名前で呼ばれました
わたしはちょうど目の前にあった本に手を伸ばし、中身を確認した。目の前に並んでいたのは簿記の本だ。かなりの数が出ているのか、同じ級であっても様々な問題集が並んでいた。
大学自体一般教養で経済をとったことがあったが、手にした簿記の本はほとんど違うと言っても過言ではない。また、一から勉強のし直しになるのだろうか。
そう思った、わたしの傍に人気を感じた。
「簿記の勉強でもするの?」
澄んだ声に顔をあげるが、思わず手にした本を後ろに隠してしまった。
そこには岡本さんの姿があった。
「何でこんなところに」
「たまたま本を買いに来たら先輩を見かけたから声をかけた」
彼は手にしていた本をわたしに見せた。
彼が手にしていたのは歴史の本だ。こういうのが好きなんだろうか。
「あれ以来よく会うね」
「俺のほうはたまに見かけていたよ。先輩はあまり人とすれ違っても気付かないんだろうね」
「わざわざ人の顔なんて見ない。目があったら嫌だし」
「俺も一部の親しい人以外は気づかないよ」
「わたしも入っているの?」
「もちろん」
彼は屈託のない笑顔を浮かべると、わたしが手にした本の隣に並んでいた本を手に取り、わたしに差し出した。
「それは解説が少ないから、初心者ならこっちのほうがわかりやすいと思うよ。まあ、基礎ができているならそっちのほうがいいだろうけど」
わたしは受け取り、中身を確認した。確かに彼の言うように解説が丁寧に書かれていてわかりやすい気がする。ただ、どうも踏ん切りがつかなかった。
岡本さんはわたしの手にした本を取ると、棚に片づけた。
「買うときは参考にどうぞ」
わたしは頷いた。迷う気持ちに気付いて片づけてくれたんだろう。
「先輩はデザイン事務所勤務なんだよね。転職でも考えている?」
「少しね。わたしって今の仕事辞めたら、資格もないし、今の職場で働いていたという経歴しかないから何かないかなと思ったの。だから、何か違うことを勉強してみようかな、と思ってね」
なぜ簿記かといえば、食いつぶしがききそうというイメージがあったからだ。
「今の仕事もすごいと思うけど」
「そうでもないよ。この前一緒にいた女の人いるでしょう。わたしはあの人のアシスタント的な仕事をしているだけで、全然だめなんだ。本当にただ勉強させてもらっているってだけで、給料に見合った仕事なんてできていないの」
今日一日ずっとそんなことを考えていたからか、するりと本心が零れ落ちていた。わたしは慌てて口を押えた。
「ごめんね。そこまで言うつもりじゃなかった」
「いいよ。誰にも言わない。あの時の人って、あの人って高橋仁美さんだよね」
「知っているんだ」
「たまにインタビューをされているのを見たことがあるよ」
本当にさすがだ。彼が見たことあると言うのが実際にありえそうだと思うほど、彼女は様々な媒体でインタビューを受けていた。有名なデザイナーを叔父に持つ、若手で、才能豊かで、美人でもある彼女にはメディアの反応もよかったのだろう。彼女がそうして顔を出すたびに、わたしたちの事務所にくる仕事の相談もぐんと増えた。
「でも、先輩には先輩のいいところがあるんだから無理に比較しなくてもいいんじゃないかな」
「いいところって、わたしは何一つ仁美に優っていることってないもの。別に勝ち負けを競っているわけじゃないけどね」
「俺はあまり絵を描くのは好きじゃないし、よくわからない。確かにあの人の絵はすごいと思うけど、俺は先輩の描く絵も好きだよ」
「わたしの描く絵ってみたことあるの?」
わたしは卑屈っぽく彼に問いかけた。彼がその場限りの気休めを言っているに違いないと考えたからだ。
「あるよ。高校の文化祭のとき見に行ったことあるもの。美術部は作品の展示をしていたよね」
わたしは顔を引きつらせて彼を見た。確かに高校のときは美術部で、文化祭は三年間、作品の展示をしていた。
「よくそんなの覚えているね。何年前だっけ?」
わたしが数字を頭の中で数えていると思いがけない言葉が届いた。わたしの数字のカウントが一気に止まった。
「先輩の絵を見るために文化祭に行ったんだから、当然覚えているよ」
「何よそれ」
「そのままの意味だけど。うまく言えないけど、すっごく好きだなって思った」
絵がという話のはずなのに、不意打ちのような言葉に心臓の鼓動が乱れた。
彼の言葉に反応できなかった私は苦し紛れの言葉を導き出した。
「だいたい、先輩というのはやめてくれない? 高校卒業して何年経っているのよ」
「ならほのかさん」
「何で名前なの? そこは浦川さんでしょう」
自分で自分をさん付けしてしまうのは妙に恥ずかしい。
「そう呼びたかったから。だから、ほのかさんと呼ぶよ」
彼は至って当然といった表情を浮かべていて、照れなど微塵も感じさせなかった。
なぜ他人を名前で急に呼ぶ彼より、わたしのほうが照れているのだろう。
「わたしが言っても聞く気はないんだね」
「ちゃんと先輩はやめたよ」
このままだと平行線をたどる気がして、わたしはため息を吐いた。
「だいたいいいよね。あなたはさ。それなりの資格だってあるし」
「だって勉強したからね」
彼はさらりと言う。
それは当然だろう。勉強せずにとれるような甘い資格ではないとは思う。
「でも、それは俺が税理士になりたかっただけで、ほのかさんは絵の練習をしていただろう。それと同じだよ。俺は自分のやりたいことに楽しみを見いだせるし、資格として形に残る分、幸せだったんだと思う」
そう言った彼は顔の造詣が云々ではなく、とても輝いて見えたのだ。
今日、あんなことを思ってしまったからか、その彼の表情が魅力的に見えたからか。可能性はいくつか思いつくがはっきりとした原因は分からない。ただ、わたしは彼に問いかけていた。
「そんなに税理士になりたかったの? どうして?」
「俺はじいちゃんとばあちゃんに育てられたんだ。カフェを経営していてね。そのとき、今の事務所の所長がよく来ていて、経営のこととか話をしていた。どうやったら経費を削減できるか、利益をあげられるか、客を増やせるか。俺も大きくなったらそんな祖父母の力になりたいとずっと思っていたんだ。だからかな。店の手伝いはしていたけど、後を継ぐのは絶対反対だと言われてたんだ」
恐らく経営はあまり芳しくなかったのだろう。孫に苦労をさせたくない一心でそう言ったのかもしれない。
「そっか。なら、おじいさんとおばあさんは喜んでいるね」
そう口にしたとき、一瞬彼の表情が陰った。言ってはいけないことを言った気がした。
「そうだといいかな。じいちゃんは俺が高校生の時に、ばあちゃんは大学生のときに亡くなったんだ」
「ごめんなさい」
わたしの祖父母も同じ時期になくなっていた。だが、他の人も同じ経験をしている可能性があると、そこまで考えが回らなかったのだ。
「いいよ。下手に隠すのもおかしいしね」
だったら学費や生活費はどうしたのだろう。そんな疑問が湧き上がるが、それは聞かないことにした。そこまで聞くのはさすがにずうずうしいと思ったためだ。
だからこそ、彼は勉強したと言い放てるほどに、努力したのかもしれない。
そのとき、わたしのお腹が鳴った。
わたしは思わずお腹を押さえて、彼を見た。
「ごはんでもおごるよ」
「いいよ。わたしのほうが年上なんだから」
「気にしないで。俺がそうしたいんだ。ほのかさんを元気づけるために、ね」
「元気づけるって、元気がなさそうに見えた?」
「泣きそうに見えた。だから、少しでも笑顔になってほしい」
わたしは唇を噛んだ。
彼と会うときは大半がそうだ。めぐり合わせのようなものなのだろうか。
「女の人が好きそうな店とか案内できたらいいんだけど、俺、そういうのよくわからないから希望があれば言ってほしい」
「そんな急に言われても。岡本さんのほうが詳しいんじゃないの? 女の子とデートをしたことも多そう」
「そんなことないよ。俺、今まで彼女いたことないから」
「まさか。めちゃくちゃもてたんじゃないの?」
「俺は好きな人以外とは付き合わないと決めていたから、関係ないよ」
彼はそうさらりと言う。
本当にまじめな人なんだ。
「好きな人とはうまくいきそうなの?」
「無理な気がする。それでもいいよ」
「そっか」
本当に世の中はうまくいかないようにできている。
こんなに見た目がいいだけではなく、おそらく性格もよくて、苦労も努力もしてきた彼が片思いを続けているのだから。
わたしはそんな彼のことをもう少し知りたいと思った。人として彼に興味がわいたのだろう。
「仁美とよく一緒にいくお店があるの。軽い洋食のお店だけど、岡本さんは苦手な食べ物はある?」
「ないよ。なんでも食べられる」
「だったらそこにしよう」
わたしたちはそのお店に行くことに決めた。




