天から下着姿の女性
清々しい朝。陽光に目を細め、青空を見上げると、真紀子は目眩がした。久しぶりの晴天である。真紀子は思う、今日の青空は幸せの予感かも、と。彼女は、天からの贈り物である太陽の光を活かす好機だと、掛け布団を素早く干した。念のため天気予報を調べると、降水確率はゼロパーセントで、問題なかった。気分良く仕事に向かえる気がした。
志田真紀子、三十歳。職業は精神科医である。勤め先のクリニックに向かう準備は万端だ。ワンルームマンションを後にし、市内の大通りに飛び出した。
勤め先に向かうまでの道のりには、飲食店がひしめいていて、真紀子行きつけのパン屋がある。「ラフォーレ」という店で、昼食はいつもここで買う。買い求めるのは、サンドイッチか惣菜パンで、菓子パンは帰宅中にたまに買う程度。気ままな真紀子は、こだわる部分と気にしない所の差が大きい。サンドイッチは、マスタード入りでないと気が済まないのだが、菓子パンにこだわりは無い、と言った具合に。今日はカレーパンとグラタンパンを購入した。
「先生、偏食なんですね」
接客した店主の妻が冷やかした。真紀子は、「どうも」と苦笑でやり過ごした。
ラフォーレの外に出ると、真紀子は、降注ぐ陽光に再び目眩を覚えた。はて、体調不良かな? いや、心地よすぎるだけだ。飛べそうなくらいに。
クリニックまであと百メートルの地点に来た時、真紀子はまたも空を見上げた。陽光が一瞬遮られたかと思うと、ぎょっとする影が眼前に映った。あっ! 人だ! 真紀子は人間性に基づく条件反射で、受け止める態勢をとり、落ちてくる人影を必死に目で追う。だが、遅かった。人は真紀子から大きく逸れ、永遠に続くようなスローモーションで、アスファルトに激突した。時と共に凍り付いた表情と姿態で、アスファルトに倒れた人を振り返る真紀子。だが、いつまでも凍っている訳にはいかない。次に気付いた時には、倒れている人の状態を冷静に判断し、見極めようと努力していた。女性だ。若くて、色白で、下着姿の。右肩から落ちたけど、頭などからの出血はないか。血は流れていない。救急車を呼んで来てもらうまで、下手に触らないでおくべきか。呼吸は落ち着いている。脈も安定している。呼び掛けてみよう。
「あなた、大丈夫? 痛くない?」
「ええ、悔しいことに。ちっとも痛くない」
女性の返事に真紀子は面食らった。彼女が右腕をおもむろに挙げたので、右腕も無傷らしい。
「人が来ない内に、私を運んで」
「ええ、わかった。こんな姿だもんね」
真紀子は女性の頼みを引き受け、ロングジャケットを着せてあげると、一目散に自宅へと引き返したのである。女性をおんぶしながら。
自宅マンションのエントランスで、顔見知りの住人と出くわした。「あら、おはよう。志田さん、そちらの方は?」
「友人で、微熱を出したようなんです。彼女、デリケートだから」
「そう、気の毒に。お大事にね」
住人の女性は去って行った。真紀子はふいに、何やら熱気を首筋に感じ、あわてて女性を振り返った。顔が火照っていて、額を触ると、高熱を発していることがわかった。
「大丈夫? 大きい病院に運んでもらおう」
しかし、女性は首を横に振るしぐさで、反対するのである。
「事件性以上に深い事情があるのね?」
「うん」
両目で問いかけながら頷く女性に、真紀子は母性からくる責任感を刺激された。理由はどうあれ、私が助けてあげないと。自宅へたどり着くと、固く施錠して、女性をベッドに寝かしつけると、ベランダに干した掛け布団を掛けてあげた。
「さあ、もう安心して。ただひとつ聞きたいのだけど、あなたの名前は?」
真紀子の問いに女性はためらうが、辛抱強く待つ相手の態度を察してか、一息に答えた。
「茨木ナオ」
「茨木さんね。事情やその姿、そして建物から飛び降りた経緯は聞かないでおく。でもこちらにも責任があるから、いつかは話してくれる?」
「私、大手女性下着メーカーの新人社員だったんです」
「えっ?」
ナオの告白に真紀子は驚いた。
「超立体フィットショーツと、ジェルパッドブラジャーは、私のデータに基づいた、個人情報とプライバシーを悪用した商品なんです」
「茨木さん、下着モデルだったの?」
「合意した上でのモデルだったなら良かった」
下唇を噛みながら、ナオは悔しげに呟いた。
「熱を計ろう。そして、軽い食事と水分補給。詳しい話は元気になってからね」
「お世話かけます。ええっと……」
「志田真紀子よ。よろしくね、茨木さん」
繊細な雰囲気と物腰だが、まるで少女のようなナオに、真紀子は急速に惹かれていくのを感じた。