彼の新居にいきました
わたしは真新しいマンションの前に来ると、深呼吸をした。そして、インターフォンを押す。
すぐに雄太の声が聞こえ、彼が玄関まで出てきた。
春奈さんとの挙式を来週に控えた彼は、もう新居に引っ越しをしていて、実家でもわたしが通いなれた彼の家でもなく、別のマンションへと引っ越していた。
「あがって」
わたしは客人として訪れたが、そこには笑みがなかった。
それも当然だろう。
弟の前から去ったという元婚約者が、弟の件で会いたいと電話をしてきたのだ。
「春奈さんは?」
「今、出てもらっているよ。さすがに気まずいだろう」
「そうだね」
もう過去のことではあるが、あのときのショックは体に刻み込まれていた。
「聖のことって。もうあいつからも別れたとは聞いたけど」
「わたし、やっぱり聖と付き合いたいと思っている」
彼は顔を強張らせた。思いのほか驚いているように見えなかったのは、彼自身、何らかの覚悟をしていたのかもしれない。
「君はあいつに言うつもりなのか? あなたのお兄さんと付き合っていました、と」
彼にとってはそれがわたしを責める一言だったのだろう。
「聖は知っていたんだ。わたしとあなたのこと。それを知ったうえで、わたしと付き合いたいと言ってくれた」
「そんなのって」
「分かっているよ。どれだけ彼を傷つけるのか。これから先、彼を傷つける可能性があることも。わたしはそれでも聖のことが好きなの」
彼は唖然とした表情でわたしを見ていた。
「俺だって君と付き合って悪いことをしたと思っている。でも、それじゃあんまりにも聖が」
「二人でそうしようと決めたの。最初は聖があなたに話をすると言っていた。でも、それだとあなたは納得しなくても分かったという気がした。だから、わたしがこうして言いにきた」
「今はよくても、後々聖が苦しむかもしれない。それなのに」
「わたしには聖がどんな気持ちか分からない。でも、全てを知っていた彼がわたしと一緒にいてくれるのを選んだとしたら、それを優先してもいいんじゃないかなという気がするの。もし、将来聖がそのことでわたしと別れたいといえば、わたしは素直に受け入れるよ。それがわたしの選んだ道だから」
雄太は息を吐いた。
「分かった。俺は応援することはできないけど、受け入れはするよ。もともと関わりすぎたんだろうな」
一応、許可をもらえたと思っていいのだろうか。聖にはありのままを伝えようとは決めた。
「わたしは帰るね」
立ち上がろうとしたわたしを雄太が呼び止めた。
「本当に悪かった。あのときは本当に好きで、結婚したいと思っていた。でも」
彼は言葉を濁らせた。そのあとに続く言葉を口にできなかったのだろう。
「いいよ。わたしも同じだったかもしれない」
わたしはそういうと、苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべている雄太を見た。
「わたし、雄太と結婚した後に聖に会っていたら、あなたと同じことをしていたのかもしれない。婚約破棄をしないまでも心のどこかで聖を思っていたかもしれない。だから、こうしてあなたとの婚約がうまくいかなくて、運が良かったんだってね。だって、あなたと春奈さんがそうなってくれたおかげで、わたしが悪人にならなくてすんだんだもん。そんな罪悪感を抱き続けるなんてわたしには辛いし、聖をそんな罪悪感に巻き込まずにすんでよかった」
雄太は驚いたように目を見張った。
彼はくすりと笑う。
「そんなこと、ほのかの口から聞くなんて考えもしなかった」
「だったらそれは聖の影響だよね」
「そうだな」
彼の目がいつもより煌めいている気がした。それは差し込んだ太陽の光のせいなのか、ただの目の錯覚なのか。彼の心から湧き上がる何かがあったのか。それは最後の予想が正しい気がした。
「幸せにね」
一年前は絶対に言えないような言葉がするりと出てきた。彼の目の輝きが増した気がしたが、わたしはそのまま深々と頭を下げると、彼の家を後にした。
マンションの外に出たとき、声をかけられた。振り返ると髪の毛を肩まで伸ばした女性が立っていた。最後に見たのはいつだったのだろう。それさえも不確かだった。彼女は深々と頭を下げた。
彼女の頬から赤味が消え、寒さに震えているのは明らかだった。
この寒い中、わたしが出てくるのを待っていたのだろうか。
「ごめんなさい。雄太には会わないほうがいいと言われたけど、どうしても謝りたくて。ごめんなさい。どうしてもいてもたってもいられなかった」
婚約破棄になったときには、どれ程彼女のことを恨んだだろう。彼女の存在さえも、心の中で否定していた。でも、今はもう過去の事だった。
さっき雄太に言ったように、それを過去にしたのはわたし一人の力ではない。
「もういいです。お幸せに」
雄太だけではなく、悪い感情しかなかった彼女に対してまでもそんな言葉が出てきたのは、聖がいたからだった。
彼女の目から大粒の涙が毀れた。
「ごめんなさい」
わたしは首を横に振ると、それ以上彼女にかける言葉が見つからず、頭をさげマンションを後にした。




