婚約破棄されました
息を吐くと、天を仰いだ。
白っぽい空を仰ぎ、もう一度、今度は細く、長く息を吐いた。
一晩経っても、心の中はすっきりしないままだった。おまけに昨夜は雄太から連絡がくるのではないかと何度も携帯を確認して寝付けなかった。
背後から肩を叩かれ振りかえると、長身でロングヘアの女性が自信に満ちた笑みを浮かべて立っている。
「おはよう」
わたしはオウムのように同じ言葉を返した。
彼女は同じ会社で働く同僚だ。
「昨日、何してた?」
彼女、高橋仁美はからかうように問いかけた。
昨日の女性の涙を思い出しながら、短く息を吐いた。
「家にいたよ。少し買い物もしたけど」
「彼氏とデートでもしていたんじゃないの? もう付き合い始めて一年なんだよね」
からかいを含んだ言葉が胸にちくりと刺さった。
わたしはその痛みに気づかない振りをして、曖昧に微笑んだ。
彼女は会社で最も親しい友人だ。だが、タイミングが合わなかったため、彼の両親に挨拶をしにいくと言っておかなかったことが不幸中の幸いだ。彼女自身、雄太とは何度か面識があった。
「本当、良いよね。そろそろ結婚とか考えないの?」
「まだ早いよ」
「結婚に乗り気じゃないのはほのかのほうだったんだ。うかうかしていると誰かにとられちゃうと思うよ」
わたしを思ってくれた、もしくは普段なら冗談だと受け止められる言葉も、今は胃の中をえぐる凶器と化していた。わたしはその言葉の重みを感じながら、あいまいに微笑むことしかできなかった。
わたしは携帯を見るとため息を吐いた。彼とあのような形で別れて三日が経過していた。
彼とはこんなことになるまでは毎日のように電話やメールをしていたが、あれ以降は彼からの連絡は一切届かなかった。彼も仕事が忙しいのは分かっていた。だが、このままだと生殺し状態だ。彼に彼女とは話がついた。プロポーズは断ったという言葉を言ってほしかったのだ。
今週末の土曜日は友人と約束をしているため、会うのは早くて日曜、それが難しいなら来週以降になる。日曜日は彼と過ごすことが多かったため、予定をほとんど入れていなかったのだ。ただ、彼の両親は次の日曜は都合が悪いという類のことを言っていた。今週末に会うのは難しいだろう。彼もそれを知っていたため、どこかでもう少し猶予があると考えていたのかもしれない。
彼を思えば連絡すると言った言葉を信じ、待つべきなのかもしれないという気持ちはあった。ただ、時間とともに不安な気持ちが増していくのと、今週末に会う友人との約束がわたしをかりたてた。彼女たちは高校時代から親しくしている親友のような存在だ。彼女たちには雄太の家にあいさつをしに行くことも言っていた。みんなはっきりとしているため、容赦なくわたしと雄太のことを聞いてくるだろう。
顔色を窺い、雄太の話題を避けようとする両親とは違い、少々手厳し面もある。そうした手前、今週末までには次の予定を立てておきたかったという気持ちがゼロでなかったといえば嘘になる。
わたしは彼と過ごした一年の思い出に元気づけられ、彼に電話をした。
呼び出し音が三回鳴った頃、彼の声が電話口から聞こえたのだ。
けれどその声はいつもの爽やかな声とは違い、どこか憂いを含んだものだった。
わたしは嫌な予感をひしひしと感じながら、その声を打ち消すために、あえて元気に振舞った。
「今度の日曜はどうかな。その日なら予定も開いているよ」
「その話だけど、もう少し待ってほしいんだ」
はっきりしない言葉に嫌な予感がした。
わたしはその予感を現実のものにしないために、あえてその理由を聞かないようにした。しかし、わたしの自分を守るための心遣いは、わたしの言葉自体を奪ってしまった。
どちらも何も言わず、音も立てない状態が続いた。
わたしも何度か沈黙をかき消そうと雄太に話しかけるが、失敗を重ねた。そんな静寂をかき消したのは雄太だった。
「結婚の話だけど、しばらくはなかったことにしてほしい」
「どうして? あの人のほうがいいの?」
「そうじゃないよ。ただ、放っておけないんだ。あいつにあそこまで言わせたから。別に別れようと言っているわけじゃなくて、あいつの心の整理がつくまで待ってほしいんだ」
わたしの友人であれば話は分かる。突然割って入ってきて、泣き出したずるい女性。わたしの彼女に対する知識はそんなところだ。それ以下でもそれ以上でもない。
彼と彼女は幼馴染で初恋の相手だったこと、ここ最近は付き合いがなかったことを事細かに教えてくれた。わたしは随所でぼうっとなる意識をどうにか保ち部分的に彼の話を聞いていたのだ。
意地悪な見方をせずとも彼にとって彼女は特別であり、わたしとの婚約を破棄してまでも一緒に居たい相手だということだけは分かった。
わたしがそこで泣きつけば、彼は婚約破棄なんて言い出さなかったかもしれない。
だが、わたしには出来なかった。わたしは彼といる間、いい人であり続けたのだ。彼に対していい人でいたいという気持ちが優先していたのか、もしくは彼にわがままを言う方法がわからなかったのか、判断しかねた。
「分かった」
わたしは何とか言葉を絞り出した。敢えて淡白に、感情は乗せなかった。
「じゃあね」
彼の返事を待たずに通話を終了したとき、わたしを支えていた糸が切れた。大粒の涙が液晶の上に零れ落ちた。
彼は優しい人間だ。同時に優柔不断でもある。わたしと彼を恋人同士まで引き上げた彼のやさしさが、ここでわたしを苦しめるようになるとは考えもしなかった。
彼はまだあの人が好きなのだろうか。わたしの知らない子供時代の二人を想像して、虚しさだけが湧き上がってきた。