白雪姫の号哭
その日、世界は大きく変わった。
魔の三角海域の中心部。その空間が揺らぎ、震動する。
砕けるはずがない空間にクモの巣のような罅が入り、その罅は見る間に広がってゆく。その様はまるで、巨大なガラスを割れかけているようだった。
罅の範囲はどんどん大きくなり、遂に耐久限界を迎えた空間が、薄氷のように砕け散った。
砕けた空間の破片は溶けるように虚空に消え、空間の跡には幾何学的な模様の黒い穴が残される。
その黒い穴は周囲の空間を侵食して広がり、無数の小さな穴が連結してはさらに領土を拡大する。
全ての穴が繋がっても侵食は拡大してゆき、海の一部や周囲の空間を飲みこむ。
地上絵のように巨大な穴は、正円を描いて停止した。その穴は小さな島国がまるごと通行できそうなほど、余りある大きさだった。
その穴から這いずるように姿を見せたのは――悪魔のような姿をしたの悪鬼の群れ。
それは、姿形も大きさも性質も異なる無数の怪物。
無数の異形が空を埋めつくし、海を席巻する。渡り鳥や魚が、怪物たちに瞬く間に貪り食われて、その命で海を真紅に染め上げる。
この世の終焉が訪れたような光景だった。
小腹を満たした怪物たちは、さらにエサを求めて海を渡った。
出会うもの全ての血で、空と海を血に沈めて。
黒い穴。それは異世界に通じるゲート。世界を渡る怪物、悪魔たちが開いた絶望と破滅への扉。
◇
それが報道された時、世界中がこの現実を疑い、自分の目を疑った。幼い私は姿、形、大きさもまるで違う多種多様な数えきれないほどの無数の怪物たちにめまいがした。
ほとんどは妖怪みたいな見た目で気持ち悪かったし、怖かった。中には人間そっくりな巨人や天使みたいなのもいたりしたけど、中身は他の怪物と同じただの化け物だった。その証拠に人を食い殺している姿をテレビのカメラが捉えていた。
怪物たちに真っ先に襲われたのは警戒に当たっていた海軍とその様子を報道していたヘリだ。
私はテレビごしにそれを見てた。その様子は今でも目に焼きついてる。
お兄ちゃんが教えてくれた『空母』って言う船。
戦闘機をたくさん乗っけた大きくて、鉄とコンクリートでできたその船に怪物は一斉に飛びついて、たちまちボロボロになって火の手が上がり、黒い煙を上げながらろくな反撃もできずに海に沈んでしまった。戦闘機が飛び立つ暇さえなかった。
隣でそれを見てたお兄ちゃんの顔を見上げたら信じられないというふうに凍りついていた。
次に襲われたのはニュースのヘリだった。
ヘリに乗ってたキャスターのお姉さんがカメラの目の前で私の貧相な語彙力じゃ伝えられないほど醜い怪物に生きたまま食べられた。残酷すぎて私は思わず目をそらしたけど、耳を塞いでも悲鳴が聞こえました。
恐怖でパニックになってた私たちはチャンネルを変えるとか、電源を落とすとかも考えられなかった。
それくらい怖い出来事だった。
やがてか細くなって消えていったあの声は、いまでも耳にこびりついててハッキリと思い出せる。
血に餓えた怪物たちは空を舞い、海を越え、瞬く間に太平洋海岸線付近の街を襲い、そこに住む人々を餌にして食べていった。
世界中がパニックになった。多くの街が襲われて、大勢人が殺された。
その中には、私の街もあった。私の家族がいた。
私の住んでる街は、運が悪いことに太平洋側の海岸近くで、あの時、お兄ちゃんは険しい顔をしてどこかに電話すると、慌てて地下室に水や食べ物や毛布や着替えの服を放り込んでた。私は籠城できるように準備してた。
私はお兄ちゃんの奇行に見かねてどこに電話してたの?って聞くと、軍の部隊に連絡してこの町が安全かどうか確認してたってお兄ちゃんが返した。軍人だったことはこの時、初めて知ったの。
「ここもすぐあのバケモノの群れに襲われるから地下に隠れろ」ってお兄ちゃんは私を、私だけを家の地下室に隠して自分は怪物と戦おうと準備してた。
私は一緒に隠れようと言ってお兄ちゃんの手をとった。でもお兄ちゃんは研究所でいるだろうって、お父さんとお母さんを連れてくるって言って、銃を掴んで飛び出していった。
私はついていこうとしたけど、お兄ちゃんのゲンコツを食らって泣く泣く言われた通り、地下室に隠れた。
怪物たちが町を襲ったのは、それからすぐのこと。
私はゲンコツの痛みで泣いてたから外の様子はわからなかったけど、密閉された地下の空間にも音という形で情報が伝わってきた。
轟音、悲鳴、怪物のうなり声。
なにかが爆発するような音が聞こえるたびに地下室が微かに揺れる度に私は「ひっ」と小さくなって悲鳴を上げた。
地下室の無線が地上の無線の音を広い、誰かの絶叫が遠くに聞こえる。それがだんだん小さくなって消える。私はその悲鳴が聞こえる度に私はその誰かのように自分が怪物に食べられるのを想像してすすり泣いた。
怪物のうなり声が聞こえる。私はコンクリートを挟んで頭の上を歩く、私を探しだして食べようとしてる怪物に怯えた。
分厚いコンクリートの下にいる私にはいつしかゲンコツの痛みを忘れて、ベッドの下に隠れて恐怖で泣いていた。
その声で気づかれるかもしれないという思いがさらに恐怖に拍車をかけた。
口を手で押さえて、がんばって楽しかったことを考えた。友達とおしゃべりしたり遊んだりしたこと、好きなアニメのこと、家族と一緒に行ったテーマパーク、大好きなお兄ちゃんとゲームして遊んだこと。
泣かないように頑張ったけど、ダメだった。
涙は私の意思を無視してどんどんあふれてくる。
『私ってこんなに泣き虫だったっけ』って冷静になってる部分もあったけど、怖くて怖くて心が壊れそうだったから無意識のうちに現実逃避してたんだと思う。
お兄ちゃんはお父さんとお母さんを連れてくるって言ってたけど、結局戻ってこなかった。
外まで探しにいく勇気は、弱虫の私にはなかった。
だから私は、何日もひとりぼっちのままで恐怖と戦った……いや、逃げつづけた。
上に怪物たちがいることに私は怯えてベッドの下で一日の大半を過ごすようになった。
ご飯も着替えもトイレも寝るのもベッドの下でするようになった。ベッドの下から出るのは絶対に必要だった時だけでそれ以外はずーーっとベッドの下。
狭くてろくに身動きも取れなかったけど、そこだけが少しだけ安心できる場所だった。
そんな生活をずっと続けたある日のこと。
食べ物が底を尽きた。でも私はその事実になにも感じなかった。
怪物に食べられるより飢えて死ぬ方が、まだマトモな死に方だと安心さえした。
その後も私はベッドの下にいた。
食べ物を探しに行こうとは思わなかった。
外に出るくらいなら、いっそこのまま死んだほうがマシだと本気で思っていた。
その日もベッドの下でうとうとしていたら、不意に地下室の扉が開く音が聞こえてきた。心臓がドクンと跳ねる音が聞こえた。
とうとう怪物たちに見つかったんだ、と私はそれまででで最大の恐怖を感じた。コツン、コツンと誰かが階段を降りてくる音に私はパニックになって叫びそうになる。
とうとう私も食べられるんだと、ベッドの下で小さくなって自分を抱き締めながら声を圧し殺してた。
ベッドの外を見ることさえ、怖くてできなかった。
以外なことに涙は流れなかった。もう涙は一滴も残っていないからだ。
ベッドの前で足音が止まった時、私は生きたまま食べられるぐらいなら自分で死のうと、ポケットに入れていたガラスの破片を手に取った。それを首に当てた時、ベッドがひっくり返された。
私は目を閉じて、頭を抱えて縮こまった。
覚悟決めたけど、いつまでたっても予想してた痛みは襲ってこない。
それどころか、その怪物は私に怖がる優しく話しかけてきた。
「安心して、もう大丈夫だよ」と。
その声に私が恐る恐る顔を上げてみると、そこにいたのは怪物じゃなくて、怖い顔をした丸刈りの軍人さんだった。
この人の声。
お兄ちゃんとは違うけど、優しそうな声をしてる人。
この人とこの人の仲間は私の町を乗っ取って、人を食べていた怪物と一か月も戦っていて、怪物を倒してくれてたのを私は知らなかった。ずっと地下室にいたから。
私はこの人に保護されて久しぶりに地上に出た。
太陽の光りが薄暗い地下室に慣れた私の目を、容赦なく照りつけて、しばらく目が開けられなかった。
ようやく目が馴染んできて目を開けると、そこに広がっていたのは、
――観る影もなく廃墟になった故郷だった。
急に言い知れぬ不安に襲われる。
「おにいちゃんと、おかあさん、おとうさんに、あいたい」
久しぶりの発声でたどたどしくも、その人に告げた。
「もしかしたら、もうおじちゃんたちのとこにいるかもしんねえから、そんな心配するな!」
私の頭にゴツゴツとした男の人らしい大きな手を置いて、優しく撫でながら励ましてくれた。
その手つきは、お兄ちゃんが撫でてくれた時と似ていました。
◇
その人は私と手を繋いでくれて、軍のつくった避難所まで連れていってくれた。
そこに行くまでに、その人とたくさんおしゃべりしました。
友達のこと、学校のこと、家でおきたちょっとしたこと、家族のこと、楽しいこと、嫌なこと。
話ながら私は、もう二度と帰ってこないと思ってたあの日常が、もうすぐ帰ってくるんだと思って少しずつ安心してきた。あの日、地下室に閉じ籠ってからずっと求めていた安らぎがようやく戻ってくるだと勘違いしていた。
避難所で私は望んだとおり、家族に会えました。
お父さん。お母さん。そして、お兄ちゃん。
三人とも避難所にいた――死体として。
お父さんは下半身が無くなっていて、お母さんは手足が全部無くなってて、お兄ちゃんは首だけしかなくって、それが小さな箱に詰めこまれてた。
三人の顔は、とても苦しそうに、痛そうに、歪んでいた。
怪物に惨殺された三人を目の前にして、現実が急に遠くのものに感じられた。
私を保護してくれた男の人が、私の家の近くで見つけてらしい。
運よく回収できた、怪物の食べ残しだと言われた。
意識が遠のいて、私はその場に倒れた。
◇
清潔な匂いがする。消毒液の匂いだ。いつのまにか眠っていた私を、誰かがこのベッドまで運んでくれたらしい。
うっすらと意識が目覚め、直前のことを思いだしてハッとして飛び起きた。
「お兄ちゃんはどこ!?お母さんとお父さんは!?ねえ!!どこなの?!」
私は叫んだ。さっき見たのは夢で、あんなのは嘘だと信じたかった。
叫び声が聞こえたのか、さっきの軍人さんが飛んできた。その人につかみかかって泣き叫ぶ。
「ねえ!!わたしの家族はどこ!どこにいるの!?」
「……さっき見ただろ?あれがそうだよ」
保護してくれた時とは違う、冷たい声で告げた。その声は冗談や嘘が混じったものじゃなかった。
認めたくなかった、こんな現実。
「おにいちゃあん……ぱぱ…ままぁ」
心に大きな穴が空いたように感じた。子供のように私は泣きじゃくった。
あてもなく私は病院を飛び出した。行くあてはない。とにかくここにいたくなかっただけだ。
嫌なことがあった時に、いつも泣いていた家から少し離れた木の下。
そこで、私は一人でうつむき、泣いていた。
ふと、誰かが私の頭に手を乗せた。見上げみると、私を保護してくれた軍人の男の人だった。
「俺は九郎。柳川九郎。お嬢ちゃんのお名前は?」
九郎。それがこの人の名前。
私は、私の名前は――
「……白雪」
これは全てを喪った少女、白雪の物語。