恋人から連絡が来ました
わたしの目の前に印刷された二枚の紙が表示された。彼女がデザインを任された新ブランドのイメージキャラクターだ。それを小物などのグッズにも活用する予定らしい。
「これってどっちがいいと思う?」
「わたしはこっちかな」
わたしは飴色で毛並みをかかれたイラストのほうを指さす。
猫のキャラクターで、できるだけ簡素で、愛らしく、柔らかい雰囲気を醸しだすものをというものが先方のリクエストだ。彼女はデザインもだが、いくつか案をあげ、塗りのパターンを変えたり、色遣いを変えたりとアレンジを加え、それが最終的に三つに絞り込まれていた。
「わたしもこれが一番のお気に入りなんだ。やっぱり浦川さんとは気が合うね」
彼女は目を細めた。
彼女は普段はわたしをほのかと呼ぶが、仕事中は苗字で呼んでいた。そのため、わたしも彼女のことは苗字で呼ぶようにしていた。
あの婚約破棄から三週間が経過していた。その間、雄太から一度も連絡はない。
「寒かった」
その声とともに同僚の男性が扉を開けて入ってきた。彼はマフラーを解くと、机の上に置いた。
もう秋の名残は消え、冬に突入していた。そのため、わたしと仁美は外で昼食を食べることはなくなっていた。当然、岡本さんと顔を合わせる機会もほとんどなかった。
岡本さんはともかく、雄太とわたしの関係はどうなるのだろう。
冬の寒さに比例するように、わたしの心もじんわりと冷たくなっていった。
そして、凍り付いたように身動きが取れなくなった。
仁美の視線がわたしの机の上のカレンダーへと移った。
「今年ももう少しかあ。よく働いた」
彼女はそうぼやくとわたしを見てにやりと笑うと、耳元で囁いた。
「温泉でも行ってゆっくりしない? もちろん、彼氏との約束が最優先でいいけど」
「いいよ。行こうか」
仁美はわたしと雄太がうまくいっていると思い込んでいるようで、今みたいにわたしをからかうことも少なくない。わたしはあえて雄太とのことに触れなかった。
「ほのかがここに来てもうすぐ五年か。あっという間だった気がするよ」
「そうだね。わたしも最初は大変だった」
仕事内容や、他の人との能力の差を思い知らされたという意味で、労働状態は他の事務所に比べるとかなり緩やからしい。一時的に朝から夜まで入り浸ったり、泊まり込みになることもあるが、本当に数えるほどだ。他の事務所の人に羨ましがられることも少なくない。
それは仁美の叔父さんが従業員のプライベートを尊重しようという考えを持っていることと、彼自身が誰よりも仕事を優先してこなしている結果なのだろう。そして、仁美が仕事を手伝うようになり、事務所に入り浸るのは自主的にそうしたいと思わない限り、必要性は皆無となったらしい。
わたしが入社したとき、すでに仁美は「特別」だった。あのときは彼女が先輩だからだと思っていたが、今は彼女がなぜ特別扱いされるのか痛感していた。彼女と一緒にいるのは楽しいが、彼女の溢れんばかりの才能をむざむだと見せつけられ、自分が本当にこの仕事をしていていいのかと悩んだこともあった。向いてないなら早めに別の将来を模索するべきではないか、と。
雄太に出会ったのはそんなときだ。空虚だったわたしの心を初めての恋人が満たしてくれたのだと思う。
「叔父さんとも話をしていたんだけど、これやってみない? もちろんわたしがサポートするよ」
彼女はA4サイズの文書を机の上に置いた。
それは子供向けのおもちゃを販売する会社のマスコットキャラクターの案件だ。
わたしは驚き、仁美を見た。
彼女は首を縦に振った。
「でも、わたしにできるかどうか」
「ほのかは結構いいセンスしていると思うんだ。最近は技術も上がってきたし、いけると思うよ。わたしも手伝うからさ」
仁美はわたしの背中を軽くポンと叩いた。
ほのかという呼び方から彼女は友人としてそう思ってくれているのだろうというのがよくわかった。落ち込んでいた心が一気に明るくなった。
「やってみる」
「よかった。ならこの資料に目を通しておいて。あとラフでいいから案をいくつか出してね。店を見に行きたいなら、後で見に行こうか」
仁美は紙の束をわたしの机の上に運んできた。
コンセプトや、こうした色彩でといったデザインに関することは最初に仁美の渡してくれた紙に書いてあった。資料には店内の写真や、アクセス、人気商品といった様々な情報が詰め込まれていた。わたしはイメージを働かせながら、その資料を読み進めることにした。
わたしは外に出るとため息を吐いた。
「まだ時間があるから大丈夫だよ」
仁美はわたしの肩をぽんと叩くと、目を細めた。
あの後、一日中考えてはいたが、全く思い浮かばなかったのだ。
試行錯誤の上考えた案は、仁美に似ているものがあると却下された。
「仁美はどれくらいで思いつくの?」
「だいたい資料に目を通せば思いつくかな」
そうさらりといった友人の言葉を聞き、ため息を吐いた。
彼女が特別すぎるのは分かっているが、自分との差を痛感してなんとも言えない気分になってきていた。
今週末は幸い予定がない。家でゆっくり考えようと決めた。
わたしは机の上で書いたラフの上に顔を伏せた。
何度頭を働かせても、ピンとくるものが作り出せない。
好きで描くのとは違い、仕事となると勝手がいろいろと変わってくる。
好きで描く絵か……。
わたしは本棚にあるスケッチブックに手を伸ばし、ぱらぱらとめくった。
中学生のときに描いた風景画。わたしは昔から絵を描くのが好きだった。勉強そっちのけで絵を描いていて、親によく怒られていたりもした。小さなコンクールで入賞したこともあったし、美術の成績もよかったし、それなりに上手なほうではあったとは思う。
将来は絵を描く仕事に就きたい。けれど、芸大を選択する勇気はなく、なんとなしにみんなと同じように大学まで行った。
携帯にメールが届き、わたしはスケッチブックを棚に片づけた。
届いたメールを開き、ドキッとした。
差出人は雄太だった。そこには話があるから電話していいかと書かれていた。
時刻は七時を回っている。いつも通りであれば彼はもう仕事を終えている時間だ。
わたしは手が震えるのを抑えながら、彼の番号に電話をした。
すぐに彼の声が聞こえてきた。
「元気だった?」
他愛ない問いかけに「うん」と返事をして、同じ言葉を問いかける。
彼もわたしと同じ返事をした。
「明日、話があるんだ。いいかな。できれば直接会って話をしたい」
本当なら嬉しい誘いのはずなのに、終始暗かった彼の声に、わたしはそっと唇を噛んだ。