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久しぶりに彼の家に行きました

 わたしは見慣れた人影を交差点に見つけ、隣に並ぶ仁美に声をかけた。


「また明日ね」


 仁美はわたしを見て微笑むと、目の前の信号を足早に渡った。

 わたしは先ほど見つけた人影のところに歩み寄ると、声をかけた。


「ほのかさん」


 無表情だった彼の表情がぱあっと明るくなり、目を細めていた。

 彼はすぐ顔に気持ちをだしてくれるので、こちらも嬉しくなってくる。


 もう冬は足早に駆け抜け、春の気配がちらほらと覗くようになっていた。わたしと岡本さんが付き合い始めて、二か月近くが経過していた。


 仁美にはわたしは岡本さんが雄太の弟ということを伏せ、付き合っていることは伝えておいた。

 仁美は新しい恋人ができたことを心から喜んでくれているようだ。仁美自身の恋愛は少しずつ進展を見せているようだった。今まで彼から誘われ、時間のあるときにしか二人で出かけたりはしなかったようだが、今は仁美が彼を誘うことも少なくないようだ。


「遅くなってごめんね」

「いいよ。俺が遅れることもあるから気にしないで」


 彼はそう優しく微笑んだ。


 聖と付き合い始めたことは、仁美以外は誰も知らない。陰であのようなことを言っていた高校の友人には言うつもりはなかった。もちろん、両親もだ。両親に言えば、別れたときには当然言わないといけなくなるからだ。いずれ別れないといけなくなる前提の関係である聖とのことを両親には言い出せなかったのだ。聖もわたしが両親に伏せていることは知っていた。彼自身、その理由は深く聞かなかったが、婚約がダメになったばかりの娘が別の男と付き合い始めたと知れば、親心が複雑とでも考えたのかもしれない。


 聖のほうは誰に言っているのかは分からない。だが、雄太から何かを言われることはなかった。恐らく兄には何も言っていないのだろう。茉優さんがどうなのかは分からなかった。


「何か食べて帰ろうか」

「そうだね」


 彼とのデートは一緒に食事に行くことがほとんどだ。彼の家にはあれ以降、一度も行っていない。


 聖と付き合い始めても家族の話に触れることはほとんどなかった。彼から兄の話を聞いたことも一度もない。だが、雄太が聖の兄だと確定させないことでどこかで逃げ道を作っていたのかもしれない。


 ふと温かいものがわたしの手に触れた。わたしの手を握った聖は頬を赤らめ微笑んでいた。

 なぜ彼はここまでわたしを好きでいてくれるのだろう。あらゆる面から客観的に考えて、わたしには聖はもったいないとされるくらいなのに。


 このままではいけないことも分かっていたが、今は聖との時間を楽しみたかった。


 そのとき、冷たいものがわたしの頬に触れた。いつの間にか空を厚い雲が覆い隠していて、星や月が見えなくなっていた。


 夜更けから雨が降るとは言っていたが、思いのほか早く降ってきたようだ。

 彼はわたしから手を離すと、バッグから傘を取りだした。わたしを傘の中に入れてくれた。


「早く降り出したね。今日は帰る?」

「嫌。もう少し一緒にいたい」

「ほのかさんは意外とわがままだね」


 彼は目を細めた。

 その言葉にわたしの顔が赤くなった。


「俺も同じだけどさ。この雨だと動きにくいな。大雨になると言っていたし」


 確かに彼の言うことも一理ある。お店に長居するわけにもいかないし、だからといってわたしの家には両親がいる。


「じゃあ、もう一つわがままを言っていい?」

「何?」

「どこかで食事もいいけど、聖の家に行きたい」

「俺の家?」


 彼は意外そうな顔をした。


「いいよ。一度行ったと思うけど、何もないよ」

「聖がいればそれでいいの。それにあの家、結構好きなんだ」


 わたしはそういうと微笑んだ。

 わたしたちは通りかかったタクシーに乗ると、聖の家に行くことにした。


 家の中に入ると、ひんやりとした空気が漂っていた。

 彼は靴を脱ぎ、中に入ろうとするが、わたしはどことなく躊躇してしまっていた。

 思ったより手足がぬれてしまったからだ。


「気にしなくていいのに。タオルを持ってくるよ」


 そう言うと彼は家の中に入り、タオルを持ってきてくれた。

 わたしはそのタオルで髪や手についた雨を拭った。


「居間はあそこだから。俺は先に暖房をつけてくるよ」


 彼はそういうと、居間に消えていった。わたしは手足を拭うと、靴を脱ぎ、彼の後を追うようにしてリビングに入った。ストーブと暖房に電源が入っていたため、わたしは引き戸を引いた。


「寒いと思うけど、悪いな」

「わたしが来たいと言ったんだもん。何か懐かしいね」


 彼の家に来たのは、彼が熱を出して以来だ。わたしは部屋の中を見渡した。真っ先に目が向いたのはあの写真だった。その中で雄太と映っていた写真がなくなっているような気がした。以前も伏せられていたため、見えない場所に置いてある可能性はあるのだけれど。


「俺はあのときのことをよく覚えていないんだけどね。ほのかさんと会って、池田さんの車に乗ってから、家に帰ったまでは覚えているけど。朝、起きたら茉優がいて、事情を簡単に聞いたよ」

「一晩中いたんだ」


 わたしはドキッとする。


「あいつは昔からそうだから。年下なのにお姉さんぶるというか、面倒見がいいというか」

「茉優さんはわたしとのこと知っているの?」

「知っているよ。おめでとうと言ってくれた」


 彼は嬉しそうに微笑んだ。


 半分は彼女の本心で、もう半分はきっと違うのだろう。そのときの彼女の気持ちを思うと、自分が招いたことなのに心が痛んだ。


 ふっとわたしはあの辛辣な瞳で雄太を見ていた、あの女性のことを思い出していた。あの女性によい感情はいまだない。だが、わたしも同じことをしていたのではないか、と。


 茉優さんと彼は付き合っていたわけではないので、全く同じとはいいがたいが、彼の生活には当たり前のように茉優さんの存在があったのだろう


「茉優さんとは会っている?」

「会っているし、この家にも来ているけど。嫌?」

「そうじゃないよ。気になっただけだから」


 わたしは一応否定しておいた。彼にとって彼女は妹のような存在だと分かっていたためだ。家族を失った彼から、それさえも奪うのは酷すぎた。きっと彼女は彼がわたしと付き合うようになったら、その枠を決して超えようとしないだろう。


「ほのかさんの家って、両親は厳しい?」

「厳しいような、そうでもないような。でも、歳も歳だし、話せばわかってくれることも多いと思うよ」

「もう少し、暖かくなったら旅行に行かない? 日帰りで遠出してもいいし」


 わたしはその提案に驚いて彼を見た。

 今まで食事や、週末のちょっとしたデートに誘ってくれることはあったが、そうしたものに誘ってくれるのは初めてだった。


「すぐに決めなくてもいいから、考えておいて」

「分かった」


 日帰りならともかく、泊まりの場合はどうしたらいいだろう。両親に正直に語れば、いざというときにまた嫌な話をしないといけなくなる。


 そのとき、わたしの体に影がかかった。

 彼がわたしの傍に立っていたのだ。


 彼はわたしの手にしていたタオルを受け取ると、わたしの額を拭った。


「まだ濡れているよ。風邪ひいたらいけないから」

「ありがとう」


 だが、彼の目はわたしからそれない。彼は澄んだ瞳にわたしをとらえたままだ。

 彼のタオルを持っていないほうの手がわたしの頬をなぞった。わたしは胸を高鳴らせ、彼を見た。

 彼の顔が近づいてきて、わたしは目を閉じた。


 わたしの唇に、彼の唇が振れた。

 少し時間をおいて目を開けると、顔を赤く染めた彼の姿があった。

 彼はわたしから顔を背け、自らの口元を抑えていた。


「つい。ごめん」

「謝らないでよ。嫌だったらしないし、そもそも聖とは付き合わないでしょう」

「本当は、嫌われるんじゃないかなとずっと思っていたんだ。まだ早すぎるかなとか」

「そんなこと全くないよ」


 わたしは彼を見て、思わず笑ってしまった。付き合い始めて今まで、彼は手を握るくらいしかしなかったからだ。そんな反応をする彼を見て、新鮮な気持ちを味わっていた。同時に彼がどこまでわたしを思ってくれているのか、身に染みて実感していた。



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