今朝の列車・ゴー
わらわらと、うぞうぞと。
腐った柱の中を食い荒らすシロアリの群れのような人混みに流されて僕は電車に乗った。実に不快なことにこの濁流を一歩離れて眺めれば僕もシロアリの一匹に見えることだろう。
朝のホーム、都心へ向かう電車に乗った。
電車はこれだけの生物を押し詰められても文句なく動き出した。その健気さに涙すらにじむ。いや、これは隣の中年の加齢臭が目に沁みただけだ。
捕まる寄る辺すらなく、見も知らぬ誰かに体重を預けて僕らは規則に右へ左へ。日々の習慣、日本人の習性。人間の生態。
退屈と思うことさえ忌々しい、それは突然に破られた。
悲鳴が上がったのだ。野太い男の声だった。他にも擦れた初老の声、幼さの残る青年の声。高周波の女性の声は最後だった。男女の悲鳴の違いには様々な論争があるらしいが、突然の大声が生理的な収縮を呼ぶことには変わりない。強いて言えば女は耳に痛い。
「窓に、窓が!」
「そ、外が!」
などなど。
簡潔明快な言葉を聞くと自然とそちらを意識する。これも人の習性。自らシロアリを証明していく僕。嫌悪は頭痛となって訴える。
電車は何事もなく走っていた。実に健気。しかし窓、あるいは窓の外は雲ひとつ、どころか家ひとつ街ひとつ空ひとつすらない漆黒に覆われていた。トンネルか何かかと思ったら黒は窓を越えて車内へと流れ込んできた。人間大パニック。
コタールのようなという形容でもすればいいのか、どろりと粘性をもった黒は遠慮でもするようにゆっくりと、けれど確実に空間を侵食していく。
ファンタジーと呼んでいいだろうか。
悲鳴は増すし、暴れて押し合いへし合いだが、なんとかこの空間から逃れようとする者は誰もいない。四方八方がファンタジーに覆われているのだから当然か。と思えば男が一人、窓に映るファンタジー空間にダイブ!
黒ヒゲのように頭から飛び込んだ彼はそのまま綺麗に呑み込まれて消えてしまった。窓ガラスはどうした。
男が一人飛び込んだところで騒ぎが収まるはずもなく、そもそもどれだけの人間がそれに気づいたか。相変わらずの怒号と悲鳴。どうにか助かろうと目的地もなく押し合いへし合い。そうしてる間に一人、また一人ファンタジーの餌食となるが気にも留めない。
空間を侵す速度は遠慮気なのに人間と見るや思い切ったようにガバリと呑みこむ。あるいはつるりか、ずるりか。音などないので見た人のセルフサービス。
そろそろ僕は5回目の肘鉄をくらい口の中は血の味で、15回目の膝蹴りを受けて足はガクガク。それでも周囲の人間に支えられてなんとか立ってますとかなんとか。吊られてるの間違いかもしれない。
人は誰しも人に吊られて生きている。
吊革人生。
それっぽい言葉に人権などない。
そういえば隣の車両はどうなっているのだろう。そんなことを思ったのは随分と空間がサッパリとファンタジーになった頃だった。とはいえ残機はまだ半分。殴る蹴るも健在で、そういう暴力によって端の端まで追い詰められていた。それまで肉の壁で見えなくなっていた連結扉が見えて、そこでふと思ったのだ。
普通に開いた。隣に行けた。
さすがにおかしいだろうと頭をひねったがどうしようもない。僕以外の人間は相変わらず扉の存在に気づかないのか狂乱のままに救いを求めて暴れまわってる。
「やぁ、まさかこんなところに入ってくる奴がいるなんてね」
こんなところにって10号車の隣車両だろ、とか思う前に僕は声の方を向いてみた。いや、やっぱり思ってから向いたのだろう。どちらにしろそいつはそこにいて、そこはそこだった。
車両ではなかったのだ。
果てのない荒野、真紅に染まる大空。
その中で佇むボロをまとった一人の男。
「どいつもこいつも見にくいだろう?みんなみんな蝿の王だ」
自己紹介から始めてくれ、と思ったけれど僕も自己紹介ができないタイプの人間だった。
「生きるということが死なないということなのに、死ぬということは生きないことじゃない。そういうのを実によく教えてくれるよな」
知らん。まぁ、そういうのを考えてばかりの毎日だけど。
「人はひ」
「間も無くぅ、◯△駅ぃ」
アナウンスが聞こえた。
そうして電車は停車した。当然だろう、停車駅に着いたのだ。そんな当然さが実に健気だ。何駅か飛ばしている気もしたがきっと急行だったのだろう。
荒野などない。窓と座席だ。
外は当たり前に日の光に満ちていて、煤けたハトがホームの梁で巣を作っていた。開いたドアから外気が流れ込んで
僕の降りる駅だった。いつも通りにホームへと降り忙しなく退屈な日常に戻った。