく仕事を手伝わせた。少年もそれを引き受けて仕事をした。

 今まで突っぱねて生きてきた分、馴れ合うということが新鮮だった少年は苛酷で忙しい日々に充実感を覚え、楽しんだ。村人に頼まれることが嬉しく、また礼を言われた時は深く感動した。「ありがとう」なんて、言われたのが初めてだった。

「おーい、ボウズ手伝ってくれー」

「はい!」

 改心した悪童は、瞬く間に村人に混じり、馴染み、村の一員となった。大人の男たちに混じって野良仕事も手伝い、女達に頼まれて子供の世話もした。一緒に遊ぶと、子供達にも懐かれた。

 子守をしながら、考える。

(・・・これが幸せなのかな)

 少年はあまり実感を得なかった。わからないのだ。

「あっ、危ない!」

 突然かけられた声に、少年ははっと気付いて顔を上げた。目の前には縺れてじゃれ合う小さな男の子が二人、突進してきた。慌てて転ばぬよう腕で受け止める。子供は縺れて遊び続けたが、目を丸くした少年の元に一人の少女が駆け寄る。

「もう! 危ないから前を見なさい! ホラお兄ちゃんに『ごめんなさい』は?」

「ごめんー」

「なさーい」

「いい加減に謝るんじゃないの! まったく」

 腰に手を当てたまま困ったようにそう言ったのは、少年と一緒に子供のお目付役を頼まれた少女だった。

「ごめんなさい。あの子達、言っても聞かなくて・・・」

「いや、元気で良いんじゃないか?」

 少年は静かに寄ってきた小さな女の子を引き寄せて、簡単に持ち上げると肩車した。喜ぶその子を見て、少女はふんわり笑う。

「子供、好きなの?」

「そう言うわけでもないけど・・・ただ懐かれて嫌な気はしない」

 思わず少年は苦笑した。戸惑うこともあるが、本音だった。

 少女はそれに見とれて言葉を失った。

「・・・初めて見た、気がする」

「?」

「あなたがそうやって優しく笑うところを。いつも大人相手にぎこちない笑い方だった」

 少年は驚いて少女を見た。自分はそんなにぎこちなかったのだろうか。いつも見られていたのだろうか。思わず顔が赤くなる。

 少女はにっこり笑った。綺麗な微笑だ。

「あなたはきっと私が想像できないくらい苛酷に生きてきたのね? だから誰よりもきっと、優しく笑えるのよ」

 涼風が少年と少女の間をすり抜けた。少女は笑い合う子供達を見ながら、問うた。

「ねぇ、あなたの名前を教えて?」

 振り返った少年に、少女は子供達を指して言った。

「あっちから、けんた、太郎、梅、小助、菊。そして私はあやめ。あなたは?」

「・・・・・・おれ、は」

 少年は言葉を濁した。拳が堅く握られ、細かく震える。

 声も震えそうになったが、そこはなんとか耐えた。だが返事を待つあやめの瞳に期待の色があるのが、ひどくつらかった。

「―――ねぇよ。んなもん」

「え?」

 少年は、名前を持っていなかった。気付いた時は一人で、周りに誰もいなかったので名前など必要としていなかった。

 当然のことだった。何の疑いもなく生きてきた。今更なはずだ。

(・・・なのに何で、こんなに腹が立つ・・・!?)

 その苛立ちは凝縮して固まって、瞼の裏が重くなる。ぎりっと歯を食いしばって俯き、目頭が熱くなる。怒りのあまり涙が出そうで、少年は背を向けた。

 ああ自分は悔しいのだと、少年は漠然と気付く。

 羨望と憧れ。そんなもの一日を生き抜けるのに必要なかった。要るのは食い物と水だけだった。

 名前があるのは当然、だと。あやめはきっと思っているのだ。

 かける言葉が見つからないのか、あやめは何も言わなかった。

 ただただにじみ出る悔しさをやり過ごそうと、少年は必死に心の波を押さえつけた。

「・・・・・・・あ」

 それを見た少女が、小さく声を上げた。思わず出たその声すら、あやめは慌てて口をふさぐ。少年の肩が、震えていることに気付いたからだ。

 熱くて視界が狭まって鼻の奥が痛い。

 悔しそうに顔を歪めた少年の頬に、幾筋もの涙が零れていた。ぱたぱたと顎から滴が落ちる。

 声も上げずに、少年は涙を流していた。

(ちくしょうちくしょうちくしょう!)

 一人が何だ。

 名無しが何だ。

 震える肩をあやめは見ていた。少年は背を向けたまま動かなかった。

 羨ましい、なんて。死んでも言いたくない。

 自分で適当に付ければいいのかも知れない。でも、誰かから与えられたかった。そのことに大きな意味と違いがあるのだと少年は感じていた。

―――あぁ誰か、おれに名前をくれないか。

 青く晴れ渡った空を見上げて、少年は目を閉じた。落ちた涙の滴は、吹き上げる風が攫っていく。

 そしてその風は『音』を運んで来た。

 癒しの歌声、慈しむ言葉、世界が目覚める音色。

 音は香りを引き連れて。

 花の蜜のように甘い香り、竹林のように清廉な香り、秋の葉のような寂しい香り。

「・・・・・・」

 少年は眼を開けた。

 涙がいつの間にか止まっている。

 心のわだかまりは消えた。

 目を閉じたたった一瞬に聞こえた、風の言葉によって。少年の口から呟きが漏れる。


「・・・・・・・・・清秋(せいしゅう)


 それは、空が清く澄みわたった秋。

 まるで今日のような。風が教えてくれた空の高さ。

 何者にも囚われない空。

「それが・・・貴方の名前?」

 あやめは聞き返した。少年はただ頷く。たった今名付けられたのだと、少年は空を見上げる。雲の流れを見て、風の動きを知る。

 世の中には不思議なことがたくさんあるのだ。

 少年が生きているということさえ、不思議の一つなのだ。

 『生きる』ということも、名を持つことも。決して“当然あるべきもの”ではないのだと。

 あやめは、ほっと息をついて笑った。

「私が、一番に呼んでもいい?」

 少年は頷いた。

 あやめが呼んだ。『清秋(せいしゅう)』と。

「・・・・・・・・・うん」

「清秋」

「うん・・・・」

「清秋」

「・・・・・・・・っ」

 少年の目から再び止めどなく涙が溢れた。

 あやめが呼んで、子供達が呼んで、大人たちも呼んで。みんなに呼ばれて、少年は清秋になった。

 この感動を、誰に伝えればいいのだろう。

 清秋は想った。この世界にはきっと自分と同じような名無しは多くいる。

 ただただその中で、清秋は幸運だったのだ。

 生きていて良かった。騙し騙され、盗みをはたらき、捕まって殴られて捨てられて、絆されて陥れられて磔にされ、それでも怒って逃げて走って苦しんで・・・。


 それでも幸せだと、心から思った。



     * * *



 薪を集めている途中、清秋は道に迷った。だが野宿でも夜通し歩くでも、清秋には慣れたものだ。慌てるでもなく木に目印を付けて歩き始める。うっそうと茂った木々の隙間から、せめて太陽が見えれば方角に見当が付くのに、とらちもなく思った。

 視界に光が目に入り、一瞬太陽かと見間違えた。振り返った明るさは、よくよく見ると太陽のように白くなく、花のように艶やかな色だ。

 近づいて目にした光景は、幻のように現実離れしていた。ただその中で、唯一見慣れたものがあり、苦笑が滲む。

「・・・・つまらない目をしている」

 もっと動いて生気を蓄え、瞬いてみせれば何よりも美しいものを写すだろうに。

 勿体ないな、と清秋は思った。人に有らざる金色(こんじき)の瞳を恐れる理由はどこにもない。

 天狗を見るのは初めてだった。それ以前にあやかしと遭遇するのが初めてだった。ならば結局、『八又(やつまた)様』も実在したのかも知れない。見なくて信じなかったが、見て疑うこともなかった。

 世には不思議が溢れているのだ。自分が生きている以上、他に何が居てもおかしくない。

 清秋は殺意を向けてくる異形のものに、微笑みかけた。

「おれの名前は清秋。ここに時々、訪れても良いか?」

 ただあの瞳に、自分が映ればいいなと思った。

 そして手を差し伸べた。手が差し伸べられた感動を、誰かに伝えたかったのかも知れない。


 そしてその手が掴まれるだろうことを、清秋は知っていた。



読んでくださり、ありがとうございました。

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