人斬りと満月
“カオスロジック”とは、神谷都古の必殺技である。
原理は簡単。自らがマントとしてまとっている“集団自意識から抽出した全人類の悪意の結晶”をドリル化し、弾丸のように射出して標的を撃ち貫くだけだ。
肉体・精神両方を湾曲し捻じ切る混沌の螺旋は、いかなる防壁も穿ちすり抜け幻惑し、対象の存在を根本から否定する不破の技であった。
その不破のドリルが、都己の中段回し蹴りに砕かれ霧散する。
相手の体を両断するような鋭さで放たれた蹴りは、ほんの一瞬膠着しただけで、あっという間に闇の衝撃を突破して都古へと肉薄した。
技の硬直で固まっていた都古だったが、その身代わりのように背中のマントが自動的に都古の体を包んで鎧と化す。
「……っ!」
かまわず、都己は右足を振り切った。
腹部を切断するはずだったその一撃は柔らかくも強靭な闇の壁に阻まれ――その障壁ごと、都古の体を宙高く弾き飛ばす。
都古の体がゆっくりと上空を舞い、圧倒的なスピードでその下を突き抜けた都己は、コンクリートに靴底を擦りつけながらブレーキをかけて踵を返した。
都古と一緒に宙に浮かんでいるもの。
それは“カオスロジック”の衝撃で飛散した、都己の肉片や血液の飛沫で。
自分の技の反動に引き攣りながらも、都己は右手を過剰なまでに強く握りしめた。
瞬間、空中の血肉全てが個々に鷹の紋章へと変質する。
「しまった?!」
「もらった!!」
大小様々な紋章に囲まれた都古の悲鳴と、己が必殺を確信した都己の雄叫びが交錯した。
都己はもう一度“全力を込めたただの蹴り”を放つ。それでも都古の防壁を破ることはできなかったが、都古は大きくバランスを崩し、そして都己は自分が生み出した空中の紋章を壁に踏みしめた。
「連! 続! ストレートジャスティス!」
縦横無尽。
その言葉がピッタリと当てはまった。
紋章に吹き飛ばされながら都古を蹴り、そして通り過ぎた先で新たなる紋章が爆発して再度都古へ向かって突撃する。
都己自身も軌道の読めないアトランダムな“自爆特攻”が、全て中央の都古に降り注いだ。
爆竹のように終わりのない炸裂音がビル群を揺らし、ようやく最後の紋章が弾けたところで、都古を蹴り終えた都己が道路を抉りながら地面に着陸する。
「……くそがっ!」
しかし、都己の表情は口惜しさに歪んでいた。
残身もそこそこに体を起こすと、背後に飛んできた闇のドリルを振り向きざまの拳で迎撃する。
「あら、残念。今のは確実に捉えたと思ったのに♪」
都己が払った闇の向こうでは、都古がのほほんとした呟きを漏らしながら優雅に浮遊していた。
乱れた呼吸を整えつつ、都己は苦々しく歯を食いしばって睨みつける。
「……あれを真正面から全部イなすとか、ホントやってらんないわよ」
「いえいえ、今のは半分以上勘任せ。ただのまぐれです。もう一度同じことをしろと言われても、できる自信は私にもありません」
謙遜するように首を振る都古に、「どうせもう一度同じことをさせるつもりなんてない癖に」と都己は毒づいた。
その表情を心の底から愉快そうに観察しながら、都古も地面に降り立ち大袈裟にマントを羽ばたかせる。
「さて、それでは小手調べはここまで。そろそろ本番を始めましょうか?」
「……おっけー!」
一拍の間を置いて、二人は再びぶつかり合う。
その度に激しい衝撃波が舞い上がり、周囲のビル群をビリビリと共鳴させた。
◇ ◇ ◇
一番最初に人を斬ったとき、それはただの正義心だったと記憶していた。
それが正しいことだと信じ、それが為すべきことだと願い、それが仕方ないことだと偽った。
次に人を斬ったとき、それはただの怒りだった。
不浄な者、愚劣な者、正義を理解しようとしない者。そういった者たちへの怒りが、俺の剣先を熱く鋭く尖らせた。
それ以降、どうして人を斬ったかは覚えていなかった。
ただ、力が欲しかった。
彼らに負けない力が欲しかった。奴らに負けない力が欲しかった。
なぜなら正義は負けるはずがないから。
負けてはいけないから。
負けたら正義ではいられないから。
最初の殺人を肯定するためにも、俺は勝ち続けなければいけなかった。
そこにあの少女が現れた。
どこにでもいるような普通の少女。
しかし、彼女は正義だった。
正義の味方、などという矮小な存在ではなく、彼女は正義そのものだった。
彼女の頭には正義しかなく、その存在理念は正義としか呼べず、その立ち振る舞いは正義以外の何者でもなかった。
少女は負けた。
常に負け続けた。
百を数えるほど負けて、千を数えるほどの正義が潰えた。
それでも彼女は立ち上がった。
全ての正義の味方が諦めた後も、たった一人で正義を背負い立ち上がった。
その正義にすら、もう辞めてもいいと引き留められたというに、それでも彼女は立ち上がり続けた。
理由は簡単。
彼女は悪が許せなかったのだ。
日常に住まう小さな悪が許せなかったのだ。
悪が悪としてのうのうと存在していることが許せなかったのだ。
悪によって正義が穢されていく様を、そしてそれを黙って看過しようとする世界を、彼女は決して許せなかったのだ。
だから彼女は“その道”を選んだ。
正義ではなく、勿論正義の味方などでもなく、ただの殺戮者であることを。
ささやかな正義を守るのではなく、膨大な悪を駆逐することを。
この世に蔓延る悪を、ひとつ残らず蹂躙し殲滅することを。
それこそが俺と彼女との、決定的な違いだった。
俺は正義を守るために剣を振るい、彼女は悪意を潰すために蹴りを放った。
それが明確な違い。致命的な差。
この俺がたったの一度として、彼女に勝つことができていない理由。
きっと彼女は全力で否定するのだろうが。
……彼女こそが、正義そのものだ。
俺は、六道凶慈は、万を超えたあたりから数えるのをやめていた素振りの手を止めて、空を見上げた。
おびただしい量の汗が頬を滑り、はだけた上半身を伝い、腰の袴に吸われて服の重みをかさませる。
闇夜に浮かぶは月白の満月で。
その月へ問うように、俺は携えた大太刀の切っ先を天に掲げた。
「……都己よ。……おまえは今、どこで何をしているんだ?」