第1章-2 スラム街について
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排泄物、吐瀉物の饐えた匂い。
昼間から路地裏に寝転がる男達の酒臭い息。
銅貨1枚で春を鬻ぐ、娼婦達の安っぽい白粉の匂い。
汗、動物、血、薬草、油の匂いが入り混じる。
そして死臭。
スラムの路地裏はいつも焦げ臭い。
スラムはいつだって匂いに満ちている。
7つになってからの俺の日課は路地裏のゴミ漁り。
山羊の膀胱から作られた皮を拾い集める。
ようやく金を稼ぐ手段を手に入れてからは、俺は勤勉に働いた。
この環境から抜け出す為の手段を、常に求めていたから。
哀れな、そして逞しき女達の仕事の後には、路上にゴミが散乱している。
このゴミの山、その中でも『山羊の膀胱の加工革』が俺の生活の糧だ。
血と汚れを洗い流し、破れた皮を縫い繕う。
もぐりの医師の治療所で消費され。
娼婦の避妊道具として消費され。
死に至る病に侵された病人を抱える者達の身を守る、気休め程度のマスクとしても機能する。
スラム生活必須の万能素材。
この皮を掌一枚程集められたら銅貨1枚は稼げる。
銅貨1枚あれば、黒パン1つが買える。
孤児の1日分の食費にはなる。
商人から購入するならば、一枚でも銅貨20枚はするのだろうが。
買い叩かれるのは致し方ない、どうせ元手はタダだ。
俺の生活圏のスラムには酒場があり。
連れ込み宿があり。
向かいにもぐりの医師がいて。
そして最後に、教会と孤児院という受け入れ先があるわけだ。
仕込んで、産んで、捨てられる。
拾われた孤児の娘達。
貧しい現実に揉まれ、歳を重ねて薹が立ち。
売れない、産めない、仕事がない、ときてようやく人生の双六はあがりになる。
最後は教会が看取り、みな天に召されるわけだ。
水が高きから低き所へ流れるように、ここは全てが上手い具合に下に下に流れていく。
スラム街における万能素材といえど、道具としての性能は完全じゃあない。
娼婦達も失敗があるものに、わざわざ高い金は払えない。
そもそも生活が苦しいのだから。
そして仕事にしているからには、望まぬ妊娠も避けられない。
栄養状態も悪いから、月のものも不定期なのが当たり前。
体調の異変に気付いた時には、なす術なしってわけだ。
正にゆりかごから墓場まで至れり尽くせり。
スラムは孤児の生産工場ってわけだ。
ここから抜け出す夢を見ない奴はいない。
が、どいつもこいつも、金無し、ツテ無し、学も無し。
とくりゃあ、唯一の可能性は容姿に優れた孤児を拐かし、良いツテで売り捌いちまうことくらいだ。
だが、こいつも良い手だとは言えない。
スラムにだって秩序はあるのだ。
獣の秩序、力あるものが仕切っているわけだ。
どんな底辺の社会だろうが、しがらみ、面子、利権がある。
弱者に選択の自由はないってこった。
転生した俺を取り巻く世界の全て。
それはこの路地裏だけで循環し、そして完璧に完結していた。
盗むな、殺すな、犯すな。
シンプルなこの街のルール、これだけは破ってはならない大原則。
字を読める者など、ここでは1割にも満たない。
法の概念など当然理解の外。
人というより獣に近いスラム乞食共に、三原則以上の法など理解できるはずもない。
教会が授けるありがたい説教だけが、掃き溜めの住人の良識だ。
そうでなければ街の有力者である、ケチな豪商達がわざわざ寄付金を出してまで、こんなスラムの教会を保護したりしなどしない。
奴らも飢えた獣が暴れだすのは困るのだ。
常に生かさず殺さず搾取する。
それが上手いやり方なのさ。
教会の教え。
それこそがスラムの獣共に薄っぺらい道徳観を刷り込み、なんとか最低限人間らしき者につくりあげているのだ。