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たった一人の存在について考えました

 彼は缶コーヒーをわたしの前に差し出した。彼は人気のない公園までわたしを連れてきてくれたのだ。そして、近くの自販機でコーヒーを購入してくれた。


 それを受け取ると、泣いてひきつる皮膚を動かし、なんとか笑顔を浮かべていた。


 彼はわたしの隣に座ると、何も言わずに前を見つめた。


 彼はその間、何も聞かなかった。そして、今もコーヒーの蓋を開けると、自分の分を飲み始めた。


 このまま黙っていても問題はないだろう。けれど、わたしは彼に聞いてほしかったのだ。わたしは心を整えるために、何度も深呼吸をした。


「さっき、人ごみの中に、前に言っていた婚約者がいたの」


 わたしは缶コーヒーを両手で包み、天を仰いだ。


 彼は驚いた顔をするだけで、何も言わなかった。


 急にこんな話を聞かせられ、戸惑っているのかもしれない。


「何がいけなかったんだろうね。告白されて付き合って、一年で、婚約したの。その間いろいろ頑張ったんだ」


 溢れそうになったそれ以上の泣き言を体内に押し戻すために、コーヒーを口に含んだ。それを飲み込んでから、天を仰いだ。


 嫌いだと言われたほうがすっきりしたかもしれない。だが、彼はそうは言わなかった。

 わたしと彼女を比較して、ただ彼女を選んだ。その結果が余計にわたしの胸を苦しめた。


 どちらが告白したか関係ない程、わたしは彼に惹かれていた。

 彼の笑顔が見たくなり、かなりの時間を費やしてきた。


 結婚が決まり、わたしはこれ以上もない幸せを味わっていたのだ。彼も笑顔でいてくれた。だが、その笑顔は彼女のあの言動によってかき消されてしまうものだった。


「彼には大切な幼馴染がいて、その彼女の一言ですべてが台無しになってしまったの。過ごした年月は長いから仕方ないかもしれない。でも、わたしとの一年は何だったんだろうと思えてきてしまった」


 彼はほんの少し短く息を吐いた。


「その人にとって、彼女は本当に特別だったんじゃないかな。それに気づいていても、そうでなくても罪作りだとは思うけどね。ほのかさんの前でこういうことを言うのは酷かもしれないけど、その人が幼馴染を何が何でも選ぶとしたら、もっと話が進んだ、例えば結婚した後でなくてよかったんじゃないかな。それで離婚とかなったら、失恋じゃすまされないし、家も絡んでくる。子供がいたら、もっと事情はややこしくなる」


「そうだね」


 彼の言葉がすっと腑に落ちた。納得したからか、彼の言った言葉だったからかは分からなかった。


 結婚は永遠の愛を誓うものだ。だが、結婚をしたからと言って、永遠の愛を確定づけられるわけでもない。不倫して離婚したりと、新しいパートナーを見つけてしまう人もいる。そう考えると、ある意味「よかった」のかもしれない。子供が生まれて、彼女を選ばれたら、もういろいろどうしょうもなくなってしまうのだ。


 初めての彼氏だったのが痛いけれど、最悪の状況には至らなくてすんだ。


 今まで自分を悲劇のヒロインだと思っていたのにも関わらず、彼の言葉は妙な結論をわたしに与えた。それで心がすっとしてしまい、おかしくて、笑いがこみ上げてきた。


「ほのかさん?」

「なんでもないの。そういう考え方っていいね」


 彼は目を見張る。そして、ふっと天を仰いだ。


「その人を擁護するわけじゃないけど、俺もわかるんだ。たった一人に出会ってしまった気持ちが。それ以来、他の人なんて目にはいらなくなってしまったから。忘れようとしたこともあったけど、結局できなかった」


 彼の言っていた好きな人だろうか。誰が彼をそこまで思わせているのだろう。


 その特別な人と両想いになれればいい。けれど、そうなれなければ、待っているのはただ辛い時間だ。心を紛らわすために誰かと一緒になるか、それとも一人での人生を模索するか。人により何をどう選ぶかは変わってくるだろう。彼は一人でいることを選んだのだろうか。わたしは雄太以上に好きな存在を見つけられるのだろうか。


「その人ってどんな人なの?」

「綺麗で、自己評価が低くて、優しくて、努力家で。きっといいところをあげればたくさんある。でも、理屈じゃないくらい好きなんだ」


 彼の悲しみにあえいだ表情は、わたしの心を苦しめていった。


「そっか」


 わたしの心は楽になった。だが、彼の心の奥底にある、どうしょうもない恋心を引き出してしまい、申し訳ない気持ちになってしまった。


 わたしは体を震わせた。

 彼はコーヒーを飲みほした。


「さすがに長話をするには寒すぎたね。適当なところで切り上げて帰ろうか」


 わたしが慌てて飲もうとすると、彼はそれを制した。


「ゆっくりでいいよ」

「ありがとう」


 辛い心境なのに、わたしを労わってくれる彼の言葉が身に染みた。わたしがそれを飲み終わると、彼がわたしに手を差し出した。わたしが空き缶を渡すと、彼はそれをゴミ箱に捨てた。


 わたしたちは公園を出ることにした。さっきの賑やかさが嘘のように、辺りはひっそりと静まり返っていた。さっきより気温が下がってるはずなのにコーヒーの効果なのか不思議とそこまで寒さは感じなかった。彼の心はきっと寒いままなのだろう。わたしが雄太とあの女の人を見てしまったときのように。


 だが、彼はひょうひょうとしていてそんな暗さも感じなかった。


「岡本さんも大変なのに、一緒にいてくれてありがとう」

「仕事は忙しいけど、もう終わっているからそうでもないよ」

「いつもわたしに付き合ってもらってばかりだから、わたしにできることがあれば。岡本さんが歴史が好きなら、遺跡巡りにでも行こうか」


 わたしの言葉に、彼は突然笑い出してしまった。

 何か変なことを言ってしまっただろうか。

 戸惑うわたしの耳に予期せぬ言葉が届いた。


「ほのかさんはすぐ顔に出るね。その人には悪いけど、今は辛くないよ」

「そうなの? でも、何でその人に悪い、と」

「その人、ずっと付き合っていた恋人と少し前に別れたみたいなんだ」

「そっか。その人も大変だね」


 そう口にして首を傾げた。どこかで聞いた話、だと。


 うぬぼれた考えが湧き上がるが、そんなわけがないと戒めた。世の中には女の人は多いし、彼氏と別れた人がほかにいてもおかしくはないと思った。だが、頬が赤くなるのを自覚して、彼を見た。


 岡本さんと目が合うが、それ以上彼は何も言わなかった。


 わたしたちはタクシーで帰ることになった。タクシーの中ではプライベートな話題をしにくくなり、その好きな人の話はどちらかともなく打ち止めとなった。

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