6.月が綺麗ですね。
前回の続き。
・白石先生*春樹たちのクラスの副担任で、先生の中では若いほう。生徒指導担当。
・鳴神明衣子*白石先生の学生時代の先輩。生徒会長。
・南森早苗*白石先生の学生時代の同級生。生徒会役員。
放課後は生徒会室に向かった。
昼休みに図書館で先輩に出逢えなくても、今日は毎週恒例の生徒会会議の日だったから、どのみち会えるのだった。今年一回目の会議だから、内容もないだろうし、早く終わるだろう。そうすれば帰るまでの時間、生徒会室でだらだらと鳴神先輩含めた生徒会の仲間たちと雑談できる。
四階、見慣れた生徒会室の前に立つ。扉に南京錠はかけられていない。職員室に寄ったところ、鍵は既に借りられていた。俺のところの学級より早く終礼が済んだ生徒会役員がいるのだろう。
普通教室の二分の一ほどの生徒会室は冬休み前と変わらず物が散らかっていた。日ごろ利用するところだから足の踏み場のないとまではいかないが、ペンキの群れや、段ボール、文化祭の看板が乱雑に隅に押しのけられたようになっている。部屋の中央のテーブルだけセロハンテープや書類が角に沿うようにまとめて整理されていた。
入り口正面には窓がある。クリーム色の厚い生地のカーテンは端でまとめられ、背の低い住宅街の街並みと、ちらほらとちぎれた綿菓子のような雲が浮かぶ青空が覗けた。
窓際には腰の高さほどのロッカーが窓の端から端まで置かれている。女子生徒がそこに腰かけていた。スカートからスラリと伸びた黒ストッキングの両足は長かったが、床にはつま先を伸ばしてやっとつくかどうかといったところ。
彼女は半身になって外の風景を見ていたらしい。俺が入ってくると、女子生徒はその白い顔を俺に向けた。
「やあ、ヒロくん」
心臓が軽く跳ね上がった気がした。鳴神明衣子生徒会長である。
「どうも……」
テーブルに自分の荷物を下ろす。呼吸を深く二、三すると、ようやく心臓が正常運転に戻り始めた。
「何見ていたんです?」
「別に。この見慣れた風景も今学期で終わりかって物思いにふけっていただけよ」
鳴神先輩は三年間、生徒会に所属していた。卒業が近づき、感慨深くなるのも当然だ。
「卒業しても、たまには遊びに来てください」
「いや」
鳴神先輩は不敵な笑みを浮かべて答えると、ロッカーから飛び降りた。そのままこちらに背を向け、しゃがみこんでロッカーのひとつを開く。間を置くことなく、そこからマジックペンを一ケース、取り出した。生徒会室では、元々下駄箱に使われていたロッカーを引き取って、物入れとして活用しているのだ。……鳴神先輩は椅子としても使っているようだけど。
即答されて、空振りしたような虚しい気持ちになる……と思っていたら、
「まあ、ヒロくんが困っていたら一度くらいは来てあげる」
先輩はいつもこうだ。冷たいと思ったら優しい発言で俺を悩ませる。
鳴神先輩は手に持ったマジックのケースをテーブルに置いて、そのまま今度は模造紙を丸めて何本か挿してある隅の段ボール箱に寄っていく。
ふと、彼女に訊ねたいことがあったのを思い出した。つばを飲み込んで、俺は話を投げかけた。
「前の日曜日、先輩を見かけました」
ちらりと、先輩が俺を見た。
「私? 声をかけてくれたらよかったのに」
「図書館で、男の人と談笑していましたよね」
「ああ……、そうね。してた」
鳴神先輩は模造紙を一本取り出しながら答えた。平坦な口調で、何を思っているのか、わからない。次に鳴神先輩は模造紙を抱えたまま、廊下側の壁にある鏡に近づいていった。
一呼吸おいて、質問する。
「彼氏ですか?」
「違うわ」
鳴神先輩は鏡を見ながら、手櫛で前髪を整えている。
「そう見えたかしら」
俺のそばまで戻ってくる。模造紙をテーブルの上に置き、先輩は今度はロッカーではなく椅子に腰かけた。暫時、考えるように目を泳がせたと思ったら、彼女が口を開いた。
「前にヒロくんに言ったっけ? もうすぐ発表があるってこと。――まあ、明日なんだけど――それの手伝いをしてもらっていたのよ」
あの人はクラスメイト、と鳴神先輩は言った。発表のためとはいえ、男と休日に会うというのは少し匂うけれど、それ以上それについて問うことはできなかった。三人目の生徒会役員が入ってきたのだ。
それから十分程して、顧問と役員全員が揃い、生徒会会議が始まった。生徒からの意見を気軽に集められるようにと新しく設置する所謂「目安箱」について話し合う。生徒会長が用意していた模造紙やらペンはこのデザインをまとめるためだった。
美術志望や文化系倶楽部に入っているひとはいなくて、デザインを考えるのに適した人材は生徒会にはおらず、目安箱のデザインを全員の力を合わせて本日中に仮完成させることになった。
生徒会長を中心に、顧問はあくまで補佐として作業を進めた。普段しないことが逆に作用して予想以上に盛り上がってしまい、終わったのは七時前、太陽はとっくに沈み、街は夜の闇に包まれていた。
今年一回目の生徒会会議も、難なく終わった。
いつもは雑談してから帰るところだけど、晩飯時だし、この時間になるとクラブ活動もほとんど終わっている。誰からともなく荷物をまとめ始め、学校を出た。思えば、今日は一度もタバコを吸っていない。帰ると親がいるし、吸うとしたら夜中になるな。そんなことを考えながら、寒空の下に出る。
校門を抜けたところで、ばらばらになる。俺と鳴神先輩だけ、同じ方向だ。
みんなに別れを告げて、先輩と帰路につく。これといった話題もなく、先輩の方も黙ったままで、俺たちはしばらく無言で帰り道を進んだ。
「こういう話はあまりしたくないんだけど」
口火を切ったのは鳴神先輩だった。
「南森さんの良くない噂、三年生の間で流れているのよね。化けて学校に出るってもの」
ああ……。やはり高校生、考えることは同じか。
「それなら一年生の間でもあります。腹立ちますよね」
「……そうね」
それきり鳴神先輩はまた口を閉じた。沈黙が降りて、俺は夜空に浮かぶ星を見上げたり、民家の塀に張られている選挙ポスターに目をやったり、所在なげに視線を迷わせていた。
「こんなこと言うのはあの子の先輩として最低だとは思うけれど」
帰路も半分以上を過ぎた頃、重い口を開いたのはまたしても先輩の方だった。
「私、今日の生徒会会議に何も違和感を覚えなかった。ひとり欠けた生徒会をすんなりと受容できる自分がいることに気づいたの。まるであの子が風邪か何かで欠席しているんじゃないかってくらい、私は何も思わなかった」
今日は南森さんがいなくなって初めての会議だった。はじめ、俺は心配していた。何人かは明らかに顔に陰りが差していたし、南森さんがいないことを受け止められていない人もいる。そんな状態でうまく会議が進むのか。そんな不安とは裏腹に、いつものように会議が盛り上がったのは、先導してくれていた鳴神先輩のお蔭なのは間違いないと思っていた。
平坦な口調で、彼女は続ける。
「私、普段からよくクールだって言われるけど、冷めてるよね」
秀才でリーダーシップもある、完璧主義な鳴神明衣子の弱音を初めて聞いた。ちょうど街灯と街灯の間に来ていて、俺より少し高い位置にある顔は暗くてよく見えなかった。
「そんなこと、ありませんよ」
とは、簡単には言えなかった。代わりに俺が口にしたのは、
「ちょっと、遠回りしませんか」
先輩が俺に打ち明けてくれたのはなぜだろう。たまたま、帰り道が重なったから? もし俺じゃなくても、先輩は多少気心の知れた間柄だったら、心の内を明けていたのかもしれない。それこそ、あのイケメンの同級生でも。けれど、彼女の弱音を聞いてしまった以上、彼女の不安を少しでも和らげてあげたい。
そうして俺がとった方法は、回り道だった。
先輩は逡巡するような間を置いた後、いいわよと頷いた。彼女の表情は相変わらず暗さでよく見えなかったが、言葉にいつもより、ほんの少しだけ丸みがあった気がした。
「次の角で曲がって、河川敷の方向に向かいましょう」
黙って従ってくれた。
帰路から逸れ、徐々に盛り上がっていく緩い坂道を進んでいくと、やがて河川敷に出た。街を横断する唯一の大きな川で、河川敷の道路も車が二台すれ違えるほどには太い。しかしこの時間この寒空の中、河川敷にくるひとはいないようで、人ひとり見かけない。
ただ、民家の屋根より高い場所で明かりも少ない河川敷から見える星は一層輝いていた。ちょうど歩き出した方向に、満月が出ている。
「月が綺麗ね」
なんともなしに彼女はそう言った。そうですね、と返そうとしたら、突然、鳴神先輩は顔を横に逸らした。
「どうしたんですか」
「いえ、別に」
歯を食いしばるような言い方に、首を傾げる。もう一度、どうしたんですかと訊いても、彼女は明後日を向いてしまって目を合わせてくれない。
「別に、綺麗じゃないから」
絞り出すような声で彼女は言った。満月は堂々と光っている。綺麗じゃないこともないだろう。彼女の異変について頭を働かせていたら、ふと、原因に思い当たった。
「……もしかして、夏目漱石ですか?」
彼のひとつの逸話に、「ILoveYou」を「月が綺麗ですね」と訳したとかなんとか。詳しいことは覚えていない。高校生の俺にとって夏目漱石は千円札の偉いひと以外の何者でもない。
つまるところ、鳴神先輩は思わず言ってから、夏目漱石を思い出したのだろう。
「そうだけど、そういうことではないの」
「わかってますって」
思わずにやけてしまう。
失言を恥じている鳴神先輩の顔を見てやりたい。無理やり回り込んだりしたら、叩かれそうだからやらないけれど。
「ふう……」
大きく息を吐くと、次の瞬間には彼女はいつもの鳴神明衣子に戻ってしまっていた。
「一服、しますか」
「ごはんに誘ってるの? それともタバコ?」
前者のつもりは毛頭なかった。
「タバコです」
「気分じゃない。別に、ヒロくんは吸ってもいいわよ」
別に吸わなくてもいいのに、わざわざ一本消費するのも勿体ない。いいです、と答えた。
「さっき、河川敷に来る前ので」
遠く、川の向こうの街を眺めながら言う。
「鳴神先輩にも、人間らしいところはあるんだと思いました」
「冷たいって話かしら? 人間っぽくないって言われるのなら、納得できるけど」
数分前の彼女の様子を思い出す。
「いえ、とても強くて太い芯のある先輩にも、悩みの種はあるんだなと」
ただ魅力的なだけじゃないんですね、と付け加えようとしたが、寸前のところで留まった。
「そういうこと」
相変わらず淡々とした口調だったが、彼女は薄い笑みを浮かべていた。
「私だって悩むし、挫折するときはある」
「そうですか」
「ええ。周囲の期待にうんざりするのもしょっちゅうだし、大学への進学が決まった今でも、将来への不安は絶えないし。自制心が効かずに黒い感情を表に出してしまう時だってあるし、女子高生らしく、恋で悩むときもある」
最後の方は笑いながらだったけど、彼女の言葉は淀みなく吐き出された。きっと、どれも本当のことなのだ。恋、というのも、おそらくは。
また、脳裏に鳴神先輩と仲良くしていたイケメンの顔が浮かんできた。さっきまで車が二台通れるほど太かった道路が河から逸れて、街の方に折れていく。俺たちは河川敷の、車両侵入禁止になっている道を選んだ。
「……先輩って、彼氏いないんですか」
鳴神先輩が俺を一瞥する。真意を量っているのだろう。
「いない。残念でしょう、私が完璧なひとじゃなくて。意外とモテないのよ、私」
残念なわけがない。思わず零れそうになる卑しい笑みを、必死に抑える。
「モテないなんて、嘘でしょう」
珍しく彼女が自虐的な笑みを浮かべて返事に代えた。
鳴神明衣子は百人が百人、美人だと言うだろう女性だ。たぶん、世の男共はお近づきになりたくても、クールで才色兼備、完璧主義の彼女を遠巻きに見ていることしかできなかったのだと思う。
今度は普段聞けない先輩の恋愛事情でも尋ねようとしたが、唐突な彼女のくしゃみで言葉がのどの手前で引き返してしまった。
「寒いですもんね。体調、崩さないでくださいね」
「君に心配されるほど、私は身体に関してはヤワじゃないの」
長身なだけでそれ以外は別に普通の女子高生と変わらないが、なぜか鳴神先輩が風邪をひいて寝込んでいるところは想像できない。
「それに明日は前々から準備していた発表があるじゃないですか」
「そうだった。頑張らなきゃね。……それに、なるべく早くやっておきたいこともあるし」
「なんですか?」
「秘密。ただの思い付きよ」
鳴神先輩はニコリともせずに答えた。
「冷たいなあ」
「こればっかりは君には教えない。これが私なりの責任の取り方なの」
責任? 鳴神先輩が何に責任を取ることがあるというのだろう。
俺が更に尋ねようとしたところで、河川敷の舗装された道路は終わりを告げた。この先は足場が悪いし、更に遠回りになる。先ほどの嫌なムードもなくなったろう。夜の散歩はそろそろ潮時だ。
「どうするの」
鳴神先輩はあくまで俺に決断を委ねてくれるようだ。
相変わらず満月が河の向こうで光っていた。「月が綺麗ですね」のくだりを思い出す。今度は俺が彼女にその言葉を言いたい。だけど、何も今じゃなくてもいいのだ。もっと、ふさわしい場所を用意してから……。俺は未来に希望を持っている。
俺は満月を横目に、河川敷から逸れる道を選んだ。
続きます。




