一.あの井口さんからのご相談です。
床に就こうとした春樹のもとに電話をかけてきたのは珍しいことに春樹を目の敵にしているような発言の多い井口菫咲だった。どうやら彼女は春樹に相談したいことがあるらしくて……?
・花川春樹*高校一年生。面倒臭がりで推理小説が好き。
・井口菫咲*言動や格好から勘違いされやすいが、優しく友達想い。
天気予報士が「五月上旬の暖かさ」というほど気温の高い日が続いているが、日が落ちるとやはり初春らしく、内でも外でも冷えるのは変わりない。そんな三月初旬の夜だった。
寒さをシャットダウンする厚い布団にくるまって、いつもだったらまだまだ寝る時間ではないのに、僕は就寝準備をしていた。補足すると、明日は特に予定があるわけではない。今から何かしようという気になれないので、今日という一日を終わらせようと考えたのだ。
ケータイを充電コードに接続する。アラームをかけずに眠ることができるのは、とても幸せなことだ。……昨日も今日もそのような生活を送っているけれど。そう、つまり、たぶん、幸せな毎日なのである。
先週から学校には行っていない。期末テストが終わったばかりで一週間ほど休みがあって、その後テスト返しがある。今はその間の休日なのだ。この間に坂月高校では入試を行っている。去年の今頃、僕も高校入試で必死になっていた。辛いことばかりであまり思い出したくないが、懐かしさを覚える。
そんなこんなで折角の連休を怠惰で満喫している花川春樹であった。
あとは部屋の電気を消すだけ、といったところでケータイの着信音が鳴った。このメロディーは電話だ。夜にわざわざ電話してくるなんて誰の仕業か。布団に入ったままケータイに手を伸ばした。僕のケータイはいわゆるガラケーである。ディスプレイで誰からの通知か確認して、思わず目をむいた。
井口菫咲。
高校の同級生だが、同じクラスではない。クラスメートの真鈴あやめ繋がりで知り合いになった。特に仲が良いわけではなく、むしろ相手が僕に対してある種の敵意を持っている。この場合の敵意とは僕個人に何かしらの恨みがあるのではなく、僕が彼女の苦手とする特性にただ当てはまってしまうことからくる、広くて浅い、一方的で理不尽な敵対心だと思ってくれていい。ひとことでいえば、井口からすれば、僕は生理的に無理ってやつなのだろう。
彼女の苦手とする特性とはつまり、男かつ、気弱な性格あるいはそう見える外見。気の強い彼女は、女々しい男が嫌いなのだ。僕は間違ってもガタイの良い男には見えそうにないので、彼女の嫌いな条件に当てはまってしまった。
向こうが僕を理不尽に嫌っているならばこちらが無意識的に相手に拒否反応を示すのは当然で、応答するのに躊躇してしまったのは責められることではないはずだ。
結局、ケータイを開いて受話器を取るボタンを押してしまった。間違い電話であることを細々と願いながら、僕は短く応えた。
「……もしもし」
「あたしだ。今、いいか? 相談があるんだけど」
一人称で名乗られても誰かわからん。と混ぜっ返そうとしたけど、早く用件を済ましてほしくて言葉を飲み込んだ。
「もうすぐ寝るつもりなんだ。手短かに頼む」
「そうか。いつでもいいってわけではないけど、別に明日以降でもいい」
僕にしか相談できない用件など存在するとは思えないが、どうしても彼女は僕とお喋りしたいらしい。壁にかかった時計に目をやる。十時半。さくっと済ませておくのが気持ち的には楽だ。
「……十分くらいならいいけど」
「助かる。まずはスクショを送るから、それを見てほしい」
スクリーンショットってやつか。パソコンでたまに利用する機能だ。
「お前、メッセージアプリとか使ってないのか」
井口が訊いた。
「ああ。メールで頼む」
ちっ。と小さく舌打ちが聞こえた気がした。基本的に彼女は短気なのだ。僕はおおらかなので口には出さない。
「いま送ったけど、確認してくれ」
「わかった。一回電話を切るけどいいか」
「どうして。電話しながらメールを見ればいいだろ」
「電話を切らないと他の機能を使えない」
「あ?」
少しの間を置いて、彼女は言った。
「あ。お前、ガラケーなのか」
「そうだけど、何か法律にでも触れてるのか」
ガラケーでも電話をしながらメールを確認できる機種があるのかもしれないが、残念ながら僕のはそうでない。
「面倒くさいな。パソコンは持ってるよな? そっちに送るからアドレスを教えてくれ」
持っている前提で話しているが僕がもしパソコンを持っていなかったらどうしていたのだろう。布団を出て椅子に腰かけた。あまり反抗的なことを言うと逆上されかねないので従順にパソコンを立ち上げる。
ほどなくして彼女からメールが送られてくる。開くと何枚か画像が添付されていて、これが言っていたスクショなのだろう。パソコンでキャプチャしたものではなく、スマホの画面のようだ。どの画像もそれぞれ受信メールを開いている状態だった。井口が見せたいのはこのメールの内容のようだ。メールそのものの転送をしてこなかったのはそれぞれ送ってくるのが手間だからだろう。こうすれば一通の送信で済む。
「お前、スマホを充電したほうがいいんじゃないのか。画像の右上の電池残量が少なくなっているぞ」
「うるせえな。これをスクショしたのはあたしじゃない」
「じゃあ誰だ」
「あたしの後輩だ。花川への相談ってのも彼女についてなんだけど」
話してくれ、と先を促した。二の腕あたりが肌寒いので毛布を引っ張って肩にかける。
「中学時代の後輩なんだ。一つ下で、今は中学三年生だな。頭がいい子なんだ。ちょうど3月の入試の真っ最中で、あたしやお前程度じゃ到底受からないような、偏差値の高い高校に受験してる」
自分だけでなく僕までひとまとまりにされるのは癪だけど、僕の学力はたぶん井口と同程度だから黙っておいた。
「その子が、数日前あたしに連絡を取ってきた。なんでもストーカーされているらしいんだ」
パソコンのモニターに目をやりながら、僕は言う。
「それが、このメールか」
ああ、と井口が答えた。
画像は全部で三枚。三通分だ。
差出人はどれも同一のもので、おそらく何の意味もない文字列の並んだフリーのメールアドレスだった。日付は一枚目が去年の十二月二日。二枚目が今年の一月二十日。三枚目が二月末日。どれも件名はなかった。
「井口は僕にどうしてほしいんだ」
ざっと目を通して、僕は訊いた。
考えるような短い間を置いて、返答が聞こえた。
「あたしたちが見つけられなかった犯人へつながる手がかりを見つけてくれれば御の字だ。ああ、期待はしてないから、気負わなくていい。変わった視点からの意見が欲しかったから、お前に白羽の矢が立ったんだ」
「ふうん……。お前に進言したのは真鈴か?」
クラスメートの名前を挙げると、へへ、と意地悪く笑う声が聞こえた。
「残念。今回はあたしの独断だ。変な思考を持ってる奴、で一番初めに頭に浮かんだのが花川、お前だった」
それはそれは光栄なことで。
「『あたしたちが見つけられなかった手がかり』か……。つまり、メールの送り主の正体を掴みたいってわけだな。あんたの後輩に心当たりは全くないのか」
うーん。悩んでいるような唸りが聞こえた。どういう意味だろう。
「性格はちょっと難アリかもしれんが、顔はまあ、綺麗にしてニコニコしていたら周りの男を惹きつける魅力があるから……」
心当たりがないことはないが、範囲は広い。それはそれで困りようだ。
僕は改めてメール本文を見た。
一通目は、被害者本人のものと思われる名前、携帯電話番号、通っている中学校名とクラス、家の住所が羅列されているのみだった。個人情報が記されているこのメールが見知らぬアドレスから補足説明もなしに来たら誰でも気味が悪い。
念のため、「この情報は彼女のもので間違いないんだな」と確認した。井口は肯定した。
だが、この程度ならまだ努力すれば手に入れることは十二分にできるだろう。問題は二通目だ。
『八時二分、家を出る。八時二十五分、学校着。六限目の体育で突き指をする。三時三十二分、下校。そのまま豊崎塾へ向かう。九時三十五分、自宅着。十二時十五分就寝』といった調子で、平日五日分の彼女の動向が細かく記されていた。
「軽くホラーだな」
「決して軽くはない。本人は怯えてるんだ」
「すまなかった。そうだろうな」
二通目についても、記述されていることはおそらく間違いないらしかった。
「体育で突き指をしたのは事実だし、塾から帰ったらだいたいはその時間になるようだから」
そして三通目。二通目と比べて短い本文に、添付画像が二枚。夜道を歩いている制服の女の後ろ姿を撮ったものと、彼女が家に入っていく瞬間を撮ったものだった。ぱっと見た感じでは、長い黒髪のおとなしそうな子だった。
肝心の本文は一言『写真はこれだけじゃない』。
「二通目まではまだぎりぎり目を瞑ることにして無視していたらしいんだ。だけど三通目で確実にストーキングされてると気づいて、家族と学校、それからあたしに相談してきた」
「疑問に思っていたけれど、どうして井口なんだ」
「んん? あたしが頼りになりそうだからだろ」
腕っぷしが、かな。井口はすぐに手が出るほどけんかっ早い。女の子が万が一のためのボディーガードとして年上のこいつに頼るのはわかる気がする。
「それから一時期、彼女の家庭教師もしていたから、かな」
「井口が?」
話し相手の外見を頭に浮かべる。オシャレというよりは周りに対する威嚇のために髪を明るく染め、校則違反ぎりぎりのくだけた服装をし、あからさまに校則違反なピアスをしている井口菫咲。とても誰かに勉強を教えられるような人には見えないのだが。
「お金は貰ってないからな? それからもちろん、すぐに学力では追い抜かれたさ。あたしがしたのは勉強に真面目に取り組むことのなかった彼女にお前は実は頭が良いってことを教えてあげただけだ。あとは生まれ持った勉学の才がよかった」
「ふうん……」
とても本当のこととは思えなかった。疑っても仕方がないけれど。彼女が井口を頼ってきたのは事実であるし。
「あんたの後輩はそのメールに返信はしたのか?」
「したようだ。あいつ、基本的に負けず嫌いだから、やられたままでは黙ってられないんだよ。三通目のメールが来た後に『お前は誰だ。こっちにはあの井口先輩もいるんだぞ』って送ったらしい。可愛いだろ」
……あの井口先輩とはどの井口先輩だろう。
「お前って有名人なのか」
「坂月市のその界隈では有名だった。鬼の井口とはあたしのことだ」
どこの世界の話をしているのか……なんとなく予想はつくけれど。
「それでどうだ、花川。何かわかったか」
そうだな……。
僕はパソコンをシャットダウンして、布団の中に戻った。敷布団に肘をついて、通話を続ける。
「井口の望む『変な視点』からの意見を提示してやろうじゃないか」
続きます。




