彼と別れることにしました
わたしの目の前に映画のチケットが二枚手渡された。
仁美はにっと明るい笑みを浮かべた。
「これ、二人で行ってきたら?」
わたしは虚をつかれ、それを受け取った。
雄太から別れるように促されて一週間が過ぎた。
その間、聖に会うことは一度もなかった。
彼から誘われることはあったが、彼に会うことで別れを提示しなければいけないという義務感にとらわれ、彼の誘いを断っていた。
「行かないと思う」
「映画嫌いだっけ?」
「嫌いじゃないけど、ちょっとね」
仁美はそれをわたしに押し付けた。
「行かなかったら誰かにあげてもいいよ。無理強いはしないから。喧嘩したなら仲直りしたほうが良いよ」
わたしはそれ以上何も言えずにそれを受け取った。
喧嘩だったらどれほどよかっただろう。
わたしの携帯にメールが届いた。差出人は聖だ。今週末か来週末、一緒に出掛けないかというものだった。わたしは往きたいと思う気持ちを抑え、仕事が忙しいからと返信していた。
仁美と会社を出たとき、会社の前に見覚えのある人がいた。
反射的に引き返そうとしたわたしの手を、仁美が掴んだ。
「今日、大事な話があるらしいの。聞いてあげたら?」
「何でそんなこと」
「この前、連絡先をやり取りしていたでしょう。急用で、どうしても言わないといけないことがある、と。逃げ続けるのはお互いのためによくないよ」
そのとき、別の手がわたしの腕を掴んだ。
そうしたのは聖だ。
彼は仁美に会釈をすると、わたしの腕を掴んで歩き出した。
彼の足は街路時の傍で止まった。
「何かあった?」
「なんでもない」
今、言えばいいのに、自分でそのチャンスを不意にしてしまった。
それでもホッとしている自分に気づき、情けなくなってきた。
「だったらいいけど。ほのかさんに頼みたいことがあるんだ」
わたしはそこで今日初めて彼の目を見た。真剣で優しい目だ。
決してわたしを裏切らず、それでいてわたしが雄太と付き合っている間もわたしを好きでいてくれた瞳。
そんな彼の目が大好きだった。それなのにわたしは彼を裏切っていた。最初から。
「今までほのかさんには黙っていたけど、俺には兄がいるんだ。その兄が結婚するらしい」
わたしはその言葉にドキッとした。
ここで言ってしまおう。その兄はわたしの前の恋人だ、と。
言葉が喉に絡みつき、それ以上は出てこなかった。そして、心が痛まないことが、もう雄太とのことが過去であると告げていた。
「そうなんだ。おめでたい話だね。いつ結婚するの?」
「12月。それでほのかさんに兄に会ってほしいと思っている」
「お兄さんに恋人がいると話したの?」
しらじらしい言葉を発している自分自身が嫌になる。
「兄さんが言っていたんだ。恋人がいるなら会わせてほしい、と」
雄太は聖からも圧力をかけようとしたのだろう。弟を思うなら、尚更だ。
わたしと雄太の両親に面識がなければまだよかったのかもしれない。だが、わたしは彼のお母さんとすでに顔を合わせてしまっていた。
「だって、わたしは聖の恋人だし。お兄さんの婚約者に会うなんて。いないって言いなおせばいいよ」
「そんなのできないよ。俺はほのかさん以外とは誰とも付き合うつもりはない」
わたしは自分の罪深さを改めて思い知らされた。
自分をここまで好きでいてくれた彼を巻き込むべきではなかった、と。
今までわたしの気持ちをせき止めていた何かが壊れ、言葉がすっと流れ出てきた。
「そういうのって無理だよ。わたしはその前に恋人がいたし、別にあなただけしか好きになれないわけじゃない。ずっと考えていたんだけど、わたしたち別れようか」
聖が目を見張った。
「どうして?」
「聖と付き合えて楽しかった。でも、気持ちの重みが全然違うもの」
「ごめん。そうだよね。俺はただ、ほのかさんとの関係を真剣に考えていて」
わたしは首を縦に振った。
聖の兄が雄太でなければ、喜んで会いに行っただろう。それほど、彼はわたしにとって大きな存在になっていた。
なぜあのとき彼に黙って付き合おうとしたのだろう。もっと早くに告白していたらよかった。それか気付かずに被害者でいられれば良かった。だが、聖を巻き込んでしまったわたしの責任だ。
目頭が熱くなる。だが、今泣いてはいけないと言い聞かせた。
振ったのに泣いて被害者ぶるのはどうにかしている。
わたしは悪人にならなければならないのだ。
そのとき、ふっとわたしの脳裏にある考えが過ぎった。悪魔の囁きのような、今まで考えもしなかったこと。きっと最後の悪あがきというものなのだろう。
だが、わたしと聖が一生一緒にいられる唯一の方法だ。聖がわたしを好きなら、きっとわたしの意見に同意してくれる。
「聖はわたしのことが好きなんでしょう。だったらお兄さんとの縁を切れないの? 母親が違って一緒に住んでいないなんて他人同然じゃない」
「それはできないよ。ごめん。ほのかさんがそうしたいなら、そうしてもいいよ」
彼は実の兄よりもわたしとの別れを選択したのだ。
彼の気持ちを測ったことで、心がほんの少しだけ楽になった。だが、同時に心に重石がのしかかった。
彼の気持ちもその程度だったのだ、と。
「そうしよう。じゃあね」
淡々と言葉を発したことに安堵して、踵を返し去っていった。
後悔の念をどれほど抱いても、時間をまきもどすことさえできなかった。
もし、わたしと聖がもっと早くに出会っていたら、今の結果は変わったのだろうか。
わたしにはその答えがわからなかった。




