崩れた関係
いつもの約2倍の長さです。
お待たせしました。
手が…
「喜んで下さったようでなによりね」
数人の従者を従えながらハニーブラウンの髪を揺らめかせ、彼女は進む。
自室から去る御人を見送ってそのまま自らも戻らずに豪奢な玄関へ。
目指すは別邸、実母の住まう場所だ。
…思えば彼女は昔から、いいえ、生まれた時から大切にはされなかった。
自分が悪いのだと懸命に淑女のたしなみを覚えたが、その態度は一向に変わる事が無かった。
ポーカーフェイスも上手になり、社交の場でも大変に活躍した技能なので、必ずしも無駄であったとは言いきれないが本来の目的は達せなかったとも言える。
では、何がいけなくてこのように嫌われたのか。
その原因は家と血筋と彼女の母にある。
分家として他の家の血を出来得る限り入れてこなかった母の家は、本家と酷く仲が悪かった。
血で血を洗うような家内紛争から冷たく凍てつくような冷戦まで、様々あったがその理由は簡単だ。
本家が或る侯爵家の妻ばかりを娶り、完全に傀儡と化していたから。
そうして幾度となく混血を防ぐ戦いに負けた分家はせめて自分達だけでも、と血を必死に残してきた。
しかし、我慢の限界は必然的に訪れた。
我が物顔で公爵家当主を操る大臣が現れたのだ。
敵は様々居るがその中でも権力を振るう存在。
当主の外戚であり第一夫人の兄でもあるから遠慮などない。
しかしその状況に分家は危機感を張り巡らせ、そして1人の女を半ば無理矢理娶らせた。
それが今ベッドに居る彼女、第二夫人プリシラだ。
彼らの目的は唯一つ、第一夫人アントワネットよりも先に優秀な男児を生み、後継ぎ争いを以って外戚を追い出そうという事だ。
最初、彼女は抵抗した。
自分の血筋に絶対の自信を持っていた傲り高き女は、エスメラルダに染まり切った男をどうしても愛し切れず、夜の営みも逃げ出す始末。
しかし、そのような事も言ってられなくなった。
中々彼女は子を産めなかったのだ。
第一夫人が長男を出産しても尚、身篭らず実家からの冷たい目は彼女を相当に苦しめた。
そして彼女が遂に身篭りやっとの事で生み落とした子供は女児。
おまけに公爵家第一の令嬢として王へと嫁がせることも儘ならない。
何故ならその数ヶ月前に白く光り輝く美貌を備えた清らかな子供が生まれてしまったから。
彼女は焦った。
そして以前逃げ出した男の元へ通い詰めてはせがんだのだ。
彼女にはもう後が無かった。
今、男児を生んでももう遅いというものなのに、実家に見放された彼女はそのようなこれ以上の不都合には耳を塞ぎ、嫌だと思う心さえ封じて一心不乱に夫に媚びた。
しかし、愛せないというのはどうやら男も同じらしかった。
彼は女を鬱陶しく感じた第一夫人の意地らしい甘言を聞き入れ、この別邸へと女と娘を放り込んだ。
病により子が出来ない身体となったのも、ちょうどこの時だ。
彼女は絶望の淵に追いやられた。
夫からも捨てられ、第二夫人という肩書きは文字通り肩書きだけのものとなり、男児を生めなかった出来損ないの女を実家は冷たく見限り棄てた。
残ったのは家も継げなければ、王妃にもなれやしない、出来損ないの娘一人。
その事については割愛するが、兎角彼女は失意の内に娘に散々な事をした。
そして彼女は心を病んだと言われ、もはや別邸からは一歩も出られなくなったのだ。
一人娘と別れたのもこの時。
「話すのは久々ね、緊張してしまうわ」
会う度に冷たい母に、もうまともに会っていなかった彼女だが、言葉とは裏腹にその顔には怯えも哀しみも浮かんではいない。
在るのは母の為に身につけた極めて自然な笑みだけだ。
○◇○◇
「今回ばかりはお礼を言わなくてはいけないわね」
娘と同じ色合いの長い髪はそっと巻かれて一纏めにされ、横になる時に邪魔にならないようにとメイドの心配りが見て取れる。
蜂蜜色のつり目は気まずそうに伏せられ、平常時のややきつめの性格は見る影もない。
血色の悪い白くか細い手で髪を梳き、微妙な沈黙を耐え凌ぐ女。
そしてその焦点はベッドの手摺りに合い、お礼の言葉を放った相手は見ていない。
…否、見られないと言うべきか。
自分が除け者にし、虐げてきた娘。
その少女に、医者にどのような病気か判らないと言われ諦観し、手放しかけたその命を救われて、バツが悪そうにするのは至極当然の事だ。
しかし相手はそのような心中を察することは無い。
「うふふ、お母様が無事で安心致しました。」
自身を幾度となく傷付けてきた女に対しても少女はにっこりと微笑む。
言葉にも棘は無く、幼気な少女は、その行為が益々薄汚れた母の心を抉っている事に気付かない。
「そう…」
「はい」
突然の病に倒れた彼女は知っている。
自分があわや危篤になりかける程苦しく重い病気を患ったというのに、女の夫は、この別邸という監獄に自分を閉じ込めた存在は、唯の一度たりとてこちらには出向いてくれなかった事を。
いえ、そればかりか、手紙も言付けも、見舞いの品さえ何一つない事を。
そして、彼女は知ってしまった。
これは徐々に身体を弱らせると或る毒物の仕業であると。
医者でさえ見出せなかった病名を何故か当てることの出来た娘には驚くが、問題はそこではない。
この毒物はもう数ヶ月前に混入していたらしい。
そして徐々に気付かない程度の衰弱を以って進行した後、取り返しもつかない所に差し掛かった時に喀血し、倒れるというのだ。
彼女は突如倒れた。
当然その前に取った飲食物やそれを運んだ使用人、調理師などを秘密裏に入念に調査したがそのようなものは無かった。
証拠が見当たらないのは仕方のないことだろう、何故なら彼女を死に追いやろうとしたのは恐らくだが女の夫、そして彼女を鬱陶しく思っている第一夫人、其れ等を堂々と表で操る…こういう事には手馴れた或る侯爵家の者達なのだから。
「ねえ…」
「はい、お母様」
公爵家第二夫人である自分を、地位の上でも血筋の上でも、更には彼女自身の性格を併せても厚かましく思う人間など片手では足りない。
そう知っている女の命を助けたのは確実にその中に入っているであろう一人娘だった。
今まで散々冷たくあしらってきた娘は、そのような事はまるで無かったように純粋無垢な顔を向けてくる。
この娘はどうして、こんなに柔らかな感情を描いた瞳で此方を見つめる事が出来るのだろう。
「私が生きていて、嬉しいかしら?」
若干自虐染みた、演技など介すなという明確な意思を持って命の恩人である娘を睨み付ける母は、この行為は娘に対して礼を尽くしていないものだと知っていて為している。
解らない。
虐待染みた事をしてしまった覚えのある母としては、このように笑みを浮かべる子に違和感を覚えるのだ。
落としかけた命を拾ってくれた存在だからと、我に返り感謝の意を示すつもりだった。
娘が自分と会って話したくないというなら手紙でも。
そう覚悟していたのだ。
なのにこれはどういう事だ、と。
「嬉しいですよ…?嬉しいに決まっているではありませんか。」
「何故、なのよ、私は貴女を…分かっているでしょう?」
「ええ、確かに、覚えております。しかし…」
目に涙を溜めて少女は独り言のような大きさに萎んでいく声を発する。
なんて、なんて、、優しい娘なのだろう。
自分がしてしまった罪の重さ、そしてそれを許す広大な度量に対し、目を伏せた瞬間に一筋、塩辛い透明の水が頬を伝う。
が…しかし残念ながらその答えは彼女の期待していたものではなかった。
「…しかし、お母様が生きてさえ下されば、私は構いません。本当に嬉しいのです、何故なら私はリネンハイム公爵令嬢としていられますから。」
「………………は?」
空虚な時間が流れる。
感傷的に感情論で答える所を理論的に説明され唖然とする母、しかし相変わらず娘の嫋やかな笑みはピクリとも変わらない。
「クラルネス伯爵家第一夫人として嫁ぎ、家に居るのではなく、令嬢として、エインシェント王立学院に通う事が叶います。ですから、、」
「なっ…そ、それはどういう事なのですか!、、」
母の耐え切れずに叫んだ金切声を聞き、少し目を細めて少女は言った。
「お母様、ご存知無かったのですか」
「何をよ!!」
「そうですか、道理で話が通じないと思っておりました。ではご説明申し上げます。」
そして彼女は自身の意識が戻るまでの事を聞き、そして知った。
散々除け者にしてきた一人娘は、彼女の所為で、伯爵家に降ろされるかもしれなかった事を。
確かにこの気位の高い女を不都合に思う者はこの世にありふれている。
そればかりか、その娘である少女さえもその対象となっている。
しかし少女には母とは違って大変不安定な基盤しかない。
何故ならば…詳しくは前述した通りだが、母の実家は当主の座も狙えなければ、王妃候補にも推挙されない、挙げ句の果てに意味なくあの侯爵家と血の混ざってしまった実家の意義に反する少女を、救う気などさらさらないからだ。
第二夫人という大きく小さな後ろ盾が死ねば、影響力の薄まった一人娘はあの侯爵家にとってどうとでも出来得る存在。
そう、何なら少女が母を追うように死んだとしても追悼の言葉を供えられる程度の、吹けば飛ぶようなとは流石に言えないけれど少し尽力すれば消せうる存在だ。
しかし、彼女はそうは言っても公爵令嬢であり当主とも血は繋がっている、おまけに女。
”使い道があるのならば使う…何も殺すことはない…”恩情という名で彩られた少女の行く末を第一夫人は用意した。
それ即ち政略結婚だ。
『クラルネス伯爵家』というそれなりの価値はある家と、適度に繋がっておいた方が良いという政略的観点から、彼女が伯爵第一夫人に推挙されたのだ。
ただし、第二夫人が健在の為、目下で動いているのみだった、が。
…読み通り危篤であれば口も出せない。
しかしまた別の問題も浮上していた。
それは齢10の令嬢はまだ婚儀を交わせるような年齢ではないということ。
年齢…本来ならどうともしがたい高き壁だが、第一夫人は物ともせずに攻略する。
そして少女には提案という名の命令を第一夫人から下されていた。
”クラルネス伯爵家に泊まるというのはどうかしら?”
傷モノとなった女は良くも悪くも使えない。
母が今にでも死ねば、少女は公爵令嬢という肩書きを地に投げ捨てて位の低い者の所へ強制的に嫁がされる。
それもすぐだ。
第一夫人としては万が一の事が無いようにと、少女をこの身分から離したいのだから。
それに少し年齢差のある伯爵家長男は少女さえ良いならばとそこら辺には寛容であり、いつでも良いと二つ返事で引き受けた。
問題は無い。
まあ、年下で可愛くしかも格上の公爵令嬢が嫁いでくるとなれば、鼻の下を伸ばす気持ちも分からなくはないが。
…そこでの暮らしが幸せなどと、少なくとも彼女は考えていない。
「ですから、私、心の底から嬉しく思うのです。お母様が生きていらっしゃるのを。お陰様で私はまだ此処に居られるのですから。」
「………。」
「エインシェント王立学院には何としてでも行かねばなりません。初等部から行く事に意味があるのです。少なくとも…私の中では。」
一通りの説明を終え、生き生きと学院のことを語る少女。
確かに初等部から行く事に意味はある。
皆、初等部からの者には尊敬の念を抱いて止まない。
令嬢であれ、令息であれ、初等部からの生粋の上流階級に憧れを抱くのだ。
しかし、果たしてそれは母の命の有り無しを踏み台としてしか考えられない程魅力的な事なのか。
はたまた…母をもはや家族とは思っていないのか。
「籠の鳥の令嬢様にもお会いしたのですよ?私とお友達になって下さいました。至って順調です。このままいけば王立学院に通うことが出来ましょう。」
そして、彼女は自らの母を殺めようとしたその相手の御令嬢まで抱き込もうとしている。
「望まぬ結婚なのです」と言えば、周りを知らない子供のことだ、何らかのアプローチをしてくれるかもしれない。
或いは、教育が行き届いていてそのようなことでは動じなかったとしても、関係が深いというのみでも何らかの役には立つ。
嫁がされる確率を削る為、学院に通いその後まで利用する為、全ては後々の自分が生きる為に。
「私の夢がまた一つ叶います。それもこれも全てお母様が生きて下さっているお陰です。どうか、お元気でお健やかにいらっしゃいますよう、お祈り申し上げ…いいえ、私が御守り致しますね。」
情けない八つ当たりから始まった歯車が噛み合わない母子関係。
狂う少女は一体何処へ行くのだろう。
それを知る術は最早誰も持っていない。
憎い”母”とすら思って貰えず、どのような言葉も通じない娘を見て、第二夫人プリシラは諦観する。
そして自らのした事の重みを、亀裂の底深さを改めて実感したのだ。
「あぁ、そうそう。お母様を害した食事を用意した使用人には厳罰を与えませんと。…哀しいことですね。」
自然な笑みを消し、俯くと、彼女は見舞いの品である百合のネックレスを置いて部屋の外で待ち構えていた使用人と共に立ち去った。
「…エレオノール」
静寂と寂寥が部屋を包む。