前編
「どうぞお幸せに?幸せになれるものならばね」
屋敷の裏側には小さな森があって、あの子はしょっちゅうここに逃げこんでいた。
私はこの場所に髪を埋めた。
あの子は死んだのに、私と彼以外は誰もしらなかったから。
あの子が死んだことを。
たった7年で死んでしまったことを。
私はあの子といっしょに生まれた。
1つの体に2つの魂。
あの子は覚えていなかったけど、母の胎内では私たちは双子だった。でも私は弱くて消えようとした時、あの子が引っ張ってくれた。
あの子は自分の体に私の魂を招き入れてくれたのだ。
ずっと一緒だった。
でも、あの子は私の存在をしらなかった。母の胎内でのことを忘れてしまっていたのだ。
私は何もできなかった。
あの子が叩かれた時も。蹴られた時も。ムチで打たれた時も。
私は庇うこともできなかった。
あの子が罵られ、蔑まれ、怒鳴られていた時も。
私は慰めることすらできなかった。
私は見ていることしかできなかった。私には自我があったが、それだけ。ただそれだけの存在でしかなかったのだ。
そして、あの子は死んだーーたった7年で。
痩せほそってボロボロになった体を私に残して、魂が消えてしまった。
蹴られて折れた骨が内臓にささって、血を吐いて死んでしまったのだ。
あの子の名前は、ユリアーヌ・ロジット。
ロジット伯爵家の第三子だった。
この森は小規模な森だけれども、とても古い森だった。
木々は鬱蒼と生い茂り苔むして、高く高く空を覆っていた。所々、木々の形に縁取られた天窓のような空から、箱の底を覗くように太陽が顔を見せて、天使の梯子のような木漏れ日をつくっていた。
私はそこに自分の髪を埋めた。
あの子の髪であり、今では私のものとなった髪を。
天から地上へ燦々と陽光が降り注ぐ光の場所に。逆にいうと、地上から天へとのびる光の柱の場所に。
〈よい場所だな〉
彼の魔力が私に流れこみ、たちまち内臓が完治する。彼の無尽蔵な魔力があれば、私は奇跡のような魔法すら使えるようになったのだ。
彼は肉体がない。
彼は魔力のみの存在。
彼には自我があったが形がなく、ただ漂いながら世界を眺めるだけ。魔力そのものではあるが、使う手段も方法も持たないゆえに世界に干渉する術もなかった。
私と出会うまでは。
私はあの子を見ているだけ、彼は世界を眺めているだけ、無力ゆえの似た者同志だったからか。私が転生者であり、前世の知識から彼の存在を知る者だったからか。
私と彼とは意志の疎通ができた。
ここは乙女ゲームの世界。
いずれ彼は魔力を練り上げ肉体を形成しルートによっては、世界を救う精霊王にも世界を滅ぼす魔王にもなる存在。
ヒロインはあの子の異母妹。
悪役令嬢はあの子、ユリアーヌ・ロジット。
「ユリアーヌ…ッ!!」
この回復魔法をあの子にかけることができたならば、あの子は死ななかったのに。
肉体を持たない私も彼も今まで魔法を使うことができなかった。
あの子が死んで私が残って、あの子の肉体の主となったことで、はじめて魔法を使えるようになるなんて。
「ユリアーヌ…ッ!!」
私は声を上げてあの子を呼んだ。
生きている間は、あの子は名前を呼ばれることもなかった。撫でられることも。抱きしめられることも。
あの子が死んでも私と彼以外は悲しまない。
悲哀の声を上げない。
誰ひとり泣かない。
だから、私がなくのだ。
声をたてて、
声のかぎりに、
声が枯れるまで、
声の全てで私は、泣くのだ、鳴くのだ、啼くのだ。
この体からあの子の存在だけが消えさったから。
あの子の命が亡くなったから。
あの子の心が失くなったから。
あの子の魂が無くなったから。
だから、私はなくのだ。
この世界に生まれた赤子のように泣くのだ。
言葉にならない声で悲しむ動物のように鳴くのだ。
苦しみを抑えることのできない鳥のように啼くのだ。
亡き声、
失き声、
無き声、
泣き声、
鳴き声、
啼き声、
繰り返して、崩れていく。
繰り返して、消えていく。
なき叫び続ける私に彼が寄り添ってくれた。
彼とて悲しいのに。彼と私とであの子を見守ってきたのに。
彼には涙を流す肉体すらない。
悪役令嬢、あの可哀想なユリアーヌがどうして悪役と呼ばれるのか?
ユリアーヌの誕生とともに母が死に、そのため、あの子は父に兄に姉に憎まれた。
ユリアーヌが7歳の時に父親が再婚して、義母にはユリアーヌと同じ年の娘がいた。
ヒロインであり、異母妹である少女はユリアーヌと正反対だった。
義母に父に兄に姉に愛され大切にされて育つのだ。
ユリアーヌは、憎まれ恨まれ虐待されて育つのに。
ヒロインにとってユリアーヌは踏みつけてもいい存在。悪いことは全てユリアーヌに押しつけ、ヒロインは恋愛のスパイスにユリアーヌを使い、最後には邪魔になったユリアーヌを無実の罪で処刑に追いやってしまうのだ。
ゲームでのユリアーヌは処刑の時、全てを諦めた絶望の表情をしていたけれども、現世からの解放を喜ぶように微笑んでいた。
この乙女ゲームは、普通の清純なヒロインに飽きた人向けの悪辣なヒロインとしたものであったが、あまりにも哀れなユリアーヌは、天真爛漫な無邪気さを偽装した強かなヒロインよりも人気があった。
しかし、私も彼もあの子を処刑させるなんてことを許すつもりはなかった。
彼は後数年で肉体を持つのだ。肉体さえあれば、彼は世界を従える絶対の強者になれる。その時には私にも肉体をつくってくれると彼は言った。
そして、あの子をさらって彼は父になり私は母になり、大切にして甘やかして誰よりも幸福にするつもりだったのに。
私は空を見上げた。
木漏れ日に、天から地まで至る光のラインに、こらえきれぬ悲しみを涙としてこぼしながら手櫛で梳るように光の帯を撫でて私と彼は祈る。
私に来世があったように、あの子にも幸せな来世がありますように、と。
今世のあの子を不幸にした者たちには、私が報いを受けさせるから、と。
あの子をムチ打った父親を、あの子の小指を踏み潰した兄を、あの子の右耳の聴覚を奪った姉を、あの子を蹴りつけて血を吐かせた義母を、あの子の背中に熱湯をかけて笑っていたヒロインを。
許せない、私と彼は。
私たちの大事なあの子を殺しておきながら幸福になるなんて、そんな理不尽なことを。
許さない、私と彼とで必ず。
必ず、復讐してやる。
今夜はその運命の日。
今夜は再婚を祝うパーティーが盛大に開かれ、幼少時のヒロインと攻略対象者たちとの初めての出会いの場となる夜なのだ。