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ギジテンこぼれ話  作者: 霜月昴
2/5

奇跡

倉木誠一の話


 とてつもなく、怖かった。

 泣いて、叫んで、逃げた。正確には現実から逃げようとはしたが、霞織(かおり)の後ろ姿が眼に焼き付いていたせいで失敗し、眼前に突きつけられた残酷な事実が誠一(せいいち)を襲った。逃げ切る前に、掴まってしまった。

 丸二日間意識を失った後、鏡の向こうの自分はすこし(やつ)れて見え、黒かった髪は老人のようにすべて白くなり、眼は生気を失っていた。

 その後も、夢の中でも襲ってくる犬神に、幼い誠一は夜中に何度も絶叫した。

 錯乱して暴れ、泣いて喚いて、村の大人たちに宥められ、それを繰り返す。徐々に誠一は己が怖れる本当の理由に気が付いて、絶望した。太陽のような笑顔と称された少年が、抜け殻のように無口になる日は遠くなかった。

 少しでも英気を養うように、と差し出された卵粥に手をつけず、ただ見つめる。

 人間も、動物も。犬神だって、違いはない。

 人間だって命を奪っているのだ。それで生きている。生きるために、食べる。

 怖かったのは犬神でも、霞織が死んだことでもない。恐らくそれもあるのだけれども、現実としてまだ信じられなかったから、違う理由だと思った。

 誠一が怖かったのは、自分も嫌悪してきた犬神憑きと大差ないという、残酷的な事実だった。


     * * *


 『犬上家の人達だって人間よ』

 霞織は優しくそう言った。その通りかも知れない、と。

 思った時には犬厄から十八年が経っていた。

 結界を失い、村を出て行った犬上家。籠だった梔村は、その役目の解放を素直に喜ぶことを躊躇った。

 (いわ)く、祟りを恐れた。

 ばかばかしい、と倉木は思った。

 祟りや呪いではなくても人は死ぬ。死ぬ時は、死ぬ。運も奇跡も関係ない。そんなもの信じていない。

 唯一、一番護りたかった者は、とっくに死んでしまった。

 穏やかな笑顔だった。美しい女性だった。けれども死ぬ時は、身を裂かれ、髪を振り乱し、上半身を失って、熱い血を吹き出させて死んだ。

 運も奇跡も信じていない。

 そんなものがあるのなら、霞織は死ななかったはずだ。

 運も奇跡も信じない。

「・・・・・・神なんて、いない」

 倉木はそう呟いた。




     * * * * *




 兄弟二人の新たな生活にも慣れ始めたある日、頼正は唐突に宗方に切り出した。

「ねぇ。・・・・・・父さんと・・・母さん、の墓参りに行ってもいいかな」

 さすがに宗方は、目を丸くして火を付けようとして銜えていた煙草を口から落とした。煙草は膝の上で跳ね、床に音もなく落ちる。その様子にもなんの関心も示さず宗方は固まっていた。それどころではない。あまりに唐突で、思いがけない言葉に宗方は珍しく慌てていた。

「なん・・・・・」

 何で知ってるんだ。混乱してその言葉も出てこない。

 驚いた様子の宗方に、頼正は苦く笑って答えた。

「黒太郎と共有していた時に、兄ちゃんの記憶が流れてきた。母さんは、僕の姉さんでもあるんでしょ? ・・・・いいんだ、もう解ってるから」

 頼正は宗方のために滑舌に気を付けてゆっくりと話した。その配慮のおかげで聞き間違いや聞き逃すことは無い。

 そこまで言われて隠す必要などない。知る時が来ただけだ。だが宗方はばつが悪そうに顔を逸らした。

 どういう知り方をしたのか宗方には解らない。真実を頼正が知ることに、もはや宗方は反対する気はなかった。

「・・・・・・悪いな、黙ってて」

「ううん」

 頼正は首を振った。少しうつむいて、服の裾を握る。

「父さんと、母さんと・・・・村のみんなを殺したのは、黒太郎(ぼく)なんだね」

「―――ッ!?」

 その言葉に隠された辛辣で自虐的なニュアンスに、宗方は衝撃を受けた。頭に血が上るのは一瞬で、下りるのには時間が掛かるだろう。

 ガッ、と宗方は頼正の胸ぐらを掴んだ。そして激昂する。

「何言ってやがんだ! 共有していたからって、それはお前の意志じゃねぇだろ! ふざけたことウダウダ抜かしてたらぶん殴るぞ!」

 怒鳴られて怯えた顔をした頼正は、それでも、だって、と小さく言い返した。

「あのとき僕はいろんな事を知ったんだ。父さんのことも、母さんのことも、兄ちゃんがどれだけ苦しんだのかも」

 黒太郎と体を共有したことで、記憶も感情も共有した。そして、感受性の強い犬神の姿のまま宗方にぶつかり、頼正は宗方の思い出にまで触れた。

「犬上家のことも、白い犬神の白刃(しらは)のことも、(くちなし)村のことも、邑上(むらかみ)村長、田村さん、倉木さんのことも・・・・・・・それに、霞織さんの事も」

 そこまで言われて、宗方は感情を制御できず頼正の頬を拳で殴った。後ろに殴り飛ばされた頼正は壁に背中を打ち付けて、息を詰めた。そして盛大に咳き込んだ。

 頬に来た衝撃よりも奥歯への震動と打撃の驚愕に、頼正は頬に手を当てた。殴られた其処は、熱い。

 目の前で宗方は激怒していた。

「いい加減にしろや頼正! 俺は俺の意志で、俺がしたいように生きてきた。それをお前に憐れまれるほど落ちぶれてねぇんだよ、莫迦が!」

 吐き捨てた宗方は、椅子に座って顔を逸らした。拳は固められて怒りがありありと見えた。

 罵声と怒号と拳が、一度にぶつけられたのは初めてだった。頼正はぐっと下唇を噛み締める。殴られた左頬は熱く、口の端は血の味がした。

 確かに、自分は兄の人生を否定する言葉を吐いた、と頼正は自覚する。宗方が怒鳴って殴ったことに怒りなど感じない。むしろ当然の反応だった。

 でも素直に謝ることは出来なかった。

「・・・・・・・・・・」

 許せるような事じゃ、ないからだ。宗方も頼正も。

「・・・・・墓参り、行ってもいい?」

 これくらいしか、出来なくて。頼正は情けなさのあまり俯いていた。

 しばらくの沈黙の後、宗方は動いた。椅子から立ちあがって固定電話を手にした。どこに掛けているんだろうと頼正は一瞬考えて、だがすぐに察した。そして予想通りだった。

「・・・・・・俺だ。明日、そっちに行く。・・・ああ? いらねぇよ、ただの墓参りだ。・・・聞こえねーんだよクソジジイ」

 ごちゃごちゃと話を付けた後、宗方は電話を切って身を翻した。一度自室に戻ったかと思うとすぐに頼正の前に帰ってきた。手に白い物を持っている。

「貼っとけ」

 短くそう言うと、湿布を頼正に投げた。投げつけられたそれを、頼正は黙ったまま手にとった。宗方は背を向けたまま身支度を整え始める。

「明日だ。・・・急だが、ちょうど明日が月命日だ」

 主語が無いが、墓参りのことだ。行く算段を整えてくれたことが、返事である。

 上着を羽織り、宗方はそのまま玄関に向かった。宗方が何処に行くのか頼正は知っている。今日も問診の日だ。

「兄ちゃん、ありがとう」

 礼を言った頼正は、痛む頬を押さえながら薄く微笑んだ。それに対して宗方は「はぁ」とため息をついた。珍しい。

「冷やしとけよ」

 そういい残し、宗方は外へ出ていった。

 残された頼正は言葉を選ばなかったことを少し後悔していた。頼正は宗方が居なくなったリビングで一人、声に出して呟く。

「・・・・ごめんね、兄ちゃん」

 頼正は宗方の記憶だけでなく気持ちまで知ってしまった。それが何よりも申し訳なく、頼正は自責の念で苦しんだ。

―――少年だった宗方は、如月(きさらぎ)霞織に自分自身も気付かぬほど淡い恋心を抱いていた。

 しかし宗方は、頼正も黒太郎も何も憎まず、村人に自分が憎まれても頼正を育てた。

「・・・・・・」

 頼正は言葉が見つからず、手にある湿布を強く握った。



     * * *



「・・・・はぁ」

 勝手知ったる診察室の椅子に座りながら、宗方は再びため息をついた。外出前の家でのやり取りを、ふと思い出したからである。

「おいおい、珍しいじゃねぇか。お前さんが溜め息付くなんて」

 興味深そうにニタニタ笑いながらフクロウがメガネの端を押し上げて診察室に入ってきた。しかめっ面で少し考えた後、宗方はぽつりと漏らした。

「・・・殴った」

「あ?」

「頼正を、殴り飛ばした。拳で」

「あれま。DV?」

 予想通りあっけらかんとした返答に、宗方はこめかみを押さえる。フクロウは宗方の前に座ると宗方の耳に手を伸ばした。

「どれ、診せろ」

「ん」

 聞こえ具合を計るために新調した聴力検査の機械を用意しながら、フクロウは苦笑した。

「別に喧嘩で一方的に殴ったわけじゃねぇんだろ? 理由があったなら頼正も解るだろ」

「そうじゃなくて、俺自身の問題で気に入らない」

 あまり機械が好きではない宗方は、眉根を顰めてフクロウの手の動きを横目で見ている。

「自分で感情制御できなかった。テメェの未熟さを目の当たりにした気分だ」

「ああ、情けない気分になってんのか」

 なんだかカウンセリングのようだ、とフクロウは思う。初期に比べて、宗方は愚痴も含めてよく話すようになった。それだけ慣れてきたと言うことだろう。また、慣れるまで時間が掛かる男なのだ。

 ヘッドホンを付けさせ、簡易な検査を始める。

「聞こえるか」

「・・・ああ、前より聴覚も戻ってきた」

 いまだ左右から聞こえる音量に違いがあり違和感があるが、方向感覚が狂うほどではない。痛みは随分前からほぼ無いに等しい。

「後はあまり大きな音を耳元で聞かないようにしていれば大丈夫だろ。ごくろーさん」

 最後の一言で、もう問診の必要がないことが分かり宗方は頷いた。

「おう、すまねぇな」

 わざわざ宗方の治療のために検査機器を揃えだしたことも含めて礼を言うと、フクロウは片手を振った。

「いやいやいや。オレのほうこそ、診療所の改装費、ぜーんぶお前持ちで悪いね」

 那音(なのん)に破壊されたフクロウの家の修復費は、全て犬上家名義にされている。ついでとばかりに少々改築もされているのだ。それに関しては、宗方は気前よく全額支払った。

「もともとお前は巻き込まれただけだ。俺が払うのが道理だろ」

「おっとこまえ~」

 ひゅーとフクロウは口笛を吹いた。宗方は鼻を鳴らして早々に立ちあがる。それを見てフクロウは眉を上げた。

「あんだよ、もう帰んの?」

「ああ、明日用事が入ったからな。頼正もつれて里帰りだ」

 帰り支度をする宗方を見て、フクロウは口の端を上げた。その弟を、いま殴ってしまったと言ってなかったか?

(・・・まったく、仲の良い兄弟だな)

 最初に頼正が梟クリニックに残った時も、頼正は宗方の怪我の具合を離れている間ずっと心配していた。

 お互いが大切なのだろう。彼らの今までの生活を聞く限り、必然的なことかも知れないが。

「・・・・・ネロ~」

 宗方が帰り、フクロウは自らの飼い猫を呼んだ。気まぐれなこの黒猫は、呼んだところで現れないほうが多かったが、今日に限ってすんなり姿を現した。腕を差しのばすと飛び乗って肩まで登ってくる。

「おっ、お前も重くなったなぁ。仔猫卒業だな」

「・・・に~」

 喉をくすぐるとネロは眼を細めた。フクロウも眼を優しく眇めて微笑んだ。

「柄じゃないけど、アイツら見てるとどうして『オレも頑張らなきゃ』って思うのかねぇ。あーホント柄じゃないな・・・・・宗方から苦労性移されたかな・・・」

 呟きながら、遠い日を思い出す。

 温くなったコーヒーを飲みきった。もう一杯入れよう。砂糖は山盛り三杯いれて。

「平和になったもんだ」

 それは何よりも良いことだと思う。



     * * *



 喪服よりはカジュアルだが、黒い私服に身を包んで。宗方と頼正は梔村を訪れた。始発から来たが、もう昼に近い。

 村の入り口に、一人の男が立っていた。白い髪をしたその若い男は、宗方と頼正を見て眉を顰めた。倉木誠一だ。

「遅い」

「・・・・・・出迎えなんて頼んでねーぞ」

 こっちはこっちで嫌そうに、宗方がそう言った。頬に湿布を貼っている頼正は、静かに頭を下げて会釈した。

 だが倉木は無愛想に顔を逸らすと、さっさと前を歩き始める。

「この村では、まだお前たちは恐怖の対象だ。勝手に歩き回られたら迷惑だ」

 仕方ないとばかりに息を吐いた宗方と頼正は、大人しく倉木についていった。もはや犬神は血の中にいないのだと告げても、村人の中では犬上家を恐れている者の方が多い。

 頼正の希望でまずは村の中心にある慰霊碑に向かった。宗方も来るのは初めてだった。

 巨大な岩に掘られた人の名前は、百人を超える。一人ずつ、生き残った者たちが涙しながら彼らの名前を彫っていったのだと、倉木が説明した。

 頼正は、最寄りの街で買ってきた花束を供えた。そして長く、本当に長く、手を合わせて黙祷した。

 許して欲しいなんて思わない。ただ死後の世界というものがあるのだとしたら、そこで安らかにあることを願った。

 しばらくして顔を上げ、ふと慰霊碑の裏に回った宗方は、被害者の名前が連なる下の方に見知った名前を見つけて小さく息を呑んだ。

『犬上 義宗』

『犬上 菫』

 地面に近い慰霊碑の下方に小さく掘られたその名前を凝視して、宗方は言葉を失った。そしてそっと倉木に目をやると、倉木は少し目を伏せて、顔を逸らした。

「・・・・・村中の誰もが反対した。みんなの魂を慰める為に建てる石に、犬上家の名前を入れるなんて、と」

 それを聞いた頼正は、長い黙祷から顔を上げて、兄と同じように裏に回った。名前を見つけて、目を丸くする。

 倉木は小さく告げた。

「ただ一人、邑上村長だけが主張した。『死者に例外はない』といって、彼が名前を彫った」

 頼正はそっと横にいる宗方を見上げた。宗方は何か言おうとして口を開いて、だが言葉が見つからずに唇を震わせるだけだった。

 ぐっと歯を噛み締めた宗方は、眼を眇めると静かに慰霊碑に頭を下げた。

 それに倣って、頼正も頭を下げた。

 目の前に標された父と母であり姉の名前に、思わず宗方は胸が熱くなった。

 倉木はそれを見て、邑上がこの仕事を倉木に押し付けた理由を思った。『犬上家の二人を監視しながら慰霊碑まで連れて行ってやれ』と言われて、倉木はしぶしぶそれを引き受けただけだったが。

(・・・・・・まったくあの人は)

 慰霊碑を建てるときに、犬上家の人間を入れなくて呪われたら困る、と村人を言いくるめていた邑上を、子供だった倉木も覚えている。誰の為だったか、今となっては明らかだ。

 なんて優しすぎる人だ、と田村だけではなく倉木も思った。

 続いて霞織の墓参りもしたい、と宗方が言い出したので、予想していたとは言え倉木は露骨に顔を顰めた。だが霞織も喜ぶだろうと思って、大人しく墓に連れて行った。

 綺麗に掃除されている如月霞織の墓の前に、今度は宗方が花を置いた。既に線香は立てられた跡があったので、手を合わせてから宗方は倉木を見た。

「・・・お前が掃除とか全部してくれているのか」

 質問ではなく確かめる言葉だった。倉木が黙って頷くと、宗方は「そうか」とだけ言った。礼を言われたら容赦なく文句を言おうと思っていたので、肩すかしを食らった気分だ。倉木も霞織の墓を見る。

 ここで何度も、倉木は泣いた。謝った。


 犬厄の後、夜中に布団を抜け出す倉木はいつも霞織の墓の前にいた。

―――あなたさえいなければ、私は死ななかったかも知れないのに。

 夢で霞織がそう囁く。

「・・・・ッ」

 謝って、泣いて。犬神を恐れて、恨んで。

―――足手まとい。

 罪悪感に胸が苦しくて、自分を責めて、また泣いた。

 優しい霞織はきっとそんな事を考えたりしない。そんなことを思うのは自分の勝手で被虐的な妄想だと解っている。自分の後悔で、霞織を貶めるだけだと解っているのに。

 それでも何度も謝って、後悔して、犬神を憎んで。

 白くなった髪が、霞織の怨みのようで、怖くて。

 倉木は何度もここで謝り、泣いた。それ以外の場所では、感情を出せなくなっていった。

 霞織を忘れて笑う事は、裏切りのようで出来なかった。


 それでも、と。倉木は軽く目を閉じた。

 神はいない。運や奇跡も信じていない。それでも。

 再び倉木は、目を開ける。

「・・・・・犬上宗方」

 名を呼ばれ、宗方は顔を向けた。目が合ってから墓を見て、倉木は淡々と告げた。

「結婚、することになった」

 宗方だけではなく、頼正も目を丸くした。

 一応、宗方は眉を寄せて聞き返した。

「・・・誰が?」

 倉木は視線を霞織の墓に向けたままだ。霞織に報告するついでに聞かせてやろうと思って、犬上家の訪問を待っていた。

「・・・・・・・俺が、だ」

 今度こそ静かに息を呑む宗方の横で、頼正は嬉しそうに微笑んだ。

「おめでとうございます」

 きっと霞織もそう言っている。頼正の祝福は犬神の声ではなく、霞織の笑顔を思い出させた。それが、答えなのだ。

「・・・・・・」

 倉木は頼正には応えずに、背を向けた。そして強く宗方に念を押した。

「決して、お前に言われたからじゃないぞ。ただ・・・・」

 そこで途切れた倉木の言葉に、宗方は頷いた。

「わかってる。・・・・霞織も喜ぶだろう」

 倉木は拳を固めた。今まで倉木の一番は霞織だった。愛や恋ではなく、霞織が一番だった。

 霞織を忘れた事はない。大切である事には変わらない。でも。

「良かったな。おめでとう」

 宗方の声が、聞こえる。背を向けているので顔はわからないが、心から祝福されていると、感じる。たまらない。

(俺も、お前たちに、そう言ってやりたかった)

 それが倉木の結論だ。

 『犬上家の人達だって人間よ』

 人間も、犬神も。違いなど無いのだ。

 霞織が、嬉しそうに微笑んで、恥ずかしそうにはにかんで、一生懸命勉強して、この男の一挙一動に哀しんで喜んで。

 霞織の一番は、倉木じゃなかった。子供の倉木が解るくらい、霞織は。

「・・・・・・無駄なところで鋭いくせに。この鈍感男が」

「露骨な陰口叩いてんじゃねーよ!」

 ぼそっと呟いた倉木の声は、宗方にも届いた。頼正は曖昧に苦笑する。

 式には呼んでやろう。倉木は勝手にそう思った。鈍感なこの男はきっと、当日まで何も知らなくて、その場で花嫁の姿を見て驚けばいい。



     * * *



 最初に彼女に出会ったとき、倉木は霞織の面影を見た。

 優しい笑顔につられて微笑み、その時は確かに霞織と罪悪感を忘れていた。

 街を案内して貰いながら、よく笑う彼女とともに過ごす時間は倉木も楽しかった。楽しいと感じるのがあまりに久しくて、一種の感動すら覚えた。

「もー、奇跡よね。ほんとに偶然だったんだもん」

 何度目かの逢瀬で、本当に宗方の言うような白髪の若い男がいるなんて思っていなかったのだから、と彼女――香川紀子――は笑って明かした。倉木は苦笑して呟く。

「『奇跡』なんて、この世にありませんよ」

 紀子は意外そうに倉木を見た。運転中なので、視線はすぐに前に向く。

 奇跡なんてない、そういう人間が多い事も紀子は知っている。奇跡は起こすものだ、なんて台詞、医療現場でもよく耳にするが、その場合の奇跡は技術だと人は言う。都合の良い奇跡なんてものはこの世にないのだと。

 それでも紀子は、心から思う。誰に否定されたって、自分は。

「私はね、『奇跡』って信じてるの」

 倉木は少しだけ眉を上げた。紀子は自分の少女時代を思い出す。

 治らない病気だと言われた。手術をしても成功の確率は低く、余命少ないと言われ続けた。入退院を繰り返し、親にも心配とお金をかけさせ、生きているだけでいろんな人に迷惑を掛けていると思っていた。

 それでも今、紀子は此処で生きている。原因不明のまま急に病気が治って、医者にも奇跡だと言われて、紀子も奇跡だと思った。他の子達と同じように外で走れる身体になって感動し、生きていて良かったとはじめて思えた。

 その話を聞いて、倉木は紀子を見詰めた。紀子は笑う。

「ホントよ。いまの私を見て、とてもそうは思えないでしょうけど」

 だから誰にも話したこと無いのよねー、と紀子はひとりごちる。無論、倉木は疑っているわけではない。

 そんな奇跡が、犬厄の時にも起きて欲しかった、と考えないではないが。

 隣で笑うこの女性のもとに奇跡が起きたという事実に、倉木は思わず感謝した。信じてもいない神にではなく、いま隣で彼女が微笑んでいるという事実に。

「せっかくの『奇跡』を無駄にするもんじゃないわ。だから私は、毎日楽しく元気に笑顔で生きていこうって決めたのよ」

 そう言って力強く笑う横顔に、倉木の心臓が鳴った。なんだか、今言っておかなければ永遠に機会を逃すような不安に駆られて、倉木は思いがけず焦った。

「・・・・・か、香川さん」

「ん? なーに?」

「また・・・これからも、あなたの側で、奇跡を感じても良いですか」

「え?」

 紀子は聞き返すため振り向こうとしたが、運転中なので動きを固めただけだった。ただ、倉木が冗談を言う人かどうか、または言葉の意味を、聞かなければ。

 紀子が言葉を詰めたうちに、倉木は紀子の方に向かって続きを言った。

「俺は、奇跡を信じていません。でも、あなたと居ると、信じていなかった奇跡に感謝している自分がいます」

 その声は冗談には聞こえない。真っ直ぐで、真剣な調子が在るのを感じる。

 倉木の真心が籠もっていた。

「お願いします。あなたの人生(きせき)を、俺に分けて下さい」

 その言葉に、紀子はあからさまに動揺してすこし俯き、顔を赤らめた。

 倉木はそれを見て、素直に可愛いと思った。

 紀子はしばらく黙り込んだ。でも倉木が待っている気配を感じ、紀子は自分の思い上がりではない事を知る。そわそわと身をねじって、一つ咳払いをした。年上の余裕を取り繕う。

「・・・・・べ、別に。いいけど?」

 照れて素っ気なさを装ったその返事に対し、倉木は太陽のような微笑みを浮かべた。


読んでくださり、ありがとうございました。

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