雄太と聖の過去について知りました
家に歩きかけたとき、わたしの足元に頼りない影が振れた。
「ほのかさん」
振り返ると白いコートを来た茉優さんが立っていたのだ。
相変わらず愛らしい彼女の頬は寒さのためか赤く染まっていた。
聖にはあれ以降会っていない。茉優さんも同じだ。もっとも仁美は茉優さんのお母さんの店に足しげく通っているようで、茉優さんと頻繁に会っているようだ。
聖を傷つけたうしろめたさからだろうか。わたしは思わず逃げ出そうとした。その手を茉優さんが掴んだ。
「出会ってすぐ逃げるなんてひどいじゃないですか。社会人失格ですよ」
「あの、ごめん。わたし、でも」
どちらが年上か分からないような、しどろもどろな言葉を綴った。
茉優さんはわたしをつかんでいないほうの手で、額に触れた。
「聖から別れたと聞いて、あなたは未練がないんだと思っていました。でも、仁美さんの言うことや、あなたの今の態度を見ていたら、そうじゃないんだとよくわかりました。あなたはまだ聖に未練があるんですね」
ないと言いたかったが、言えなかった。自分の気持ちが叶わないと分かっていても、まっすぐだった彼女には嘘をつけなかった。
茉優さんは目を細めた。
「聖はかっこいいし、頭もいいし、運動もよくできたし。昔から本当によくもてていたんです」
「そうだろうね」
「でも、彼は好きな人がいると、誰にも目をくれなかった。聖は一生結婚できないかもとは言っていました。あなたたちを見ていたらお似合いだと思った。これでやっと諦められる、と。あなたが別れを告げたのには相応の理由があるんでしょうね。きっとそれは聖に言った、兄と縁を切る話も無関係ではないんだろうな、と思っています」
彼女には何も話をしていないのに、すらすらと言い当てられ、わたしは何を言っていいのか分からなくなっていた。
「あなたが一生、聖の傍にいたいと思うなら、わたしはあなたに話をしておきたいことがあります。ただ、聖をアクセサリ替わりに考えているなら、言いませんけど」
「アクセサリだなんて、そんなこと一度も考えたことがない」
茉優さんは目を細めた。
「でしょうね。だったらこんなめんどくさい恋愛を選ぶわけもない。わたしは一人っ子だし、兄弟が普通はどんなものかはわからない。けれど、聖にとってあの人は恩人なんです」
「恩人?」
その言い回しにどきりとして彼女を見た。
「聖のお兄さんはずっと付き合っている人がいたんです。幼馴染の春奈という女性だった」
「彼女だったの?」
「そうらしいです。わたしも人から聞いただけだけど。ただ、二人は別れることになった。それはお兄さんが聖の大学の学費を出すと言い出したから」
「どうしてそんなことに」
「込み入った話になるので、わたしの家にきませんか?」
わたしはその提案に躊躇した。なぜなら、聖の家が近くにあるからだ。
「聖は出張だから、家にはいませんよ」
それを聞き、わたしは彼女の提案を受け入れることにした。
「行きましょうか」
歩きかけた彼女を呼び止めた。
「もう帰っていいの? 買い物があるなら付き合うよ」
「もともと用事なんてありませんでしたから。あえていうなら、友達のお姉さんと待ち合わせをしていたんですけどね」
わたしは思わず彼女を見た。それは舞香のことを指している気がしてならなかったのだ。
「察しの通りです。でも、あなたに直接話をしておいたほうがいいと言われて、ここにきました。なので行きましょう」
わたしたちはそこから歩いて茉優さんの家に向かうことになった。
彼女の家は聖の家から少し離れた洋風の一軒家だ。よく手入れをされていると感じる庭を通り、彼女の家に入った。そして、二階の彼女の部屋に通してくれた。彼女の部屋は思いのほかあっさりしていて、物自体が少ない様だ。法律の本が目にはいり、彼女の卒業後の進路を垣間見た気がした。
すぐに紅茶を持った彼女がやってきた。彼女はカップを並べると、目を細めた。
「今日はありがとうございます。わたしもずっと迷っていたんです。このまま見て見ぬふりをしたほうがいいのか、全てを話すのか。でも、このままの聖を見ていられなかった」
彼女はそっと唇を噛んだ。
「聖がいわゆる愛人の子だというのは知っていますよね」
わたしは頷いた。
「もっとも、聖のお父さんは今の奥さんと離婚をしようとしたとか、いろいろな経緯はあるみたいですが、結局は今の家庭を選んだ。聖のお母さんも、彼を頼らずに生きて行こうとしていんだと思います。でも、彼女が亡くなり、彼は今後の進路で悩んでいる時期があったんです。聖はずっと税理士志望だった。大学に行ったほうが勉強時間も取れるし、後々いいのは分かっていても、祖父母に無理をさせてまで通うべきか、就職したほうがいいんじゃないかとか。大学に行かないと取れない資格というわけでもないから」
わたしは以前、聖から聞いた話を思い出していた。
「そんなとき、彼のお兄さんが言ったんです。学費と少しばかりの生活費なら自分が出すから、気にするな、と。もちろん聖は断ったけど、結局お兄さんが自分のわがままだからと押し通す形で聖を大学まで通わせることになった」
「雄太が?」
わたしは思わず名前を呼んでしまったことを悔いた。だが、茉優さんは追及せずに頷いた。
「雄太さんは雄太さんなりに罪悪感を覚えていたらしいです。それは知っていますか?」
おそらく彼の母親が彼を妊娠した経緯だろう。
わたしは頷いた。
「ただ、それをよしとしなかったのが、春奈さんです。あの人は反対していたの。あなたにそこまでする義務はないと。そして、二十代のうちに結婚して子供を産みたいからと、学費を出すなら雄太さんと別れると言い出した。雄太さんは彼女よりも聖の学費を出すことを選び、彼女と別れることにした」
彼は今の婚約者よりも聖を選んだのだろう。彼の言葉には聖への深い愛情がのぞいていたのだ。なんら不思議ではない。
聖が大学を卒業したのが一昨年。わたしと雄太が付き合い始めたのがその時期。まだ若かった彼にとって学費を出すなど、かなりの痛手だ。それにこれから子供が生まれれば学費もかかるだろう。弟より、自分たちの将来にお金を残しておきたいと考え、反対した彼女の気持ちも分からなくはない。
「それでもきっと雄太さんを忘れられなかったんでしょうね。だから、彼女から彼にもう一度告白をしたと聞いた。その女性を擁護するわけじゃないけど、雄太さんにはそのとき、付き合っている人がいたから諦めようとも思った、とも。ただ、最後に自分の気持ちを伝えたかった、と」
その結果雄太は彼女を選んだ。
「聖が自分のために兄が恋人と別れたと知ったのは、大学三年のときで、ずっと気にしていたんです。兄の幸せを妨害してしまったんじゃないかと。聖は働き始めてお金を返そうとしたけど、それはお兄さんが受け取らなかった。自分の自己満足だから、自分がうまれてきたことに対する罪悪感を軽くするために、自分のために受け取ってくれ、と言い張って。どこまで言っていいのかは分かりませんが。だから、聖はお兄さんと他の人を選べと言われても、お兄さんを切り捨てることはできないと思います。それがたとえあなたであっても。あの人がいなかったら、自分はここにいなかったと思っています」
わたしは唇を噛んだ。二人の間にそこまで重い関係があるとは考えていなかったのだ。
雄太は聖の幸せを、聖は兄への恩返しを望んでいたのだろう。




