1話
わたくしには、伝わらなかった事実があります。
そう、伝わらなかったのであって、けっして秘密にしていたわけではないのですよ。
◆◆◆
この世界には、いくつもの種族が存在しています。
なかでも人間は、短命で能力が低い代わりに繁殖力という点で他の種族より優れていました。
獣人も人間よりは子ができにくいと聞きますし、エルフは長命ですが生涯で二人ほどしか子が成せないそうです。
また神の血族と呼ばれる竜族は、魂に刻まれた番をことのほか大切にするらしく、番と巡り会わなければ生涯独身を貫くことも珍しくありません。
そんな圧倒的な数を誇る人間が治める国の一つ、ルルド王国には貴族が通う学舎があります。
この学舎には、わずかばかり優秀な平民を受け入れる枠があるそうで、諸事情によりわたくしもその枠の一員です。
「お前がエレノアか」
突然教室に入ってきて、わたくしを睨みつける男性。
軽々しく名を呼ばれ、嫌悪感が溢れ出しそうになるのを必死に堪えます。
「はい、殿下。エレノア・キャンバリーにございます」
彼がこの国の王太子であることは知っています。
この学舎にいて、殿下をお見かけしたことがない者はいないでしょう。
王族に相応しく、黄金のお髪に翡翠のような瞳、鍛えられたお体と、次期国王としてその風格をすでに漂わせており、自然と人を惹きつける魅力をお持ちです。
ですが、わたくしとは面識がありません。
殿下のことですから、わたくしのことを知っていてもおかしくはないのですが、わたくしの名を聞いて顔を顰められるのはどういうことでしょうか?
「本家の娘を虐めているらしいが、身分をわきまえたらどうだ?」
「おそれ入りますが、なんのことを仰っているのかわかりません」
本家の娘、おそらく従妹のことだと思います。
しかし、唐突に言われても困惑するばかりです。
わたくしはとある事情があり、両親のもとを離れて育ちました。
預けられたのは母の実家。
そのときはまだ祖父母が健在で、祖父が当主を務めておりました。祖父がなくなると、母の弟、つまり叔父が跡を継いだのです。
そのときにはすでに結婚していて、叔父の嫁も従妹もいましたけど。
「ほぅ。心当たりはないと?」
「えぇ。ご覧の通り、独りが好きな性分でして」
休み時間だというのに、友人と語らうこともなく、教室の席で本を読んでいることからもわかるでしょうに。
貴族の世界はやれ派閥だの、政略だのが入り混じる恐ろしいところです。
人脈がものを言うこともあり、若いうちに人脈を広げることに勤しむらしいですよ。
「そうか。しかし、そういう訴えがきているのだ。少しは身の振り方を考えたらどうた?」
つまり、いつまでも叔父に甘えていないで、独り立ちしてはどうかということですね。
ですが、それをされて困るのは叔父夫婦でしょう。
住処を変えるとなると、両親に報告しないわけにはいきません。
一応、わたくしの養育費として安くない額を受け取っているのですから。
事業が上手くいっていない叔父にとって、手放したくないと思うに違いありません。
「そうしたいのはやまやまですが、叔父の許可がないと……」
「ならば、私の方からも口添えしよう」
「本当ですか!?」
あわよくばとは思っていましたが、まさか殿下から仰っていただけるとは!
「なに、平民育ちのお前にとって、貴族の社会では生きづらかろう」
あぁ。そういうお心遣いでしたか。
でも、ありがたいことなので、お言葉に甘えたいと思います。
「ぜひ!よろしくお願いいたします」
深々と頭を下げて、感謝の意を伝える。
嬉しい誤算といいますか、なんにせよ、この生活に飽きてきたところなのでちょうどいいですね。
本来でしたら、学舎にも通うつもりはありませんでした。
祖父の遺言でもあり、祖父は亡くなる前にすべてを整えていたのです。
祖父のご学友だったという学長とこの国の国王陛下の許可書が、遺言とともに叔父に渡されたのです。
御璽が押されていましたので、叔父夫婦も逆らうことはできなかったようです。
わたくしも、よくしてくれた祖父の遺言ならと受け入れました
最初は好奇な目で見られるのが鬱陶しかったですが、ある程度人間関係が確立すると気にならなくなりました。
友達と呼べる方はいませんが、わたくしのことを平民だと思っていても話しかけてくださる方々はいましたし。
人との距離の取り方がわかると、何かを学ぶ方が面白くて。
今思えば、学舎を満喫していたようです。
殿下とお会いした以降は、少し心を弾ませていました。
雲上人が仰ることなので、本当に動いてもらえる可能性は低いとわかっております。
しかし、殿下が動いてくだされば、祖父の遺言や陛下の許可書などの問題も解決するかもしれません。
そうしたら、母の実家から出ることができます。
両親のもとへ帰ってもいいですし、平民の生活を楽しむのもいいなと、いろいろと想像してしまいました。
「この平民風情がっ!」
バシッという音とともに、頬へ衝撃があり、熱を帯びます。
しかし、それも一瞬のこと。
「殿下に何を言ってたらし込んだの?」
義叔母は怒れるアースラ神のような顔をしていますね。
やっていることは逆ですが。
アースラ神は慈悲深き女神様です。
アースラ神が怒りの表情を見せるときは、子が虐げられているときだそうです。
ですので、怒れるアースラ神は子の守り神として、母親からの信仰を集めています。
それにしても、思っていたよりも早く、殿下が動いてくださったみたいです。
「たらし込んでなどいません。殿下は貴族の社会では生きづらいだろうと、憐れんでくださったのです」
殿下もわたくしが平民だと思っているので、だた情けをかけていただいたにすぎません。
「お黙りっ!どこぞの馬の骨との子など、恥ずかしくて外に出せるわけないでしょう!」
義叔母もいいところのお嬢様、いわゆる世間知らずなのです。
貴族が見た目のよい平民に手をつけて子を生ませたとしても、平民の間ではそんなこともあるだろうくらいですまされてしまいます。
逆に、貴族の社会での方が、醜聞として広まりやすいでしょう。
ですが、この義叔母は子に罪はないので我が家で育てているのだと、外で言いふらしているのですから、ある意味矛盾していますよね。
自分の評判を上げるための方便ですが、意外と上手くいっているようです。
お優しい伯爵夫人などと呼ばれていると噂を耳にしましたが、貴族の社会です。本当のところ、どう思われているかなんてわからないのですよ。
義叔母の嫌味をたっぷりと聞いたあとは、従妹に捕まってしまいました。
従妹曰く、殿下に目をかけてもらったからといい気になるなとか。婚約者候補として名が上がったのは自分の方だとか、よく理解できませんでしたが、そんなことを言っていました。
従妹も突然の幸運に舞い上がっているのだと思います。
落ち着いて冷静になれば、周りが見えてくるでしょう。
数多ある伯爵家の中で、比較的上位にあっても、さらにその上の位のご令嬢たちがいることを。
お二人ほど侯爵家のご令嬢に声をかけていただいたことがありましたが、なんと言うか、品格が違いますね。
いったい、どれほどの努力をしたのかと問いたくなるほど、美しい所作と話術。人間関係の絶妙な距離感。
どれを取っても、従妹が敵うものはございません。
なので、婚約者候補に上がったとは言え、正直なところ数合わせでしかないでしょう。
有力なのは、先ほど言った侯爵家のご令嬢のお二人です。
今の王妃様が公爵家のご出身なので、血が近すぎると公爵家からは候補を出さないようですし。
まぁ、権力争いも他人の色恋も興味がないのでどうでもいいのですが。
それにしても、人生とはままならないものですね。
感想欄は開けておりますが、返信は控えさせていただきます。