綺麗な男の人に会いました
それから彼は彼女をなだめ、彼女はまた「ごめんなさい」を連呼すると、出てきた道に引っ込んで行った。
「送るよ」
彼はそう悲しげな笑みを浮かべると、歩き出した。
わたしもそんな彼の後を追う。
彼女は誰なのか。
なぜ、わたしが両親に会うのを中止したのか。
聞きたいことが波のように押し寄せてくるが、わたしは何も言えずに彼の後をただついていった。
そして、つい数十分前に出てきたばかりの駅に舞い戻った。
もう迷うことなく家に帰れる。
「ここでいいよ」
「改札口まで送るよ」
「大丈夫だから」
わたしは精一杯の笑みを浮かべて、頷いた。
「分かった。悪いな。また、電話するよ」
それでもぴくりとも動かなかった雄太の肩を叩いた。彼はわたしに促されたかのように頭を下げると、踵を返し駅前の信号を渡った。
わたしも切符を買おうと、切符売り場に行った。
お金を入れ、わたしの住む最寄り駅の切符が出てきた。だが、それを手にしてから家に帰ってからのことが頭を過ぎった。
両親はもちろん、わたしが彼の両親にあいさつに行くことは知っていた。
今日の夕食は準備しなくていいのかと聞かれたくらいだ。まさかこんなに早く帰ってくるなんて考えもしないだろう。
向こうの両親に急用ができたというならともかく、見知らぬ女性に泣かれ、帰ってきたなど親には言いたくなかった。駅まで戻り、近くをうろついてもいいが、親に目撃でもされると余計気まずくなる。
それに雄太の前で笑ってはいたが、心の中には複雑な気持ちが渦巻いていた。言いたくないと言っても、彼の親に会わなかったことだけは伝えないといけないだろう。親に話をするには、心の重荷を少しでも軽くすることが必要だ。わたしは気持ちを整理する時間を求め、その足でふらりと駅の外に出ることにした。
さっきの彼と歩んだ道を逆方向に歩くことにした。彼と家との逆方向を意識したわけではなかったが、同じ道を歩くことで雄太との気まずい時間の欠片を感じ取りたくなかったのだ。
途中、住宅街の奥に入り組んだ場所に、人気のない小さな公園を見つけた。わたしはそこで時間を潰すことにした。
ベンチに乗っていた枯葉を払い、そこに腰を下ろす。そして、持っていたケーキの箱を隣に置いた。
「なんか、バカみたいだな」
そう自嘲的な笑みを浮かべた。
早起きして、お風呂に入って、服装も髪型も完璧にセットをして、ケーキを買って。今日、一日のことを思い出すと、そうとしか思えなかった。
彼女は誰なんだろうか。彼は彼女とどういう関係なんだろうか。
わたしは彼の友人関係をあまりよく知らなかった。だが、頭の中で思い描いた友人という言葉を心のどこかで否定した。なぜなら彼女は彼にプロポーズをしていた。友達ならああいうことは言いださない。
そして、彼はそれを断らなかった。
冷たい風がわたしの髪の毛を乱していく。わたしは両手で頭を押さえた。
今頃は彼の家でお茶でもごちそうになっている予定だったのに。彼は今、誰と何をしているのだろう。家に帰っているならいい。だが、あの女性と会っていたとしたら。
「結婚、出来るよね」
冷たい風はわたしの心に風穴をあけるには十分だった。
わたしの隣に腰掛けているケーキの箱の輪郭がぶれ、右手の甲で両方の目元をぬぐう。
そもそも彼のいるこの町で気持ちの整理をつけようと思ったのが間違いだった。
「もう少し休んで帰ろう、と」
決意を言葉で表したとき、わたしの足元に影が届いた。
その影に導かれ、顔を上げると、すらっとしたシルエットの男性がその場に立っていたのだ。白くきめの細かい肌に、長いまつげ。一つずつのパーツを観察すると、女性的な印象を受けるが、彼のがっしりとした体つきが、それを否定していた。はっとする程の顔立ちは、彼のパーツの一つずつが整っていることを一瞬でわたしの脳裏に教え込んだ。
わたしは時間が止まったかのように、食い入るように彼を見つめていた。
美しい人に見惚れたというのもあるだろう。だが、どこかで見たことがある。そうわたしの記憶が伝えていたのだ。
再び冷たい風がわたしの傍を駆け抜け、わたしのへたれた心をシャキッとさせた。
冬の足音が聞こえ始めた時期に、人気の少ない公園で、目の前に立ち尽くす人。
いくら綺麗な人だったとしても、怪しいし、危険な目に遭う可能性も否めない。
わたしは警戒心で全身を満たすと、身を怯ませ、目の前の彼を睨んだ。
わたしの身に危険が及ぶようなことになれば、このまま逃げないといけない。そう心を駆り立て、ケーキの箱を握る力を込めたとき、目の前の彼が優しく微笑んだのだ。まるで子供にでも笑いかけるかのような、優しい笑みで。
わたしは虚をつかれたように彼を見つめてた。
「大丈夫ですか?」
わたしは予想外の言葉にもう一度驚き彼を凝視した。だが、心の中を見透かされたような問いかけに、わたしはびくりと体を震わせた。その驚きはわたしを現実に引き戻し、再び視界がぼやけはじめた。
「大丈夫です」
こんなところで泣くわけにはいかないと、ケーキの箱をつかみ、その場を立ち去ろうとした。
だが、彼の傍を通り過ぎようとした直前、不意にショルダーバッグを持つ手をつかまれた。
その大きな手に、どきりとして反射的に彼を見た。
彼は淡褐色の瞳を見開く。
「泣いて」
「離してください。警察呼びます」
実際にそれで警察が来てくれるのかはよくわからないが、彼の行動を抑制するには十分だったようだ。彼の手がわたしから離れた。
わたしはそのまま公園を一目散に立ち去り、先ほど出て来たばかりの駅に戻ると、タイミングよくやってきた電車に飛び乗ったのだ。
見慣れた家の前に来ると、深いため息をついた。
わたしが家を出てから一時間あまりが経過していた。買い物に行くならいざ知らず、婚約者として両親に紹介した相手の親に会いに行き、帰ってくるには少々無理のある時間には違いない。
別の場所で途中下車をすることも考えたが、あの見知らぬ人に腕を掴まれたため、住み慣れた駅に降りることになったのだ。
こんな時間に帰ってくる羽目になったのは、間違いなくあいつのせいだ。
名前も知らない男性を恨めしく思いながら、家の玄関を開けた。
出来るだけ音を殺していたのにも関わらず、テレビの音声と共にリビングの扉があく。
髪の毛を後方で一つに結った黒髪の女性が顔を覗かせた。彼女は興味深そうにわたしの全身をまじまじと見る。
「早かったわね」
その言葉は暗に彼の家に行ったときの事後報告を求めているような気がした。
実家住まいで母親が専業主婦であるため、一切の家事は免責されていて便利だと思う。だが、今日ほど実家暮らしの苦痛を感じたことはなかった。
適当に取り繕うか。一瞬、そんな迷いが心を過ぎった。しかし、雄太の両親とわたしの両親は今後も顔を合わせることになるだろう。少なくともあっていないことは伝えないといけない。
必死に頭を回転させ、それなりに言い訳を作り出した。
「雄太に急用ができて、だめになったの」
「そうなの? もしかして何かあったの?」
親の勘なのか、それとも理由が知りたいだけなのかは分からない。
わたしは彼女の言葉を否定し、自分の部屋にそそくさと戻った。
部屋に戻ると、いつの間にか彼からメールが届いていた。
そこには「後で埋め合わせをするから。今日は本当にごめん」という、短いメールが届いていた。
けれど、その日は彼からそれ以上のメールが届くことはなかった。