六.放課後・南門
前回の続き。
・花川春樹*高校一年生。面倒臭がりで推理小説が好き。
・真鈴あやめ*高校一年生。春樹の幼馴染で、ポニーテールが目印。
授業と終礼が済み、掃除当番の仕事はしっかり全うしようと、僕は席を立った。堺さんは「また明日ですね。楽しんできてください」と言って教室を出て行った。
掃除を済ませた僕は廊下に出て、一階まで降りた。ロッカーに一日分の教科書をしまい、靴を出し入れして、外靴で校舎の外へ踏み出す。右手の方向へ向かえば真鈴が待っていてくれているだろう正門だ。左手の方向へ向かえば南門へ行くことができる。
「…………」
僕は左手の方向へ歩を進めた。
南門は普段封鎖されていて、生徒が出入りできるのは正門だけだ。だからひと気もなく、校内で秘密の待ち合わせをするにはうってつけの場所といえる。
南門の前に着いたが、誰もいなかった。僕がこちらに来た目的は、お菓子の贈り主に会うことだけじゃない。むしろ、誰もいなくて良かった。もし真鈴に、僕が南門に呼び出されたと伝わってしまった場合、僕がそちらを無視して真鈴を優先したと彼女が知れば、人思いの彼女のことだ、十中八九引け目を感じるだろう。それが嫌で、だから僕は一瞬だけでもいいから、約束の場所に現れようと思ったのだ。放課後、約束通り、僕は南門に来た。だがあいにく相手が現れなかった――嘘はついていない。
――約束は守った。真鈴に会いに行こう。
引き返そうとして、僕は来た道を振り返り、後ろから女子生徒が迫っていたことに気づいた。立ち止まって、こっちを見ている。背は女子の中でも低めだろう。ブラウンの髪はウェーブがかかっている。線が細く気の弱そうな印象から、僕は彼女がおとなしめの性格なのだと思った。
女子生徒と僕は五メートルほどの距離を保っていた。何か言い出すかと思いきや、彼女はアスファルトの地面に目を逸らした。相手の反応から、彼女は南門に用があったのではなく、僕に用があるのだと察した。
「伊舘緒紀那さん」
口から音が漏れた。僕の言葉に弾かれるようにして、彼女は顔をあげる。その表情は、驚きと呼ぶにふさわしい。察するに、彼女の名前は伊舘緒紀那で合っているようだ。
「うん……、こんにちは。中学の時に一度だけしかクラスが一緒じゃなかったけれど、まさかフルネームで覚えてくれていたの?」
「――もしかして、僕にガトーショコラを贈ってくれたのは、伊舘さん?」
彼女の問いには答えず、僕は訊き返した。僕の無回答をどう解釈したのかはわからないが、彼女は肯いた。
「そう。手作りなの。味には自信があるよ」
「そうか。美味しかった。ごちそうさまでした」
ニコリと伊舘さんは微笑んだ。童顔のせいか、彼女の笑みは純粋そうで魅力的だ。本当に嬉しく感じているのが伝わってくる。
「食べてくれたんだ。こちらこそ、ありがとう」
間を置いて、彼女が言った。
「中身を見たってことは、私の詩も、読んでくれたのかな」
頷く。
「読んだ。ソラで言えるくらい、読んだ」
僕は目が良いほうではないけれど、彼女の頬が薄く紅潮しているのがわかった。
「へへへ、大げさだよ。でも、ありがとう。じゃあ、私の気持ちも……わかってる、よね」
「…………」
真鈴どころか堺さんまでにも鈍いと言われる僕だけど、バレンタインデーに手作りのお菓子を、更に詩を添えてまでもらってしまっては、わからないわけがない。
つばを飲み込む。デリケートな話題だ。慎重に言葉を選ぶ。
「そうだな……、でも、その前に、訊きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「どうして名前を書いてなかったんだ」
それはね、と伊舘さんは言う。
「詩が私の名前代わりだったから。花川くんが私のことを覚えてくれているのなら、名前なんて書かなくても詩だけでわかるかなって思ったんだ」
さっきから覚えてくれていると言われているが、僕は伊舘緒紀那のことは記憶にない。初対面に等しい。
どうして詩なのか。訊くまでもなく、彼女は懐かしい思い出話をするように、話してくれた。
「中学二年生の頃、花川くんが風邪で学校を休んだ時のこと。一日分授業が遅れた貴方に、隣の席だった私がノートを貸してあげたよね。その頃の私の趣味が詩を書くことだったんだけど、たまたま、ノートの隅っこにふと思いついた詩を残していたのを花川くんが見ちゃって。その時貴方は恥ずかしがる私に、こう言ったのよ。『美しい言葉。歌詞か何か?』って。私、誰にも詩を見せたことなんてなかったから、当然褒められたのも初めてで、とても嬉しかった」
だから、伊舘さんは僕との思い出のキーである詩をお菓子に添えたのか。
なるほどなるほど――彼女には申し訳ないが、そのエピソードも記憶にない。伊舘さんがそこまで鮮明に覚えているのだから事実なのだろうけど、彼女にノートを貸してもらったことはおろか、彼女の存在も忘れていた。
だけど、僕が彼女を特定できたのは詩のおかげだったのは間違いない。
『貴方は緑生い茂る大樹。私はか細く小さな花。同じ花畑にいたのに、私の中の貴方だけが大きくなり続ける。同じ季節にいるのに、臆病という名の根っこが私を縛って近づけない』
吉槻が疑問符を浮かべていた。『花畑』と言っているのに、どうして僕を樹に例えたのか? その理由は、僕の下の名前である春樹が関係している。『春の樹』だから、伊舘さんは僕をそう例えたのだ。
そう推測すると、彼女の名前も予想がついてくる。
花の例えはどこからやってきたのか? それはもちろん、彼女の名前に花が含まれているから。僕の苗字は『花川』だがそれを無視して僕を樹に例えたのだから、花が含まれているのは贈り主の苗字ではなく、下の名前だ。
次に『同じ花畑にいたのに』だ。花畑が何かの例えだとは想像に難くない。
過去形になっているから、僕と彼女は以前に何かしらの共通点があり、今はそうでないと推測できる。花『畑』というくらいだから、この共通点は僕たち以外にも、一定数以上の他の人も当てはまっている。となると考えられるのは、クラスやクラブ、委員会……。極めて消極的な僕がクラブなどに所属したことはないから、消去法で考えるとクラスになる。いま、高校一年生だから、彼女と同じクラスだったのは中学校もしくは小学校となる。僕が今年初めてチョコレートをもらった事実からも、間隔が空きすぎるとは考えにくいから、中学時代のクラスメートの可能性が高い。
だがしかし、問題は僕は中々人の名前を覚えられないでいることである。
そこでとった行動は、中学時代、人気者だった加賀屋蓮に頼ることだった。一年生の名簿から僕と同じ中学校出身の者をリストアップしてもらった。そこから今は同じクラスではないこと、女子限定に絞ると、候補はそこまで多くない。
『同じ季節にいたのに』の一文から春の花か、僕と同じように春そのものが名前に含まれている女子生徒をピックアップすると、抽出できたのは数人程度だった。あとは僕が見覚えのありそうな名前にあたりを付けた。多年草だが四月から五月に花を咲かせる植物――オキナグサ。導き出されたのは伊舘緒紀那ひとりだった。もちろん僕がオキナグサを知っていたわけもなく、花に詳しい身内――妹の椿が花に詳しいのだ――に助けてもらった。
まさか伊舘さんも僕がここまで苦労して彼女に辿り着いたとは思うまい。いきさつを話すのも時間がかかりすぎるから、僕が彼女を覚えていたことにしてもらう。
「……そういうことだったんだな」
「うん。花川くんが覚えてくれていたことがわかったし、結果オーライかな」
なんだか後ろめたいな……。
「『臆病という名の根っこが私を縛って近づけない』……。花川くんと同じ高校に進学したのはいいけれど、クラスも違ったし、全然話しかけられなくて。バレンタインデーは無理やりにでも接触できる数少ない機会だと思って、貴方に贈ったの」
「そう、か」
僕が知りもしないところで、こんなにも僕を想ってくれているひとがいたことに驚きを隠せない。
「それで、花川くん。もう緊張が凄いから言うね」
心なしか彼女が早口になっている気がする。
「……よかったら私と友達から始めてくれませんか」
返事を待つ彼女の眼差しが、僕に張り付く。
……てっきり、恋人になってくださいのような旨のことを言われるのかと思った。どう答えればいいのだろう。彼女と友人関係になるのは全くかまわない。真鈴や堺さんらと同じような感覚で接すればいいのだから。友達からというのは、もっと上の関係に将来的にはなりたいということなのだろう? もし僕が彼女とそのような関係になるつもりが毛頭ないのであれば、ここでその可能性を断ち切っておくのが優しさではないか? それともそれは深く考えすぎなのか? 世の中のそれなりの頻度で告白される男達は彼女候補をキープする感覚でOKを出しているのだろうか。――駄目だ、わからない。どう答えるのが正解なんだ。
ふう、と僕は大きく息を吐いた。
「伊舘さん」
「うん」
「……知り合いから、なら」
彼女は伏し目になって、自虐的な笑みを浮かべた。
「今は、知り合いですらないのね……そうだよね、ううん、わかってる……、だって、ほとんど二年ぶりだもん……、当たり前じゃない、図々しいよね、友達からだなんて……」
だんだんと尻すぼみに消えていく彼女の独白が止むのを待っていると、突如弾かれたように彼女の双眸が僕を捉えた。
「……花川くん! 知り合いからでも構いません! お願いします!」
その突然の力強さに圧されるように、僕は、
「あ、ああ、わかった。こちらこそ」
と了承してしまっていた。
さっきまで独り言をぼやいていたと思ったら次の瞬間には襲いかからんばかりの勢い。緩急の激しい、変わった子と知り合いになってしまった。まあ、知り合いから友達へと移行する過程で、僕が実は本当にだらしのない人だと幻滅してくれたらそれでいい。
……そう、ところで、彼女に是非訊いておこうと思っていたことがあった。
「些細なことなんだけど」
伊舘さんが頷く。
「お菓子の隠し場所に、あそこを選んだ理由は何なんだ。隠すとき、人目につきやすいだろう。クラスのひとではないのなら、なおさら」
「そんなことないよ。放課後遅くだったり朝早かったら誰もいないでしょう? でも、そうだね……、本当は別の場所に置いておこうと思ったんだけど、ちょっと具合が悪かったの」
「別の場所? 具合?」
先を促すと、彼女は口を尖らせた。
「うう、私も本当はロッカーの中に入れておきたかったよ? でも、既にプレゼントがあったから……、なんだか顔も知らない誰かに『ここは私のなわばりだ』って言われているような気がして」
伊舘緒紀那はまるで言い訳をするような口調で言う。
「だから、私はしぶしぶ、貴方の机の中にお菓子を入れたの」
続きます。




