一つの記憶にたどり着きました
「わたし、知らなくて」
「知っていていったのなら、救いようがないですよ」
茉優さんはそういうと、肩をすくめた。
「だから、あなたが聖と幸せになりたいと思うなら、彼ときちんと話し合えばいい。きっと聖はどんなことでも受け止めようとして、これからのことを考えようとしてくれるだろうから。聖はあなたのことを何も言わないけど、あなたを思い続けているんだろうなと思います。あなたをすぐに忘れられるのなら、聖はきっとあなたをずっと好きでいなかったと思う」
茉優さんの目が潤んでいた。それは聖だけではない。彼女もそうだ。
叶わない想いをその胸に抱き続けていた。
「茉優さんはわたしが雄太の元婚約者だったと知っているんだね」
彼女は首を縦に振った。
「二人で一緒にいるのを偶然見たことがあった。そのとき、聖に言えば、聖はあなたを忘れてくれると思って、聖に言おうとしたんです。でも、言えなかった。彼が傷つくのはどうしても見たくなかった。それが一時しのぎでしかないと分かっていても。聖が知っているかは分かりません。でも、気付いていた気もします。だって、お兄さんが婚約したと言ったとき、すごく暗い表情を浮かべていたから。最初は自分の兄を取られるのが嫌なのかと思っていた。でも、春奈さんとの婚約を知った時にはホッとしているように見えた」
彼女はそっと唇を噛んだ。
「そのとき、彼にとってあなたもお兄さんも特別な人なんだとよくわかりました。きっとあなたにこんな話をしたのは罪滅ぼしなんです。あなたに声をかけたくてもかけられない聖を見て、背中を押してあげられなかったから」
彼女の瞳には何が映っていたのかは分からない。ただ、彼女なりの聖の幸せを望む気持ちだけは痛いほど理解できた。
みんな何かを心の中に抱いていたのだろう。それは相手を愛するが故のことだ。
結局はわたしがどうしたいかだ。
心は半分決まっていた。だが、最後の一押しをする覚悟を決めかねていた。
「ありがとう。これからのことは考えてみる」
「分かりました。わたしがあなたにこうしたことを言うのはこれで最後にします。だから、よかったらまたお店に来てくださいね」
そう言ってくれた茉優さんの家を後にした。
茉優さんの家を出たころには、もうすっかり太陽が沈んでいた。
舞香に連絡を取ろうかと思ったが、やめておいた。
きっと何らかの形で茉優さんから聞くだろうから。
茉優さんが教えてくれたことは、聖の決して口にしないことだった。きっとわたしに話をしたとしたら、いくら優しい彼でも怒りをあらわにするだろう。
彼女は聖のために悪人になろうとしたのだろう。その彼女の彼に対する深い思いだけは、嫌というほど痛感してしまっていた。
家に帰るとわたしはソファに腰掛けた。
聖にどう言えばいいのだろう。まずは謝らないといけない。わたしが雄太と付き合っていたことを黙っていたのを。そして、彼と付き合っているのを知られたくなくて、彼に別れを告げたことも。
「文化祭か」
舞香の言ってたことを思い出し、わたしはクローゼットを開けると、高校のときに使っていたスケッチブックを取りだした。そして、それをぱらぱらとめくった。
もっとも文化祭で提出した絵は美術部の部室に保管されているため、絵自体は残っていない。そもそもわたしは何を描いたのだろう。
高校の時に使っていたこのスケッチブックに、何かとっかかりがあるかもしれないと考えたのだ。そのとき、わたしの手はある一枚の描きかけの絵で止まる。そこには真剣な表情の女の人の姿があったのだ。
その絵は途中で修正して、笑顔を浮かべている女性の絵に描きかえた。そして、高校の文化祭で提出することになった。なぜわたしがその絵を描いたのだろうか。そもそもわたしはその女性を直接見たことがなく、四苦八苦してかきあげた。
過去を思い出そうとしていると、ある一端の記憶にたどり着いた。そう、ベンチに座っていたある少年に出会ったから……。小柄で、子供だと感じた彼。彼はベンチで泣いていたのだ。
だから、わたしは声をかけたのだ。そのとき、彼は言っていたのだ。お母さんが亡くなった、と。
お母さんは最後はずっと苦しんでいて、笑顔を見せてくれなかった。だから、お母さんが笑っている姿を見たい、と。
綺麗な男の子だったような気はする。だが、彼の容姿よりもその話の内容が鮮烈で、その少年のことまでははっきりと覚えていなかった。
だからわたしはお母さんが笑っている絵を描こうとした。
そのとき、彼は嬉しそうな笑みを浮かべていた。
それから彼に会うことは一度もなく、彼に絵が完成したことを伝えることもできなかった。
だから、わたしは文化祭の直前に先生に頼み込んで、その絵に変えてもらったのだ。
先生からの評判もよく、すんなりと変更できた。
もっともそこまで似せて描くことはできなかった気がするが、あのときは必死でただそれだけを考えていた。
スケッチブックに涙が落ちた。
だから彼はわたしの高校の文化祭に行き、あの絵を見てくれたのだろう。
あの日から、わたしと聖の関係は始まった。彼はあの些細な出来事からわたしを思い続けていてくれたのだろう。
わたしはそれさえも過去の記憶として終わったことにしてしまっていた。
もっと早くに出会えていたらよかったとは思った。けれど、実際は出会っていて、記憶の中にいた彼にわたしが気づいていなかっただけだったのだ。
すべての鍵を握っていたのに。
わたしはこのまま聖と会わなくて、後悔しないだろうか。
自らに問いかけた質問の答えはすぐに出てきた。
後悔するに決まっている。今でも後悔しているし、彼と離れてから、彼に対する思いは募る一方だったから。
それは明らかに雄太に婚約破棄された後とは違っていた。雄太に婚約破棄をされても、ここまで何かに突き動かされる強い気持ちにはならなかったのだ。
わたしはやっと雄太がわたしよりあの幼馴染を選んだ理由を理解した気がした。




