親友たちに婚約破棄を伝えました
布団から起きると、枕元の携帯に手を差し伸べる。
婚約破棄を言い渡され、最初の週末を迎えようとしていた。初日は眠れずに寝不足状態で会社に行くことはあったが、日数が経過するにつれ疲労が蓄積したのか、昨夜は睡眠をとることができた。
あれ以降、彼から電話がかかってくることも、メールが届く事もない。彼は別れようとは言わなかった。婚約破棄の話は、彼の中で別れ話に匹敵するようなものだったのかもしれない。だとしたらもう一度、彼に向き合う必要があるのだろうか。
このままわたしが連絡を取ろうとしなければ、自然消滅の可能性もあるのだろうかとまで考え、軽く笑う。まだ数日だと自身に言い聞かせた。
結局、友達にはともかく、親にもまだ話をしていない。あれほど喜んでくれた両親の悲しむ顔を見たくなかったし、少なくとも話をする段階で心の整理をつけておきたかったのだ。話をするときに涙を見せれば、両親により辛い思いをさせてしまうのは分かっていたからだ。
もっともわたしも初日から心の整理に努めていたが、心に湧き上がる様々な感情が、それらを難しいものへと変えてしまっていた。
悲しみを胸に抱くと同時に、映画のワンシーンを見ているかのように現実味のない気持ちも少なくない。きっと映画だと彼女がヒロインで、わたしは彼を略奪しようとした嫌な女か、何も知らない無知な女に過ぎないのだろう。彼らの関係を知らないため、無知ということは否定しないが。
だが、このままではいけない。まずは親に話をしよう。
そう決意を固めたとき、わたしの手にした携帯が音を奏でた。
篠井亜津子と表示された友人の名前を確認して電話を受けた。
「今日の約束だけど、待ち合わせ五時でいい? 琴子が都合が悪いらしいの」
わたしは思わず声を漏らした。そういえばそんな約束をしていたことさえすっかり忘れていた。あれほど数日前まで気にしていたのにも関わらず。
今日会うのは、わたしの婚約を知る、高校のクラスメイト。みんなの前で婚約破棄についていってしまえば、一人ずつ報告する必要はない。
友人に婚約破棄のことを伝えるには最適の場面ではあった。
親に先に話すべきなのはわかっていたが、ずるずると週末まで伸ばし続けた結果だ。
さすがに二度、言うのは辛すぎる。
今日は友人に、そして、明日は親に言おうと決意した。
橙色の光が店内を照らし出した。わたしは自分の目の前に運ばれたオムレツを口に運んだ。
彼女たちと会うのは夕方五時からになった。そこから軽くお酒を飲みながら、食事をしようということになった。成人してお酒を飲めるようになってから、お互いの実家と近いこの店で食事をするのが定例行事になっていた。
「おいしい」
わたしはそう言葉を漏らした。
「本当にほのかはここのオムレツが好きだね」
髪の毛を明るい茶に染めた亜津子はわたしを見ると笑みを浮かべた。
この店のオムレツは卵がふわふわしていて、わたしの大好物だった。味を堪能し終わった後、口の中をすっきりさせるために頼んでおいたコーヒーを口に含んだ。
「だっておいしいんだもの」
今まで食欲がなかったからだろうか。鉱物がよりおいしく感じられた。
「でも、こうやってみんなで会うのは難しくなるよね」
そう口にしたのは琴子だ。
「どうして?」
わたしは思わず聞き返した。
「何言っているのよ。結婚する当事者が。旦那様が嫉妬しちゃうでしょう。でも、雄太さんならいいよって言ってくれそうだよね」
琴子はわたしの肩をぽんと叩いた。
わたしはその言葉にドキッとした。
わたしは再びコーヒーを口に含むと、深呼吸した。
これを神様が与えてくれたチャンスかもしれないと前向きに考えることにしたのだ。
この場で言ってしまわないと、もっと言いにくくなる。
「わたしと彼、しばらく結婚を見送ることになったの」
「何で? 彼の両親となにかあったの?」
そう聞いてきたのは今まで黙っていた佐々井舞香だ。
彼女は目を見張り、わたしを凝視した。
彼の両親と限定したのは、わたしの両親と彼が合い、互いの印象がよいことを知っていたからだろう。
「違うの。彼の両親にはまだ会っていない。ただ、いろいろあって、もう少し時間をおこうということになったんだ」
わたしは言葉を選びながら、慎重に発した。
何かあったと匂わせたのは、それ以上突っ込まれないよにするためだ。
彼女たちの間に驚きの表情が走った。
「そうなんだ。最近?」
「そう。本当、だからごめんね」
わたしは会話を終わらせるために畳みかけた。
彼女たちも「何か」を察したのか、顔を見合わせた。
「結婚を先送りにするってことは別れたわけじゃないの?」
そう聞いてきたのは、亜津子だ。
「きっと大丈夫だよ。雄太さん、本当にほのかのことが好きみたいだもの」
琴子は真っ赤なグロスを塗った唇から明るい言葉を紡ぎ出した。
「そうだよね」
それに同意するのは亜津子で、舞香も首を縦に振った。
「今日はわたしたちのおごりだから、ぱあっと飲もう」
少しだけ胃の辺りの重みが消えた気がした。
持つべきものは友だと良くいったと思うし、親に言う勇気も出てきた。
「ありがとう」
わたしは目頭が熱くなるのを感じ、軽く唇を噛んだ。
彼との関係がああいう形で一区切りついたわたしには、友人の優しさが痛いほど身に染みていた。
蛇口をひねると冷たい水が流れ出た。わたしはそれに手を伸ばした。手を洗い終えると、鏡に自分の姿を映し出した。家を出るときにも自分の顔を見たが、あのときよりすっきりした気がした。友人に優しい言葉をかけてもらったことで、心が楽になったのだ。
あとは親に話をしよう。同じように話をしたら大丈夫。そう言い聞かせて化粧室を後にした。
人のにぎわう店内で、琴子たちの姿を見つけた。
わたしが彼女たちの席に戻ろうとするより一足早く、彼女たちの明るい声がわたしの耳をかすめた。
「さっきの話、どう思う? 婚約破棄ってことは別れようってことじゃないの?」
そう言ったのは琴子だ。
「普通そうだよね。都合よく丸め込まれているだけじゃないの? 本当だとしても結婚しない相手とずるずる付き合っていたら、あっという間に三十超えちゃいそう」
亜津子は口に手を当ててにやにやと笑っている。
舞香はそんな二人の会話を無表情で聞いていた。
「さっき笑っちゃいそうになったよ。婚約破棄されても付き合っているとか言っててさ。それっていいように利用されているだけだよね」
「いろいろおごってもらっているみたいだから、お互いさまじゃないの? 琴子、あんたって本当に性格悪いよね」
「いいじゃん。最近、仕事でストレス溜まってるのよ。いいストレス解消になった。また月曜から仕事を頑張れそう」
「ストレス解消って。でも、わたしも琴子の気持ちが分かるかもね。今までぶりっこしててさ、男と付き合ったことないですって感じだったものね。男を見る目がないと言っても、さすがに婚約して破棄ってね。いい気味。顔が少しくらい良いからって、調子に乗りすぎ」
わたしが婚約破棄の話をしたときよりも、饒舌に、それでいて楽しそうに話をする友人たちを見て、わたしの心臓がどきりとした。
その時、わたしは自分の立場を知った。